日曜日にはTVを消せ 目録


日曜日にはTVを消せ No.2 
★1974年12月15日(日)  
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★ 『夢の島少女』誌上再放送
★ 特別付録「夢の島の少女」コピイ
★ 制作★PHC・TV★豊橋=札幌
★ 提供★混血桃色通信=PHC (豊橋市東小浜町129白井方【当時】・藤田真男)
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 ★夢の島少女への片想い★★★
  『夢の島少女』が放送されてから2ケ月が過ぎ、本誌を出してから1ケ月がたちました。 平々凡々たる毎日で、これといって目新しいこともなく、時間はダイヤ通りに進行しているのに、ぼくはいまだに『夢の島少女』にこだわり続けたいのだ。
  なんか、ぼくとYOYAの二人だけで空騒ぎしてるみたいだけど「すごい、すごい」と百回云っても追っつかないのだから、こうなったらトコトンやる。
  あの75分間は何だったのか? 『夢の島少女』は「もしかすると、あれも」でなく、「もしかすると、これしかない」先端的表現への,もろくておぼろげな架橋であり、銀河鉄道であるかもしれない。
  こんな、ものの云い様は、ぼく自身はがゆくて仕方がない。信用できない。うしろめたい。でも…。

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 唯一、信ずることができるのは、あの感動が、ぼくにとっては不動のものだということ。日常の時間においても、フィクションの時間においても、あのような75分間には、いまだかつて出会ったことがなかった。ホンモノと云っては、かえって遠ざかってしまいそうだ。 すべての時間につき合っていられないのと同様に、我々はTVという、どこまでも膨張を続ける宇宙のように流れっ放しのもうひとつの時間にも、つき合いきれない。追いつけない。TVをみることはすでに消滅した星の光をみているようなものかもしれない。 どこまでいっても<送りっ放し><受けっ放し>、いつまでたっても出会えない。真崎・守ふうに<ひとり遊び>と云ってはカッコつけすぎか。キャッチ・ボールの相手はノッペラボウの冷たいガラスの壁。ぼくが<TV><技術論>と云っているのは、TV放送を支えるシステム(法・資本・国家などの内にある)すべてを指す。ウンザリするような、つかみどころのないシステムだ。  

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  流れっ放しの流れが一瞬停止したようにみえたとき、名前のない海が現れた。ぼくは海に溶け込み、夢の島少女に出会った。 すべてが溶け合い、すべてが輝いていた。
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補足と訂正

▼ 夢の島、じゃなくて《宝島》12月号・p332の読者からの投書にこんなのがある、とYOTAが知らせてくれた。
 「去る10月15日の夜NHK・TVで『夢の島少女』をみて以来、NHK職員としての鈴木志郎康に、あるいは16ミリカメラマンとしての鈴木志郎康に、尊敬の念を抱いています」(国分寺市・小島仁・24)
え?!ホント?と、ぼくもYOTAもおどろいたのだ。わが《混血桃色通信》の前身である《純粋桃色通信》は、そのタイトルを志郎康さんの著者からいただいたりして、あながち本誌と縁がないこともないのだが、ぼくは彼の書いたものは、ほとんど読んだことないし、本職がNHKのカメラマンだということさえ知らなかった。キネマ旬報という雑誌の「われらの映画館」という連載で、彼が記事の他に写真も担当してるのをみて、素人にしちゃウマイもんだ、なんて思ってたのだ。
 YOTAによれば、鈴木志郎康・詩人・本名=鈴木康之。昭和10年生まれ・早大仏文科卒。NHK映画フィルムカメラマンで生計を保つ、とのこと。
  さて、『夢の島少女』のカメラマンが、ホントに鈴木志郎康であったかどうかだ。《TVガイド》および《シナリオ》1月号のTV特集には<撮影・葛城哲郎>とあるのだが…。YOTAもぼくも、感動のあまり、クレジットを読みとるどころではなかったので、真偽のほどは定かではない。仮定としては,カメラマンがもう一人いて、それが鈴木志郎康だったとも考えられる。
 いま一つの仮定は、彼がカメラマンとしてではなく、スタッフに加わっていたとも考えられる。 YOTAが、昔キネマ旬報に投稿してて、今はNHK札幌支局におられる原田隆司さんから、聞いたところでは、クレジットには、多分<鈴木志郎康>名義で、共同脚本者として出たのだろう、とのこと。
 どの説が当っているのか、あるいは、すべて外れているのか、それもよく分からない。だが、鈴木志郎康が、つげ義春のよき理解者であるらしいことを思い起こせば、彼が佐々木昭一郎とつげ義春の世界をつなぐ役を果たしたかもしれないと考えやすい。
  結局、ひどくいいかげんな話で、本当のところは何もわからないんだけど。先号にも、かなりデタラメなことを書き並べたにちがいない。今の内にあやまっておこう。ゴメンゴメン。
 (鈴木志郎康は共同脚本者だった。佐々木さんの証言によれば,彼が関わったのは最初の段階だけだという。鈴木氏の感性は全く佐々木さんの世界とは合わなかったようだ。池田追記

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 テーマ曲はパッヘルベル。バッハにも影響を与えた十七八世紀ドイツの作曲家だそうです。
 クラシック音痴のぼくは,もちろんパッヘルベルなんて知らなかったんだけど。『夢の島少女』のテーマ曲は,以前よく耳にしたようなメロディーに思えた。 が,ドラマをみている内に,何だか初めて聞いたような気がしてきたのはカノン形式のせいだろうか。 とにかく,すぐ耳になじむ曲である。

 で,先日,FM放送をポケーと聞いてたら,これと同じメロディーが流れてきたので,ハッとした。 レイモン・ルフェーヴルでおなじみの「涙のカノン」だった。 フレンチ・ポップス風にアレンジされた,オーケストラ演奏なので,ストリングス演奏による『夢の島少女』に比べると, 原曲から離れているものと思うが,ルフェーヴルのアレンジも,わりにいい。
 オリジナル・スコアのレコードを探してみたが,パッヘルベルのパの字もみつからなかった。
 以前,アメリカのポップ・トップス(?)とかいうグループが取りあげ,それを,ルフェーヴルがオーケストラ用にアレンジしてヒットさせたのが「涙のカノン」として知られるようになったらしい。 マリナ・ブラディとフレデリック・ド・パスカルの仏映画『夫婦』(1969年)の中でも使われているそうだ。

