日曜日にはTVを消せ 目録


  日曜日にはTVを消せ No.1 ★1974年11月17日(日)
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★ 開局記念特別番組『夢の島少女』 ★
制作★PHC・TV ★
提供★混血桃色通信=PHC (豊橋市東小浜町129白井方【当時】・藤田真男)  


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 開局(創刊)にあたって  

 先日,佐々木昭一郎というNHKのTVディレクターの『夢の島少女』というドラマを見て,ひどく感動し,その勢いで,かねてより企画中ではあったもののポシャったままになっていた,TV批評誌を,この際何でもいいからとにかく出してしまおう,そう思ってこの『日曜日にはTVを消せ』を発行するわけなのだ。

 昨年,日本のTVの歴史は20年に達した。アメリカのTVに比べれば,ほぼ半分の歴史しかないが,それでも,すでに来るところまで来たような感じがしないでもない。というより,TVとは初めから,どこへ行き着くべきものでもない,といえるのだろうか。あと20年でもこのままの形で続くかもしれない。そうならないかもしれない。

 TVは「番組」であって「作品」ではない,従って「TV批評」など成立しないと佐々木守がいうのは正しい。それは,現在に至るまで,「TV批評」がどこにも存在しなかったという事実からも明らかだ。TVとはなにかTVに何が可能かと問えば,結局,技術論しか返ってこないはずだ。「どうにもこうにもテレビジョンとは器械である」(佐々木守)。

 すべての画像は現れると同時に消えて行き,後には何も残らない。だから,「番組」なのだ。たしかにそうだ。それでいいのか,よくないのかという設問さえ無駄なことのようだ。 ともあれ,これまでずいぶん長い間,TVを見てきたし,これからも見続けるだろう。

 ところで本誌は,当然にもTV批評の成立を目指すものではなく,TV局がひとつ増えるようなもので,言うなれば,海賊放送しかも大NHKに次ぐサービスエリアを誇る!?であり,卑近にいえばTV日記,すなわち個人的な覚書,もっと正確に言うなら,早い話がヒマつぶし。と言ってしまえば,ミもフタもないか。  とりあえず,第1回放送は,佐々木昭一郎と『夢の島少女』の特集。TV同様,読み捨てで結構。(M.G.MAO)
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 ▼映画評論1974年1月号より


 佐々木昭一郎  
 昭和 11年7月25日生 (7月は誤記で実際には1月だそうです。池田追記 1936年1月25日生
 東京出身
 立教大経済学部卒
 単発TVドラマ演出家

