風とライオン ★★☆
(The Wind and the Lion)

1975 US
監督:ジョン・ミリアス
出演:ショーン・コネリー、キャンディス・バーゲン、ブライアン・キース、ジョン・ヒューストン

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<一口プロット解説>
モロッコに住むアメリカ人のペデカリス夫人(キャンディス・バーゲン)と二人の子供が、アラブのリーダー(ショーン・コネリー)に誘拐され、事態はヨーロッパ帝国主義諸国の利害が絡んで国際的な注目を浴びるが、アメリカ大統領ルーズベルトはアメリカの威信をかけてそのような国際状況に対応する。
<入間洋のコメント>
 最初の内、何度かこの作品を見た折には、主人公は当然のことながらあのEX−ボンド、ショーン・コネリー演ずるアラブの部族リーダーのライズーリであるものとして見ていました。何しろ、ボンド・シリーズでその名が遍く世界に知れ渡ったショーン・コネリーが演じているわけなので。因みにショーン・コネリーは、ご存知の通りスコットランド出身であり、その彼がアラブ人とはこれ如何にと言いたくなりますが、最近レビューした「カーツーム」(1966)ではローレンス・オリビエがアラブ人を演じており、また「ドクトル・ジバゴ」(1965)ではアラブ人のオマー・シャリフがロシア人を演じていたりもするのでまあ良しとしましょう。カリスマ的なショーン・コネリーであればこそ、「風とライオン」のアラブのカリスマリーダー役が務まったことは言わずもがなですし。前置きはこれくらいにして本論に移ると、勿論、ストーリー上の主人公という観点から見れば、ライズーリが主人公であるという印象に大きな間違いはないとはいえ、しかしながら、何回か見直している内に、真の焦点は彼にあるよりも、むしろブライアン・キース演ずるセオドア・ルーズベルト大統領(因みに、ニューディール政策や第二次世界大戦時のアメリカを率いたことで知られるフランクリン・D・ルーズベルト大統領の方ではないので念のため)にあるのではないかということに気が付きました。それに関してまず指摘しておきたいことは、この作品の監督であるジョン・ミリアスは、保守的で右傾化傾向を持っている人であったという点です。つまり、彼は古き良きアメリカ、開拓時代のアメリカに大きな価値を見出すようなタイプの人であったということです。この作品が製作された1970年代中盤は、ちょうどベトナム戦争の敗戦やウォーターゲート事件などで、アメリカの自信が、筒井康隆流に云えばガラガラと音をたてて崩れかけていた頃でもあり、そのような時代様相の中でアメリカの持つ価値とはいったい何なのかに関して再認識が迫られていた頃でもありました。そのような不安定化した時代の落とし子の1つが、この作品なのではないかということに気がついたという次第なのですね。クリーシェ的な言い方をすると、不安定な時代にあって、そもそもアメリカが拠って立つべき自分達のルーツが本来どこにあったのかを、もう一度基本に戻って見直そうとする意図があったのではなかろうかということです。これについては後述しますが、ルーズベルト大統領は、多くのアメリカ人にとっては、フロンティアが消失した時代にあって、アメリカの力強さ、雄々しさを代弁してくれるようなミスター・アメリカとでもいうべき象徴請負人的な人物でした。この作品が巧妙なのは、そのようなルーズベルト大統領をモロに表に立てることをせずに、実際に戦場で角をつき合わせたというわけではないにしろ彼の好敵手であり、リーダーとして或る意味で似た者同士であったとも云えるライズーリを表面に立てて、その姿にリフレクトさせる形態でルーズベルト大統領の姿を間接的に捉えようとしたところにあります。つまり、アメリカ精神とは何かという一種のプロパガンダを、誰が見ても一発で分かるようにモロに提示するのではなく、ある意味でオリエンタリズム的とも見なせるような反射装置を利用して間接的に描いている点にその巧妙さを見て取ることができます。なぜ巧妙であるかというと、たとえばジョン・ウェインがそうであるように、アメリカのルーツとは何かなどというような右翼的とも取れる言説をあからさまに表明してしまうと、むしろ過剰さが際立ってプロパガンダ的性格が目立ち過ぎる結果になってしまうからです。殊にカウンターカルチャー的な時代を経過して間もない頃であれば尚更のことです。「グリーン・ベレー」(1968)のような、映画としては全く無視しても差し支えないような作品があれだけの物議を醸したのも、カウンターカルチャー全盛の時代にプロパガンダ性が明白に見て取れるような作品をわざわざ製作したからであるとも考えられます。つまり、「グリーン・ベレー」は、時代背景からして映画であるというよりも政治的言説として取られざるを得なかったということであり、間違いなくジョン・ウェイン、ロイ・ケロッグを始めとする製作者もそう取られることを最初から意図していたはずだということです。それに対して、「風とライオン」は、「グリーン・ベレー」のごとくそれが余りにも目立ち過ぎないような巧妙な仕方で、政治的プロパガンダが篭められている作品であると見なすことができます。意識というよりは無意識に訴えかけるとまで言い切ってしまえばさすがに誇張になりますが、いずれにせよそのような側面を無視するとこの作品のコアを見過ごしてしまうことになるのは間違いがないでしょう。この作品を見ていて気が付くのは、一部の政治家を除くと臆病者のアメリカ人は一人もいないことであり、それはアラブ人の人質になる一家も含めてのことです。というよりも、人質になるペデカリス夫人(キャンディス・バーゲン)などは、終始一貫して人質とはとても思えないような毅然とした態度を取っています。それは、何故かと云えば、人質として世界中の注目を浴びることになった彼女も、まさに人質であるという状況に置かれることによってアメリカという国を象徴する存在と化しているからであり、そんな彼女が、臆病もののように振舞っていたのでは、まさしくアメリカのメンツが立たないからです。要するにペデカリス夫人の態度一つを取り上げても、そこには(ノン?)フィクション的な範疇を越えた1つの政治的なメッセージを読み取ることができるということです。