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▼ついでに紹介しておけば,この「涙のカノン」は,CTIレコードの大プロデューサーであるクリード・テイラーが,ドン・セベスキー,デオ・ダートらに次いで世に送り出した, アレンジャー&コンポーザー=ボブ・ジェームスの初のリーダー・アルバム「はげ山の一夜」に「イン・ザ・ガーデン」というタイトル(日本盤は「涙のカノン」)で収められている。
 シングル盤「はげ山の一夜」のB面にも入っている。カントリー・ジャズ風にアレンジされていて,原曲とは,かなり違うようだ。ま,ルフェーヴルの「涙のカノン」を聞いてみましょう。

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▼先号の11ページ。少女がピアノで,ドーシーラーを弾きながら「これ,あたしがみつけたの」というのは,「夢の島の駅」と同様,不可解といえば不可解なセリフなのだが,よくわかる。
 ♪ド〜シ〜ラ〜を「西洋のうた」と云う少女の感性。こんなセリフを生み出す佐々木昭一郎という人は,一体どんな人かと思ってしまう。 YOTAの言を借りれば,少ないセリフの一つ一つすべてが,きわめて印象的であり,例えば神代辰巳監督の語り口なんかよりも,はるかにユニークですばらしいのだ。
 ぼくは,『夢の島少女』の一部をテープに録音したのだが,小夜子と婆ちゃんのやいとりは同時録音らしい。カメラの回る音が入っている。 このことをみても,佐々木昭一郎の<ドキュメンタリイ・ドラマ>の方法がわかる。
 すなわち,<一回性>の中で,生の人間の息づかい,語り口,感性,などを,ドラマにすくい上げようとしているのだ。 だから「これしかない」のであり,だからすばらしいのだ。

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▼『紅い花』→『夢の島少女』というのは,ぼくの独断的こじつけにすぎないかもしれないが,更にこじつければ,『マザー』のラストの海は, YOTAのいう,ジョン・レノンの『マザー』のラストの海は,YOTAのいう,ジョン・レノンの「マザー」ーやっぱりこじつけだねェーにおける<新たな母性> (《混血桃色通信》第3次・第1号)ともつながり得るかもしれない。

 『さすらい』の方は,ドラマの形としても『マザー』を拡大したものなので,ラストの海は<新たな大家族>といえるのかもしれない。 すなわち,<あらかじめ失われた大家族>との出会いである。

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▼『さすらい』が「イージー・ライダーのバラード」をテーマ曲としているのは,考えてみれば,あの唄は♪河は流れて海へ出るーと唄われているのだから,『さすらい』とピッタリ重なるわけだ。 ピーター・フォンダが,擬似的な<家><故郷><母性>を振り切って行ったことを,もう一度,思い出してもらいたい。 そして,ラストに「イージー・ライダーのバラード」が流れるわけだが,初めピーター・フォンダは,ボブ・ディランの「イッツ・オールライト・マ」を終曲として使うつもりだったという。 ディランの意見でこの二曲の順序は逆になった。いかにも,ディランらしい考えだと思う。
 『イージー・ライダー』の裏返しが『さすらい』だともいえる。といっても,それは,ネガとポジというような比較においてではない。そもそも出発点がちがうのだろう。 フォンダは,時計を捨てて旅に出るが,ひろしは,初めから時計など持っていない。 したがって,到着点も微妙にズレているのだ。

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▼後から思い出したけど,『夢の島少女』には,小夜子の母らしい人もいたようだった。 それとも婆ちゃんだったのかな。過去。少女が就職のため上京する日の早朝。母(?)が病気で床についている。 少女に駅までついて行ってやれなくてすまないね−とわびを云う。 少女が帰郷した時には,婆ちゃんしかいない。(池田註:22年後の再放送で確認したところ,母は出て来ませんでした。婆ちゃんだけですね。婆ちゃんは小夜子に「小夜子,お前は可哀想な子だ。父ちゃんも母ちゃんもお前を捨ててった」と言います
 婆ちゃんをやった人の本名は,菊地とよ。少女に姓はないのでフル・ネームをデッチ上げれば菊地小夜子=キクチ・サヨコ。もちろん,これは考えすぎ。

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▼佐々木昭一郎のラジオ・ドラマ『コメット・イケヤ』について,YOTAがくわしいことを知らせてくれた。以下,YOTAの手紙から。

 『コメット・イケヤ』は聞いてた!1966年というと,僕は中学3年で,やたら,ラジオドラマが好きだったので,よく聞いてた。
 『コメット・イケヤ』は,寺山修司脚本であり,最近まとめられた寺山修司のラジオ・ドラマ脚本集があり,それに採録されているはずと思う。今その書名がわからない。 NHK・FMのステレオ・システムをフルに活用して話題になったと記憶する。(家にはスピーカーが1台しかなく,ステレオ効果までは不明なり)
 『夢の島少女』のデリケートな録音も,当時から心がけられていたものの成果だろう。 『コメット・イケヤ』にも全盲の少女が出て来て,もの静かなドラマであった。微妙な録音をしていたようだ。
 タイトルは,イケヤ・セキ彗星にちなんだものだけれど,発明発見物語とは,おおちがいのドラマだった。 『コメット・イケヤ』は,最近,ラジオ(FM)で再放送されたはず。
 『コメット・イケヤ』は,<空><星>の話だし,佐々木昭一郎作品には,「空間へ」「無限に,膨張してゆく空間と時間」を感じることができるような気がする・・・。その内で,ふたりはとまっている。
  (『コメット・イケヤ』には,ふたつの中心点がある。世界は円環だと認識している全盲の少女と,浜松のピアノ工場で鍵盤を作る池谷少年である。脚本の寺山修司と音楽の湯浅穣二と佐々木さんの合作で,佐々木さん自身は俳優の「演技」にイラだったようで,背景の「音」にすべてをこめたと言っていた。『夢の島少女』当時の佐々木さん自身の評価は低かった。池田追記

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▼YOTAは『マザー』『さすらい』は見ていないとのこと。ぼくは『コメット・イケヤ』は多分,聞いていないはず。 話題になったことだけ記憶しているような気がする。
 なお,『音と沈黙のドラマ』という,ラジオ・ドラマを集めたアルバムが,コロムビア・レコードから出ていて,その中に,寺山脚本の『狼少年』というのも収められているとのこと。
 『コメット・イケヤ』の収められた脚本集のタイトル・出版社を知っている人がいたら,御一報下さい。
 (『コメット・イケヤ』のレコードはあるが,市販されていない。脚本は思潮社。池田追記