 いま日本の代表的なTV演出家を1人だけ推薦しろと言われたら,私は,何のためらいもなく佐々木昭一郎の名をあげるに違いない。
 佐々木と私との出会いは,今から10年前,さる38年12月に放送されたラジオドラマ『都会の二つの顔』だった。佐々木は,まだ無名だった宮本信子と魚屋志望の横溝誠洸というズブの素人を使い,深夜の六本木から夜明けの東京港までを描くことによって,人間が生きる喜びと当時の時代状況を「音」で鮮烈に歌いあげたのである。
 ドキュメンタリーでもドラマでもない,この新しい手法を引っ下げて登場した彼はラジオで『コメット・イケヤ』(1966年度イタリア賞グランプリ),『おはようインディア』(昭和41年度芸術祭賞)と次々と新鮮な作品を送り出し,41年にはテレビ畑へ移り,ラジオでの方法論をテレビドラマで試みはじめた。
 それが『マザー』(1970年度モンテカルロ国際テレビ祭最高賞)であり,『さすらい』(昭和46年度芸術祭大賞)である。特に『さすらい』は,在来のテレビドラマに大きなインパクトを与えた作品だった。
 つまり 15年間,空想だけに生きてきた主人公・安仁ひろし(本名)が佐々木の設定するいくつかの状況の中で「さすらう」というドラマである。ドラマといっても佐々木の作品には脚本がない。設定された状況で映像化される過程そのものが脚本なのである。
 制作される過程での即興性,偶然性が設定した状況を突き破り,極めてヴィヴィッドな映像となって見ている者に深い感動を与えるのである。私は見ていてアントニオーニやフェリーニを,はるかに越えたテレビ的な新しさを感じたのである。
 その佐々木は『さすらい』以後,作品を発表していない。銀河ドラマのADを黙々と勤めているのだ。NHKという巨大組織は不可思議なところである。
          (青木貞伸)▲  
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 佐々木昭一郎について知り得たことは上の紹介文に書かれていることが,そのすべてである。
 青木貞伸は『放送批評』の編集長を務める人であり,同誌のバックナンバーになら,佐々木昭一郎や彼の作品(いや番組というべきか)について論じられているかもしれないが手に入れるのは無理だろう。
 TVがTVである限り,TV雑誌も,放送関係者だけを対象とするか,番組のガイドにとどまるしかない。前者としては,各局の社内報や労組の機関誌があり,後者としては『TVガイド』『TV fan』の2冊があるのみ。しかも『TV fan』はローカルには出回っていない。  他に最も広く放送メディアを扱う雑誌で市販されているのは,NHK『放送文化』。
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 ▼金の卵ごろごろ,層が厚いNHK演出班 (『週間TVガイド』から抜粋?)
 今秋の芸術祭出品作品に見るNHKディレクターの層の厚さは,あたかも無敵艦隊の趣きすらある。
 出品作をざっと列挙すると『あの角の向こう』(大原誠演出,以下同じ),『じゃあね』(松尾武),『浪花二人節』(田中昭男),『終点はどこですか』(佐藤満寿哉),『幻のセールスマン』(高橋康夫),『夢の島少女』(佐々木昭一郎)など,中にイタリア賞出品作もあるもののその数はいたって多い。
 いずれも35歳前後の若手ディレクターで,中には,すでにいくつかの芸術祭賞を得ている人もいる。もちろん海外の芸術祭賞を受賞したつわものもいて,まさに若手演出家の腕の競い場となった感のある芸術祭だ。莫大な金と暇をかけているので当然,とする声もあるが,野球の巨人の多摩川同様金の卵がごろごろ。▲ 
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マザー   作・演出=佐々木昭一郎
       カラー 60分  
1969年12月28日=NHK・GTV(総合テレビ)『おはようぼくの海』というタイトルで放送。  
1970年イタリア賞参加(1969年度芸術祭には不参加か?)  
1970年8月8日=NHK・GTV 『マザー』と改題して放送。  
1971年2月 モンテカルロ国際TV賞参加。最高賞「ゴールデンニンフ賞」を受ける。  
1971年2月28日=NHK・GTV モンテカルロ賞受賞のため再放送。

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 右の資料は『NHK年鑑』によるものだが,初放送が12月28日というのは,少し妙な気もする。10月28日のミス・プリかそれとも,やはり単発ドラマとして12月に放送されたのか。 
 まあ,そんなことは,どうでもいいのだ。僕は,『おはようぼくの海』というタイトルでの初放送も,『マザー』としての再放送も,ともに見たような記憶があるが,何しろ古いことなので,詳しい内容までは覚えていない。というより,そもそもシナリオのないドラマをコトバで説明することが困難なのだ。それは,佐々木昭一郎の3本のTVドラマすべてについて言えることだ。
 それではオハナシにならないので,覚えていることだけ書き留めておこう。

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 多分,横浜。それとも神戸か他の町だったろうか。5年前,市電の走っていた港町であることは確かなようだ。

 夏のある日。港まつり,といった催しが行われているその町に,ひとりぼっちの少年がいる。ただ,ひとりぼっちであるという以上には,少年の過去や境遇は描かれていなかったようだ。少年が街中を彷徨う。カメラは少年の後を追う。少年は,若いアメリカ人の女性(だと思う。が,重要なのは,少年にとってその女性が,遠い海の彼方からやってきた,コトバの通じない,見知らぬ他人であるというシチュエーションであろう)と出会い,一緒に町を歩き,カタコトで,ポツリポツリと意思を通じようとする。その様子を,カメラはじっと見つめているだけである。

 少年に母がいないことがわかる。母についての記録もなかったようだ。少年は,12,3歳だろうか。女の人は,まだ30代に達していないだろう。少年の母より若いであろうことは確かだ。だから,お互いに母と子の感情については,ぼんやりとしかつかめない。おまけに,互いの過去も分からなければ,コトバも,ほとんど通じない。

 少年とその女性は,それから別れ,再び各々の場所へ戻っていく。

 少年の心に,母のイメージを追い求めようとする衝動がわく。もっと多くのものが,少年から失われているかもしれないが,今は母を求めている。いや,具体的なそれではなく,また,母に代わる女性のものでもない。おぼろげだが,大切な何か。失われたのか,まだ見いだせないのか。だから『マザー』なのだろう。

