遠すぎた橋 ★☆☆
(A Bridge Too Far)

1977 UK
監督:リチャード・アッテンボロ
出演:ダーク・ボガード、ショーン・コネリー、マイケル・ケイン、ジーン・ハックマン
☆☆☆ 画像はクリックすると拡大します ☆☆☆


<一口プロット解説>
第二次世界大戦中、西ヨーロッパ戦線で敢行された史上最大の空挺(パラシュート)降下作戦であるマーケットガーデン作戦を描く。
<入間洋のコメント>
 パソコンがまだ登場する遥か以前、コンピュータがまだ一般化していなかった頃、「お目出とうございます。あなたは、コンピュータによって選ばれました。」などという今日であればお子ちゃまでも騙されないような迷文句が炸裂するダイレクトメールでネギを背負ったカモを釣っていたリーダーズ・ダイジェストという有名な月刊雑誌がありました。そのネギを背負ったカモの一羽が、コンピュータとは卓上電子計算機の化け物のようなものだろうと当時は思っていたにも関わらず「そうか!泣く子も黙るコンピュータに選ばれたのか」などと悦に入って随喜の涙を流した哀れ私めだったのであり(尤も、哀れなのはおゼゼを出した親かもしれませんが)、記憶に間違いがなければ、この在りし日のリーダーズ・ダイジェスト誌のダイジェスト記事としてコーネリアス・ライアン原作の「遠すぎた橋」を読んだ覚えがあります。現在40才台くらいの人ならば覚えておられることと思いますが、その当時は「決断」という太平洋戦争もののアニメがテレビ放映されていて、椎名誠流に云えば平和をこよなく愛する由緒正しき男の子として戦争ものの本を無闇矢鱈に読んでいた頃であり、カッコよく戦争の話をするのが男の子の義務でもありました。現在でも存在する雑誌「丸」から空母エンタープライズの写真を切り抜いて、ついぞその上で勉強することなどなかった机の上の壁の部分に貼ったりなぞして法悦の境地に浸っていたものでした。また、エポック社の魚雷戦ゲームにうち興じて「敵艦隊ノ旗艦ヲ撃沈セリ」などとやっていましたが、コンピュータゲーム全盛の現在から考えてみれば、玉を転がしてグリコのおまけのような船の模型に当てるだけという恐ろしく原始的なシロモノがゲームとして通用していたというのは実にのどかで平和な時代でした。それは別として、「遠すぎた橋」は確かあちらではベストセラーになった本のはずであり、その後映画化され日本でも話題になりました。おゼゼ切れか封切当時映画館で見ることはなかったので、初めて見たのはTV放映であり、確か水野晴郎氏の水曜ロードショーではなかったかと覚えていますが、何やら時系列が完全に混乱しているように見え頭がピーマンになってしまった記憶があります。しかし、これについては後で触れることとして、まず簡単に「遠すぎた橋」の舞台について簡単に述べておきましょう。「遠すぎた橋」は、第二次世界大戦の西ヨーロッパ戦線を舞台として、ノルマンディー上陸作戦後連合軍が敢行した大規模な空挺作戦であるマーケットガーデン作戦を題材としています。実際史上最大の空挺降下作戦とも呼ばれており、恐らくその後の歴史でもマーケットガーデン作戦時程の規模で空挺降下作戦が敢行されたことはないのではないでしょうか。そもそも敵の背後を撹乱することが目的の空挺降下作戦は、より大きな作戦の中のほんの一部である場合がほとんどであり、大規模に行なわれることはほとんどないはずです。マーケットガーデン作戦における空挺降下作戦も大きな作戦の一部であるにもかかわらず、この作戦の成否の如何が地上軍の進撃スピードと同程度の意味を持っていたという意味では、恐らくこれ程空挺部隊の役割が大きかった作戦は他にはほとんどないのではないかと思われます。この作戦はヨーロッパ戦線を終結させるのを早めることを目的とした作戦であり、オランダの低地地帯ライン川の支流にかかる5つ(だったかな?)の橋を予め空挺部隊によって確保しておいた上で、地上軍が一気にそれらを駆け抜けるというものでした。危険を冒してまでも敵の前線の背後に空挺師団を降下させ橋を予め確保する理由は、勿論敵に橋を落とされれば地上軍の侵攻スピードが大幅に遅れてしまうからであり、低地地帯のオランダにはかくして越えなければならない橋が数多くあったからです。