シェーン ★★★
(Shane)

1953 US
監督:ジョージ・スティーブンス
出演:アラン・ラッド、バン・ヘフリン、ジーン・アーサー、ブランドン・デ・ワイルド

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<一口プロット解説>
山から下りてきた主人公のシェーン(アラン・ラッド)は、ふもとの谷でホームステッダーのスターレット一家と遭遇するが、彼らが、彼らよりも早くその土地に住み着いていたライカー一味に脅かされていることを知る。
<入間洋のコメント>
 よもや、「シェーン」を知らないという映画ファンがこの世に存在するとは思えないほど、人口に膾炙した傑作西部劇であることは、誰もが知っていることでしょう。「Sixguns & Society」(University of Calfornia Press)という、西部劇を神話構造論的に解釈した、引用されることの多い著書を書いたウィル・ライトは、同書の中で、「シェーン」を西部劇クラシックの中のクラシックであると讃えています。また、たまたま現在読んでいるロバート・K・ジョンストンという人の書いた「Reel Spirituality」(Baker Academic)にも、「シェーン」はアメリカ映画のクラシックであると述べられています。しかも、副題が「Theology and Film in Dialogue」であることからも分かるようにロバート・K・ジョンストンはキリスト教神学者であり、キリスト教信仰という観点から、そのような判断を下しているのです。彼によれば、監督のジョージ・スティーブンスは、西部劇というジャンルを創造的に用いて、「シェーン」のストーリーを原型的な聖書物語に結び付けることに成功したのだそうです。聖書と「シェーン」の間にタイポロジーでも見出そうかとするこのような議論は、キリスト教徒でないオーディエンスには、行き過ぎに思われるのは確かであるとしても、この作品には、そこに聖性のようなものを感じたとしても不思議でないクオリティがあります。他人の評価ばかりでなく自分の評価について述べると、正直にいえば、40年代以前の西部劇については有名どころを数本見たことがあるだけなので自信を持って言えるわけではないとしても、個人的にも、「シェーン」は、数ある西部劇の中でも、もっとも西部劇らしい西部劇であるという印象を持っています。しかしながら、よく考えてみると、「シェーン」には、一般的な西部劇のイメージとはやや異なる側面も見られます。たとえば、「シェーン」には、悪漢ライカー(エミール・メイヤー)のセリフの中で言及される点を除けば、インディアンは一切登場しません。勿論、「西部劇=騎兵隊vsインディアン」というお気楽な図式は、単なる偏見にすぎず、インディアンがまったく登場しない、あるいは登場したとしても飾りにすぎない傑作西部劇がたくさん存在することは敢えて言うまでもありません。とはいえ、西部劇の代表的な作品の多くには、「ヴェラクルス」(1954)や「アラモ」(1960)のようなメキシコやメキシコ国境を舞台とした、西部劇というよりは本来南部劇とも呼ぶべき作品を除けば、多かれ少なかれインディアンが登場するのは事実であり、その点では、インディアンがまったく登場しない「シェーン」や「真昼の決闘」(1952)などは、かなり異例な作品であったことにも間違いがありません。また、西部劇と聞いてまず頭に思い浮かぶのは、ド派手な拳銃の撃ち合いであるという人も少なくないことでしょう。ところが、「シェーン」には、確かに西部劇にはお約束の殴り合いのシーンはあっても、撃ち合いのシーンはほとんどありません。唯一、ホームステッダー(これについては後述)の若者トーリー(イライシャ・クック・ジュニア)が、ライカーに雇われた名うてのガンマン、ウィルソン(ジャック・パランス)に撃ち殺されるシーンと、シェーンがウィルソン&ライカー一味を仕留めるラストの撃ち合いが、撃ち合いらしい撃ち合いのシーンですが、これらもあっという間に片が付きます。西部劇は、一般には極めてアクション性の高いジャンルであることを考えると、「シェーン」は、かくしてアクション性よりもドラマ性が遥かに際立っている点において、通常の西部劇とはかなり異なるところがあることに気が付きます。しかしながら、たとえ通例とは異なるところがあっても、ウィル・ライトも述べるように、「シェーン」は、やはり典型的なクラシック西部劇であると見なせるのです。ということで、このレビューでは、おもにウィル・ライトの著書を参考にしながら、その点について考えてみることにしましょう。

