ジャイアンツ ★☆☆
(Giant)

1956 US
監督:ジョージ・スティーブンス
出演:ロック・ハドソン、エリザベス・テイラー、ジェームズ・ディーン、キャロル・ベイカー



<一口プロット解説>
テキサスの大牧場主ジョーダン・ベネディクト(ロック・ハドソン)は、東部から嫁(エリザベス・テイラー)をもらうが、古き良きテキサスは、次第に新しい時代の波に洗われていく。
<入間洋のコメント>
 原題は「Giant」であるにもかかわらず、邦題は「ジャイアンツ」と複数形になっているのは、ひょっとして邦題をつけた輩は巨人ファンだったのではないかと思いたくなります。それはさておき、「ジャイアンツ」はエドナ・ファーバーの原作に基くエピック映画であり、上映時間も3時間以上とエピック映画に恥じない長さを誇っています。エドナ・ファーバーが原作の映画というと、個人的には「北海の果て」(1960)を思い出し、それと比較せざるを得ませんが、「ジャイアンツ」の方が上映時間も遥かに長く、いかにもエピック映画的な趣向があるがゆえか、その分やや纏まりのなさが気になります。勿論スケールの大きさでは、アラスカに舞台が置かれる「北海の果て」よりもテキサスの大平原に位置する広大な牧場に舞台が置かれる「ジャイアンツ」の方が上であるとしても、後述するようにスケールの大きさと比較してテーマがやや錯綜しすぎて捉えにくい側面があり、シンプルさに欠けている印象を免れないところが「ジャイアンツ」にはあります。このような長篇映画は、むしろシンプルなテーマをシンプルに扱った方が効果的である場合が多く、その点に関して「ジャイアンツ」は、バランスの悪さが目につくのです。広大なテキサスを舞台としていかにもエピックムービーらしき豪壮さがあるかたわら、エピックムービーに不可欠なとうとうと流れる時間の流れに対する扱いにどうしても不満が残ってしまうのです。伝統的な南部の大牧場が新たな時代の変化の波に洗われていく様子が描かれている点では、エピック映画として申し分ないとしても、「ジャイアンツ」の場合、ハンドリングの方法がかなり複雑なのです。すなわち、伝統的なテキサスの社会が徐々に時代の波に洗われていくというメインテーマが、更に4つのサブテーマに分解される構成が取られており、このような構成をうまく捉えない限り、何やらヌエのような作品に見えてしまうという難点があるのです。その4つのサブテーマとは以下の通りです。
サブテーマ1:牧場主のジョーダン・ベネディクト(ロック・ハドソン)とその妻のレズリー(エリザベス・テイラー)、及び牧童のジェット・リンク(ジェームズ・ディーン)の3者間の関係に関するテーマ。
サブテーマ2:レズリーの育った東部の文化と、ジョーダン・ベネディクトの育った南部テキサスの文化の違いに関するテーマ。
サブテーマ3:「大きいことはいいことだ」をスローガンとする古い大牧場主の価値観と、石油を掘り当てて億万長者に成り上がったジェット・リンクが象徴する新しい社会の価値観の違いに関するテーマ。
サブテーマ4:ジョーダン・ベネディクトの長男(デニス・ホッパー)のメキシコ人の嫁さんに代表される少数民族に対する偏見に関するテーマ、すなわち人種問題。
 まず最初に、この4つのサブテーマの大雑把な展開を述べると、序盤はサブテーマ1とサブテーマ2をメインとしてストーリーが進行しますが、やがて徐々にサブテーマ3に焦点が移動します。サブテーマ4に関しては、勿論序盤でも見え隠れしてはいるとしても、他のテーマに比べると単に1つのサブプロット(たとえばレズリーがメキシコ移民の部落を訪問するシーンなど)としてのみ提示されている印象を受けます。ところが、作品のラストの展開は、サブテーマ4がそれまでと不釣り合いな程突出し、結局このテーマが最前面に踊り出てラストを迎えます。要するに、この4つのサブテーマの配置具合が均質ではなく、それが益々作品の焦点をぼかせる結果に繋がっているのです。次に、その点をより明確にする為に、それぞれのサブテーマがどのような形でストーリーの中で展開されているかについて1つ1つ分析してみましょう。
・サブテーマ1に関して