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▼この前紹介した,友川かずきの「生きているって言ってみろ」というレコードは,荒井由実でおなじみの,東芝エキスプレスから出ています。 バックをダウン・タウン・ブギ・ウギ・バンドという,目下,一部で注目を集めているグループが担当。
 遠藤賢治の「カレーライス」は,ポリドール。 B面「満足できるかな」のバックを,ユーミンのアルバムでおなじみの元キャラメル・ママ(はっぴいえんど)のメンバーが担当。

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▼ユーミンの「私のフランソワーズ」を聞いてると,ぼくも,「ぼくの小夜子」問いうような唄が作れたらなァ,なんて思ってしまう。 「私のフランソワーズ」は,フランソワーズ・アルディへの片想い(?!)を唄った曲です。

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▼小夜子が海をみつめながら,口ずさんだ唄のタイトルは,「マイ・ボニー」だった。YOTAは,昔,英語の時間に習ったそうだ。

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▼「シナリオ」1975年1月号によれば,『マザー』『さすらい』ともに,『夢の島少女』と同じ葛城哲郎カメラマンが撮影していたようだ。 なお,佐々木昭一郎のエッセイには『さすらい』のスタッフとして,妹尾新カメラマンの名がみえる。 カメラマンは複数なのか。いずれにしろ,佐々木作品のスタッフは,むしろ,プロジェクト・チームといった方がふさわしいように想像される。

 つまり,<作家>の<表現>にとらわれないということであり,したがって,前回述べた,逆説的な敵対関係が生み出す運動の軌跡そのもの ーそれを出会いの一回性といいかえてもいいだろうーが,佐々木昭一郎のTVドラマであり,方法であろうと思う。

 先号の記事についての補足・訂正は,大体こんなところです。
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<さすらい>の世界  佐々木昭一郎
     昭和49年3月29日 読売新聞 

      ディスコミ地獄 
 
 「放送という言葉に返り点を加えれば,送りっ放しと読める」と短い忠告を与えられてこの世界に飛び込んでからもう十年以上だった。
 放送も含めて,いわゆるマスコミはすべてこの片側伝達の病を引きずり続けている。
 もう十年も昔の映画で,フェリーニの『甘い生活』という傑作をみた。 一人のジャーナリストが主人公で,彼は雑多な取材記事を毎日同じように適当な媚びと,横柄な啓発とで複製化しているうちに, マスコミュニケートすべき大衆はおろか,ミニコミュニケートするはずのたった一人の妻とさえ コミュニケーション不能の状態に陥り,ラストショットの無菌状態のような一人の少女の微笑にも救済されないという, ディスコミ地獄を描いたものであった。
 十年前のヨーロッパのラジオドラマや小説にはこうしたマスコミ人間のディスコミをテーマにした作品が多く見られた。 その警鐘の余韻は日本のそれとも無縁ではなかったはずである。 一方チェコスロバキアには<電話緊急本部>という名の声の話し相手が公設されている。 心を病む孤独な人間が話し相手を求めて聞き役の相談員に長い電話をかけてくるのである。十年後の今,マスコミ人間ではない人々までが病みはじめて来たのである。 日本の深夜放送のテレフォン・リクエストや友人コーナーに見る明るさと比較すればそれは暗い。 しかしこの病もまた,日本とは無縁ではないはずなのである。

       個が生み出す世界

 フェリーニ『甘い生活』は,そのいずれをも含んだ予感のドラマとして,鮮明に記憶している。 しかし,フェリーニが描き出したのはマスコミ論などとはほど遠い,人間と人間のかかわりあいを探り当てようとするメタフィジックな彼個人の世界なのである。 それは大思想家が大論文を書きおろす世界観などという大げさなものではなく,言葉で言えば自分から背広をとって,シャツをとり, そしてすべてをとったとしたら,一体最後に何が残るか,という感覚的な表現を用いればわかりやすいだろう。 彼は複眼の眼でマスコミ人間の現実を見,同時にカメラをのぞく片目で全く別の世界を想像していたに違いないと私は思う。 なぜこうくどくどとフェリーニの世界について書き立てたかと言うと,フェリーニにははるか及ばないにしても, われわれスタッフが<さすらい>というテレビをつくった際確認し合った論理のワクから解放された自由な感覚の世界がそこにあったからである。 しかもその世界とは,マスが生み出すものではなく,あくまで個であったからなのである。

       感覚で伝える現代

 撮影中,スタッフの一人である妹尾カメラマンがこんな言葉を吐いたことがあった。 「デカルトが今日生きていたら映画で方法序説を書いたであろうという言葉があるが,もし彼が七○年代に生きていたら,恐らくテレビで哲学を語ったに違いない」。 事実テレビは現代を感覚で伝える媒体だし,伝わり方は世代を越え,国境を越える。 デカルトならずとも,もし「屋根裏の散歩者」を書いたころの青年江戸川乱歩が今日生きたいたなら,きっとテレビで活躍していたに違いないと,と私は思う。江戸川乱歩があのノゾキからくりの向う側に想像した世界, そしてそこに現実の人間が徘徊しはじめる様相はそのままわれわれスタッフが昨年制作した<さすらい>の主人公ヒロシが,窓の向こう側に無想した人々との出会いのイメージへとつながっている。 そしてそれは,現代人が狭い住宅の窓外に見る殺風景な,あるはずのないロビンソン・クルーソーの島やケンジントン公園への徘徊の回路へと変形させる。 人と物との関係が,ますますその色を濃くしているこの現代に,こうしたあるはずのない場所,いるはずのない人を捜そうとする空想は, だれしも意識の奥底に秘めて持っている世界である。

        テレビの向こう側

 <さすらい>とは実生活者の内にある世界であり,人は現実生活とその世界の往路の中で確実に息づいている。 われわれ<さすらい>スタッフは,ケンジントン公園の代わりに現実の土地で,俳優の代わりに現実の人々を机上プランではない即興的想像力で出会わせることを心がけた。 一回性でしかとらえられない出会いの一瞬のきらめき,そこでかわされる,さり気ない言葉,人が確実に生きているという息づかい, それらをすくいあげることが,われわれの最大の目的であった。 それはカメラとの出会いであり,われわれスタッフとの出会いでもあった。 こうした,われわれの感覚が,どう伝わったか ーそれは,窓の向こうに,つまりノゾキからくりの向こう側に,想像する世界を持っている視聴者だけに伝わる感覚だと思うし, 作品の評価は,受賞の当落とは無関係に下されているものと考えている。
 テレビは窓である。そして窓の向こう側は風景ではなく,世界であるべきはずである。