 しかしながら、その前にまず歴史的な背景についてクリアにしておかねばなりません。もしかすると自分だけがそう思っていたのかもしれませんが、長らく「シェーン」の舞台は、アメリカ史のかなり初期、といっても勿論独立戦争以前ということではなく、だいたい19世紀前半頃に置かれているのだろうと勝手に想像していました。勿論、それはまったくの誤りであり、ウィルソンに撃ち殺されるトーリーが元南軍の兵士で、「ストーンウォール」というあだ名?を持っていることからも、南北戦争(1961−5)より後であることが分かります。因みに、「ストーンウォール」とは、劣勢な手兵を率いてシェナンドー渓谷で神出鬼没の強行軍を繰り返しながら北軍を引っ掻き回し、後の戦史研究家にメシのタネを残した南軍の将軍ストーンウォール・ジャクソンの名前から取られています。また、「シェーン」で展開されているストーリーの核には、1862年の5月20日に発布されたホームステッド法(Homestead Act)に促されて西部にやって来た開拓者たち、すなわちホームステッダー(映画ではスターレット家などがそれに当たります)と、以前からその土地に住みついていた人々(映画ではライカー一味などがそれに当たります)との確執という歴史的なテーマが存在します。ピュリッツァ賞を受賞したジェームズ・マクファーソンの南北戦争ものの大著「Battle Cry of Freedom」(Oxford University Press)によれば、ホームステッド法には、公有地に5年間住んで土地の改良を行った開拓者に、160エーカーの土地を払い下げると規定されていたそうです。また、ホームステッド法は、南部の反対にあって何度か廃案になったあと、南部諸州が連邦を脱退した後、つまり南北戦争が発生した後に、ようやく成立したようです。奴隷労働を前提とした大規模プランテーション経済に依存する南部諸州とって、ホームステッド法は、奴隷制の廃止とともに極めて都合の悪いものだったのです。その意味では、ホームステッダーの一人であるトーリーが元南軍の兵士であったという設定は象徴的であり、「シェーン」に描かれている時代は、既に南北戦争以前の(Antebellum)時代とは大きく変わろうとしていたのです。いずれにしても、いわゆる既得権を主張するライカー一味にとって、ホームステッド法によって大挙して西部に流れ込んできた新参者のホームステッダーたちは、邪魔者でしかなかったということです。「インディアンの襲撃に耐えてこの土地を守ってきたのは俺たちだ」と主張するライカーは、ある意味では正しく、前段で「悪漢ライカー」と述べたとはいえ、彼には通常の西部劇に登場する単なるワルとは少し違った側面があることを見逃してはならないでしょう。つまり、それが正しいかどうかは別としても、ライカーの行動の裏には、政治的な言説が存在し、彼は単なる暴力だけの無法者ではないのです。その証拠に、彼はできるならば誰も傷つけたくはないと言いながら、自分の支配下に入ることを引き換えにスターレット家の家長ジョー(バン・ヘフリン)に破格なオファーを提案します。その意味では、「シェーン」には、意味もなく人を殺しまくる悪漢は存在しないと言ってもそれほど大きな間違いではないかもしれません。また、西部開拓史三部作で知られるリチャード・スロットキンの「Gunfighter Nation」(University of Oklahoma Press)によれば、「シェーン」に登場するホームステッダーたちは、経済の新たな側面(economic advancement)と政治的なデモクラシー(political democracy)を象徴しているのだそうです。たとえば、ライカー一味が武力を前提とした脅しで物事を解決しようとするのに対して、ホームステッダーたちは、ジョーを中心として会合を開き、話し合いで万事を解決しようとするのです。ここにも、新規参入者であるホームステッダーたちと、インディアンとの戦いなどを通して暴力の時代を生き延びてきた先住者との基本的な考え方の相違が見られます。このような対立の構図をまず頭に入れておかないと、「シェーン」のストーリーの意味がよく理解できないかもしれません。