 そういったことが,セリフなどで説明されることはなく,カメラは何の思い入れもせずに,ただ淡々と,少年の日々をセミドキュメンタリー風に負うだけなのだが。

 朝日の昇る,だれもいない港を少年が一人で駆けていく。タイトルからしても,太平洋岸であることから考えても,確かに「おはよう」なのだが,僕には夕暮れの港であったような印象が強く残っている。

 走る少年の影が,岸壁に長い尾を引く。行き止まりは,海。陽を浴びながら,海を見つめる少年の後ろ姿で,このドラマは,いささか唐突に終わっていたように思う。ラストシーンの印象は,少し寂しげだが,意外に明るく,晴れ晴れとしていた。

 二人の出演者は,ともに素人で,実際にもコトバは通じないようだった。

1996年4月にBS放送・佐々木昭一郎の世界で『マザー』『さすらい』『夢の島少女』『四季ユートピアノ』『川の流れはバイオリンの音』は再放送され,ビデオにも収録された。この藤田君が書いた文章は,ビデオもない時代に記憶だけで書かれたことに注意して欲しい。池田追記
2000年秋にNHKアーカイブスで放送されたときに佐々木さんの談話が月刊ドラマに出ました.
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 さすらい  構成・演出=佐々木昭一郎      
   カラー・90分   
 出演=安仁ひろし・友川かずき・笠井紀美子・栗田裕美  

1971年11月13日=NHK・GTV  46年度(第26回)芸術祭参加TVドラマとして放送  
1971年12月10日 芸術祭大賞受賞  
1971年12月16日=NHK・GTV 芸術祭受賞のため再放送  
1972年3月 モンテカルロ参加  
1972年10月 サンフランシスコ国際フィルム祭(TV部門)に参加
 
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 これは最初,放送当日の新聞でキャストをみたら,フォークシンガーの遠藤賢司とか,ジャズ・ヴォーカルの笠井紀美子とか,変わった人が出ていて面白そうだなと思って,偶然みたのでまだ佐々木昭一郎の名は知らなかった。遠藤賢司は,アルバムが少し売れ始めていたが,あまり有名ではなかった頃だろう。

 『さすらい』をみる。ほんの少し前に,ぼくは『さすらい』と所も同じ,日比谷野外音楽堂のステージで彼の唄をきいたことがあり,わりに好きなシンガーになった。彼がこのドラマで唄った「カレーライス」のシングル・レコードが発売されたのは,次の年の正月だった。

 栗田裕美,すなわち現在の栗田ひろみ。彼女が出ていたということは。先日,『NHK年鑑』をみて初めて知った。どこに出ていたのか,さっぱり思い出せない。第一,当時の彼女は俳優としては素人で,遠藤賢司よりも無名だったのかもしれない。TVのCFか何かに出ていた頃かな? 一年後に映画『夏の妹』に新人として主演するわけである。

 右の二人以上に無名で,今なお名の売れていないのが,友川かずき。『さすらい』では,フォーク・シンガー志望のペンキ屋を演じたが,現在では,一応プロのシンガーとなっている。
 友川かずきは秋田出身。プロとしてのデビュー曲は「上京の状況」。ごく最近の曲に「生きているって言ってみろ」というヤケクソじみたぶっきらぼうな唄がある。シングル・レコード只今発売中。少し前に,この新曲キャンペーンのため,名古屋へやって来て,ラジオに出た彼の生の声を聞いた。おそろしくボクトツな人だ。しゃべるとひどくドモったり,口ごもったりするのに,唄は唄えるという人がいる。「天象儀館」の秋山ミチヲがそうだし,森崎東監督の映画『女生きてます・盛り場渡り鳥』での山崎努(死に際に「島原の子守唄」を唄う)がそうだ。多分,友川かずきもそういう歌手なのだろう。そして,佐々木昭一郎のTVドラマも,それに似た世界なのだ。
 友川かずきは『夢の島少女』にも,チョイ役で出演。

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 さて,『さすらい』だが,どういうわけか,3年前の日記なんぞが残っていたので,恥ずかしながら,それをそのまま転載しておく。今は,日記どころか映画のメモさえつけていないけどね。ズボラになった…。
▼ 1971年11月13日(土)▼
 夜,NHK・TVで芸術祭参加番組『さすらい』をみる。
 演出・構成=佐々木昭一郎
 出演=安仁ひろし・友川かずき・遠藤賢司・笠井紀美子・はみだし劇場・木下サーカス・その他大勢。
 流れた曲=イージー:ライダーのバラード,バイバイ・ラブ,カレーライス,みんなビューティフル,笠井紀美子のヴォーカル。