  (NHKテレビディレクター・四十六年度芸術選奨新人賞受賞)
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  佐々木昭一郎の二つの文章

 ТVというメディアの性質上ТV<作家>の言葉が,我々の目や耳にふれることは,ほとんどないし,また,それでいいのだと思う。 それではいけないノダ,と思っているらしい人も少なくないようだが …例えば『キャロル』をとり巻く人々,『6羽のかもめ』なんてのを作っている人々。
  それはさておき,先日,本屋さんで「シナリオ」1月号を開いてみてたら,「テレビ事件簿」という特集があり,その中に,佐々木昭一郎のエッセイもあったので, 即,いや480円はイタイな,と迷った後,金を払って買って,下宿へ戻った。
  すると,サッポロのKENこと高村賢治氏からのお便りが届いていて,開けてみたところ, 中から出てきたのが,前ページに掲げた,佐々木昭一郎の三年近く昔のエッセイであった。昭和47年3月29日付「読売新聞」からのコピイである。
  YOTAのように,8年前のラジオ・ドラマを覚えている人がいるかと思えば,こんな古い新聞記事を見つけ出して送ってくれる人がいて, まァ,世の中は広いものだ。 おまけに,KENさん,かんじんの『さすらい』は見てないそうだ。とにかく,ありがとう。

 というわけで,ぼくは,いっぺんに佐々木昭一郎の二つの文章を目にすることができ,それをコピイして, みんなにも読んでもらえるわけなのだ。
 この二つの文章について,ぼくが,口をはさんだりする必要はないだろう。

 「放送という言葉に返り点を加えれば,送りっ放しと読める」と短い忠告を与えられてこの世界に飛び込んでからもう十年以上たった。
 放送も含めて,いわゆるマスコミはすべてこの片側伝達を引きずり続けている。
  ―― という書き出しと,結びの文が,彼のТVに対する考え方をよく物語っていると思う。

 それから,『さすらい』の一コマの写真があって,ひろしが出会った少女がやはり栗田裕美(ひろみ)であったようだ。

 あるはずのない場所,いるはずのない人を捜そうとする空想は,だれしも意識の奥底に秘めて持っている世界である。
  ―― という,佐々木昭一郎のモチーフは,三年後の『夢の島少女』へ受け継がれているようだ。 カメラとの出会い ―― それも『マザー』以来,一貫している。

 この目まぐるしい世の中で,一つの方法を追い求め続けているのだから,またおどろきである。 五年間に,わずか三本のТVドラマ。 だが,佐々木昭一郎の世界は,一本日本と数えられる<番組>でも<作品>でもないのだ。それは<出会い>なのだ。 人が人に出会い,カメラが人に出会い,我々はТVに出会うのである。だから<ハロー・グッバイ>でいいのだ。 袖すりあうも他生の縁 ―― 。
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   夢の島の少女    佐々木昭一郎
      「シナリオ」1975年1月号より
       pp.21-25

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 今号より。ТVに関する(関係ないことも)なんだかんだと雑多な事柄を取り上げてゆくための連載のページを設けます。リレー連載にすることも考えているので,いずれはみんなにも何か書いてもらいたい。題して…
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   OFF & ON = <連載 第1回> 
= 続★現代歌情★ТV版 時計じかけの青い果実 <Strange Orange> ==

  昭和49年,我々とТVの状況と『夢の島少女』をつき合わせて,その意味するところは何であろうか,というようなことを考えていたら,なぜか,浮かび上がってきたのは,山口百恵ちゃんその人であった。この思いつきは,我ながら,いささか突飛すぎて,はてどォしたものかと考えあぐねていたところ,世の中には,よく出来た人がいるもので,ぼくが云いたかったことを論旨明晰に展開してくれた文章に出くわした。
 NHKが発行している「放送文化」12月号の歌謡曲特集の中の,「含羞の美学の終焉 ―反テレビ的流行歌論」がそれである。論者は,真崎・守「共犯幻想」の原作者である斉藤次郎。
 渋谷に子供センターという調査研究所があり,ぼくはGYAさん(村上知彦氏)と共に,この子供センターでは何度もごやっかいになったのだが,斉藤次郎氏はここの社員でもある。ということで,次郎サンと呼ばせてもらおう。
 
 さて,次郎サンの「反テレビ的流行歌論」であるが,これも全文コピイしたいのは山々だけど,それよりも,みんなにも「放送文化」を一部ずつ買ってもらった方が安くつくのだ。一部150円也。大きな書店に行けば,たいてい書架のスミッコの方に,売れ残っている。書店に見当たらない時は日本放送教会出版部まで直接注文すればよいかと思います。エヌ・エッチ・ケー。
 ぼくは別にNHKのマワシ者ではないので念の為。ピー・エッチ・シー。

 話を元に戻そう。次郎サンの論を要約すれば,これが《混血桃色通信 第3次第1号<続・現代歌情>特集》における,原田泰氏の<「不幸」の歌と「うた」の「不幸」>という名文とみごとにオーバーラップする。 原田氏の文を読みたい人は大きな書店へも行かず,NHKにも注文せず,池田氏に切手を添えて申し込めばよいかと思います。
 斉藤・原田両氏の文を読んでもらえば,ぼくはもう何も云わずに済むので,本稿はこれにて一件落着!というのでは,あまりにもイージーなので,一応,ぼくなりの読み替えをやっておくことにしよう。

  まず,早急に結論から述べれば,今年のТV状況の両極端は「夢の島少女」および「山口百恵」によって示されたといえる。両者ともに,「シナリオ」誌がいうところの「事件簿」に加えられることはないであろう。
  じっさい,この「シナリオ」のТV特集にはウンザリさせられる。田原総一朗と斉藤正治は,数行おきぐらいに,NHKNHKと騒ぎ立て,「彼(『キャロル』の龍村仁)の表現が常に突出しているために,表現に対して保守的なNHKはなじめないでいるのだ」「それにしても組織は突出した表現にはビビル,ビビル…」と,鬼の首でもとったみたいに,はやしたてている斉藤はオメデタイの一語に尽きる。斉藤に限らず,<突出した>映画人には,えてしてこうした<表現>に対する妄信,ТVに対する<ないものねだり>と無知が甚だしい。こういう連中に対する<弾圧>は,すでに佐々木守がキネマ旬報の連載(580〜602号)において実施ずみなので,ここではくり返さない。
 「シナリオ」の特集中,鳥山拡の指摘だけが,<事件>の本質に近づいている。すなわち,「暗転の時代の"テレビ事件簿"は,事件にならない事件」の側で起こったのであり,「要は,テレビの事件簿は,昭和50年代にむかって,有形無形の事件の流れのなかで,日常化し,平易な意味のなかに沈潜して発生する確かさなのである」