 とはいえ、それはストーリーのバックグラウンドにすぎず、そもそも主人公のシェーンは、そのような対立構図とは本来無関係であり、肝心要の彼は一体どうしたのかということになるので、次にその点を含めてこの作品の詳細な分析を行うことにしましょう。それにあたって参考になるのが、前述したウィル・ライトの著書「Sixguns & Society」であり、これ以後の説明は、ほとんどこの著書で述べられている「シェーン」の分析の紹介になります。1975年に出版された本であるにも関わらず、また他書籍からの引用回数も多い本であるにも関わらず(Amazonの本書の他書籍からの引用数は100になっていますが、Amazonの他書籍からの引用数は100で止まっているケースが多いので実際はもっと引用されているはずです)、日本語訳がないようであることもあり、ここに取り上げることにしました。尚、ウィル・ライトは学者なので、クロード・レヴィ−ストロースの構造分析やヴラディミール・プロップの物語理論などに依拠して自説を展開しているとはいえ、煩雑になるだけなのでその点についてはここでは詳しく述べません。といことで、ウィル・ライトは、まず西部劇を次の4タイプに分類します。すなわち、「クラシカル・プロット(Classical Plot)」タイプ、「復讐バリエーション(Vengeance Variation)」タイプ、「過渡期テーマ(Transition Theme)」タイプ、「プロフェッショナル・プロット(Professional Plot)」タイプの4つです。因みに、「復讐バリエーション(Vengeance Variation)」タイプの「バリエーション(Variation)」とは、このタイプが「クラシカル・プロット(Classical Plot)」タイプの変奏(variation)であるためにそのように呼ばれますが、「過渡期テーマ(Transition Theme)」タイプだけが、なぜ「プロット(Plot)」ではなく「テーマ(Theme)」と呼ばれているのかは、実は判然としません。しかし、それは極めて些細な点なので無視することにしましょう。おおむね、西部劇は時代とともにこの順番で推移するものと考えられており、「西部劇クラシックの中のクラシックである」と讃えられていることも分かるように、「シェーン」は、「クラシカル・プロット(Classical Plot)」タイプに分類されます。「クラシカル・プロット」タイプ以外の3タイプについては、それに属する作品を扱ったおりにそれぞれ紹介することとして、このレビューでは、専ら「クラシカル・プロット」タイプに焦点を絞って説明します。因みに、「クラシカル・プロット」タイプに属する作品として、彼が挙げている50年代以後の代表作を以下に列挙しておきます。実際には、「クラシカル・プロット(Classical Plot)」タイプに属する作品は、その名が示す通り、以下に挙げられていない40年代以前のものが多いようです。尚、年号については、ウィル・ライトのものをそのまま使用しているので、当ホームページの他の記述と異なる場合があるので注意して下さい。

1952:「怒りの河」(監督:アンソニー・マン、主演:ジェームズ・スチュワート)
1953:「シェーン」(監督:ジョージ・スティーブンス、主演:アラン・ラッド)
1954:「サスカチワンの狼火」(監督:ラオール・ウォルシュ、主演:アラン・ラッド)
1955:「遠い国」(監督:アンソニー・マン、主演:ジェームズ・スチュワート)
1955:「ヴェラクルス」(監督:ロバート・アルドリッチ、主演:ゲイリー・クーパー)
1964:「西部開拓史」(監督:ジョン・フォード他、主演:ジェームズ・スチュワート)
1967:「太陽の中の対決」(監督:マーティン・リット、主演:ポール・ニューマン)

