クレイマー、クレイマー ★★☆
(Kramer vs. Kramer)

1979 US
監督:ロバート・ベントン
出演:ダスティン・ホフマン、メリル・ストリープ、ジャスティン・ヘンリー、ジェーン・アレキサンダー

左:ダスティン・ホフマン、右:ジャスティン・ヘンリー(ビリー坊やを演ずるガキンチョ)

タイトル別に見る戦後30年間の米英映画の変遷」のあとがきにも書きましたが、1980年代に入るとドラマ映画が対象とする範囲が恐ろしく狭まってきて、たとえば核家族であるとかそのような極めてプライベートなレベルのミクロなミクロな人間関係に焦点が当たるようになります。勿論、何もこれはそれ以前にはそのような核家族が主人公であるような映画が全く存在しなかったということを意味するわけではなく、それがテーマとして前面になることはなかったということです。かなり恣意的ですが、1つたまたま最近見た映画を例に取りましょう。「H氏のバケーション」(1962)というジェームズ・スチュワートとモーリン・オハラが主演したコメディファミリー映画があります。この映画は、この両者演ずる夫婦と息子、娘の4人が海岸のリゾート地にバケーションに行くという他愛ないものですが、親子2代の核家族(両親と子供一人というのが核家族の理想かもしれませんが)が主人公である映画です。しかしながらそうであっても、この作品の場合決してこの4人の主要登場人物間でのインタラクションを描くのがメインのポイントではなく、そのことは既に結婚してしまった2人の娘が旦那と子供を連れてすぐに遊びに来るところからも分かります。また、お手伝いさんや、隣のロッジに住むおねえちゃん、水道工事人などのサブキャラクターが次々に現れ、ほとんどメインの4人家族のみに焦点が当たることはないのですね(敢えて言えばスチュワートが息子を連れてヨットで外洋に出て霧の中で迷ってしまうエピソードくらいのものです)。加えて、この映画の1つのポイントは、歯に矯正具をしているのを気にしてシャイな娘をスチュワート演ずる親父がなんとかソーシャライズさせようとして苦心するところが1つのコメディのポイントになっていて(何とカネにモノを言わせてまで彼女のダンスパートナーを捜そうとします)、要するにストーリー展開が内部へ内部へ閉じこもろうとするのではなく、外部へ外部へと開こうとしていることが分かります。「普通の人々」(1980)を起源とする80年代以後の家族映画が、常に内部へ内部へと引き籠もろうとするのと比べると、ここには大きな違いがあります。このように言うと、「H氏のバケーション」は他愛ないコメディであるのに対し、80年代の「普通の人々」を始めとする作品はシリアスなドラマ映画であり、そもそも比較の対象になるはずがないではないかと思われるかもしれません。しかしそこがまさにポイントなのですね。すなわち、「H氏のバケーション」がコメディであり、「普通の人々」がシリアスドラマであるところが既に1つのポイントだということです。一言で言えば、家族の内部へ内部へと一種内省的に閉じ籠もろうとする映画は、そもそもコメディには成り得ないということです。さて「クレイマー、クレイマー」ですが、この作品は1979年に製作されており、面白いことに80年代以後の映画にしばしば見受けられるシリアスな家族問題が1つの大きなテーマとして扱われておりその意味では「普通の人々」などと同じようなシリアスさをそこに読み取ることが出来る一方で、「H氏のバケーション」的にコミックなトーンも決して失われてはいないことです。一種の泣き笑いのペーソス的な側面があるところがこの作品の特徴であり、「普通の人々」のような映画をどれくらいの人が好んで何度も何度も見るだろうかという疑問は湧いてきたとしても、「クレイマー、クレイマー」を何度も見るという人がいてもさ程不思議ではないように思われます。「クレイマー、クレイマー」は殊に前半に関して言えば、今風に言えばシングル・ファーザーが不器用に子育てを行うのを面白可笑しく描いているようなところがあり、そもそもダメオヤジ(は言い過ぎかもしれませんが)と幼い息子というペアは、状況には確かに悲壮なところがあってもどうしてもコメディ的にならざるを得ないのであり、この映画のシリアスな側面はダスティン・ホフマン演ずる親父と息子との関係からではなく、彼とメリル・ストリープ演ずる離婚した妻との関係において専ら発生します。