 「3者間の関係」と述べましたが、実はこの作品においては、通常の昼メロ的な男女間の三角関係が発生し得ないことは、配役を見ただけで予想できます。なぜならば、ジェームズ・ディーンがいくら現在では伝説のスターであったとしても、その当時においては若手スターの一人であったことに違いはなく、既にかくたる名声を誇っていたロック・ハドソンと、その方面において対等な勝負ができるという印象を抱くことは不可能に近いからです。ジェームズ・ディーン扮するジェット・リンクの興味の対象が、エリザベス・テイラー扮するレズリーによりは、ジョーダン・ベネディクトとレズリーの娘ラズ(キャロル・ベイカー)に向かうのは、ある意味で必然的な展開であると考えられます。どうもこれは、ストーリー展開の必然性からではなく、配役によってそのようになった感すらあります(原作を読んでいないので本当のところは分かりませんが)。あるいは、ジェット・リンクの興味の対象がラズに向かうのは孤独な存在である彼の歪曲された自己表現であるとする穿った見方も可能であるかもしれませんが、この作品がそのような繊細な心理描写を目的としているとはとても思えないところです。レズリーとジェット・リンクがまともに、すなわち他の登場人物を交えずに交錯するのは序盤の数シーンのみであり、このあたりのストイックな扱いには、むしろ謎めいたところすらあります。同じエドナ・ファーバーが原作である映画でも「北海の果て」の方は、そのあたりの扱いが実に明解で説得的です。すなわち、キャロリン・ジョーンズを中心にして、リチャード・バートンとロバート・ライアンが私生活においてもビジネスにおいても骨肉相食む争いを繰り返す様子が展開されますが、そのような二人の個人的な確執とは別の次元で、また半ばこの2人の個人的な確執を燃料としてアラスカが1つの州として承認される様子が見事に描かれているのです。要するに、「北海の果て」では、ダイナミックな弁証法的な展開により、時代の流れがうまく表現されていると見なせるということです。それに比べると、「ジャイアンツ」の3者間の関係は相当に曖昧であり、少なくともこのサブテーマに関しては「北海の果て」が持つ力動感を欠いているところがあります。今回新しく買ったDVDバージョンのパッケージの裏に「愛憎と野望のドラマ」と書かれていますが、「野望」は確かにその通りであるとしても、「愛憎」がもし男女間での愛憎という意味であるならば、そのフレーズはこの作品を余計に分かりにくくするかもしれません。もし、その線で解釈するならば、たとえばジェット・リンクがラズに取り入るのは、レズリーという高嶺の花に手が届かなかったゆえの代償行為であるなどという、エピック(叙事詩)とは全く反対の私小説的な解釈に陥ってしまう可能性すらあります。「ジャイアンツ」は、「北海の果て」がまさにそうであったような「愛憎」劇などではなく、最初からサブテーマ1は4つのサブテーマの内でも最も小さなものであるとして見た方が良いと思われます。
・サブテーマ2に関して
 「ジャイアンツ」では、テキサスの大牧場主であるジョーダン・ベネディクトが、東部の町を訪れ、そこで知り合ったレズリーを連れてテキサスに帰るところからストーリーが開始されます。ここには「南部テキサス=保守的、東部=リベラル」という図式が見え隠れしており、東部出身のレズリーはジョーダン・ベネディクトによって代表される南部の保守伝統的な社会に対する空間的な次元におけるアンチテーゼとして登場します。たとえば、彼らが住む大きな館に町の名士を呼んで、さてこれから政治の話をしようとすると、レズリーが傍で聞いているので「政治の話は男がするものであり、女子供がするものではない」と言ってジョーダン・ベネディクトは彼女を追い払おうとしますが、東部の町で政治と隣り合わせで暮らしていた彼女は、立ち去ろうとしないどころかそのような保守的な考え方を揶揄し始めます。明らかにこのシーンは、「東部=リベラル、南部=保守的」という図式を表しているものと考えられます。また、野外パーティのシーンでレズリーが子牛の頭を容器に料理が配られているのを見て気絶するのを見たジョーダン・ベネディクトの姉?(メルセデス・マッケンブリッジ)が、「私はこれを恐れていたんだ」と呟くシーンがありますが、これは、「南部=質実剛健で実践的、東部=軟弱で観念的」という対比を表しているものと見て差し支えないでしょう。