しかしながら、「A Bridge Too Far」というタイトルが示すように地上軍にとって橋はあまりにも遠すぎたのであり、作戦は結局失敗に終わり、映画からも分るように降下した空挺師団は運がよければ夜陰に乗じて退却するか、運が悪ければたとえ戦死せずともドイツ軍の捕虜になってしまう運命にありました。かつてボードシミュレーションゲームが流行っていた折に、いくつかマーケットガーデン作戦を題材としたボードゲームがありました。降下した空挺師団が持ちこたえている間に地上軍が進撃できるか否かというシチュエーションは、シミュレーションゲームの題材としては打って付けであったということであり、実際の歴史上においては作戦は失敗したけれどもそれを成功させるのがゲーマーの1つの大きな醍醐味であったと言えるかもしれません。

 この空挺作戦に参加した空挺部隊には、かの有名な米軍の101空挺師団と82空挺師団が含まれるとはいえ、この作戦を或る意味で有名にしたのはドイツ軍占領地域の最も奥深くに位置する都市アルンヘムに降下し、四方をドイツ軍に囲まれ孤立無縁の状況で奮闘したジョン・フロスト中佐(アンソニー・ホプキンス)率いる英軍第1空挺師団でした。よくよく考えてみると、連合軍側から見れば失敗した作戦であるマーケットガーデン作戦を扱った本が巷で大きな話題を呼び、またそれを元にしたエンターテイニングな大作映画が製作されたという事実は、それだけを考えて見ると奇妙なところがありますが、実を云えば最終的に負け戦になるか敵の猛攻をしのぎ切って勝ち戦になるかを問わず、周囲を敵に囲まれ孤立しながらも勇戦奮闘した猛者達の記録、すなわちいわば英雄譚戦記ものは、古今東西を問わず結構一般受けするところがあります。たとえば、「バルジ大作戦」(1965)という第二次世界大戦はアルデンヌ高原におけるドイツ軍の最後の反撃を扱った作品に、バストーニュでドイツ軍に包囲されたアメリカ軍が敵の降伏勧告に対して「nuts!」(実際にはもっと際どい放送禁止用語であったそうです)と答えたという有名なエピソードが含まれていましたが、ストーリーとは何の関係もないそのようなエピソードが挿入されているのは、バルジ大作戦を題材とする以上アメリカ軍の勇猛果敢さを象徴する余りにも有名なこのエピソードをオミットすることはできなかったということでしょう。第二次世界大戦を離れても、殊に1960年代にはそのような勇壮且つ時には悲劇的でもある作品が数多く製作されていました。たとえば、義和団の乱を扱った「北京の55日」(1963)、ズールー戦争を扱った「ズール戦争」(1964)、チャールトン・ヘストン演ずるゴードン将軍(チャイニーズ・ゴードン)の殉死を描いた「カーツーム」(1966)或いはそのようなマイナーな例を挙げずとも「アラモ」(1960)が典型的にそのような例として挙げられるでしょう。実はこれらの英雄譚の多くは、より大きな文脈の上から見れば、イギリスを中心とした西ヨーロッパの帝国主義国家或いはアメリカの侵略戦争を神話的な欺瞞韜晦により正当化するようなコノテーションが含まれているとも見做せますが、それを述べるのがこのレビューの主旨ではないのでそれについてはいずれこれらの作品をレビューする折に譲ってここでその詳細を述べたてることは避けることとします。或いはずっと時代を遡って古代に至っても、テルモピレーの地峡地域でペルシアの強大な軍隊を相手に300人という少人数で善戦して玉砕したスパルタ王レオニダスの物語はあまりにも有名であり、「スパルタ総攻撃」(1962)や最近でもこのテーマを扱った劇画調の作品がありました。或いは日本においても、前文で使用した「玉砕」などという修辞的とも云えるような用語が使用されることがありますが、まさにこの語は四面楚歌の絶望的な状況でそれでも降伏せずに勇猛果敢に戦って散っていく様を表現しているわけです。それと同様に、マーケットガーデン作戦のハイライトもまさにアルンヘムに孤立したフロスト中佐のジョンブル魂炸裂する勇戦奮闘にあったと言っても過言ではなく、戦史研究家ならばともかく一般の米英の読書家や映画ファンを対象として、そのような勇壮な武勇伝なしで嬉々としておらが国の負け戦をエンターテインメントの素材としたとはなかなか考え難いところです。