 さて、「風とライオン」の時代設定は、20世紀が始まって間もない頃に置かれています。アメリカにとってそのことが有する大きな意味の1つは、西部開拓時代のフロンティアの消滅が宣言されてから、凡そ10年が経過した頃であったということです。改めて述べるまでもなく、西部開拓とは、アメリカ精神の拠り所となる大きなイベントであったのであり、国土が開発し尽くされ(し尽くされるという言い方はやや大袈裟ですが)、そのような拠り所が無くなってしまったという事実は、アメリカにとって無視できない意味を有していました。そのような時代に大統領に就任したのがセオドア・ルーズベルトであり、従って彼は、アメリカという国が持つ独自の価値を、彼自身の態度や行動を通じて創造し、それを国内に対しても国外に対しても明瞭に示さねばならないという、彼が生きた時代に特有の要請を肩に重く背負って登場したとも見なせるわけです。裏を返せば、彼はそのような要請を全うするだけの資質を有していたが故に、大統領に選ばれ、民衆からも慕われていたということです。では、アメリカ人にとってフロンティアが有していた価値、及びそのような価値とルーズベルト大統領がどう関係するのでしょうか。この点については、ロデリック・F・ナッシュという人の書いた「Wilderness and the American Mind」(Yale University Press)という本が参考になるので、ここでもいつものようにひと様の本を拝借させて頂くことにします。まず最初に指摘すべきことは、フロンティアの荒々しい自然は、殊に初期の頃の開拓者にとっては当然、プラスの価値を持つものとは見なされてはいなかったということです。誤解のないよう補足しておくと、ここで言う「自然」の中には、勿論通常の意味で言うところの自然も含まれますが、インディアンなどの原住民の存在なども含まれます。
端的に云えば、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされている人々が、生存する為に闘わねばならない当の対象である自然を愛でるなどという余裕などあろうはずもないということです。しかしながら、このことは逆に、たとえネガティブな意味においてにせよ、勝利しなければならない相手である「自然」の存在は、開拓者の目には、1つの無視できない大きな意味体系或いは象徴体系として映ったことも間違いのないところであり、このことは開拓精神の形成にあたって非常に大きな意味を持ちます。要するに科学技術の発達によって「自然」と争う必要のない現代人にとっては、ポジティブであろうがネガティブであろうが、「自然」が驚嘆や畏怖の対象としてのシンボルになることはほとんどないのに対し、開拓者にとっては「自然」はまさにそのような対象として表象されたということです。ここでナッシュの本から引用しましょう。