 鳥山拡の文の内,『夢の島少女』に関する部分は,佐々木昭一郎のエッセイと共にコピイして本誌に付けておくので,そちらにも目を通して下さい。

 鳥山や斉藤がふれている,NHKのドキュメンタリー『海鳴り』(龍村仁)− 完成フィルムを半分にカットされて放送された ― は,ぼくも昔みているが,この際,関係ない。ただ,これだけは云っておこう。『キャロル』にしても同様だが,カットされたフィルムが<突出した表現>だなどと思い込むのは,とんでもないトチ狂いだ。また,ドキュメンタリー番組のワクだろうと,音楽番組のワクだろうと,放送された以上,それはТVとして完成されたのである。放送される番組は,佐々木守のいうように<すべてよし>なのだ。つまらない,面白くない番組はあっても,<よくない>番組なんてあり得ないのである。ТV批評の成立しない理由はここにある。したがって,ぼくは『キャロル』その他すべてのТVを批判はしない。
 斉藤のあやまちは,ТVにおいて<よくない番組>を作ることが,つまり<突出した表現>とやらが,NHKに対する<闘い>だとシアワセにも信じ込んでいる点にある。
 ぼくの云う<よくない>とは,例の<ワースト>のことではない。<ワースト番組>だろうと何だろうと,ТVシステムの中にあるからには<よし>なのである。

 もうこれぐらいにしておこう。堂々巡りにすぎない。『キャロル』事件の周りで無駄な抵抗を続ける人々,龍村仁をかつぎ上げた人々−小野耕世・白井佳夫・斉藤正治・松田政男その他<心やさしい>人々に幸あれ!
 誤解されるといやなので付け加えておくと,ぼくは佐々木守という人も好きではないし,エンタテイナーとしてさえ,二流だと思っている。三流でないのが惜しいところだ。 だが,彼のТVに対する考え方は,全面的に正しい。正しすぎるほどに。
 キネ旬の彼の連載のタイトルが「テレビをおもしろく視るために」というものであったことの内には,ТVを<すべてよし>とする,彼の居直った視点が含まれている。<ないものねだり>の闘いが全く無効であるから,居直っているのだろう。彼の述べていることは彼自身が云うように「何人といえども否定することはできないはずである」。そこには,当然のことが,あたりまえに述べられている。その,あたりまえのことがわかっていない人々が,ТV界の中にさえ多すぎるのだ。
 そういう人々が集まって作られたのが,『6羽のかもめ』(フジテレビ)というТVドラマである。

  『6羽のかもめ』は,『キャロル』を取り巻く人々ほど<突出>はしていないものの,<心ある>ТVシナリオ・ライター倉本聡と,彼に代表されるところの<よい番組> −それは<よくない番組>を仮設した上で,それに対置する<よい番組>があり得るという,これまた<ないものねだり>から出た発想だ − を作るべきだと思い続けているТVマンたちの意識のより処が端的に表れた(表現されたではない)ТVドラマである。
  これは,ТV芸能界の<現場>でのお話である。某ТV局の舞台裏での悲喜こもごもがドラマとして描かれている。ТVマンの日頃のウップンや苦悩(?)がうかがえるとして評価する人がいるようだが,こんなもので<既成>のТVを変革したり,何かを<表現>できると思ったら大ちがいだ。なぜなら,ТVは<既成>というより,<未成>であり続けているからだ。ハリウッドの内幕映画ほどにも何も生み出しはしない。
 毎回,エンド・タイトルに,<素顔>の出演者の<日常>―例えば,セーラー服の栗田ひろみが,電車で通学している姿― を写しとったフィルムが流れるのをみれば,スタッフの考えていることはよくわかる。このようにしてТVは作られているのです,ということだろう。
 ぼくは,もちろんこの<番組>をも批判はしない。ただ,スタッフが,みじめったらしく思えるだけだ。 このような,露悪ならぬ露善(?!)的なТVドラマが,これまでになかったことはたしかだ。

  では,このドラマの<新しさ>は,どこにあるのか? それは,一言でいえば,ТVドラマまでもが<ТV化>してしまったという,言語撞着的な現象であり,ある種の退行,<ТV>の<不幸>であろう。

  さて,以上長々と述べてきたことは,単なる脱線および前置きで,ここから,ようやく本題に入ることができる。 タイトルの<青い果実>山口百恵ちゃんを,すっかり待たせてしまった。あらかじめ云っておけば,『6羽のかもめ』を持ち出したのは,このТVドラマの<新しさ>の背景には,山口百恵の<新しさ>と一脈通じるものがあると思うからである。

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 さっきは,いささかヒステリックで,ぼく自身もウップン晴しみたいな調子で書いてしまった。もう一度,冷静にみてみよう。
 まず『海鳴り』だが,もちろんぼくは"幸運"にも一時間の完成フィルムをみたという斉藤正治とはちがって,"不幸"にも,30分にカットされた放送番組としてみたのである。
 だが,ТV番組とは,放送されて初めてТV番組となるのであるから,斉藤は,ТVについて語ることはできないはずである。ТV番組としての『海鳴り』を,あえて批評することができるとすれば,その資格は,まぎれもなく,この番組をみた,ぼくの方にある。
 そのことは,佐々木昭一郎の三年前のエッセイの,最後の12行によっても裏付けられていると思う。彼が「受賞の当落とは無関係に」というのは,決して単なる謙遜などではないのである。
 多くの人がТVを見誤るのは,この視点が脱け落ちているためだ。彼らは,ТVという<送りっ放し>のシステムにおける,<表現の不可能性>を思い知るべきである。