 テーマはルネ・マグリットの絵と同じ<大家族>−だろうか? イージー・ライダーのバラードにのって,ひろしは,ハト=大家族のイメージを追いつつ,日本をさすらう。  
 ペンキ屋の「ギター」に兄を,道で知り合った13才の少女に妹を。サーカスの綱渡りりの女に母を,歌手・笠井紀美子に姉を,田舎の駅の老婆たちに祖母を,<あらかじめ失われた家族たち>のイメージをみようと,ホントのさすらいの旅をしようと,彼は歩きつづけ,ついにハトの舞う海辺にたどりつく。映画『曼荼羅』のコケオドシ的なディスカバー・ジャパンに比べればスカっとさわやかな一作。  『マザー』同様,例によってNHK風に少々タイクツだが,じょじょに,じょじょに、静かにテーマが浮かび上がる構成はなかなか見事。

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 てなことを,当時のワタシは思ったのですが,今みれば,もっと切実に感じるかもしれない。3年前のぼくには,<幼なさ>に心ひかれるようなことはなかったので…・。
 ぼくは最近,時間の流れに従ってトシをとれない自分に気付き始め,いささか,うろたえている。「もうトシだなァ」なんてのは冗談にもならないようなのだ。
 どっかの誰かさんとちがって,「生き遅れ,死に遅れ,何を思いつめてと云われても,さっぱり訳がわかりません」(鶴田浩二の歌)てな感じで,まるでどうにも転びそうもない自分自身に,少々つき合いかねている。
 花一輪のかすかな重さが,今の私の胸にはずっしりと響くんでございます…(渡哲也の歌)なんてガンバル気はなく,花びらむしりながら花占いでもやって,ちっぽけな感傷にひたってみようかしらん?
 ♪ワタシは〜まだ〜少女なの〜かな。なんちゃって。ン?
 俺は男だ!ンナロー!何の話だったか,ハテ?

 そう,『さすらい』でした。アキラの唄ではないのです。バイバイ・ラブはサイモンとガーファンクル,みんなビューティフルはアンディ・ウイリアムズか誰かが唄ってたっけ?!
 こんな唄はどうでもよくて,メイン・テーマというべきは,イージー・ライダーのバラードなのだ。ひろしは,ヨタヨタと転がるみたいに,かなりカッコわるく,さすらって行く。そのバックに流れるのがイージーライダーのバラード。気取りはない。この曲が妙にピッタリくるのだ。

 それから,<13才の少女>というのが,多分,栗田裕美だったのだろうが,どんな女のコだったのか,まるで覚えていない。多分,映画『喜劇・街の灯』(森崎東監督)の彼女みたいに,ポケーとした役だったと思う。
 
 はみだし劇場,木下サーカス,笠井紀美子らは,すべて実在の彼ら自身として登場する。

 つまり,ドラマの中で<演技>をしている者は一人もいない。ぼくは,これも初放送・再放送ともにみていて,いくつものエピソードのつみ重ねのドラマなので,『マザー』よりはよく覚えているが,残念ながら,2回ともモノクロでしかみてない。とにかく,思い出せることを,もう少しくわしく記しておく。

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 東京かその近郊の下町。ペンキ屋の見習いをつとめる少年・安仁ひろし(本名)。見習いだから,まだ筆を持たせてもらえず,映画の看板にこびり着いたポスターをガリガリ削り取ったり,ノリをぬったり。一日中そればかり。
 彼の兄貴分(友川かずき)・通称「ギター」は,フォークシンガーを夢み,まるで仕事をやる気がない。仕事場でもギターを弾いて唄っている。しかし,そんな「ギター」を,ひろしは兄のように慕っている。
 寮の食堂。「ちぇっ,またカレーライスか」とギターは不満げ−ここで「カレーライス」のメロディーが流れたように思う。
 ある日,ギターは仕事にいや気がさし,フラリといなくなる。ひろしは,ギターを追って街へ。
 雨の日比谷・野外音楽堂のステージ。誰もいない客席に向かって,なぜか遠藤賢司が一人で静かに唄っている。傘もささず,ひろしがやって来て,彼にたずねる。「兄貴を知りませんか?いつもギターを弾いてるんです。どこへ行ったら会えるんですか?」。遠藤賢司がボソボソと答える。「知らない…・」

 ひろしの<さすらい>が始まる。どこをどう歩き,どういう人と出会ったか,よく覚えていないので,思いつくまま並べる。

 ある街。道を歩いていると,少女に出会う。多分,栗田ひろみ。彼女が何かで困っていたのを助けてやるとか何とか,そんなところだったように思う。ひろしには,彼女が妹のように思える。或いは,彼女の方で,ひろしを兄と思ったのか?

