彼女がヘンリー・フォンダの娘であることを知らない映画ファンは、恐らくこの世に存在しないはずです。というよりも、顔立ちを見れば彼女がヘンリー・フォンダの娘であることは一目瞭然であり、似ている度合いは、彼女を見ていると時々、親父さんの顔が二重写しになるほどです。それが彼女にとって幸であるか不幸であるかは、神のみぞ知るところでしょう。デビュー当時は、親の七光りで女優になれたと思われていたその彼女も、百戦錬磨の親父さんより先に2つもオスカーを受賞してしまうという罪なことをしてしまいました。そのせいか、親父さんとは仲が悪いなどとも言われていましたが、「黄昏」(1981)では親子共演を果たし、映画の中で文字通り和解劇を演じていました。70年以降は、反戦運動やテッド・ターナーとの結婚など本業以外でも目立つようになり、むしろ活動家としての女性闘士的なイメージが前面に押し出されるようになります。とはいえ、今では信じがたいところがあれど、60年代の中盤くらいまでは、「女性闘士」というイメージとはまったく反対のうぶな娘を演じることが多かったのも事実です。後年の彼女しか知らないと(そういえば比較的最近の出演作では意地悪婆さんを演じて似合っていました)、彼女にも意外に?可愛らしいところがあったことに驚かされること必定です。また、出演当時彼女の旦那であったロジェ・バディムの「バーバレラ」(1968)でのタイトルロールなどは、70年代の彼女からすればほとんど考えられないものがありました。映画スターとしての彼女の転機は、大恐慌時代のペシミスティックな世相をバックに若者たちがダンスマラソンに熱中する様子を描いたシドニー・ポラックの奇作「ひとりぼっちの青春」(1969)に主演した際に訪れたと考えられ、実際にこの作品で彼女はアカデミー主演女優賞にノミネートされます。70年代はまさに彼女の黄金時代であり、「コールガール」(1971)と「帰郷」(1978)でアカデミー主演女優賞に輝き、また「ジュリア」(1977)と「チャイナ・シンドローム」(1979)でもアカデミー主演賞にノミネートされています。80年代の終盤に一端映画界から引退したかのような素振りを見せますが、どうやら21世紀に入って復活したようです。二世俳優の典型であるとはいえ、順調にすべり出し期待されていたにも関わらず尻すぼみの泣かず飛ばずに終わってしまった弟のピーター・フォンダとは違って、「ジュリア」で共演したバネッサ・レッドグレーブなどとともに、単なる親の七光り俳優で終わることのなかった数少ない一人であるとも言えるでしょう。 |
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1960
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のっぽ物語
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1977
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ジュリア
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1964
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ニューヨークの休日
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1978
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帰郷
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1965
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キャット・バルー
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1978
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カリフォルニア・スイート
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1966
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水曜ならいいわ
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1979
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チャイナ・シンドローム
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1967
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夕陽よ急げ
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1980
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9時から5時まで
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1967
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裸足で散歩
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1981
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黄昏
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1968
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バーバレラ
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1985
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アグネス
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1969
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ひとりぼっちの青春
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1986
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モーニング・アフター
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1971
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コールガール
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1989
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アイリスへの手紙
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1977
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おかしな泥棒・ディック&ジェーン
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