 そのように考えてみると、いかにもイギリス的に渋い或いはイギリス的にエキセントリックな役を演ずることが多かったイギリス出身の俳優兼映画監督リチャード・アッテンボロが、第二次世界大戦で実戦に参加したイギリスのヒーローの一人であるフロスト中佐が活躍するマーケットガーデン作戦を取り上げるのは至極納得できるところですが、ただその意味で捉えると、この超豪華オールスターキャストの戦争映画は、いささか焦点ボケしたところがあるようにも思われます。つまり、オールスター過ぎて全体的にいまいち焦点が拡散し過ぎてしまった印象があり、実際のところフロスト中佐が率いる部隊がアルンヘムで奮闘するシーンはそれ程多くはなく(画像右参照)、何故か蝙蝠傘を持って部隊を指揮する副官が登場するあたりなど、クリーシェ的に下手なイギリス人の自虐的ジョークにしか見えないシーンすらあります。ところで、実は最初にTV放映でこの作品を見た時、由緒正しい少年時代を過ごした私めはマーケットガーデン作戦の概要について良く知っていたにも関わらず、必要以上にストーリーが何が何やら分からない展開になっているような印象がありました。どうにも、時系列がバラバラであるように見えたのですね。その後、再放映やDVD等で見た折にはこの印象はなかったので、気のせいかなとも思っていたところ、インターネットなどを漁っているとどうやら同様な印象を持った人が他にもいることが分かり、もしかすると最初TV放映された折に放映時間の関係等でかなり勝手に編集し直されていたのではないかと現在では個人的に疑っています。まあ確証はありませんが、いずれにせよ当時は放映時間内に収まるようフィルムを勝手にカットすることは日常茶飯事でしたし、ワイドスクリーンも見事にテレビサイズに削られていたのでありそうなことではあります。それは別としても、数箇所に渡り同時進行する戦闘シーンや司令部におけるシーンが互いに切り替わる毎に、これから展開されるシーンがどこで繰り広げられるシーンであるかを示す為の字幕キャプションがわざわざ付けられていることからも分るように、マーケットガーデン作戦の詳細を知らないオーディエンスであれば、殊に初見時はストーリーの展開を追うだけで苦労するのはまず間違いのないところでしょう。また、オールスターキャスト、且つそれらのオールスターの各々がカメオと呼ばれる程わずかでもなく主演と呼ばれる程中心的でもなくほとんど同程度の重み付けにより登場するので、軸となるプロットを把握するのが困難であるが故に一体この映画は何についての映画かがヌエのように曖昧になってしまっているところがあります。勿論前述したアルンヘルムでのフロスト中佐の奮戦に関してもそうですが、その他にもたとえば、部下の多大な犠牲を払ってまでも渡河作戦を強行して橋を奪取したにも関わらず司令部に腰を落ち着けた首脳陣が自分達の都合で進撃を遅らせようとするので怒り狂うロバート・レッドフォード演ずる現場隊長の姿や、総指揮官でありながら作戦が失敗したと分るや否や涼しい顔をして「ワシは常に橋は遠すぎたと思っているよ(I've always thought we tried to go a bridge too far.)」というようなタイトルになっているフレーズを含むセリフをしゃあしゃあとのたまうダーク・ボガード演ずるブラウニング中将の姿には、官僚批判及びその背後にある戦争批判が含まれているように受け取れるにも関わらず、それらが局所的に現れるのでどうしてもピントがずれてしまっているような印象を受けざるを得ないところがあります。その点では、同じ豪華オールスター作品でも「遠すぎた橋」を監督したアッテンボロの監督第一作「素晴らしき戦争」(1969)の方が、第一次世界大戦を題材としたブラックな戦争批判というテーマが作品全体として明瞭に前面に押し出されていました。