 別の街。一文なし,アテもなし。興行中のサーカスの綱渡り(空中ブランコだったか?)の男に頼んで雇ってもらう。動物の世話や走りづかい。ひろしもサーカスの芸人になろうかなと考える。綱渡りの女がひろしにやさしくしてくれる。が,何かの拍子でサーカスを飛び出してしまう。

 また別の街。夏。ウンウンいいながら,リヤカーを引っ張っているひろし。アルバイトで氷お運んでいるようだ。せまい路地をあっちへウロウロ,こっちへヨタヨタ,頼りない。どこかから聞こえてくる唄声かピアノの音にひかれて,ある家へとやって来る。女(笠井紀美子)は,ひろしをみて,中で休んでいきなさいと云う。彼女は不意に「大家族って知ってる? マグリットていう人の絵でね」と話し始め,手に持った紙を裂いて,一羽の白い鳥を作って,フワリ,と飛ばしてみせる。

 突然,何かを思い立ち,引いていたリヤカーを放り出して走り出すひろし。大きな氷が,路地に投げ出される。

 もう,ひろしには<さすらい>の動機も目的も,おぼろげになっている。次から次へと,けいれん的に別の場所へ。その度にバックにイージー・ライダーのバラードが流れる。

 四国あたりのローカル線の駅。お遍路さん,または野良仕事の老婆たちが,道ばたで楽しそうに語らいながら食事中。方言なので何を云ってるかはわからない。老婆たちがひろしを食事に誘う。
 単線をディーゼルカーが,ゴトゴトと走り去る。後尾の車窓に,笠井紀美子に似たモダンなタッチの女の肖像画が二枚はり付けてある。遠く小さく,やがてみえなくなる。ボンヤリとみ送るひろし。

 「はみだし劇場」(実在のアングラ劇団=主宰・外波山文明)と大書した,ホロ付きのトラックに便乗させてもらうひろし。三人きりの劇団。旅から旅へのドサ回り。往来にトラックを止めて,やにわに大チャンバラ劇をおっぱじめ,ひろしもそれに加わる。もの珍しそうに眺めるヤジウマ。チャンバラがいつしか真剣味をおび,本当のケンカみたいになってきて,どこまでも,どんどん追いかけて行く。追われる方も真剣?竹光で斬られると,本当に死んだふりをする。もう見物人はいないくせに,芝居に戻っている?

 ひろしはまた突然,トラックを飛び降り,再び一人になる。ひろしは,ボンヤリと自分が探しているもののイメージを把えはじめる。そして,海へたどりつく。足もとの白い鳥が一斉に空に舞い上がり,ひろしを包む。ここで『さすらい』は終る。
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 ルネ・マグリットの「大家族」という絵は,ハトかカモメか知らないけど,一羽の白い鳥が,翼を広げ,青い空に飛び立つところを描いている(だと思う。よく知らない)。ぼくも好きな絵だ。なぜ「大家族」というのかは知らない。

 『さすらい』をみた次の年の2月,ぼくはGYAさん(村上知彦氏)にくっついて,NHK大阪の人と共に,代々木の放送センターを訪れたことがある。そのNHK大阪の人に聞いたら,『さすらい』は数万だか十万フィートだかのフィルムを撮影に使ったというので,びっくりした。90分ドラマだから,完成フィルムは邦画と同じ,七,八千フィート(ニ千数百メートル)だろう。十万は大げさとしても五万フィートでもすごい。メタメタにヒマとカネをかけた,アントニオーニの『砂丘』の撮影フィルムが,三十万フィート(上映すれば60時間近い)−これは各シーンを2台のカメラで撮っての数字だから,『さすらい』も,アントニオーニに劣らない。そういえば,アントニオーニにも『さすらい』ってのがあったなア。ぼくは未見だけど。

 青木貞伸は「アントニオーニやフェルリーニを,はるかに超えた」と云っているが,多分その通りなのだろう。比較するなら,アントニオーニやフェリーニよりも,ロベール・ブレッソンやフランソワ・トリュフォー(とくにアントワーヌ・ドワネル・シリーズにおける)の方が佐々木昭一郎に近いように思うが,これまた,ぼくは全くみていないので,ヘタなことは云わない方がいいようだ。