 さて、ウィル・ライトは、「クラシカル・プロット」タイプの西部劇のストーリーに含まれるべき基本的な構成要素として以下の16項目を抽出します。勿論、ウィル・ライトは、全ての「クラシカル・プロット」タイプの西部劇が、上記すべての構成要素を例外なく含んでいると主張しているわけではなく、オプション的な要素も中にはあります。しかしながら、「クラシカル・プロット」タイプの西部劇は、おおむね以下の要素の多くを含むはずです。というよりも、そうでなければ、その作品はそもそも「クラシカル・プロット」タイプの西部劇ではないと考えるべきでしょう。

◎要素1  ヒーローは、社会生活を営むグループと遭遇する(The hero enters a social group)
◎要素2  ヒーローは、遭遇した社会には知られていない(The hero is unknown to the society)
◎要素3  ヒーローは、特殊技能を持っていることが明かされる(The hero is revealed to have an exceptional ability)
◎要素4  社会は、自分たちとヒーローの間に存在する差に気付き、ヒーローに特別な地位が与えられる(The society recognizes a difference between themselves and the hero; the hero is given a special status)
◎要素5  社会は、完全にはヒーローを受け入れない(The society does not completely accept the hero)
◎要素6  悪漢と社会の間に利益争いがある(There is a conflict of interests between the villains and the and the society)
◎要素7  悪漢は、社会よりも強く、社会は弱い(The villains are stronger than the society; the society is weak)
◎要素8  ヒーローと一人の悪漢の間に、強い友情、あるいは尊敬の念が結ばれる(There is a strong frienship or respect between the hero and a villain)
◎要素9  悪漢は、社会の脅威になる(The villains threaten the society)
◎要素10 ヒーローは、争いに巻き込まれることを避ける(The hero avoids involvment in the conflict)
◎要素11 悪漢は、ヒーローの友人を危機に陥れる(The villains endanger a friend of the hero)
◎要素12 ヒーローは、悪漢と対決する(The hero fights the villains)
◎要素13 ヒーローは、悪漢を倒す(The hero defeats the villains)
◎要素14 社会は、安全を確保する(The society is safe)
◎要素15 社会は、ヒーローを受け入れる(The society accepts the hero)
◎要素16 ヒーローは、特別な地位を失うか、捨てる(The hero loses or gives up the special status)

次に、「シェーン」のストーリー展開に沿って、上記要素の存在を実際に確認してみることにしましょう。「シェーン」の場合には、ヒーローはシェーンに、社会はスターレット家を中心とするホームステッダーたちに(記述が煩雑になるので、以下代表してスターレット家と呼びます)、悪漢はライカー一味に相当することは敢えて指摘するまでもありません。以下に要素別に記してみましょう。

