36時間 ★★☆
(36 Hours)

1964 US
監督:ジョージ・シートン
出演:ジェームズ・ガーナー、ロッド・テイラー、エバ・マリー・セイント、ウエルナー・ピータース

左:エバ・マリー・セイント、中:ロッド・テイラー、右:ジェームズ・ガーナー

外部の環境を人為的に操作することによりどの程度まで人を騙せるか、という一種の思考実験が展開される風変わりな作品です。ストーリーはかなり突拍子のないものであり、ノルマンディ上陸作戦前夜、ドイツ軍は連合軍の上陸予定地点に関する情報が喉から手が出るほど欲しかったという背景のもとに、中立国ポルトガルでスパイ活動をしていた主人公(ジェームズ・ガーナー)をドイツ軍が捕らえ、睡眠薬で眠らせている間にアメリカ軍の医療施設に見せかけた施設に連行し、既に戦争は終わり5年以上が経過したと思わせ、ドイツ軍の担当責任者(ロッド・テイラー)が、連合軍の上陸予定地点及び部隊配置を彼の口から聞き出そうとします。36時間とは、連合軍がノルマンディ上陸作戦を実行に移すまでの猶予期間であり、すなわちドイツ軍がその時間内に情報を聞き出さなければならないタイムリミットなのです。信じがたいと言えば信じがたいストーリーですが、つらつら考えていると、「36時間」を更に徹底したような作品が比較的最近公開されていたことを思い出しました。それは、ピーター・ウィアー(奇妙な作品を撮ることが多いので、ピーター・ウィアード(weird)ではないかと個人的に密かに思っています)が監督し、ジム・キャリーが主演した「トゥルーマン・ショー」(1998)であり、この作品ではジム・キャリー演ずる主人公は生まれた時から人為的に操作された環境で暮らしています。「トゥルーマン・ショー」にはマスメディアによる大衆操作批判という観点があり、「36時間」とはハンドリングが若干異なるとはいえ、ストーリー内容は類似しています。「トゥルーマン・ショー」の主人公のように、生れた時から自分の廻りの全ての環境が人為的に操作されていれば、操作されている側にとっては操作されている環境が真の環境であらざるを得ないのであり、いわば現実と虚構の違いを判断する客観的な基準が全く存在しないことになります。「トゥルーマン・ショー」のマスメディアによる大衆操作批判の要点はここにあり、操作される側は、操作されている事実を客観的に判断する基準を徐々に見失っていく点がマスメディアによる大衆操作の問題点なのです。一億総白痴化の最も恐い点は、一億が総てアンポンタンになるというよりも、客観的に状況を把握できる人間が、当のマスメディアのスタッフを含めて誰一人いなくなるところにあると考えられるのではないでしょうか。「36時間」から外れてしまいましたが、「36時間」で興味深いのは、騙されている主人公がその事実に気が付く理由です。睡眠薬で眠らされる直前、彼は地図のへりで指を切ってしまいますが、彼はその傷にふと気が付くのです。つまり、冒頭の何気ないシーンが後から重要になるのです。いかに巧妙に廻りの環境を操作しても、指の引っ掻き傷が5年もそのままであり得るはずはないというたった1つの小さな矛盾の顕現によって、ドイツ軍の全ての努力が水泡に帰してしまうわけです。しかしながら、逆もまた真であり、そのような客観的な判断基準として機能し得る何らかの証拠がなければ、人は簡単に外界の見かけに騙されてしまうのです。それならば、人を完璧に騙すために、そのような客観的な判断基準を完全に抹消してしまうにはどうすれば良いのでしょうか。その問いに対する回答が、「影なき狙撃者」(1962)や「パララックス・ビュー」(1974)にあります。すなわち、外的な環境を操作するのではなく、被験者の内面を操作してしまうのです。これが、いわゆる洗脳(brainwashing)です。マスメディアの大衆操作とは、この内面操作のソフトバージョンであり、その効力は「トゥルーマン・ショー」の主人公に対する外面的な操作よりも、ある意味で遥かに強力であると考えられます。「トゥルーマン・ショー」の主人公は、結局、自分が住む世界のヘリにたどりついて自分が操作されている事実を知りますが、内面操作においてはそのようなヘリは存在しないからです。いずれにせよ、「36時間」においては、彼に洗脳を施すほど時間に余裕はないのであり、そこでドイツ軍は前述したような大芝居を打つわけです。結局、大芝居は大芝居であることが主人公にバレてしまいますが、機転のきくドイツ軍の担当責任者は、5年の年月を詐称する大芝居よりも遥かに小さな芝居、すなわち時計の針を数時間進ませることによって連合軍が既に上陸したと彼に思わせる単純なトリックによって、最終的には彼の口から情報を引き出すことに成功します。5年を偽る芝居には大きな仕掛けが必要であるのに比べ、数時間を偽る小さな芝居であれば時計という小道具さえあれば十分であり、芝居が芝居である事実が暴露するリスクも幾何級数的に減ります。勿論、通常であれば、それに幾何級数的に比例して見返りも小さくなるはずですが、「36時間」の場合には、通常とは逆の展開になるところに大きな妙味があるのです。しかしながら、かくのごとく苦心して手に入れた情報も、ナチのお偉方の腰巾着であるSS将校(ウエルナー・ピータース)の手によってもみ消されてしまいます。なぜならば、彼が手に入れた情報はナチのお偉方が考えている予想とは全く異なるからです。このSS将校にとっての情報とは、お偉方のお気に召すストーリーとイコールなのであり、それ以外の情報は情報ではないのです。これは笑い事ではなくて、規模こそ違え、会社で彼と同じように振舞っている輩はこの世にたくさんいるのではないでしょうか。というわけで、思考実験としてなかなか興味深い作品ですが、配役が少し気になります。というのも、弛緩した印象を与える主演二人、すなわちジェームズ・ガーナーとロッド・テイラーは、緊張感の持続が必須であるこのたぐいの作品には、向いていないように思われるからです。殊にロッド・テイラーのドイツ軍将校は(さすがにSSではありません)、どうあっても似合いそうにありません。但し、「36時間」はヒューマンドラマとしての側面も持っており、むしろそちら方面で二人は有効に機能しているのは確かです。その点では、またエバ・マリー・セイントが素晴らしい。個人的には、彼女は、「波止場」(1954)、「愛情の花咲く樹」(1957)或いは「北北西に進路を取れ」(1959)などの若い頃よりも、この頃の方が魅力的であったと思っていて、「36時間」でも「北北西に進路を取れ」のイブ・ケンドールほどの派手さすらないけれど、節度のある抑えた彼女らしい魅力が光っています。また、この「36時間」は白黒なので、お顔の皺がさ程目立たないこともあるかもしれません。


2003/03/01 by 雷小僧
(2008/10/24 revised by Hiroshi Iruma)
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