佐々木昭一郎 アーカイブ


 『日曜日にはTVを消せ』クロニクル NEW!
              作成  池田博明
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 2010年7月10日
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     佐々木昭一郎作品と『日曜日にはTVを消せ』 

           池田博明

   2010年7月末(7/24(土)〜30(金))に渋谷のユーロスペースで、
  シネマ・マネジメント・ワークショップ2009修了上映会 「佐々木昭一郎というジャンル」が企画され、
  ゲスト・スピーカーとして、『日曜日にはTVを消せ』製作者が招かれることになった。
   この際、その当時の正確な経緯をまとめておこうと思った。当時のミニコミ誌や手紙を読み返しました。

   キネマ旬報の読者の映画評で知り合った藤田真男と池田博明は手紙を
   やり取りするうちにミニコミでTV批評誌を出そうという話になった。
   ミニコミ誌のタイトルは藤田君の案で「日曜日にはTVを消せ」、創刊号は
   アニメの『ルパン三世』特集と予定していた。ところが・・・・

 1974年10月15日(火)22:15〜23:30  NHK総合テレビにて
      佐々木昭一郎作『夢の島少女』放映 75分間
      藤田真男は実家(三重県)のカラーTVで見た。池田博明は間借りしている部屋の白黒TVで見た。
      見たあと、感動したそれぞれは相手に手紙を書き送る。
      藤田「生涯のベストワンに決定!」


 1974年11月17日(日) 『日曜日にはTVを消せ』No.1を発行

      藤田君が池田と藤田の手紙を編集、さらに佐々木昭一郎に関する資料と視聴データ
      をまとめて、コピーで『日曜日にはTVを消せ』No.1を発行。友人知人に郵送する。
      B4版9枚18ページ。


 1974年12月15日(日)  『日曜日にはTVを消せ』No.2を発行  16ページ

      藤田君がNo.1に関する手紙や,その後の資料をまとめて編集発行。
      池田はキネマ旬報読者の映画評の投稿者でNHK札幌支局に勤務されていた原田隆司さんに送っていた。
      No.2のお便り欄からは『夢の島少女』を見た人がほとんどいなかった。お便り欄に名前を挙げた人は、
      原田泰、斎藤等、山内豊、川本三郎。コピーなので何部でも増刷可能だが当時郵送していたのは20人くらい。
      村上知彦、大森一樹、佐々木毅、平田泰祥、内海陽子、秋本鉄次、野口信、北風哲、牧村利光、谷川照好、
      黒田邦雄、鉄屋彰子、徳木吉春、津田裕子、浜部良典、金子紀美子、高村賢治、舘田芳彦などキネマ旬報の
      読者の映画評や札幌の映画サークルで知り合った人々、他には
      池田雅夫(池田の弟)、塚田嘉信(映画史研究家)などでしょうか。


 1975年1月12日(日)   『日曜日にはTVを消せ』No.3を発行  22ページ 

      池田がTVアニメ『ルパン三世』特集を発行。 
      

 1975年1月  青林堂「ガロ」2月号読者サロン

      藤田真男  「紅い花」がTVドラマになった?! 「夢の島少女」 (「ガロ」読者サロン)      

      NHK札幌支局の原田隆司氏からの薦めで佐々木昭一郎氏にバックナンバーを藤田君から送る。
      佐々木昭一郎氏から藤田君へ『ラジオ・ドラマ 音と沈黙の幻想』LPと
      『コメット・イケヤ』LPが送られる。
      2月初め、池田も佐々木さんから手紙をいただいた。
      “『夢の島少女』の出発点は『さすらい』の赤いワンピースの少女です。栗田ひろみが13才のとき
      演じた少女です。私のテレビは、ラジオ時代も同じですけど、以前に作ったどのシーンの、
      どのショットからも出発できるものです、と自分で考えています。次に作るものも多分そうなるでしょう。
      ・・・・(中略)・・・・今、一言で言えることは、『夢の島少女』は、私が今迄作ったどの放送よりも、私の
      ドキュメントと云えます。私的な要素の最も強い。しかし、今迄のどれよりも、ドラマなのにドキュメント
      です。「少年」は頭のテッペンからつま先まで、この私であった事を告白します”という言葉があった。
      