◎要素1  シェーンは、スターレット家と遭遇する。
◎要素2  シェーンは、スターレット家にはまったく知られておらず、それは彼の苗字すら不明なくらいである。
◎要素3  スターレット家の幼い息子ジョーイ(ブランドン・デ・ワイルド)に拳銃の扱い方を教える時に、シェーンのガンマンとしての腕が知られる。また、酒場での立ち回りでも、彼の強さが知られる。
◎要素4  ガンマンとしての腕を見せつけたことと、酒場でライカー一味と立ち回りを演じたことで、シェーンは、ジョーの尊敬、その妻マリアン(ジーン・アーサー)の賞賛、幼い息子ジョーイの崇拝を得る。また、他のホームステッダーたちからは、自分たちとはまったく異なる流浪のガンマンとして猜疑の目で見られる。
◎要素5  最初にシェーンがライカー一味との殴り合いを避けた時には、ホームステッダーたちの会合で彼は臆病者呼ばわりされるが、二回目にライカー一味と出会って一味を殴り倒した時には、ホームステッダーたちは恐れをなし、「こいつはよくない(This is bad)」とつぶやきながら彼を避ける。ジョーイに拳銃の使い方を教えた際には、マリオンからもたしなめられる。
◎要素6  ホームステッダー(スターレット家)と、先住人たち(ライカー一味)との利害の不一致に関しては既に述べた通りだが、具体的にいうと、前者は農夫として灌漑された土地が必要であるのに対して、後者は家畜の放牧のための土地を必要としている。従って、ライカー一味の放牧している家畜が、ホームステッダーの農場を荒らしまわることになり、両者の間に悶着が絶えない。
◎要素7  ジョーを除くホームステッダーたちの多くは老人かまたは女性であり、銃すら満足に扱えないのに対し、ライカー一味の多くは若いカウボーイであり、その上ライカーは、プロのガンマンのウィルソンを雇いさえする。また、今は老人のライカーですら、昔はインディアンと戦った実績を持つ。
◎要素8  ウィル・ライトは「シェーン」に関しては、何も述べていない(オプション要素であると考えているようである)。但し、ライカー一味がシェーンの強さに一目置いていることは明らかであり、またシェーンもウィルソンの拳銃の腕前を認めていることは、ジョーとの会話や最後のジョーイとの会話からも分かる。
◎要素9  ウィルソンが情け無用にトーリーを撃ち殺したことで、ホームステッダーたちは恐れをなして土地を捨てて逃げ出そうとするが、ジョーの説得によって辛うじて踏みとどまる。
◎要素10 ジョーがライカー一味の待ち受ける町に乗り込もうとした時、シェーンは、「自分には何も言えない」と言いながら初めは彼を止めようとすらしない。
◎要素11 ライカー一味は、ジョーを罠にかけるつもりでいる。改心したライカー一味の一人からそれを聞いて、シェーンは、自分がライカー一味と対決する決心をする。
◎要素12 シェーンは、ウィルソン&ライカーと対決する。
◎要素13 シェーンは、ウィルソン&ライカーを倒す。
◎要素14 シェーンは、ジョーイに「お母さんに伝えろ。何も心配ない、これで銃は消えたと(Ride on home to your mother and tell her everything's all right, that there are no more guns in the valley)」と言う。(邦訳はワンコインバージョンDVDの字幕より抜粋)
◎要素15 シェーンは、最後に谷を去っていくので、実際にホームステッダーたちと暮らすことはなく、ウィル・ライトの苦しい説明は納得できるものではないのでここには記さない。とはいえ、いずれにしてもシェーンは、ホームステッダーたちの恩人であることには変わらず、たとえ彼が谷に残ったとしても、ホームステッダーたちから猜疑の目で見られることはもはやないはずである。
◎要素16 シェーンは、ライカー一味を倒した名声を捨てて、荒野に向かって去っていく。