 とは云え、この作品はやはり「史上最大の作戦」(1962)を嚆矢とする極めて鳥瞰的な(ここで言う鳥瞰的なという意味に関しては「バルジ大作戦」のレビューで説明しましたのでそちらを参照して下さい)戦争映画の一本であると見做すことができ、多くのエピソードは史実に沿っているようです。従ってたとえばジーン・ハックマン演ずる隊長が率いるポーランド空挺師団の遅延した空挺降下シーンなどストーリーの流れからすればあまり大きな意味があるようには見えませんが、これも史実であることは確かであり、まあ映画としてはいわばハックマンに仕事を作ってあげたようなものかもしれません。しかしながら、悲しいかな、ストーリーが史実にいかに忠実であったとしても、オールスターキャストであるだけにそうは見えないような印象を与えてしまうところがあり、たとえばジーン・ハックマンは何で登場したのかな?などと余計な詮索をされてしまう結果にもなり兼ねません。ということでオーディエンスとしてもかなり捉えどころのない作品と化しているようなところがありますが、裏を返せば鳥瞰的なエンターテインメント作品としてはそれで良いのかもしれません。つまり、この作品は何かについて述べる作品であるというよりも、ヌエのように茫洋としたエンターテインメント作品であると考えた方が良いだろうということです。考えてみれば、このタイプの鳥瞰的な戦争映画はこの「遠すぎた橋」を持って打ち止めになったと見做すことができます。確かに「プライベート・ライアン」(1998)のような戦争大作はこの後も製作されますが、そもそもオールスターではないということは別としても、「プライベート・ライアン」がトム・ハンクス演ずる隊長を中心とした作品であるというように基本的にはフィクション的でミクロなストーリーが展開されるという点では、「史上最大の作戦」系列の鳥瞰的な作品とは大きく異なります。またそもそも、ギャラの高騰もあってかオールスターと呼べる作品自体が「遠すぎた橋」以降は絶滅してしまいます。ロバート・アルトマンの一部の作品はその例外であるかのようにも見えますが、彼の作品は確かにスターが大勢登場してもカメオ役が多く、「遠すぎた橋」のように全てのスターが同程度の資格で登場しているわけではありません。中には将軍としては若すぎるように見えざるを得ないライアン・オニールのような疑問のあるキャスティングも存在するとはいえ(少なくとも老けメイクで誤魔化すくらいはしても良かったのでは?)、現在では考えられないような超豪華なキャストを見て狂喜しない映画ファンはいないでしょう。またジョン・アディスンの音楽も70年代らしくエンターテイニングです。マーケットガーデン作戦が英米の共同作戦であったのと同様に、キャストも英米合同であり、70年代であるにしろ大西洋の両岸からこれだけのスターを一同にかき集めるのは簡単ではなかっただろうなと思わせます。またハーディー・クリューガー、マクシミリアン・シェル、ヴォルフガング・プライスといった英語圏の映画にしばしば出演し、英米でも御馴染みの顔になっているドイツ出身の俳優達がドイツ軍の将校を演じています。彼らは、英語圏の映画ではドイツ軍の将校を演じていても英語を喋っていることが多く、「遠すぎた橋」では当然の如くドイツ語を喋っているのがむしろ新鮮に見えます。とは言いつつも正直云えば、フランス語同様独学でも習得が可能なリーディングであればかなりの程度は理解できても、実戦経験ゼロでドイツ語の会話をヒアリングすることは限りなく不可能に近いとはいえ、まあ内容は何度も見て知っているので字幕はオンにせず何やらアッハ、イッヒ喋っとるなと思いながら見ていました。セリフのある俳優として紅一点、リブ・ウルマンが出演していますが、ノルウェー出身(生まれは戦争直前の日本の東京のようですが)でスウェーデン映画への出演が多いにも関わらずガルボやバーグマンのような華々しさがなく少なくとも英語圏の作品においては極めて地味な印象が強い彼女は、この作品でもローレンス・オリビエとともにかなり地味な役を演じており、この作品がド派手なキャストで浮き上がるのを落ち着かせる役割を果たしているように見えます(通常はこの手の戦争映画で紅一点で出演すると娼婦役というお鉢が廻ってくるのが定番です、と言うとさすがに少しオーバーかな)。

2008/02/22 by Hiroshi Iruma
ホーム:http://www.asahi-net.or.jp/~hj7h-tkhs/jap_actress.htm
メール::hj7h-tkhs@asahi-net.or.jp