 次に『キャロル』事件だが,この不祥事(?!)が,なぜ起こったかを述べておこう。NHKのドキュメンタリーは,<報道>のための配慮から,他の番組とちがい,企画会議を通さずに,先にクランク・インできるらしい。したがって,出来上ったフィルムがカットされることもあるわけだ。それだけといえばそれだけの事件だったのだ。
 龍村仁自身は,『キャロル』が,「ドキュメンタリー」のワク内で「唐突に」放映されてゆくことにおいてドキュメンタリーとなりうる,と考えたという。 一体,ТVにおいて「唐突に」ということがあり得るだろうか。時期がズレて,夕方のロック番組として放送されると,なぜ「唐突」でなくなるのだろうか。
 ことわっておかねばならないが,ぼくはТVでも映画でも『キャロル』をみていない。みようと思えば両方ともみられたが,小野耕世がからんでいるというだけで,みる気がしなかった。だから,ТV番組としての『キャロル』について云々するつもりはない。事件を持ち上げた人々にケチをつけているのである。
 彼らが<闘う>のは自由である。NHKやТVに対して,誰が何をいおうと,それも自由である。
 だが,極論すれば,そんなことによってТVそのものが,どォにかできると考えるのは見当外れである。ТVと闘っても得られるものは何もない。比喩的にいえば,ТVの野球中継に向ってヤジを飛ばすようなものだ。
 なお,ぼくの友人・知人で,ТVならびに映画『キャロル』をみて,これをホメている人はまだ誰もいないということを付け加えておく。
 また,「唐突性」(!?)と,「一回性」とは,おそらく似て非なるものであろうということも ――。

 「シナリオ」の特集の内,佐々木昭一郎のエッセイだけが,NHKという三字を一度も用いず,ТVについて何も語ってはいない。「敢えて語るとすれば」と,最後に付け加えているのである。それが,とてもよくわかる。わかるべきだと思う。

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 なんだか,また本題に入りそこなってしまったようだ。先を急ごう。
 倉本聡はいう。「テレビは一回しか放映されない」。その通り。例えば,ぼくは『夢の島少女』を,ヴィデオ・カセットやらに録画して,何度もくり返してみようとは,あまり考えない。
 また,ヴィデオ・カセットの普及によって,ТVが本質において変革されるとも信じない。 「そのはかなさが,ぼくは好きである」。そういうこともあるだろうが,ここで妙にヒクツにセンチメンタルになるのは愚かしいことではないか。そんな必要は全くないのだ。 「しかし,そのはかなさを空しく感じてか,優れたテレビの作家たちが,次々と別世界へ去って行ってしまう」「せめてシナリオ誌上だけでも,テレビシナリオをもっと優遇してやっていただきたい。それだけに賭けている者達のために」。 ここまでくると,アワレをさそいます。そんなことだから,『6羽のかもめ』になってしまう。
 甘えちゃいけない。テメエの牙はテメエでみがけ!と云っておこう 

  − かくいうぼくがこんな雑誌を作り,シナリオとまではいかないが,昔みたТVドラマを,ことこまかにメモったりしているのは,なんだかオカシイゾ,と思われるかもしれないが,これは,佐々木昭一郎の方法に対すべき,ぼく個人としてのノゾキ窓のつもりであり,それが,ぼくのТVに対するコミットの方法である。そう思いたい。
  ぼくは,佐々木守ほどには開き直ってしまおうと思わない。なぜなら,『夢の島少女』に出会ったからだ。
 佐々木昭一郎と,例えば倉本聡の考え方は,どこがどう異なるかといえば,ТVの<一回性>に対する捉え方のちがいであり,それは,さっきも云ったように,佐々木昭一郎の「読売」のエッセイの結びの文に集約されている。より以上に,彼のТVドラマそのものが,はっきりと物語っているはずである。
 <ないものねだり>をシビアだと錯覚することは,逆に甘いのであり,<もしかすると,これしかない>きらめきを捉えようとすることこそ,真摯な方法であろう。
 それは,<突出した表現>とも無縁に存在し得るものと思う。
 なぜなら,すべてがТVから<突出>してしまったら,何も残らないではないか。
  『夢の島少女』は,あくまでもТVの音声画像から成り立っており,それ以外の何者でもない。

 とうとう本題に入れなかった。てっとり早く説明しておけば,<うた>の<不幸>は,ТVによってもたらされたものであるということだ。すなわち,歌謡曲は<ТV化>してしまったのである。
 それは,まぎれもなく「山口百恵」において完成されたといえる。
 彼女は歌い手としてではなく<ТVタレント>としてアイドルたり得ている。それが彼女の<新しさ>である。彼女は,唄っているふりをしているにすぎない。
 いいかえれば<ТVタレント>山口百恵自身が<うた>の不在証明となっているのだ。そして,同じようなことが,ТVの主流になりつつあるようだ。
 くわしくは,次号で展開するつもり。最後に,ぼくはもちろん,百恵ちゃんのファンのつもり。
   
      《つづく》
  
連載 第2回  第3号より
連載 第3回  第4号より
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▼ 次号予告▼ 先号で予告した『ルパン三世』特集は,第3号として発行の予定。12月末に,YOTAの方から出るはず。ついでに『陽はまた沈む』は,年内に完成すべく鋭意編集中です。
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TEST PATTERN
 12月9日の朝,今号の編集を一応終えてホッとしたのはいいけれど,前号を上回るシリメツレツぶりで,すべて没にしてしまいたい衝動にかられるものの,初めからやり直すのもシンドイし,デタラメでも何かは伝えられると信じ,やっぱり,このまま出すことにします。
 
 どういう状態で,本誌を執筆編集してるかというと,これはまァ,ひどいもので,徹夜で意識はモウロウとし,しょっ中,字を間違えては訂正し,おまけに寒さで手は思うように動かず,コタツにもぐり込み,アルコールも入り,ますますメタメタ。せまい部屋の中には煙草のけむりが充満し,もともと頭も胃も軟弱にできているから,アーダコーダとやっている内に,頭は更にボケ,胃は重くなって,ヤケクソじみてくる。 昼間もヒマはあるけど,なぜか,蛍光灯の下でないとモノが書けなくなってしまって,右のような惨状を呈するハメとなる。

 そろそろ,芸術祭の各賞が発表される頃だけど,『夢の島少女』が受賞するかどうかは,ぼくにとっては,どうでもいいことだ。ただ,再放送されれば,『夢の島少女』に出会う人がいくらか増えることだろうし,それは,その人たちにとっていいことだと思う。で,やっぱり,みてない人には,ぜひ,みてもらいたいのだ。

