バルジ大作戦 ★☆☆
(Battle of Bulge)

1965 US
監督:ケン・アナキン
出演:ヘンリー・フォンダ、ロバート・ショー、テリー・サバラス、ロバート・ライアン

左:ロバート・ライアン、右:ヘンリー・フォンダ

昔々アバロン・ヒル社というシミュレーションボ−ドゲームを販売していた老舗がありましたが(もしかして現在でもあるのかな?)、そこから発売されていたゲームを買い集めていたことがありました(今でも押入れに山と積まれています)。そのなかの1つに、バルジ大作戦すなわちナチスドイツのアルデンヌ高原における最後の反攻を扱ったゲームがあり、時々遊んでいたことを思い出します。第二次世界大戦のヨーロッパ戦線で映画でも取り上げられているポピュラーな戦いとしては、「史上最大の作戦」(1962)や「プライベート・ライアン」(1998)などの大作映画或いはレビューを行った映画の中では「卑怯者の勲章」(1964)、「36時間」(1964)などでお馴染みのノルマンディー上陸作戦、この「バルジ大作戦」や他にレビューしたものの中では「大反撃」(1969)の舞台となるバルジ大作戦遠すぎた橋」(1977)で扱われたマーケットガーデン作戦などが挙げられます。面白いことに、ノルマンディー上陸作戦は別ですが、後二者は後世の目から見れば大局的に戦争の帰趨を決定するような作戦ではなかったことです。バルジ大作戦はドイツ軍側の失敗作戦であり、マーケットガーデン作戦は連合軍側の失敗作戦であったからです。それにも関わらず、これら2つの作戦が映画の題材として取り上げられたり或いは著名なボードゲームにもなったりしているのは、シチェーションとしての興味深さがあるからでしょうね。つまり、バルジ大作戦の場合にはこの映画でもよく分かるようにドイツ軍側はいかに迅速に行動して戦車部隊の補給源を確保するかに大きな焦点があり、またマーケットガーデン作戦については敵の背後にパラシュート部隊によって確保した5つの橋を維持する為には、無補給で孤立した軽装備のパラシュート部隊がいかにねばれるか又中央突破部隊がいかに迅速に行動するかに大きな焦点があったのであり、要するに補給とタイミングが最重要課題になるような作戦であったということです。まあ、アバロンヒル社に限らずこれらの作戦がしばしばボードゲーム化されていたのはそのようなシチュエーションがボードゲーム向けだったということなのでしょう。さて肝心の映画に関してですが、前述した「史上最大の作戦」や「遠すぎた橋」など総合的視点から1つの作戦全体を扱ったいわば鳥瞰的な戦争映画(このタイプの戦争映画は特に主演のいないオールスターキャストという体裁になるのが普通です)がそうなるように、この作品もほぼ3時間という長さになっています。しかしこの「バルジ大作戦」は、必ずしも鳥瞰的であるといえる映画ではないことに注意する必要があるでしょう。たとえば、有名なドイツ軍に包囲されたバストーニュの司令官がドイツ軍の降伏勧告に対して「Nuts!」と返答した(実際はもっと過激な放送禁止用語であったという話もあります)というエピソードは申し訳程度に挿入されていますが、この戦域を扱った描写に関してはそれしかありません。むしろ「Nuts!」のシーンだけ突如はさみ込まれるので、この有名なエピソードを知らなければ「へ?何でこんな本筋とは全く関係のないシーンが挿入されているのだろうか?」と思ってしまうことは必定でしょうね。またこの映画を2回以上見れば容易に気付くことですが、実は「バルジ大作戦」は4人の将校や兵士の行動に大きな焦点が当てられていて、その4人の行動を軸として全体の流れが構成されています。つまりいわば個人的ドラマ(恐らくフィクションでしょう)が先にあって、それを通してバルジ大作戦という歴史的事実が描写されていることです。従って全体的印象としては、バルジ大作戦そのものは歴史的事実ですが、この映画自体にはフィクション的なイメージが強くあります。ノルマンディー上陸作戦の場合で言えば、「プライベート・ライアン」にはこれと同じ印象があり、「史上最大の作戦」には鳥瞰的で歴史的事実がそのまま描かれているという印象があります。勿論、これは何も「史上最大の作戦」で描写されている個々のイベントが実際に歴史的事実であると言いたいわけではなく、そうではなかったとしても特定の個人的なドラマに大きな焦点が置かれることがないという全体的構成が客観的であるような印象を与えることに大きく寄与していることを指摘したいに過ぎません。しかしこの印象の違いは大きく、「バルジ大作戦」や「プライベート・ライアン」には、「史上最大の作戦」や「遠すぎた橋」にはない細かな個人ドラマ的要素があります。