 次に、ウィル・ライトは、このようにして抽出した16の構成要素を3つ組のグループに組み合わせます。3つ組とはどういう意味かというと、一般にストーリーの展開は、最初に特定の状況があった上で、そこに何らかの事件やアクションが発生し、それをトリガーとして別の状況に変化するという状況の遷移が連続することによって進行するのであり、この前状態→アクション→次状態を3つ組として扱うことができるということです。尚、ここでいうアクションとは必ずしも物理的なアクションばかりを指すわけではなく、たとえば今まで知られていなかった事実が明るみに出たなどの、認知的な変遷を促す出来事であっても構いません。ここで3つ組全体をSn、前状況をB、アクションをA、次状況をNとすると、最も単純なストーリー進行は、「S1B(3つ組1の前状況)→S1A(3つ組1のアクション)→S1N(3つ組1の次状況)→S2B(3つ組2の前状況)→S2A(3つ組2のアクション)→S2N(3つ組2の次状況)→S3B(3つ組3の前状況)→・・・」という進行形態を取るものと考えられますが、むしろたとえば「S1B→S1A=(S2B→S2A→S2N)→S1N→・・・」のように入れ子構造の進行形態を取るのが普通であると考えるべきでしょう。後者の例では、外側の3つ組(S1B→S1A→S1N)のS1Aの部分が、内側の3つ組(S2B→S2A→S2N)によって構成されていることを意味します。かくして、ウィル・ライトは、「クラシカル・プロット」タイプの16の構成要素の内、要素2(前状況)、要素3(アクション)、要素4(後状況)を1つの3つ組として捉え、これを「ステータス(Status)」シーケンスと呼びます。具体的にいうと、その社会に知られていなかったヒーロー(要素2=前状況)が、特殊技能を持っていることを明かす(要素3=アクション)ことを通じて、特別な地位が与えられる(要素4=後状況)と捉えるわけです。次に、要素1(前状況)、「ステータス(Status)」シーケンス、すなわち要素2+要素3+要素4(アクション)、要素5(後状況)を1レベル外側の3つ組として、これを「社会の外側(Outside)」シーケンスと呼びます。偶然に誤解を招く名称がつけられていますが、ここでいう「Outside」とは、「ヒーローは社会の外側に置かれている」という意味であり、「外側の3つ組」という意味ではないので注意して下さい。具体的にいうと、ヒーローは、社会生活を営むグループと遭遇するが(要素1=前状況)、その社会に知られていなかったヒーローが、特殊技能を持っていることを明かすことを通じて、特別な地位が与えられるがゆえに(「ステータス」シーケンス=アクション)、社会は完全にはヒーローを受け入れない(要素5=次状況)と捉えるわけです。いちいち詳細は説明しませんが、ウィル・ライトは、「クラシカル・プロット」タイプの西部劇に関して、その他にも以下のような3つ組シーケンスを挙げています。

◎「対決(Fight)」シーケンス=要素12+要素3+要素13
◎「安全(Safe)」シーケンス=要素9+「対決(Fight)」シーケンス+要素14
◎「受け入れ(Acceptance)」シーケンス=要素5+「安全(Safe)」シーケンス+要素15
◎「平等(Equality)」シーケンス=要素4+「受け入れ(Acceptance)」シーケンス+要素16

つまり、これらの4つのシーケンスは、4重の入れ子構造を構成することになります。実際に詳細に検討してみると、かなり無理があるように思われるケースもあるとはいえ、なかなか興味深い分析であることには間違いがなく、何よりも、通常は直感によってしか把握できない「クラシカル・プロット」タイプの西部劇の物語構成の特徴がこれによって明確化される点に大きなメリットが見出せます。また、このような分析の真髄は、他の3タイプ、すなわち「復讐バリエーション」タイプ、「過渡期テーマ」タイプ、「プロフェッショナル・プロット」タイプについても同様な分析を行い、それらの比較を通して、時代を追って西部劇の構造的な特徴がどのように変化したかを明瞭にできる点にあります。しかしながら、この点については、それぞれのタイプに属する西部劇をレビューする際に説明したいと思います。