 いや,そもそもTVと映画の<映像>の比較など,意味のないことだ。<映像作家>というコトバがあるが,TVには<映像>も<作家>も存在し得ない。番組が作られ,TV電波にのせられ,ブラウン管に画像を結ぶという一つの巨大なシステム全体,これがTVである。一人の作家が,特定の映像を選んで,作品を創る−ということはあり得ない。

 佐々木昭一郎は,そのことをよく知っている。シナリオを作らないのは,そのためだ。カメ・リハなんてのも,ぜんぜんやらないだろう。TVは時間である。均質なのだ。放送の語源は<送りっ放し>ということからきている。本当だ。<映像>を創っても意味がない。だから,シナリオなしで,どんどん撮す。おびただしい量のフィルムの内,放送されない分も,みな,ドラマの内だ。NGではなにのだ。

 どうも混乱してきた。素人考えなので。しかし,TVについて語るとすれば,それはみな素人考えであり,思いつきでしかないともいえる。そうでないのは,初めに云ったように,技術論だけである。吉本隆明は,タレント採点表を並べた「芸能論」で,人々をア!と云わせた?が,TVについての<論>は,このように論外のジョーダンで正解なのだ。ちなみに,吉本隆明は,二台のカラーTVをすえつけて,一日中,寝っ転がってそれを眺めていたという。(今はどうか知らないが)それでいいのだ。

 更に,ゴロ合わせ的に飛躍させれば,我々の素人考えに対置する,素人TVドラマが,佐々木昭一郎のドキュメンタリイ・ドラマ(今のところ,こう呼ぶしかない)である,といえよう。この方法も,正解だろう。特定の<映像>,特定の<演技>はいらないのだ。

 また,トリビアルな問題に思われるかもしれないが,ブラウン管の画像と,スクリーンの映像は,大きさがまるでちがう。TVでは,人間の顔いっぱいのアップで,どうにか実物大だ。<演技>を読み取ろうとして,アップが多用される。これもまた無意味なことだ。歌謡番組で好きなスターをアップでみられていいな−というような次元のことだ。問題は大きさではない。TVの時間・空間には,パースペクティヴがない。これがTVである。ノッペラボウだ。
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    夢の島少女  
     構成・演出=佐々木昭一郎   
      カラー・75分
   出演=横倉健児・中尾幸世・若林彰・友川かずき・菊地とよ
   撮影=葛城哲郎  録音=太田進發 
   音楽=渡辺晋一郎  効果=岩崎進   

 週間TVガイドには"夢のような少女を慕う一少年のひたむきな愛。
   捨て去り,かえりみようとしない現代への疑問符"

 1974年10月15日=NHK・GTV 10時15分から
 49年度(第29回)芸術祭参加TVドラマとして放送。
何か受賞すれば,再放送の可能性もある。12月中旬のNHKの番組に注意するべし!
 (何も受賞せず,結局,再放送されたのは22年後の1996年4月BS放送だった。2001年5月13日のNHKアーカイブスでも放送)

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 『さすらい』をみた後,しばらくすると,佐々木昭一郎の名も忘れてしまい,『夢の島少女』が放送されることを知った時,3年ぶりに彼の名を思い出し,期待に胸おどる感じだった。そして,期待以上のしばらしさだった。これまでの経歴がなかったとしても,佐々木昭一郎こそ,わが国最高のTVディレクターであると,はっきりいえる。
 ぼくと同じことを思ったであろう,YOTAこと池田博明氏に,まずは『夢の島少女』を語ってもらう。タイトルはぼくが勝手につけさせてもらう。

