シマロン ★☆☆
(Cimarron)

1960 US
監督:アンソニー・マン
出演:グレン・フォード、マリア・シェルアン・バクスター、アーサー・オコンネル

左:グレン・フォード、右:マリア・シェル

エドナ・ファーバーが原作の西部劇であり、1931年にも同じタイトルにより映画化され、その時はアカデミー作品賞に輝いています。個人的には、初回の映画化作品は見たことがないため1960年バージョンとの比較はできませんが、レオナルド・マルティン氏によれば、1931年バージョンは、オスカーに輝いたとはいえ、現在の目から見るとはなはだしく時代遅れな作品だそうです。監督は、西部劇作品ではベテランのアンソニー・マンであり、その意味では安心して見ていられる堅実な作品であると評価できるでしょう。しかしながら実は、「シマロン」は、明らかにアンソニー・マンの作品であるというよりは、エドナ・ファーバーの作品であると見なすべきであるように思われます。従って、冒頭で便宜上西部劇であると述べましたが、実は「シマロン」は、エピック的な作品であると見なすべきであり、実際に、当作品は、通常の西部劇が対象とする年代からははずれる1889年から第一次世界大戦にかけてのアメリカ西部に舞台が置かれています。すなわち、時代背景を考えても純粋な西部劇であるとは言い難いところがあるということです。アメリカでフロンティアの消滅宣言が発せられるのは1890年であることを考えてみれば、「シマロン」は、西部開拓の黄昏時を描いた作品であることが明瞭であり、グレン・フォード扮する主人公たちが、少しでも条件の良い開拓地を確保しようと先を争って馬や馬車を駆る冒頭の壮絶なシーンは、象徴的な面では、まさにアメリカの大地に最後に残されたフロンティアを征服しようとする人々の野心や熱情を表していると見なすことができます。一言でいえば、「シマロン」は、古い時代から新しい時代へと移行する過渡期を描いた作品であり、同じファーバーの映画化作品である「ジャイアンツ」(1956)や「北海の果て」(1960)の持つダイナミズムを、この作品にも強烈に見出すことができます。またファーバーは女性であるためか、それらの作品にはストーリー進行の重要な契機となる女性たちが何人か登場しますが、「シマロン」もその例外ではなく、マリア・シェルとアン・バクスターが、対照的な女性を演じ、主演のグレン・フォードと同程度の大きな役割を担っています。しかしながら、この作品の場合は、ことにグレン・フォード扮する主人公のヤンシーに注目する必要があります。というのも、まさに彼はフロンティア時代の権化のような人物であり、国内にフロンティアが存在しなくなったと見るや、政治家になるチャンスを捨ててすら、海外にフロンティアを求め、最後には第一次世界大戦で戦死するからです。国内から消失したフロンティアを求めて国外に出張っていった歴史上の有名人としてはセオドア・ルーズベルトが挙げられますが、それについては「風とライオン」(1975)のレビューを参照して下さい。アメリカが元来の不干渉主義を捨てて帝国主義国家の仲間入りする背景には、あるいは国内におけるフロンティアの消失が大きく影響しているのかもしれず、もしそうであるならば、第一次世界大戦に参戦したアメリカ軍に志願して戦死するヤンシーは、まさにアメリカ史のダイナミズムそのものであったと見なすことができます。個人的には、その点こそがこの作品の大きな焦点であり、従って少なくとも60年版の「シマロン」は、西部劇などではまったくなく、実はそのような用語があるとするならばアメリカ劇そのものだと考えています。その点を裏付けるかのように、主人公のヤンシーは西部劇の伝統であるカウボーイなどではなく新聞屋であり、そのあたりに既に、昔の古き良きカウボーイ時代などというクリーシェ的なイメージとはかなり異なる側面が見出せます。この作品を見ていて気が付くことは、西部劇には典型的な悪役が、まったく存在しないとまでは言わないとしても、ほとんどまったく幅をきかせていないことです。確かにインディアンを虐待する悪漢が登場しますが、きっと彼とヤンシーの確執がプロットの中心になるのであろうなどと考えていると、前半の早い段階でこの悪漢はあっけなくヤンシーに撃ち殺されてしまいます。またラス・タンブリンとビック・モロー扮するならず者たちも、前半でお役目御免になります。後半に関していえば、「ジャイアンツ」のジェームズ・ディーンキャラクターと同様に石油成金として成功し、政治を陰で操る黒幕になるアーサー・オコンネル扮するキャラクターが、悪漢といえば悪漢と言えるかもしれませんが、いずれにしてもかつての西部劇に登場する悪漢とはまったくタイプが異なります。このような点からも「シマロン」が伝統的な意味での西部劇であるとは言えないことが分かります。因みに「シェーン」(1953)のレビューで紹介したウィル・ライトは、あちらではよく知られた彼の著書「Sixguns & Society」(University of Calfornia Press)の中で、1960年版の「シマロン」にはまったく言及されていないとしても(これは、ウィル・ライトが同書の対象とする作品を北米で400万ドル以上の興行収益を上げた映画に限っているためか、そうでなければ彼も同作品を西部劇と見なしていないためか、のいずれかでしょう)、1931年版の「シマロン」に関しては、それを「クラシカル・プロット(Classical Plot)」タイプに分類しています(「クラシカル・プロット」タイプについては「シェーン」のレビューを参照して下さい)。しかしながら、少なくとも1960年版に関しては、もしウィル・ライト流に敢えて分類するのであれば、「過渡期テーマ(Transition Theme)」タイプ(これについても「シェーン」のレビューを参照して下さい)に該当するはずです。たとえば、「シェーン」の主人公シェーンが、共同体の外からやってくるよそ者であるのに対して、ヤンシーは、最初から共同体の内部の人間であり、しかもそこから外へ飛び出していきます。つまり、シェーンが外から内へと向かうベクトルに従っているのに対し、ヤンシーはまったくその逆であり、内から外へと向かうベクトルに従っています。そもそもシェーンが鹿皮の衣装(buckskin)に身を固めているのに対して、ヤンシーは何と!あろうことか西部の荒野の真っ只中でスーツを着ています(上掲画像参照)。要するに、「シェーン」が、たとえばダニエル・ブーンのようなアメリカ国内における過去の開拓神話に連綿と続くナラティブをその作品構造の基盤として持っているとするならば、少なくとも1960年版の「シマロン」では、アメリカ近代の帝国主義の幕開けがエピック映画の手法によって描かれていると捉えることができるのです。そして、その転機となったが1890年のアメリカ国内のフロンティアの消滅であり、そのような事態にリトマス試験紙のように反応しているのがグレン・フォード扮する主人公のヤンシーなのです。このような過渡期のアメリカを描写する題材として、エドナ・ファーバーの大河小説は最適であったと言えるのではないでしょうか。


2009/06/12 by Hiroshi Iruma
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