「普通の人々」が夫婦関係にしろ親子関係にしろシリアス一色に描かれていたのとは大きな違いがあり、その意味で言えば「クレイマー、クレイマー」はまだシリアスさと滑稽さが同居しており、しかもその間のバランスが絶妙に取られているような印象が強くあります。考えてみれば、1979年のアカデミー作品賞、監督賞は「クレイマー、クレイマー」が、1980年のそれは「普通の人々」が受賞しているのは極めて意味深であるように思われます。つまり、このような主題を扱った作品が2年連続してオスカーを受賞しているのは、この時期がまさに1つの転回点であったことが分かるということです。しかも「クレイマー、クレイマー」にはまだ救われる要素が数多くありますが、「普通の人々」はほとんど悲劇的であるとも言えます。現実社会でも核家族の問題が大きく取り沙汰されるようになってきたのもこの頃からではなかったかと思いますが、そのような時代背景があったからこそそれを扱った作品が大きくクローズアップされオスカー(それも作品賞のような時代性という映画の内容以外の要素もある程度関係しそうな部門)まで受賞出来たということなのではないでしょうか。そのようなテーマが当たり前になってくると今度はそのような作品でオスカー作品賞を取ることは困難になり、1983年の「愛と追憶の日々」は別とすると、1981年「炎のランナー」、1982年「ガンジー」、1984年「アマデウス」、1985年「愛と哀しみの果て」、1986年「プラトーン」、1987年「ラスト・エンペラー」、1988年「レインマン」、1989年「ドライビング・ミス・デイジー」と家族そのものに大きな焦点が当たった映画が作品賞を受賞することがなくなります。つまり1979年から83年くらいまでが1つの時代的な大きな転回点であったことを、アカデミー作品賞の受賞暦からも読み取ることが出来るということであり、「タイトル別に見る戦後30年間の米英映画の変遷」の主題の1つもそのような映画の持つ時代性ということでした。最後に「クレイマー、クレイマー」について1つ付け加えておくと、この曖昧な邦題は別として原題の「Kramer vs. Kramer」とは直訳すれば「クレイマー対クレイマー」ですが、これは要するに子供の養育権を巡る訴訟におけるダスティン・ホフマン対メリル・ストリープということなのでしょうか。でもそれはおかしいですね。何故ならば、ホフマン演ずるテッドはストリープ演ずるジョアンナのことをex-wifeと呼んでいることからも分かるように既に彼らは離婚しているはずであり、そうでなければそもそも訴訟自体が有り得ないでしょう。つまり、その意味で「Kramer vs. Kramer」とは厳密には言えないはずなのですね(それとも慣習的にそのような言い方をするのでしょうか)。まさかホフマン対ガキンチョという意味ではなかろうから(まあ前半のコミックなシーンを強調してそのように言えないことはないかもしれませんがタイトルとしてはこれはチト苦しい)、それでは原題の「Kramer vs. Kramer」とはどういうことでしょう。そう考えてみると邦題の「クレイマー、クレイマー」は表現そのものが曖昧なので、これはこれで良かったということかもしれません。恐らく邦題を見て前半のクレイマーと後半のクレイマーがそれぞれ別の人物を表わすと思った人は必ず、前半のクレイマーはホフマン演ずる親父で、後半のクレイマーはガキンチョクレイマーのことだと考えるでしょうから、そうであればそれはそれでタイトルとしてはまあ良しということになるからです。因みに私めはというと、公開時にこの作品が話題になった折には、この邦題は「おおクレイマーよ、クレイマーよ」というようなノリで、同一語の意味のない繰り返しであると思っていました。邦題を付けた人の意図はよく分かりませんが、皆さんはどうだったのでしょうか。


2006/06/24 by Hiroshi Iruma
ホーム:http://www.asahi-net.or.jp/~hj7h-tkhs/jap_actress.htm
メール::hj7h-tkhs@asahi-net.or.jp