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  ここで,もう少しだけ補足を加えておこう。 昔,ぼくが『映画評論』(1971年10月)に投稿した,金井勝評の中でも,引用したことがあるけれど,「いかなる理性をもっても,意志力によっても判らぬものが二つある。それは,自分の生れた時と場所である」― とシュペングラーが云っている。いつ,どこで生れたか,自分で知ることはできない。
  関係ないかもしれないが,ロス・マクドナルドのハードボイルド小説(というより心理小説か)の登場人物が,自らの出生を知ろうと,あるいは出生についての隠された事実の一端にふれたため,<父親探し>の迷宮をさまようのは,このような自らの原不安のためではないか。そして,ロス・マクドナルドの分身たるリュウ・アーチャー探偵は迷宮の謎を解きあかさねばならないが,その結果はきまって悲劇的である。なぜなら,アーチャー自身は決して<父親>になることができないからだ。真の父をついに見出せない悲劇は,ロス・マクの幼児体験の反映でもある。
  自分の生れた時と場所は不可知の領域である。それ故,佐々木昭一郎のいう,あるはずのない場所,いるはずのない人=夢の島少女=を捜そうとする空想を,我々は誰もが,意識の奥底に秘めて持っているのではないのか。
  また,『夢の島少女』をみて思ったことだが,我々には,たしかにこの世に在りながら,絶対に<みる>ことのできないものが一つある。それは<他人の夢>である。 従って,前号での「でまかせ対談」に,こう付け加えておこう。『夢の島少女』をみることは,もしそんなことが可能だとしての話だが,<他人の夢>を<みる>ことに似ている,と。
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LETTERS
★ 前号を出してから,何人かの人から,お便りが届いた。佐々木昭一郎のТVをみている人がほとんどいなくて,少し残念だけれど,いくつかをアト・ランダムに紹介。敬称略。

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 『ТVを消せ』という穏やかならざる表現に,テレビっ子のぼくはギョッとしたのですが,内容はそうでもないことを知って一安心。MAO−YOTAの批評を読んで,ぼくは,ポーランドの『夏の終りの日』(脚本・監督=タデウシュ・コンウイッキ)という映画を思い出した。これは全く不思議な映画で,『情事』のポーランド版といって良いような作品です。
  P.S.ところで,朝日が紹介したあとでは気がひけるけど,『6羽のかもめ』(土・10時)は,なるほど面白い。自らのいじましさについて語るのは成熟だろうか,老成だろうか,それとも単なるゴマカシだろうか?(東京・原田泰)

★ ぼくは少し倉本聡をイジメすぎたかもしれないけど,ТVには成熟ということはないと思う。斉藤正治も,NHK=既成という錯覚をしている。くり返すけど,すべてТVは<未成>であり続けているのだと思う。(MAO)

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  読んでみて,少々,とまどいを覚え,そして自分がいかに偏食的映画好きであるかを知らされる気がした。(千葉・斉藤等)

★ 書いてる当人もよくわからないんだから,読む人はとまどって当然でしょう。でも,わかんないことがあるから世界が拡がるのだろうし,それでいいのだ。(MAO)

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 オモロかったですぞ。一気に読んだ。『夢の島少女』の再放送に注目します。今のところ,ТVは『黄色い涙』と『6羽のかもめ』を楽しみとしている。(香川・山内豊)

★ ぼくは,歌謡番組(これはCFと並んでもっともТV的)とアニメと桜田淳子ちゃんの『となりのとなり』を楽しみとしている。NHKの『みんなのうた』では林静一や月岡貞夫のアニメがみられる。『コンバット』の再放送で,R・アルトマンのをみたり,『宇宙家族ロビンソン』でウォーレン・オーツがゲスト出演してるのをみてオドロいたり。(MAO)

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 "見出し"のうまさは抜群ですね。キネ旬の"シネコミ"欄はみんなが一生懸命やってるのを,こっちが"いただいている"みたいで,やめたいのだ。『刑事コロンボ』を出している二見書房という本屋から『アメリカン・グラフィティ』のノベライゼーションを出すことになりました。この映画,山田宏一さんが「大嫌い!」といい,今野雄二や小野耕世が「いい!」といてるから,僕としても「嫌い!」といいたいのだけれど,主人公の田舎っぺたちが僕と同じ年なのと,この映画のスタッフがみんな,ロジャー・コーマンに惚れているというのを知って,やることにしましたのだ。(三鷹・川本三郎)

★ CMでした。みんな買うのだ!

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★ 12月10日の朝刊に,芸術祭各賞の発表が報じられていたので,ここに紹介しておく。NHK・ТVの参加作品は『ユタとふしぎな仲間たち』のみ受賞。
★ ラジオでは前号でふれた『ダイモルフィズム=同質二像』(NHK)も受賞。
  芸術祭はことしで二十九回目。十月十六日から十一月十五日までの一ケ月間の参加公演,作品は,九部門で二百十四あり,最近では最も多かった。 受賞者は次の通り。

  =芸術祭大賞= ◇ テレビ(ドラマ)中部日本放送「灯の橋」▽東京放送「真夜中のあいさつ」(ドキュメンタリー)東海テレビ「昭和49年春 大沢村」
  =芸術祭優秀賞= ◇ テレビ(ドラマ)NHK「ユタとふしぎな仲間たち」▽(ドキュメンタリー)日本テレビ「エスキモーの道」▽長崎放送「赤絵旋風」▽長野放送「みやまの詩」▽広島テレビ「悲しみの終るときまで」
   =CBC・東海の二作品が受賞・テレビ部門 =

 芸術祭大賞のテレビ部門では三作品が受賞したが,このうち二作品は名古屋のテレビ局の制作。 CBCの「灯の橋」は水木洋子のオリジナル脚本,住田明美の演出で,山陰の田舎町を舞台に女医(栗原小巻)と少年(中島久之)の心のふれあいを描いた作品。十一月十日放送。CBCが同賞を受けるのは四十五年の「海のあく日」に次いで二度目。
 もう一つ,東海テレビの「昭和49年春 大沢村」は,同テレビ報道部が手がけたドキュメンタリー。まわりを山に囲まれた小さな山村,愛知県幡豆郡幡豆町大沢に生活する家庭を通して,現代日本の問題点を考えようと六月二十九日放送,十一月六日再放送した異色作。同局では四十三年にドラマ部門で「飛騨古系」が大賞に相当する芸術祭賞を受けているが,ドキュメンタリーでは今回が初めて。
★ 芸術祭執行委員会の委員長は,誰あろう,<日活ロマン・ポルノ>事件に際して,いろいろ保守的というか反動的な態度をみせた,映倫委員長・高橋誠一郎その人である。