但し不思議なのは、このシーンの次のシーンでは、もうレズリーが家庭の実権を掌握しており、ではジョーダン・ベネディクトの姉のつぶやきは、だだクリーシェを言ってみただけのことであったのかといつも疑問に思ってしまいます。このような南部社会と東部社会の対立を描くサブテーマ2は、中盤以後は直接的にはほとんど現れなくなり、次第にサブテーマ3で述べる時間的な次元におけるアンチテーゼによって置き換えられます。むしろ、中盤以後においては、レズリー自身よりも、母親の影響を強く受け、テキサスではヒーローにも等しい大牧場主になるよりも医者になることを希望する長男(デニス・ホッパー)が南部社会に対する空間的なアンチテーゼを表すようになります(彼は暫く東部で育てられます)。
・サブテーマ3に関して
 サブテーマ2が南部の保守的な社会に対する空間的なアンチテーゼであったとすると、サブテーマ3はそれに対する時間的なアンチテーゼであると見なせます。それは、新しい時代がもたらす変化が徐々に南部のテキサスにも押し寄せてくる様子によって示され、おもに2つのストーリー展開を通じて描写されています。1つは、テキサスの大牧場主ジョーダン・ベネディクトとは対極の位置を占めるジェット・リンクによって代表される「持たざるもの」の台頭を通してです。それまでは社会の底辺を徘徊していたと思われていた人々が、いつのまにか頂点を占めるようになる、そのような現象は社会構造そのものが変化しない限り不可能であり、ジェット・リンクが作品の中で果たしている役割とは、そのような変化を象徴することであると言っても間違いはないはずです。ジョーダン・ベネディクトが所有する大牧場のすぐそばを、ジェット・リンクの経営する石油会社が所有するモダンなタンクローリーが次々と通り過ぎていくシーンや、石油採掘用のやぐらが立ち並ぶ中をカウボーイたちが牛を追うシーンには、古い時代から新しい時代への遷移がいやおうなく進展する様子が見事に表現されています。2つ目は、「大きいことはいいことだ」という旧来の考え方を、新しい世代の人々はもはや信奉せず、それがマイホーム主義的な考え方に取って代わられる様子を通じてです。すなわち、大きな共同体という見方からより個人主義的な見方への推移が発生しているのです。たとえば、レズの姉?がカウボーイ(アール・ホリマン)と結婚しますが、長男が牧場を継ぐ意志がないので、ジョーダン・ベネディクトは、娘夫婦を跡継ぎにしようとカウボーイに話し掛けたところ、「大きいことはいいことだという考え方はもう古い」と言われてしまいます。すなわち、娘夫婦は小坂明子の「あなた」の詩にあるような小さな範囲で充足するマイホーム主義の方を望んでいるのであり、このことは大牧場を中心とするテキサスにおいてすらも、現代的な核家族化の進行がもはや避けられないことを意味しています。ところで、「ジャイアンツ」の焦点を捉えにくくしている大きな要因の1つとして、このサブテーマ3が作品のテーマの中心であろうと思われた矢先に、焦点がサブテーマ4に移動してしまう点が挙げられます。すなわち、新しい時代を象徴しているはずのジェット・リンクは、結局最後は金に目が眩んだ肥大化したエゴの塊のように描かれ、挙げ句の果てはパーティの会場で公衆の面前で酔いつぶれてしまいます。新しい時代には、落とし穴があちこちに穴をあけて待っていることがここには示唆されているようであるにも関わらず、それではそのような新しい時代に対して、古い伝統的な社会からの脱皮をいやおうなく求められている大牧場主ジョーダン・ベネディクトは、どのように対処していくのかという興味がムクムクと湧いてきたところで、ストーリーはそれをはぐらかすかのようにサブテーマ4へと焦点をずらしていくのです。
・サブテーマ4に関して
