卑怯者の勲章 ★★☆
(The Americanization of Emily)

1964 US
監督:アーサー・ヒラー
出演:ジェームズ・ガーナー、ジュリー・アンドリュース、メルビン・ダグラス



<一口プロット解説>
あるアメリカ海軍広報部のお偉方(メルビン・ダグラス)は、ノルマンディー上陸作戦を目前にして、最初にオマハビーチ(上陸地の暗号名)で戦死するのは海兵隊員でなければならないという妄想に取り憑かれ、最初に戦死する海兵隊員をフィルムに収める撮影班にジェームズ・ガーナー達を指名する。
<雷小僧のコメント>
シナリオ担当のパディ・チャイエフスキーという人は、社会問題をグロテスクに誇張しブラックに告発するのを得意としていて、たとえば「ホスピタル」(1971)や「ネットワーク」(1976)というような問題作のシナリオを担当した人ですが、その二作以前のこの作品でも彼のそういう特徴がよく出ているように思われます。何せ、第二次世界大戦中のノルマンディー上陸作戦で、最初に戦死する海兵隊員の姿を捉えたプロモーションビデオを作成したいというアイデアに取り憑かれた海軍広報部のお偉方(メルビン・ダグラス)が、実際にジェームズ・ガーナー達を撮影班として現場(つまり戦場)に送り込むという、随分と奇妙奇天烈なストーリーなのです。軍隊というおよそマスメディアとは関係なさそうな組織においてまでも宣伝の為に英雄的な死を奉りあげ、名誉と栄光という神話を広告に利用してしまおうというようなブラックなストーリー展開を通してコマーシャリズム批判がなされていることをここに読み取ることは容易なのですが、チャイエフスキーという人はそこに留まらないのです。大袈裟な言い方をすると、この人は返す刀で名誉と栄光という神話までをも無益な神話としてバサリと切ってしまうのです。この映画はイギリスが舞台になっていて、物質的な利益よりも名誉と栄光を重んじる騎士道精神を優先させる伝統を持つイギリス人(ジュリー・アンドリュースがそういうイギリスを代表していると言えましょう)と、名誉と栄光などというものの存在そのものを否定し物質的功利主義の権化のように振舞うアメリカ人(ジェームズ・ガーナーがその代表であると言えるでしょう)、及び名誉と栄光をコマーシャリズムに利用しようとするアメリカ人の将校達(メルビン・ダグラスやジェームズ・コバーン)の織り成す奇想天外なストーリーであると言えます。そういうわけで、この映画は、コメディなのかシリアスドラマなのかはたまたシドニー・ルメットの映画のように社会派ドラマなのかが判然とはしないような映画で、そのような特徴は同じくアーサー・ヒラー(監督)+パディ・チャイエフスキー(シナリオ)というコンビで製作された「ホスピタル」とよく似ていると言えるでしょう。
さてこの映画の原題なのですが、これは「エミリーのアメリカ化」というような意味で、既にこのタイトルに何やらこの映画の辛辣な側面が感じられるのですね(エミリーとは、この映画の準主演の一人ジュリー・アンドリュース演ずるイギリス人女性士官のことです)。というのは、自分にアサインされたジョブ(すなわちノルマンディー上陸作戦の先鋒部隊と同行して最初に戦死する海兵隊員をフィルムにおさめるというジョブ)から免れるトリックについて雨の中でとくと語るジェームズ・ガーナーを彼女が揶揄するシーンからも分かるように、彼女はイギリス人らしく名誉と栄光というような美徳を尊重しているのですが、その彼女が物質的功利主義の権化のようなジェームズ・ガーナーによってアメリカナイズされてしまうという、前段の説明で用いた表現を用いれば返す刀で名誉と栄光という神話をバサリと切ってしまう部分がタイトル化されているからです(これに対して「卑怯者の勲章」という邦題は、メルビン・ダグラスやジェームズ・コバーンに撮影の為に無理矢理戦場に連れて行かれたジェームズ・ガーナーが、敵の砲火を前にして死んだふりをしているのをコバーン達が撮影して英雄に奉りあげるのですが、実は生きていたことが判明し、その彼をコバーン達が再び宣伝目的で表彰しようとする(従って卑怯者の勲章ということになるわけです)ストーリー展開によって表現されるコマーシャリズム批判的な部分が取り上げられていることになります)。ジュリー・アンドリュース演ずるエミリーが、皮肉にもイギリス的な騎士道精神に則って事の真相をぶちまけようとするジェームズ・ガーナーを押し留めて、彼を英雄として表彰しようとするジェームズ・コバーン達の企みに従うように彼にアドバイスする最後のシーンにより、この映画の原タイトルが示す「エミリーのアメリカ化」が完成されたことが分かるのですが、ある意味で彼女が名誉と栄光(ジェームズ・ガーナーの名誉の戦死)よりも卑怯者(というよりも臆病者)のように振舞ったジェームズ・ガーナーが生きているという事実の方を選択するのは、メルビン・ダグラスやジェームズ・コバーン達のこれまたアメリカ的なコマーシャリズムを通してグロテスクに変形誇張された名誉と栄光という神話の奇怪さによって、実は名誉と栄光という神話の本質的な側面が誇張的に暴露されたからであると言ってもよいのかもしれません。