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 夢の島少女<論> 
  ★YOTA★池田博明     補足★M・G・MAO  
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 アバン・タイトル−おごそかにクラシックのオルガン曲が流れる。
 タイトル『夢の島少女』モノクロで,ニ三行の詩のような字幕が数カット
 「我々は深い眠りに落ちている」「遺失物を探しつづけている」というような文句だった。
 最後のクレジット・タイトルもモノクロで,本篇はオール・カラー,オール・ロケ。 (MAO) 
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 『夢の島少女』は見る者のあらゆる先入観を打ち砕く迫力を持つ。75分間,考えとどまることができなかった。それほどひきこまれたのである。カツシンの映画『顔役』以上といってもよい。これは最大級の賛辞なんだ。
 セリフが少ない。ドラマらしくもない。だが,映像詩といっては,こぼれおちるものが多すぎる。いったい,これは何だ?  
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 セリフは極端に少ない。思い出してみると,二人の主人公−少年と少女の間には,ほとんど或いは全く<会話>といえるものはなかった。(MAO)
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 夏,海につかっている所を拾われた少女・小夜子(入水自殺を計ったのだろうか)の過去や想い出が時間を無視して現われ, 現在と,あるいは幻想とつながっていく。
 夢が,時間や空間を自在に跳梁するように,ドラマは,ストーリーその他いっさいの限定を捨てる。
 遠心的なドラマである。
 少年ケンは,気を失っている小夜子を引き上げ,ほおを叩いてみて気付かせようとし,背におぶろうとしている。重い。やっと背にのせることができる。少女の足はのびきっている。ワンピースは濡れて少女の身体にひっついている。お尻のあたりもぐっしよりだ。滴がたれそうだ。むきだしの太ももがまぶしい。少年は少女の重さに耐えながら,しかもその重さが歩調を早めてくれるかのように急ぐ。フリーカメラがいい。ほどなく着く少年の部屋。小さな家。少年は少女をねかせる。
  眠れ…眠れ…・。淡い光。

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 少年の「眠れ…・眠れ…・」というささやきに,少女の「どこなの…・どこへ行くの?」というつぶやきが重なる。少女は夢見るように,過去を回想し始める−トンネルを抜ける列車−それは少年の幻想でもあるのか?
 少年は少女の夢=過去の中へ入って行くために「眠れ…」とささやくのか?とにかく二人の間にコトバはない。(MAO)
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小夜子。無口な少女。集団就職で東京に出てきた少女。 どこかの工場に務める。白い服。みんなが机を前に座って,合唱している。 職場レクリエーションのひとつ。スワビヤ民謡の「望郷の歌」だ。
  ♪ふるさとの花よ 薫るかいまも 旅路はるか
   あおぐ空に ふるさとの星よ 輝けいつも
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 ここはYOTAの記憶違い。田舎の高校で音楽の時間にみんなで合唱しているのだ。  (MAO)
少女が歌っているのは中学校の教室だった。中学卒業後,都会に働きに出てきたのだ。池田追記)
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少年は下請けのオモチャ工場の手伝いをやっているようだった。ゴム人形の小さな首を沢山並べた箱を運んだりしている。少女は浴衣を着せられ,ねかされている。
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 少年のアパートは川っぷちに建っている。部屋の窓に、大きな日本人形を抱いて少女が寄りかかっている。少女も人形も,オカッパの髪である。それから少年が少女を見つけるのは,YOTAの云うように海ではなくこれも川の岸辺だったろう。(MAO)
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 少年には友だち(友川かずき)もいる。だが,今は,少年には少女が大切だ。わけもわからず追いたてられた友だち。「もう来てやんねぞーっ」。
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 少年は友だちに何も答えようとしない。「もう来てやんねぞーっ」という口調から,大して親しい友だちではないことが察せられる。少年は,もともとひとりぼっちなのだ。(MAO)。
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 少女,稚い感謝の書置きを残して少年のもとを去る。浴衣がきちんとたたんである。少年は浴衣を手に,少女の残り香に顔をうずめ,声を出さずに泣きくずれる。(少女が少年のもとを去るのはもっとずっと後でした。池田追記
 少女の帰郷。「八森」の駅で降りる。八森は秋田県の北部,八郎潟の北方にある。  陽のあたる坂道。婆ちゃんと出会う。婆ちゃんは相好をくずして喜ぶ。
 「きれいになったナ。うれしくて泣きたくなてくる。手紙もよこさんで…」と。
 お風呂に入っている少女。炉の傍の婆ちゃんに唄を教えようとする。(お風呂で少女はマニュキアした爪を手を広げて風呂桶の外へ出して見せている。都会で働いている現在の姿を象徴する。池田追記
 ♪ド〜シ〜ラ〜ソ〜ファ〜ミ〜レ〜ド〜。婆ちゃん,やってみる。ポツ,ポツ,と。
 「のばすの,それを」「婆ちゃん,やれね」「だめだよ,練習しなきゃ…」。
 このシーンは感動的なのだ! この婆ちゃんは生粋の素人で,ネイティヴ・スピーカー,ほんとの土地の人です。 この二人のやりとりが人間味あふれる素朴ないいシーンなのだ。 このシーンに心うたれない人は,もう知らん!
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 二人は,道で出会うのではなかったように思う。バッグを下げ,白いフレア・スカートの少女が,わが家の前まで来ると,婆ちゃんがおどろいて駆けより,「小夜子!よう帰って来たな」と,うれしくて仕様がない。「きれいになって−」と婆ちゃんがいうと,少女は「ヤだナァ〜」とテレる。犬がじゃれると,少女は犬の名を呼んだようだった,忘れたけど。
 お風呂では,少女が「婆ちゃん,西洋のうた,教えてやろうか」といって,何を唄うかと思えばド〜シ〜ラなのだ!
 また,別のシーン(過去)では,故郷の海を遠くみつめながら,少女が,学校で覚えたのであろう,「ワタシのボニイは海へ行ってしまった 私のボニイを帰しておくれ 帰しておくれ」というような意味の唄を,英語で,しかも,あこがれるように少し自分でもテレるように,小さな小さな声で唄っていた。教室で「望郷」を唄っている時よりも,彼女の唄はイキイキとしていた。ステキなシーン。(MAO) ===================
 少女,食堂のウェイトレスをしている。少女を見つめている男(若林彰)。誘惑。少女は男に手玉にとられてしまった。しつこく電話をかけて誘ってくる男。この男は"おとな"という役,設定である。
 男=おとなの部屋。洋間でしかも広く,一見豪華。あのつつましい少年の部屋とは大違い。ピアノがある。「ピアノ弾いてもいい?」と少女。
 ♪ド〜シ〜ラ〜ソ〜ファ〜ミ〜レ〜ド〜。
 「これ,あたしが見つけたの…」。少女の弾くピアノの音がやがてパッヘルベルのカノンになっていく。これがテーマ曲。
 つつましい,しかし溢れる喜びをこめてただ音階を下降していく美しい旋律を「発見」したという少女の微妙な感受性。心の動きを時には緻密に,時にはダイナミックに表現する演出の冴え!