  ここで斉藤正治ふうにトチ狂えば,<表現>に対して<保守的>な芸術祭執行委員会は,<既成>を選考の基準としているがために,『夢の島少女』を落とした − ということになる。
 くり返すまでもないが,受賞の当落は問題ではない。 『夢の島少女』が落ちるであろうことは,ある程度,予期していた。芸術祭は,ТVの外の出来事にすぎないからだ。グリコのおまけみたいなものだ。 『夢の島少女』は,たまたま参加番組のワクで放送されただけであり,ТVとしては,その時点で完了したはずだ。
  
「だんべ」ばかりが方言じゃない   川本三郎  「週間ТVガイド」より

 テレビでは方言というと決まって「だんべ」「に」「んだ」だ。アメリカ映画の黒人まで,「おらあ知らねえだ」と吹きかえでやっている。
 十九日に見た「大江戸捜査網」は田舎から江戸に出てきた女の子が,彼女を売りとばそうとしたチンピラと逆に愛しあう話だったが,話はともかく,この女の子がふたことめには「だんべ」「おらあ」と典型的方言をしゃべりだし,そのたびにうんざりしてしまった。方言はその土地の長い歴史,毎日の暮らしから生まれてきた,もっと生き生きとした言葉のはずだ。喜びや怒りがいっぱいに詰っている。時にはものすごく下品な言葉もあるだろう,その土地だけが持つ悲しい言葉もあるだろう。それを「だんべ」「おらあ」といいさえすれば方言だ,というのは,まったくのお茶の間用方言というものだ。かといって逆に方言の中に新しいものがあるかのように田舎のおじさんやおばさんに,当世風な若い女の子がマイク片手に慣れ慣れしく話しかけ,方言をひっぱりだそうとする「遠くへ行きたい」などもうんざりだ。行きずりの旅行者が土地の生活に入りこもうなど図々しいにもほどがある。そうだんべ!
 そんな中で十九日NHK放送の「ユタとふしぎな仲間たち」は子供番組だったが,方言にこめられたその土地の悲しい歴史を淡々と描いていて感動的だった。小さな方言の中にも,子捨て,間引き,といった悲しい日本の歴史がこめられていることをこのドラマは教えてくれた。日本ではいまでもそんな方言がたくさんあるはずだ。ただ,なぜかテレビにはめったに出てこないだけだ。

★ 「ТVガイド」の連載コラムを担当中の川本さんが,「ユタとふしぎな仲間たち」についてふれた文があるので紹介。「ユタ−」は,10月19日の夕方NHK少年ドラマのワクで放送された。
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★ 芸術祭大賞を受けた「真夜中のあいさつ」(TBS)について,川本さんの前に「ТVガイド」のコラムを担当していた,キネ旬編集長の白井佳夫という人がこんなことを云っている。
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   新しいロマン誕生の予感!  白井佳夫  「週間ТVガイド」より

  「真夜中のあいさつ」で本格的なドラマに初出演した,あべ静江が,ういういしい素人っぽさを生かして,なかなか好演,可愛かった。この番組のプロデューサーであり,演出も担当した大山勝美は,これも素人っぽい演技のタレントである,せんだみつおを彼女の共演者に選び,二人を,ビデオ・ロケの効果満点の自然の風景の中で,のびのびと動かしてみせた。飛行場,街,駅,階段のある坂道,犬の訓練所,公園などから,ハンバーガー・スタンド,そして深夜放送のスタジオにいたるまで,このドラマの舞台となる場所はほとんど,本物である。そこにビデオ・カメラがどんどん入りこんで,素人っぽい二人のタレントに自然な演技をさせて,ドラマを撮った。この,二人のタレントと本物の場所や風景の「共演」が,ドラマ「真夜中のあいさつ」の,フレッシュな魅力の中心だった。
  しかしいっぽうベテラン演技者の岩崎加根子や杉浦直樹の演技は,ビデオ・ロケの本物の風景の中で見ると,妙に浮き上がって「お芝居くさかった」なあ。 彼らは,本物の場所や風景と巧く「共演」できず,いわば作り物の人工的なセットの中でやるような演技を「熱演」してしまったのである。その点では山田太一のシナリオも,ドラマの中心の落ち目の深夜放送ディスク・ジョッキーの話を,いささか作り物の「スタジオ・ドラマ風」に書いてしまっていたし,大山勝美の演出にさえも,まだその作り物ドラマを主とするある「古さ」が根本にあった。新しいテレビ・ドラマのロマン誕生を,面白い形で予感させながら,ね。
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★ 『夢の島少女』が選からもれたのは「やっぱり」という感じなのだが,『真夜中のあいさつ』というのは意外だった。 8月11日に90分ドラマのワクで放送された時,ぼくもみてみたが,不快になって途中でやめた。『6羽のかもめ』と同様に,放送の<現場>−斉藤次郎さんのいうのと同じ意味での<現場>である−を背景としたドラマなのだが,「ТVガイド」の広告のキャッチ・フレーズがこうである。
  《寂しい男の 寂しい恋を 深夜ラジオ族が応援しはじめた − みんな寂しいんだよな − 》

  もう長いこと深夜放送を聞いているぼくとしては,ドラマの中に<深夜ラジオ族>とかいう不特定多数の内の何人か(その代表が,せんだみつお)が登場したのをみただけで,ゾッとさせられた。
  なれなれしくすればТVのこちら側がみえてくると思い込んでいるスタッフの思いあがりと甘えが,どうにもがまんできなかった。

  白井佳夫いうところの<本物><作り物>の問題ではない。ビデオ・ロケ,本物,自然,人間。いかにもパゾリーニ信者にしてТV音痴の白井さんらしい。<古さ><新しさ>という考え方もТVを<既成>とする錯覚から出ている。
 一体,スター製造番組や『6羽のかもめ』『真夜中のあいさつ』のような<現場>ドラマが,ほとんど同時に現れたのは,単なる偶然だろうか?

 ТVは成熟することはなくても,<うた><日常>をТV化する。(MAO)

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  とすれば,ぼくたちはいま,ただ単に伝統的流行歌の含羞の美学をテレビから守る,というふうに発想してはなるまい。 テレビを選び,育て,肥大化させてしまったのもほかならぬぼくたち自身なのだ。―― 斉藤次郎
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 日曜日にはTVを消せ 第1号

 日曜日にはTVを消せ プログラム

 日曜日にはTVを消せ クロニクル


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