◎荒野は、開拓者達を肉体的に責め苛んだというのみではなく、暗く邪悪な存在の象徴としての意義も同様に有していた。長い西部開拓の伝統の中で、荒野は、モラルの欠如地帯、呪われ混沌とした不毛の土地としてイメージされた。結果として、フロンティアの開拓者達は、個人的な生存のためばかりではなく、国家、種族そして神の名の下に、荒野と格闘しているのだと鋭敏に感じ取っていた。新世界を文明化することは、暗黒を光によって拓き、混沌を秩序付け、悪を善に変換することであった。
(Wilderness not only frustrated the pioneers physically but also acquired significance as a dark and sinister symbol. They shared the long Western tradition of imagining wild country as a moral vacuum, a cursed and chaotic wasteland. As a consequence, frontiersman acutely sensed that they battled wild country not only for personal survival but in the name of nation, race, and God. Civilizing the New World meant enlightening darkness, ordering chaos, and changing evil into god.)


ご存知のようにアメリカの初期の開拓者は、ピューリタンを主要なメンバーにしていたのであり、その彼らにとって荒野を征服することは、神のしもべとしての義務のようなものとして捉えられていたものと考えられます。「暗黒を光によって拓き、混沌を秩序付け」とは、まさに創世記的なイメージだと云えるでしょう。荒野を征服するという目標は、人々の道徳的な価値観と強く結び付いていたということであり、彼らに征服されるべき荒野或いは大自然は、悪という意味を担わされた聖書的な象徴として顕現していたことになります。つまり、荒野の征服を成就することは、神の恩寵の顕われであると見なされていたということです。実はアメリカ開拓史におけるこのような荒野の神話化という側面に関しては、リチャード・スロットキンという人が、西部開拓を扱った大部な三部作の中で、ダニエル・ブーンやカスター将軍の最後或いはアラモ砦のデービー・クロケットなどの具体例を用いて説得的に語っていますが、彼の著作は膨大なので別の機会に取り上げることにします。

 しかしながら、ナッシュによれば、西部開拓の歴史が進展するにつれて、荒野を専らネガティブな相で見る観点は、徐々に変化していきます。勿論、技術の進歩などの外面的な理由もあるのでしょうが、そのような自然に対する見方の変化の下地として、明らかに大自然の崇高さを愛でるロマンティシズムの影響が見られるのですね。そのことは、アメリカの作家で言えばソローを筆頭として、エマーソン、ホイットマンなどが活躍するようになる時代の変化の中にも見て取れます。彼らの考え方によれば、むしろ都会が人間のモラルを損なうのであり、荒野や大自然は、都会で損なわれたモラルやエネルギーを再チャージする為の生命の泉のようなものと見なされます。ということは価値観が180度ひっくり返されたことになります。このようなものの見方の推移を経て、フロンティアが消滅する19世紀の末を迎えます。再びナッシュを引用しましょう。

◎19世紀の末に向けて、フロンティア開拓者への尊敬の念は、彼らが向き合う環境を含むまでに拡大された。つまり、開拓は、文明の発展の先兵としてのみではなく、アメリカ人を原初の自然に触れさせることにおいても重要であると見なされるようになったのである。
(Toward the end of the nineteenth century, esteem for the frontirsman extended to include his environment. Pioneering, in short, came to regarded as important not only for spearheading the advance of civilization but also for bringing Americans into contact with the primitive.)


すなわち、西部開拓とは、文明化したアメリカ人が、それによって失った原初的なエネルギーを取り戻すための極めて重要な営為であるように見なされるようになったということであり、フロンティアの開拓者が向き合う環境すなわち自然を、モラル的にも善であると見なす考え方が浸透したことを意味します。

 かくしてアメリカのモラルの源泉と見なされるようになったフロンティアの消滅が1890年に宣言された時、後に大統領になるルーズベルトは、そのようなファイト一発オロナミンC的活力の源が失われることを憂慮していたとナッシュは述べています。

◎ルーズベルトは、アメリカの歴史の研究と個人的な経験を通して、荒野の大自然で生活することは、「国家においてにせよ、個人においてにせよ、他のどんな特質を持ってしてもその代わりとすることはできないようなあの強健な雄々しさ」を育むのだということを確信した。
(The study of American history and personal experience combined to convince Rooselvelt that living in wilderness promoted "that vigorous manliness for the lack of which in a nation, as in an individual, the posession of no other qualities can possibly atone.")
◎その一方で彼は、現在のアメリカ人は、「偉大な戦いと自分こそが自分の主人であるという価値観を見失ってしまった過度に文明化された人間」に成り下がってしまう現実的な危険に直面していると感じていた。
(Conversely, he felt, the modern American was in real danger of becoming "overcivilized man, who has lost the great fighting, masterful values.")


