一ダースなら安くなる ★☆☆
(Cheaper by the Dozen)

1950 US
監督:ウォルター・ラング
出演:クリフトン・ウエッブ、マーナ・ロイ、ジーン・クレイン、バーバラ・ベイツ

左:クリフトン・ウエッブ、右:ジーン・クレイン

邦題中の1ダースとは何が1ダースかというと、何と!ガキンチョが1ダースなのです。だとすると、「一ダースなら安くなる」というタイトルは、自分の生んだガキンチョを資産勘定に含めてグロスで売りさばき、億万長者になるか貧乏農場に直行するかという一発逆転のすさまじいギャンブルが最後に待ち受ける、あのタカラ(だったかな?)の「人生ゲーム」を思い出させるかもしれません。が、御安心下さい。「一ダースなら安くなる」は、そのような血も涙もない現実社会を描いているわけではありません。つらつら考えてみると、かつて巷を席捲した「人生ゲーム」は、あのようなスゴロクと何ら変わらぬ下らないルールでよくぞあれだけ受けたと今では思わざるを得ないとはいえ、あのゲームほど資本主義社会にはびこるカネ、カネ、カネの欲望を見事にパロったゲームもなかったのであり、ルールが下らなければ下らないほどパロディ度が上がる見事な逆転の発想がそこにはありました。たとえば「モノポリ」(日本では確か「バンカース」という名称で販売されていたのがこれに相当するではないでしょうか)などは、ルールが高度化されている為シリアスにプレーせざるを得ず、カネ儲けがゲームの目的ではあっても資本主義社会のパロディにはとてもならなかったのに対し、「人生ゲーム」はまさしくあの単純さ下らなさ故に自虐的ともいえるパロディ性が光っていたのです。当時まだこの世に存在していたソビエトで発売すれば、資本主義を貶める100万のパンフレットを発行するよりも、いかに西側諸国が堕落しているかを一般庶民に実感させることができたはずであり、ソビエト政府のお墨付きが貰えたかもしれません。或いは、ソビエト官僚とソビエト国民の蒙を開き、ソビエトが崩壊することなどなかったかもしれません(何と大袈裟な!)。脱線はこれくらいにしましょう。少子高齢化が叫ばれる今日から見れば、ガキンチョが12人といえば半ば信じがたい超常現象であるように思われるかもしれませんが、小生がガキンチョの頃、すなわち富国強兵政策には何の縁もゆかりもなかった60年代後半から70年代前半にかけてですら、10人兄弟くらいであればそれほど珍しいことではなく、同級生にも2人くらいはそのような家族構成を持つ人がいました(さすがに1ダースには若干足りなかったように覚えていますが)。あまりにもガキンチョが多いので、末夫(すえお)などという名前がつけられていながら、なぜか弟や妹がいたりなどしたものです。しかしさすがに、他の先進諸国同様人口減に転じようとしている現在の日本において、「一ダースなら安くなる」に登場するような大家族はほとんど死滅状態にあるはずであり、その点から考えても極めて1950−60年代的な作品である印象を強く受けます。ガキンチョが鬼のように出てくる他の作品としては、ヘンリー・フォンダとルシル・ボールが主演した「合併結婚」(1969)やドリス・デイのラストの作品の1つ(これを書いた時点では彼女はまだ生きておられますが、さすがにカムバックするとは考えられないのでラストの作品と書いても大きな問題はないでしょう)である日本劇場未公開の「With Six You get Eggroll」(1968)などが挙げられ、或いは半ダースくらいであれば「サウンド・オブ・ミュージック」(1965)などもこの範疇に入るでしょう。因みに、「一ダースならば安くなる」には続編「Belles on Their Toes」(1952)とスティーブ・マーティン主演によるリメイク(2003)が存在します。実を云えば、このような家族映画は、極めて1950−60年代的であり、それ以前にしろ以後にしろ大家族が題材として扱われることはほとんどなかったのではないでしょうか。勿論、子役が主演格で出演する映画がなかったわけではなく、それについてはシャーリー・テンプルという名前を挙げれば十分でしょう。しかしながら、平凡な大家族の家庭生活を庶民的且つコミカルなタッチで描くハンドリングが一般的に可能になるにはそれなりのパースペクティブの変遷が必要であり、それはやはり60年代になるのを待たねばならなかったと考えられるのです。何しろ「一ダースならば安くなる」が公開された1950年代初頭ですら、スタイルに大きな焦点が置かれるフィルムノワールジャンルに分類される作品が盛んに製作されていた頃であり、スタイルとは全く相容れない庶民的凡庸さが大きくクローズアップされる「一ダースならば安くなる」のような作品がこの時期に登場したのは、まさに画期的であったと見なせるのです。「タイトル別に見る戦後30年間の米英映画の変遷」の「スクリーンのロマン派創始者ジョセフ・L・マンキーウイッツ 《イヴの総て》」で述べたことも、まさにこのようなパースペクティブの変遷についてでした。また、70年代を境としてそれ以後は、このようなタイプの大家族が登場する作品は死滅します。「クレイマー、クレイマー」(1979)のレビューで述べたので詳細まで繰り返すことは避けますが、まず第1に時代そのものが核家族化の時代へと推移しつつあり、第2に映画自体がよりリアリスティックなレベルで語られることが多くなる為、12人のガキンチョを持つ一家を題材とする映画などは、最早ゲテモノであると見なされざるを得なくなるのです。ということで、そのような文脈を考えて見ていると、「一ダースならば安くなる」にはそれなりに興味深いものがありますが、さすがに古臭い印象は否めないところです。因みに、「一ダースならば安くなる」は、小生がガキンチョの頃(すなわち60年代後半から70年代前半にかけて)しばしばテレビでも放映されていましたが、それ以後全く見る機会はありませんでした。2、3年前にDVDで発売された折に、さっそく手に入れて久々に見た次第ですが、やはり現在のオーディエンスにはあまり受けないだろう印象を持ちました。付け加えておくと、12人のガキンチョ達の内、年長の二人のおねえさまを演じているのは、ジーン・クレインとバーバラ・ベイツです。多分、高校生という設定でしょう。が、クレインもベイツも1925年生まれなのでこの頃は25才であったはずであり、随分と年増のおねえさま達だったということになります。ジーン・クレインはビッグスターなので敢えて説明する必要はないものとして、バーバラ・ベイツについては少し説明が必要でしょう。彼女が最も知られているのは、「一ダースならば安くなる」と同年に公開されたかの「イヴの総て」(1950)のラストシーンで、アン・バクスター演ずるイヴが受賞したトロフィーを鏡の前でかかげて恍惚としているフィービー役によってでしょう(合わせ鏡のように鏡が鏡に反射してトロフィーが自己増殖しています)。このシーンの凄さがどこにあるかというと、ミメシス(模倣)が持つパワーによって欲望が(自己)増殖するルネ・ジラール的な光景が映像によって強烈に表現され、増殖するトロフィーを前にして恍惚とするフィービーの姿を通して、イヴという欲望の塊のようなキャラクターが持つ強烈な伝染性が見事に示されているところです。バーバラ・ベイツはそれ以外ではほとんど知られていませんが、むしろ43才で若くして自殺したことで知られているかもしれません。「イヴの総て」のラストシーンで図らずも示された未来の栄光は、彼女にはついに訪れなかったとは涙なくしては語れません。華やかな映画界の舞台裏とは、そんなものなのでしょうね。


2006/11/04 by Hiroshi Iruma
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