 先述のように、このサブテーマは、序盤にも挿入的なエピソードの形で現れますが、少なくとも終盤にさしかかるまでは、それが作品のメインテーマになるであろうと予測させるものは何もありません。このサブテーマが前面に突出し始めるのは、ジョーダン・ベネディクトの長男がメキシコ人女性と結婚するあたりからであり、ジェット・リンクがパーティ会場で酔いつぶれるシーンの後は、完全にこのサブテーマが支配し、それを強調するかのように、この作品は長男の混血の息子の目にカメラがフォーカスすることによってジ・エンドを迎えます。ラスト近くのシーンで、ハンバーガーショップに入ったジョーダン・ベネディクトが、人種差別による偏見を抱くレストランのオーナーと大立ち回りを演じますが、序盤では人種問題などに何の関心も持っていなかった主人公が、たとえ長男の嫁さんがメキシコ人である事実を認めるようになったとはいえ、まったく見ず知らずのメキシコ人たちのためにド派手な喧嘩を始めるのがどうしても唐突に思われます。また、ラスト直前のシーンでジョーダン・ベネディクトとレズリーがしみじみと過去を回想しながら語り合うシーンがあり、その会話の中で、彼がかつて大牧場のあるじとして活躍していた頃は決してそうは思わなかったけれども、ハンバーガーショップでの大乱闘の果てにサラダにまみれてひっくり返っていたジョー彼の無様な格好にヒーローの姿を垣間見ることができたとレズリーが語りますが、このセリフを聞いていると、時代が大きな変化の波に洗われていくといういかにもエピックにふさわしいテーマが、最後は個人の内面的な価値観の問題に置き換えられてしまった感が否めません。勿論、サブテーマ3でも述べたように時代が変われば個人の内面的価値観も当然変化しなければならないことに間違いはないとしても、それは1つの要素に過ぎないのであり、これだけ壮大にストーリーが語られながら、最後はその一点に収斂されている印象があるのは、ことに「ジャイアンツ」がエピックであるとするならば、残念なことであるように思われます。
 ということで4つのサブテーマをそれぞれ分析しましたが、マテリアルの良さに比較して展開の悪さが気になります。エピック映画として個人的に好きな「ドクトル・ジバゴ」(1965)に比べると、ことにそのことが言えます。「ドクトル・ジバゴ」を挙げたついでに付け加えておくと、「ジャイアンツ」が扱う時代のスパンは、「ドクトル・ジバゴ」のそれより更に広いのではないかと思われますが、時間の流れの扱いにおいては後者の方が圧倒的に優れています。「ドクトル・ジバゴ」における時間の流れの扱いの見事さに関してはそちらのレビューを参照して頂くものとして、冒頭以外はテキサスの大牧場からほとんど舞台が離れることのない「ジャイアンツ」における時間の流れの扱いは、むしろ貧相であるとさえ見なせます。時間の流れがそれ程感じられないにもかかわらず、俳優の髪の毛の色だけが変わっていくような印象すら受けます。あちらのある映画評論家は、ロック・ハドソン、エリザベス・テイラー、ジェームズ・ディーンの老け方が自然ではないと指摘していますが、これは物理的なメークアップの問題であるというよりも、時間の変遷の表現の仕方が貧相であるがゆえであるという方が正しいように思われます。
 ということでこの作品に関しては、どうも悪い点ばかり指摘してしまった感がありますが、もともと全然問題にもならない映画をレビューとして取り上げるつもりは全くなく、ここに取り上げたのはそれなりに価値がある作品であると思っているからこそです。そもそも、これだけ壮大なスケールで描かれるエピック映画は、現在ではほとんど絶滅してしまったと言ってもよく、それだけでも貴重です。とにかく、舞台設定としては、エピック映画としては申し分のないものであると言えるでしょう。また勿論、ジェームズ・ディーンの遺作であるという事実がこの作品の価値を上げていることも、間違いのないところです。白髪の混じった初老のジェット・リンクを演じる彼が、パーティ会場で酔っ払ってひっくり返る(すなわち只の酔っ払いのおじさんを演じている)様子が彼の最後の姿であるとはある意味で何とも皮肉な話ですが、それでもジェームズ・ディーン伝説が一向に色褪せないところは、彼のミステリアスな魅力を物語っているようでもあります。最後にディミトリ・ティオムキンの豪壮な音楽は、テーマとよくマッチしていることを付け加えておきます。

2003/11/22 by 雷小僧
(2009/06/12 revised by Hiroshi Iruma)
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