では「バルジ大作戦」の4人の個人とは誰であるかというと、上層部と対立しても自分の信念を曲げない士官(ヘンリー・フォンダ)、骨なしのお坊ちゃまが自分の子守役の軍曹を失い心を入れ替えて立派な指揮官に大変身する将校(ジェームズ・マッカーサー)、いかにもアメリカンという戦車隊長(テリー・サバラス)、戦争に生きがいを見出すドイツ軍の英雄戦車隊長(ロバート・ショー)の4人です。彼らそれぞれのエピソードが巧妙に織りあわされて1つのストーリーに仕立て上げられており、従ってこの映画には「史上最大の作戦」のような鳥瞰的戦争映画の持つ散漫さからうまく逃れているという印象がありますが、その代わりに見終わったあとでバルジ大作戦という歴史的イベントを題材とした映画であるにも関わらずたとえば「特攻大作戦」(1967)や「戦略大作戦」(1970)のような完全にフィクションである戦争映画を見た時と同じような印象が残らざるを得ません。因みに製作年代は逆ですが、「戦略大作戦」の時と同じようなイメージでテリー・サバラスが出演しているので、「戦略大作戦」を見てからこの映画を見ると余計にそのような気がしていまいます。しかしながらまあ、この辺りをどう捉えるかは見る人によっても異なるところであり、個人的には鳥瞰的長編戦争映画はどうしても散漫な印象があり、何度も見る気にならないのに対し、この映画はそこそこは楽しめる映画であると考えています。ただしそのようなドラマ的ハンドリングの故もあってか、細かいとはいえこの映画には2点どうしても納得出来ないことがあります。1つは、ロバート・ショー演ずる戦車隊長ヘスラーが、ロバート・ライアン演ずる将軍(?)達が司令部を構える、ドイツ軍の本来の目的とは何の関係もない小さな町に全戦車を総動員して総攻撃を仕掛けることで、東部戦線で活躍して英雄になったドイツ機甲師団のベテランがそんな非効率なことをするわけはなかろうということです。装甲戦車部隊を用いたブリッツクリークと呼ばれるドイツ軍の有名な戦術は、戦車部隊で前線を突破し敵の背後に進出して補給戦を寸断攪乱し、敵の前線を崩壊させようとする戦法であり、ここでは戦車の機動力が最大に利用されているわけです。従って、都市が存在しても戦車部隊はそんなものは迂回して歩兵部隊や工兵部隊に包囲させるのが普通だったのですね。第一に戦車は、その機動力を活かすことができる平地でこそ有効であり、都市の攻略には向いていないはずです。従って、ブリッツクリークが有効に機能したのはロシアの大平原やオランダなどの低地帯だったわけです。60年代の戦争映画でしばしば憎憎しいドイツ将校を演じているウエルナー・ピータースがここでもドイツ軍の将軍を演じていますが、皮肉にもその彼がそんな町は迂回してさっさと本来の目的を果たせと極めて正しくも命令していますが、ヘスラーは敵のモラルをくじく為とか何とか言いながら嬉々として小さな町の包囲戦を続けるのですね。このシーンを見ていると、本来は百戦錬磨の戦車隊長が経験的に知っているはずのことを、司令部に腰を据えている将軍がわざわざ指摘しているということになり、それはなかろうという気になってしまいます。もう1つは、ロバート・ライアン演ずる将軍が、自分達の戦車部隊を犠牲にして(何と言ってもアメリカのシャーマン戦車はドイツのティーゲル戦車に太刀打ちできないことは十分に知っているわけです)ドイツ軍戦車部隊の燃料を使い果たさせようとすることで、わざわざそんなことをしなくともすなわちアメリカの戦車や人命を犠牲にせずとも、ドイツ軍が喉から手が出るほど欲しがっていたアメリカ軍の燃料補給所に山積みされた燃料を電話一本で破壊すればそれで良いわけで、実際に彼はそうしています。勿論この時、燃料補給所はアメリカ兵に偽装したドイツ兵が支配していたわけですが、将軍はその事実を全く知るよしもなかったはずです。これについては、まあド派出な戦車戦のシーンを織り込みたかったからであろうなという想像はつきます。いずれにしても、バルジ大作戦が最終的に失敗に終わった第一の理由は、この補給問題であったのであり大雑把に言えば間違っているわけではないので良しということにしましょう。最後に1つ指摘しておきたいことは、この作品は戦車戦シーンなどを堪能するにはやはりワイドスクリーンサイズで見ることが不可欠でしょう。その意味で昨年発売されたDVDバージョンは嬉しいところです。


2006/10/29 by Hiroshi Iruma
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