ところでアメリカの戦争映画とイギリスの戦争映画を見比べると、結構後者の映画というのは名誉と栄光或は騎士道精神という側面がたとえそれに疑問符を打つことが目的であったとしても前面に出てくることが多いように思われます。たとえば、海戦映画なのですが「ビスマルク号を撃沈せよ!」(1960)やそのレビューで言及した「戦艦シュペー号の最後」(1956)などがそのいい例でしょう。また、有名なデビッド・リーンの「戦場にかける橋」(1957)などもまさに名誉と栄光を信奉するイギリス人将校アレック・ギネスとアメリカ的功利主義の権化のようなウイリアム・ホールデンの対峙を通して(この映画は、アレック・ギネス(イギリス)Versus早川雪舟(日本)の映画というよりは、アレック・ギネス(イギリス)Versusウイリアム・ホールデン(アメリカ)の映画と見做すべきであると私目は考えています)、「卑怯者の勲章」と似たようなシチュエーションが、それよりもずっとシリアスな調子で描かれています。「戦場にかける橋」も結局最後のシーンで丘の上から同士討ちの一部始終を見ていたジェームズ・ドナルドが「madness」と叫ぶように、何の為の名誉と栄光であったのかに関して大きな疑問符が付くわけですが、「卑怯者の勲章」のようにパロディ的な茶化した仕方でそれが行われるわけではありませんし、上辺だけにしろ信用の失墜した名誉と栄光の代わりにアメリカ的功利主義を立てようとしているわけでもありません。この違いは「戦場にかける橋」の方は戦争そのものの無益さを訴えることがその目的であったように思われるのに対し、「卑怯者の勲章」の方は戦争そのものが主題であるわけではないというところから出来(しゅったい)するのかもしれません。いずれにしても、イギリス映画の中では、名誉と栄光というテーマがシリアスに見え隠れしているケースが多いのですが、アメリカの戦争映画にはあまりそういうテーマは出てこないか、或はまたこの「卑怯者の勲章」のように一種パロディ的な対象になっていたりします。
それからコマーシャリズム批判的側面に関してですが、アメリカの映画には時々軍隊の広報部が出てくる映画があって、今思い出せるところではこの映画や「Z旗あげて」(1957)などがありました。これは恐らく他の国の映画ではほとんど有り得ないように思われるのですが(と私目が思っているだけかもしれませんが)、それは大体において軍隊とは広報活動の対象となるようなものであるとは余り考えられてはいないが故であると思います。けれどもアメリカはそういうものまでをも広報活動として取り上げるばかりか(その位ならば他国でもやっているかもしれません)、それを映画の舞台にまでしてしまうのですね。またこの映画では、お偉方達の自己顕示の1つの手段としての広報活動によって、名誉と栄光というような本来絶対に宣伝によってはクリエート出来ないはずであるようなものが擬似的にクリエートされる様子がパロディ的に描かれるのですが、このあたりは何やらボードリヤールの「シミュレーション」という概念を彷彿させるところがあり、広告の持つ擬似リアリティの本質の1つが、リアリティの境界を擬似リアリティによってなし崩しにし、まさにリアリティと擬似リアリティの区別を取っ払ってしまうところにあるということがこの映画によってよく分かるような気がします。要するに大袈裟な言い方をすると、広告によってクリエートされた擬似リアリティがリアリティとなってしまうようなそういう鏡の国のような世界に我々は住んでいるということにこの映画は気が付かせてくれるわけです。ジェームズ・コバーン達が製作したノルマンディー上陸作戦で最初に戦死する兵士の映像(実は死んだふりをするジェームズ・ガーナーなのですが)がライフ誌の表紙を飾り、また生きていると判明したガーナーにメダルが授与される時、本人達を除いては誰も彼が卑怯者(臆病者)であるとは思わないわけであり、この擬似イベントがやがてはリアルなイベントになってしまう様子を描写することを通してコマーシャリズムの持つ本質的なパワーの暴露及びそのパロディ的な批判をすることがこの映画の1つの目的としてあったのではないかと思われます。この点においてこの映画は、同じチャイエフスキーのシナリオで社会派監督シドニー・ルメットが監督した名作「ネットワーク」に似ているような印象があるとも言えます。
最後に付け加えておきますと、この映画は最後のミュージカル大スターとも言うべきジュリー・アンドリュースの最初期の出演作品であり、なかなか初々しい印象があります。元々彼女は、絶世の美人タイプの女優さんではないように思われるのですが(いやそんなことはない絶世の美女だと思う人も勿論いるかもしれませんが)、この映画では大作ミュージカルでの彼女よりも何かチャーミングに見えるところがありますね。彼女のファン必見の作品であるかもしれません。それからジェームズ・ガーナーとジェームズ・コバーンはこの前年の大作戦争映画(というよりもアクション映画という方が正解かもしれませんが)「大脱走」(1963)にも揃って出演していましたが、この「卑怯者の勲章」でも半分コミカルな調子で彼らの特徴がよく出た好演をしているように思います。

2001/04/01 by 雷小僧
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