 さて、ここまで述べてきたのは、専らストーリーの通時的な組み立てに関する分析であり、恐らくヴラデミール・プロップからの影響が強い部分であるものと想像されますが、それとともに「Sixguns & Society」には、クロード・レヴィ−ストロース流の二項区分による共時的な構造分析も見られます。そのような二項区分構造のまず第一番目に挙げられているのが、「内部(inside)/外部(outside)」区分です。これは、ヒーローを社会から区別するための区分であり、「シェーン」の例でいえば、社会の外部に位置するシェーンを、社会の内部に位置するホームステッダーたちから区別します。「クラシカル・プロット」タイプにおいては、悪漢の占める位置は微妙であり、時には社会の外部に位置することもあれば、社会の内部に位置することもあります。ウィル・ライトによれば、「内部/外部」区分は、「シェーン」の中では、流浪のイメージ(外部)と、家族とともに暮らす定住生活(内部)のイメージによってコード化されているそうです。住む家を持たないシェーンには、家族も友人もいないのに対し、スターレット家は、家族で定住生活を営んでいるのです。重要な点は、そのような両者の違いが、ビジュアルな表現によって冒頭からオーディエンスの頭の中に強烈に刻み込まれることです。たとえば、「シェーン」という作品は、たった一人で馬に乗って山を下ってきたシェーンが、煙突からは煙がたなびく生活臭に溢れたスターレット家の、フェンスで囲まれた敷地内を横切ろうとするところから始まります。このようなグラフィックによるイメージを通じて、シェーン(外部)とスターレット家(内部)の間にある違いがオーディエンスに強く印象付けられるわけです。また、そのことは会話においても同様であり、たとえば、冒頭、山を下りてきたシェーンは、「私有地とは知らず(I didn't expect to see any fences around here)」と言いながら、ジョーに通行の許可を得ようとします。また、そのすぐ後の食事のシーンでは、どこへ行くのか尋ねるジョーに対して、シェーンは、「気の向くまま。見知らぬ土地へ(One place or another, someplace I've never been)」と答えます。すると、ジョーは、「ここを出て行く時は棺桶の中だ。・・・。ここに骨を埋める覚悟ってことさ。・・・初めてのわが家だ(The only way they'll get me out of here is in a pine box.・・・We've got our roots down here.・・・It's the first real home we've ever had)」と、自分に言い聞かせるように言います。また、初めシェーンは、他には誰も着ていない鹿皮(buckskin)の服を着ています(上掲画像左参照、一番右がシェーン)。つまり、グラフィック、会話のあらゆる細部にわたって、シェーン(外部)とホームステッダーたち(内部)の差が際立たされているということです。二番目の二項区分は、「善人(good)/悪人(bad)」区分です。実をいえば、「good」と「bad」は翻訳者泣かせの英単語であり、「善人/悪人」という日本語はあまり正確な訳ではなく、むしろ社会的な秩序を遵守する人たちと、それを平気で破る人たちという方が正しいかもしれません。従って、「クラシカル・プロット」タイプの西部劇においては、ヒーローも勿論前者に含まれますが、善人の主なメンバーは、社会のメンバーであることになります。ここで、「クラシカル・プロット」タイプの西部劇においてはと述べたのは、たとえば「プロフェッショナル・プロット」の場合には、ヒーローが社会的な秩序を遵守する人であるとはもはや必ずしもいえないからです。それについては「プロフェッショナル・プロット」タイプに属する作品をレビューする際に詳しく述べますが、1つ例を挙げておくと、ウィル・ライトが「プロフェッショナル・プロット」タイプに属する西部劇の典型作品の1つとして挙げている「明日に向かって撃て!」(1969)のヒーローであるブッチ・キャシディとサンダンス・キッドは強盗であり、彼らは社会的な秩序を遵守する人たちではまるでなく、それを破る人たちです。「シェーン」の場合には、「善人/悪人」区分は、「ホームステッダー/ライカー一味」という対立構図に縮約され、シェーンは前者に、ウィルソンは後者に属するとはいえ、この区分においては、むしろ両者は、付随的な役割を果たしているに過ぎないと考えるべきでしょう。三番目の二項区分は、「強者(strong)/弱者( weak)」区分であり、この区分は、ヒーロー、悪漢という強者と、社会という弱者を区別します。言うまでもなく、「シェーン」においては、シェーンとライカー一味は強者であり、ホームステッダーたちは弱者です。ヒーローのシェーンが強く見えるのは当然としても、あたかもその事実を強調するかのように、ライカー一味のメンバーは、ほとんどが若いカウボーイであるのに対し、ホームステッダーたちの多くは、老人や女性たちであり、たとえ若者でも銃すら扱ったことのないような人々なのです。人口統計学的に考えればこれほどアンバランスな構成になることはまず考えられないので、明らかに意図的にそのような配置がされているのです。しかも、ジョーを除けばホームステッダーたちの中でただ一人、腰にガンベルトを巻いて強がっていた若いトーリーも、ウィルソンを前にしては赤子も同然のように撃ち殺されてしまいます(上掲画像右参照、左がトーリーで右がウィルソン)。四番目の二項区分は、「荒野(wilderness)/文化(civilization)」区分であり、この区分は、ヒーローを、社会と悪漢から区別します。「civilization」なので「文化」と訳しましたが、実際は「社会」に近いものと考えた方がよいかもしれません。しかしながら、そうするとこの区分と「内部/外部」区分のどこが違うのかということになりますが、これについて、ウィル・ライトは、次のように説明します。「内部/外部」区分でいうところの社会の「内部」とは、ある人が社会の中で出自、職業、責任を明確に有していることを意味するのに対して、「荒野/文化」区分でいうところの「文化」とは、ある人が金銭、あるいは工業製品などの(アメリカ)文化の恩恵に与っていることを意味します。従って、たとえば、ウィルソンは、前者の意味では、とても「内部」に属しているとは言えないのに対し、後者の意味では、明らかに「荒野」ではなく「文化」に属しているのです。鹿皮の服を着たシェーンは、作品全体でただ一人「荒野(wilderness)」を象徴するのに対して、都会のギャンブラーのような出立ちをした賞金稼ぎのガンマンであるウィルソンは「文化(civilization)」の側に属していることはその服装からも明確化されています。ここでは詳しいことは述べませんが、まさにこの「荒野」の持つ神話的なイメージは、西部開拓史、及びそれを題材とした映画や文学の中で極めて重要な要素として機能しているのであり、リチャード・スロットキンの西部開拓史三部作の大きなテーマの1つもその点にありました。「シェーン」は、主人公のシェーンが山(荒野)の方角からやってくるシーンから始まり、彼が山(荒野)の方角へ去っていくシーンで終わります。まさに、シェーンの姿を借りて、西部開拓史における荒野の神話が、しかと体現されていると見なすことができます。上掲画像中央にも見られるように、「シェーン」では壮大な山々の姿がしばしばバックグラウンドとして映し出され、それはまた主人公のシェーンを象徴するイメージでもあるのです。ウィル・ライトは、「大いなる西部」(1958)が興行に失敗したのは、東部出身の都会人を主人公に据えたからだと述べていますが、それとは対照的な「シェーン」の成功は、オーディエンスの期待を決して裏切ることなく、西部開拓史の荒野の神話がまさに余すところなく伝えられているところに求められるように思われます。

