大反撃 ★★☆
(Castle Keep)

1969 US
監督:シドニー・ポラック
出演:バート・ランカスター、ピーター・フォーク、パトリック・オニール、トニー・ビル



<一口プロット解説>
第二次大戦中、アルデンヌのとある古城にバート・ランカスター率いる部隊が立て篭もり、迫り来るドイツ軍の機甲師団を迎え撃つ。
<雷小僧のコメント>
この映画は、非常に分裂症的な映画であると言ってもよいのですが、妙な魅力があります。所謂「バルジ大作戦」と呼ばれる第二次世界大戦におけるドイツ軍最後の大反攻を背景とした映画なのですが、この映画の前半部では実に個人的な事柄を滑稽にしかもシュールリアリスティックに描くので、アクションに充ちた戦争映画をこの映画に期待した人は面食らうこと間違いなしでしょう。勿論後半部には、サム・ペキンパーも真っ青になる程途轍もなく破壊的且つ暴力的な戦闘シーンが控えているとはいえ、後で説明するようにそれらのシーンにしても、通常の戦争映画の戦闘シーンとは遥かにかけ離れたものであると言うことが出来ます。この理由により、この「大反撃」という映画は誰に対しても推薦出来るというような映画では全くありませんし、それは戦争映画のファンを自認する人に対しても同様です。手短に言うとこの映画は一種のカルトムービーであると言った方がよいかもしれません。シドニー・ポラックという監督さんはいつもは非常にリアリスティックな映画を製作する人であるように思いますが、この映画はリアリスティックとはまさに正反対に位置する映画であり、実在する歴史的なイベントが背景になっているとは言えども恐ろしく現実感が希薄な映画になっていると言っても間違いはないでしょう。
ところで、この映画に関しては、一貫性がないとか分裂症的であるとかいうような批判がなされているのを知っていますが、この一貫性のなさや分裂症的な側面は故意であるように私目には思われます。けれどもこう述べたからと言って、この映画はそういう一貫性のなさを通じて戦争の狂気性を示すことにより、戦争の空虚さや無益さを呈示しようとしたのであろうと言いたいわけではありません。何故ならば、戦争の空虚さや無益さを示すのならばリアリティが必要になるはずですが、この映画は前述したようにリアリティとは正反対の非常に現実感が希薄な映画になっているからです。戦争の空虚さや無益さを示すのならばリアリティが必要になるということに関してはもう少し説明が必要であるように思われますので、2つ程その例を挙げてみたいと思います。1つはスタンリー・キューブリックの「フルメタル・ジャケット」(1987)です。この映画の前半部はこれから戦場に赴く若者達のトレーニングシーンが微に入り細を穿って描かれます。これは恐らく後半部で描かれる戦闘シーンを通じて示されるメッセージに対してより現実性をもたせることが意図されているように思われます。すなわち、前半部のトレーニングシーンを通じてこれらの若者達に対する観客の感情移入と共に映画自身に対する観客の現実感覚というものの確立が計られているのではないかということです。それから「ディア・ハンター」(1978)を取り上げてみましょう。この映画の最初の3分の1は、これからベトナム戦争に徴集されんとする若者達の日常生活がこれまた微に入り細を穿って描かれます。観客は、そういうシーンが描かれることによってこれら若者達に対するエモーショナルな繋がりをいやが上でも要請されるが故に、後半の戦闘シーンがより一層陰惨なものになっていることは論を待たないところでしょう。単純に苛烈な戦闘シーンやえげつないロシアンルーレットシーンを描くだけでは、たとえば反戦メッセージというような伝播力が要求されるメッセージを説得力あるものとして伝えるには不十分であるということがよく理解されていたのではないかと思います。一言で言えば、感情移入等を通じての登場人物に対する観客のエモーショナルな参入なくしては、リアリティやそれによって齎されるはずの空虚感無益感を現実味あるものとして醸成することはまず不可能なのではないかということです。それに対して、この「大反撃」という映画の持つ非現実性というのは、登場人物に対する観客のエモーショナルな参入を拒絶するものであり、またその醸成をより一層困難にしていると言えます。それに加えて、前半部のコメディ的な演出と後半部の途轍もなく破壊的な戦闘シーンのギャップが余りにも大きい為、一貫性ある視点をこの映画に関して維持しようとする努力は全て徒労に終るであろうことは明らかであり、これ故にも反戦メッセージのような一貫性が必要とされるメッセージを伝えるにはあまりにも不適当な構成にこの映画はなっていると言えます。
ところでこの映画には色々奇妙な人物が登場します。戦場でいきなりパン屋になってしまう軍曹(ピーター・フォーク)、フォルクスワーゲンに惚込み隊長のバート・ランカスターに戦時下にフォルクスワーゲンがゴキブリのように繁殖する能力を持っているという理論をとくと聞かせる奴、作家になることを目指す奴、戦場の真っ只中で兵士達に突如美術の講義を始めるキャプテン(パトリック・オニール)、宗教に走る奴(ブルース・ダーン)等次から次へと妙な輩が登場します。要するにこの映画には、通常の戦争映画に登場するようないじわる鬼軍曹であるとか、危険を省みずに敵陣に突撃するヒーローであるとか、敵の一斉砲撃に膝をガクガク震わせる新米兵とかいうようなお約束的なキャラクターは一切登場しないのです。この映画の風変りでカルト的な側面が一番よく出たシーンに、ある隊員(トニー・ビル)が自分で即席に作ったオカリナのような笛を吹いていたのに呼応してあるドイツ軍兵士がフレンドリーに話かけてくるのですが、兵士=パン屋のピーター・フォークがいきなりこのドイツ兵を殺してしまうというシーンがあります。通常考えれば途轍もなく残虐なこのシーンも、この「大反撃」という映画の中にあっては、妙に中性化且つ無機化された印象があります。同様にこの映画の後半部の破壊的な戦闘シーンにも奇妙に中性的且つ無機的な印象が色濃く漂っています。要するにこの映画は、それが破壊的なシーンになればなる程、非現実的中性的無機的な印象がかえって強くなるという通常の戦争映画とはまったく正反対の傾向を有しており、それが私目には何とも魅力的な映画になっています。補足的に言うと、フランスの天才ミシェル・ルグランの手になる音楽が、幻想的であると同時に現実感が極めて希薄なこの映画の雰囲気を一層ひきたたせることに成功しているように思われます。