 1975年2月9日(日)    『日曜日にはTVを消せ』No.4を発行 22ページ 

      池田が読者からの手紙をまとめて編集。

      2月20日、池田宛に佐々木さんから、お手紙と『寺山修司の戯曲(1)』が届いた。
      『コメット・イケヤ』LPも贈って下さった。
     佐々木さんは妹尾カメラマンにNo.1〜No.3を見せたという。妹尾さんは
      こういう人たちもいるのだ、「まさに自分がいいたい事を書いている」と感動
      しきり。


 1975年3月16日(日)    『日曜日にはTVを消せ』No.4+1を発行 14ページ 

      藤田君が読者からの手紙をまとめて編集。

 1975年3月25日(火) 21:30〜22:00 NHKラジオ第一
    佐々木昭一郎作『都会の二つの顔』放送

 1975年3月末  池田は札幌を引き払って神奈川県小田原市へ。小田原城内高等学校で理科教員として勤務。


 1975年5月18日(日)    『日曜日にはTVを消せ』No.4+2を発行 12ページ 

      藤田君が読者からの手紙をまとめて編集。

 1975年5月30日号 『朝日ジャーナル』に「テレビ批評専門のミニコミ誌出現」と紹介された。
  (読者の反応は我々にはまったく届かなかった。たぶん何の反応もなかったのだろう)

 1975年6月号 『放送批評』  鳥山拡「テレビジョン同時代者群 3」に
    “ペーパー・テレビジョン 日曜日にはTVを消せ”と紹介された

 1975年6月30日 大川義行さんが「FOLK ART」を送って下さった。
  佐々木昭一郎氏のエッセィ『退行移動』が載っていた。


 1975年10月19日(日)    『日曜日にはTVを消せ』No5を発行 42ページ 

       藤田君が読者からの手紙と身辺雑記を編集
 


 1975年12月28日(日)    『日曜日にはTVを消せ』No6を作成(発行は1年先)
 


 1976年1月14日(水) 15:00  池田の勤務校に佐々木昭一郎さんから電話。『紅い花』を演出したと聞く。

 1976年2月28日 『日刊ゲンダイ』の「山田宏一のお楽しみシネサロン」で
          “ブラウン管映画もやはり番組なのだ”で「日曜日にはTVを消せ」紹介。


 1976年3月28日(日)    『日曜日にはTVを消せ』No.7を発行 

             藤田君が『紅い花』をPR。46ページ。

 1976年4月3日(土) 20:00 NHK総合TV 
    佐々木昭一郎作『紅い花』放映 

 1976年6月6日(日) 14:00から
           藤田君の依頼もあり、
           佐々木昭一郎さんのはからいで
           NHK放送センター A試写室にて 
           『夢の島少女』 試写会を開催

          『夢の島少女』『マザー』『さすらい』を上映
          『日曜日にはTVを消せ』の新旧の読者、30人近い人が見に来た。


 1976年10月3日   『日曜日にはTVを消せ』No.9 PART1 “勝新・座頭市物語”特集発行

          池田がフジTVの『座頭市物語』を特集。12ページ。

 1976年10月22日(金) 22:15〜23:25 NHK総合TV
          『紅い花』 芸術祭参加 放映

 1976年10月末  藤田君は豊橋を引き払って東京都練馬区富士見台へ引っ越す。
       11月7日  藤田夫妻と池田夫妻でNo.8を製作。


 1976年11月14日(日)    『日曜日にはTVを消せ』No.8を発行 
         藤田君が編集。『マザー』から『紅い花』まで資料集。58ページの大冊。 

 


 1977年2月号 『ダイエー白書』に
     川本三郎“あなたのNHKとミニコミ誌「日曜日もはTVを消せ」の不思議な関係”


 1977年5月8日  『日曜日にはTVを消せ』No.9 PART2 発行 

     池田が“勝新・新座頭市”を特集。20ページ。


 1977年5月15日   『日曜日にはTVを消せ』No.10  発行  26ページ

     池田がTV短評を編集
     この頃は郵送先は50部くらいになっていた。
    No.9 PART2とNo.10と池田の弟の旅行記で一人あたり感光紙代だけで660円。
   送料が100円くらいか。
   全部で4万円くらいかかった計算になる。

  「日曜日にはTVを消せ」プログラム

  池田博明「顔役」評  

  勝新演出の現代もの「警視−K」 

  監督・勝新を取り上げたTV番組