 かくして、「内部/外部」区分、「善人/悪人」区分、「強者/弱者」区分、「荒野/文化」区分の4つの二項区分により、「クラシカル・プロット」タイプの西部劇は、構造化されていることが分かりましたが、これらの区分の実質的な内容は、「復讐バリエーション」タイプ、「過渡期テーマ」タイプ、「プロフェッショナル・プロット」タイプへと移行するにつれて変化します。というよりも、そのような変化を通して、個々のタイプが決定付けられると言い換えた方が正しいかもしれません。すなわち、二項区分分析は、既に挙げたストーリーの通時的な組み立てに関する分析とともに、西部劇の構造的な変遷を明確化させる大きな武器であると見なせます。いずれにしても、「クラシカル・プロット」タイプ以外の西部劇の二項区分分析については、今後それに該当する作品を取り上げた際に紹介することにします。また、ウィル・ライトは、「クラシカル・プロット」タイプの西部劇を、片や個人主義的である一方、信頼を前提とする社会の維持が大きな重要性を持つ市場社会にもたとえていますが、これについても別の機会に述べることにします。ということで、「シェーン」においては、先住者とホームステッダーの対立をテーマとしたストーリーが繰り広げられ、また、それと同時に、両者の対立に関わらざるを得なくなった主人公シェーンの姿と、ビューティフルな山々の映像を通して、「荒野」という西部開拓史における神話的なイメージが全編を通じて散りばめられていることをもう一度強調しながら、当レビューを締めくくることにします。

2009/04/08 by Hiroshi Iruma
ホーム:http://www.asahi-net.or.jp/~hj7h-tkhs/jap_actress.htm
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