「風とライオン」のテーマは、まさにこの点にあることが分かるのではないでしょうか。ベトナム戦争敗戦やウォーターゲート事件によってアメリカ人のモラルが大きく揺らいでいたアメリカの様相は、モラル危機という意味では、「風とライオン」の舞台となるルーズベルト大統領の時代と極めて類似していたとも云えるでしょう。「風とライオン」の中で、ブライアン・キース演ずるルーズベルト大統領は、自分が撃ち倒した熊の剥製を製作させますが、この剥製の熊は彼が倒すにふさわしい強健な雄々しさに溢れた姿勢をしていなければならないのです(画像中参照)。そして、それは、アメリカの象徴としてスミソニアン博物館に飾られ、それを見たアメリカ人達がフロンティア精神を取り戻す為のシンボルとして広く国民に公開されるわけです。撃ち倒されて剥製にされたわけではないとは云え、まさにこの熊と同一の位置を占めているのが、ショーン・コネリー演ずるアラブのリーダー、ライズーリなのですね。確かにアメリカ国内からは消滅したとえはいえ、当時は世界にはまだフロンティアと大自然は残っていたのであり、砂漠という荒々しい大自然を自らのパワーの源として活用するライズーリは、ルーズベルト大統領の宿敵であると同時に、彼の理想でもあったのです。現実のルーズベルト大統領は、任期が切れてからアフリカへ狩猟に出掛けたそうですが、まさにそれは国内では失われてしまったフロンティアを求めての行動であり、アフリカの地まで赴いて自らの活力をリストアしようとしたということです。今や涸れんとしている活力の泉をいかにすればリストアできるのか、それがこの映画の大きなテーマであり、その答えはライズーリの姿の中にあります。しかし、他に方法は考えられなかったということかもしれませんが、アメリカはその選択をどうやら誤ったようです。というのも、ルーズベルト大統領がアフリカまで遠征したように、内にないものは外で見つけるしかないというロジックに陥ったのが帝国主義、植民地主義であり、本来モンロー主義の伝統で海外には基本的にちょっかいを出さなかったアメリカも(とはいえ実際には、アメリカ大陸の近隣の諸国には手を出していましたが)、他のヨーロッパ諸国に右に倣えの政策を取るようになったからです。いずれにせよ、その点は「風とライオン」が描く範囲を越えるので、ロバート・ワイズの「砲艦サンパブロ」(1966)など他の関連作品を参照して下さい。「風とライオン」では、あたかも、アメリカ以外の様々な西洋諸国がモロッコの様々な利権を巡って帝国主義的触手をのばしている一方で、アメリカだけは純粋に人質解放という人道上の目的の為に他人の土地に介入しようとしているかのように描かれていますが、実際はアメリカも同じ穴の狢であったことは「砲艦サンパブロ」を見ての通りです。殊に9.11以後、アメリカの動向には世界の注目が集まるようになっていますが、製作者達の意図がどこにあったのかは別として(前述の通り監督のミリアスには右派傾向があることで知られています)、アメリカとはどのような国であるかを考える上で、この作品は貴重なヒントを与えてくれるように思われます。一見するとアラブの英雄の物語りであるかのように見せかけて、実はアメリカのアイデンティティそのものに関するテーマが巧妙に埋め込まれているという点において、「グリーン・ベレー」などに比べれば、遥かに高度で芸の細かいイデオロギー装置が織り込まれていることになりますが、それは、一筋縄では捉え切れない現代の文化戦略の巧妙さの一端を垣間見させてくれるものでもあります。そのような意味もあり、以前寸評コーナーでは★☆☆という評価でしたが、今回全面的に書き直した機会にワンランク上げて★★☆という評価に変えました。

 最後に1つだけ細かなことを付け加えておきます。それは、ルーズベルト大統領の娘を演じているデボラ・バクスターについてです。彼女は、実はこの作品と子役で出演した「海賊大将」(1965)しか出演作がないように思われます。「海賊大将」のレビューでも書いたように、子役としての彼女はヘイリー・ミルズなど目ではない程にピッカピカに輝いているのに対し、「風とライオン」では全くその輝きが感じられません。典型的な子役であったように思われますが、何故「海賊大将」以外に子役として出演しなかったのか、本当に惜しまれるところです。

2008/08/11 by Hiroshi Iruma
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