それからこの映画が分裂症的であるという批評は、全くその通りであると思います。けれどもこれらの批評家達の言うところとは違って、この映画が分裂症的であるというのはかなり意図的なものであり、マイナス要因としてではなくプラス要因として機能しているものと私目は思います。この映画では、プロットの継続性であるとかキャラクターの一貫性ということに対して主眼が置かれているわけではなく、全てのシーンは瞬間的な効果が狙われているのにすぎないように思えます。まさにこれが分裂症的である由縁なのですが、人は小説等を読む時何故継時的な一貫性にこだわるのかが少しは顧慮されてもよいのではないかと思います。何故なら、現実生活においてはある一人の人物の視点から見た場合全ての事柄が一貫性を持って立ち現れてくることなどまずないのであり、逆に言うとそれに一貫性を持たせようとするのが各個人たる主体であるはずだからです。たとえばカフカの小説等が不条理小説と呼ばれるとすると、それは一つには小説というカテゴリーに対して、それは首尾一貫したものでなければならないというコードを読者が意識的であれ無意識的であれ投影するからであると言えます。カフカのような小説が存在し得るとするならば、不条理且つ首尾一貫しない分裂症的な映画が存在していてもおかしくはないでしょう。ところで「大反撃」の中でその分裂症的な側面が視覚的聴覚的に最も顕著に現れるシーンがあります。それは兵士達が連れ立って娼館に行くシーンで、そのシーンでは兵士達が娼館のドアを開けた途端にショッキングピンクのカクテル光線と気違い地味た音楽が容赦なく見る者の眼と耳に飛び込んできます。多かれ少なかれこの映画の全てのシーンには、このシーンのような分裂症的傾向があるのですが、それは最後の戦闘シーンに関しても漏れなくあてはまります。たとえば、ドイツ軍は戦場に消防車を繰り出したり(火を消すのが目的ではなく、はしごを利用して城壁をよじ登ろうとする)、ランカスターの多くの部下がバラに囲まれて戦死したり、城の主のビューティフルな姪かつ嫁が砲弾が雨嵐と降り注ぐ中でうろちょろしていたり、ピーター・フォークは何を思ったか突然パン屋に戻ったりと極めてアンナチュラルなシーンが続出します。確かに兵士がバラに囲まれて戦死したり、奇麗な娘さんが戦場でうろちょろしたりすることは現実には起こり得ることかもしれませんが、それをわざわざ映画で描くというのはまた別の次元の話に属するわけであり、下手をすればその映画の一貫性や信憑性を粉々に砕いてしまうことになるのです。そして、まさにこれこそが「大反撃」の特質であると言っても言い過ぎにはならないと思います。すなわち、その分裂症的な性向をもって一貫性や信憑性を打ち砕くことにより、観客のエモーショナルな参入を除去しようというわけです。これがこの映画の長所であると同時に短所にもなるわけであり、どちらになるかはこの映画を見る人の視点に依存するわけです。従って、それがこの映画を誰にでも薦められるわけではないという理由にも関係するのです。そういうわけで、シュールなカルト映画が好きな人にはこの映画はまさに打ってつけであると言えましょう。
ところで、もしこの映画が気に入ったならば、「泳ぐひと」(1968)というこれもバート・ランカスターが主演している60年代後半の映画が気に入るに違いないということを付け加えておきます。ある意味においてこの映画もシュールな映画であると言えます(ただ分裂症的ではあまりないかもしれません)。「泳ぐひと」は、ある男(バート・ランカスター)の内部的な心象風景と外的な環境の奇妙な一致を通して、日常生活の一断片をそれがグロテスクになる迄あからさまに拡大変形させるという映画であり、なにやらダリ等のシュールな絵を見ているような雰囲気があります(これは視覚的にという意味ではありません)。ただこの映画は、ある人物の心象に関してポジティブな側面からネガティブな側面への段階的な移行が描写されているので、後味は極めて悪いと言わざるを得ません。けれどもこの映画のハンドリングというのは極めて興味深いものがあるので、殊にシュールなカルト映画好きな人には「大反撃」同様打ってつけであるように思われます。
最後にまとめとして付け加えておきますと、「大反撃」という映画は、通常の戦争映画とは全く正反対の傾向を有する、リアリティをミニマイズさせた映画であり、その醸し出す雰囲気はミシェル・ルグランの音楽と相補して非常に幻想的且つ抽象的(この場合の抽象的とは具体性を抜き取られたくらいの意味においてです)且つ無機的なものになっていると言えます。従ってこの映画に関しては内容そのものではなく、その形態的な面において評価がなされるべきものなのではないかと思います。逆説的な言い方をすれば、かなり直感的な映画なのかもしれません。何故ならば、この映画の背後にはたとえば戦争の無益さなどと言うようなメッセージはほとんど横たわってはいないからです。

2000/11/26 by 雷小僧
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