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 少女は,くり返し二度も三度も「これ,あたしが見つけたの」という。帰郷した時を除けば,少女が明るい表情を見せる唯一の瞬間だ。これが,このドラマのキイ・ワードかもしれない。男=おとな=には,それがわからない。つまらないことだ。(MAO)
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 どんな順序で,どんなシーンが現われたのか定かには思い出せず,きわめてあやしい記憶をたどっているのだ。メモなんて取る余裕を持てない程,息もつかせない程,それほど,すばらしいドラマだったのだ。
 少年の日常。
 ブルマーをはいた中学時代(高校か?)の少女。なんかスポーツもやっていたと思う。バレーボールだったかな。
 おとなの部屋を訪れる少年。少年を無視しているおとな。少年,「おまえ,人間の扱い方,知らねえのかよ!」と怒りを爆発させる(もちろん,少女のことで,男を責めている)。持っていた刃物で男を刺す。倒れるおとな。幻想か?
 家へ向い,走ってくる少女。倒れる。指を何かで刺した。走る。
 制服の少女。指に包帯をしている。これも中学の時。
 汽車に乗り少女を探しにいく少年。少女,車窓をぼんやり見つめて坐っている。少年は立っている。ふたりは同じ汽車に乗っているのか? そんなことはわからない。
 八森に着いた少年,少女の居所をたずね歩く。
 火事。小夜子と婆ちゃんの家が燃えている。小夜子はどうなったのか。婆ちゃんはどうなったのか。わからない。
 小夜子の過去。回想(ケガするのは,ここだったかな?)
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 この辺り,よくわからない。この辺りが,どの辺りなのかさえわからない。少女が指をケガするのは過去である。やみくもに駆ける。テーマ曲。カメラはめちゃくちゃにゆれて,少女の後を追うが,音楽は淡々と流れる。少女は自分の家でなく,廃屋のような所へ駆け込む。血のついた指のアップ。何がどうしたのか,さっぱり…・。
 (再放送で理解できたことは,中学時代にあずま屋で,少女は暴行されたと思われる場面だったこと。毛むくじゃらの男の腕が少女の顔をつかむ。唇を切り,指をケガし,膝をすりむく少女。池田追記
 燃えるのは,小さな納屋みたいだった。これも意味不明。少年が炎を見つめていたか?
 海岸にうちあげられた水死体。奇妙な葬列etc。
 少年が駅に降り立った時,カメラはハレーションを起こし,すぐ正しい露光に戻る。
 また,東京の男のマンションの外景を写す時も,同様だ。前者は,ぶっつけ本番の撮影でそうなったとも思えるが,後者は明かに意図的。どういう意図か?
 幻想によってしか,少年の入って行けない世界−といえるかもしれない。男を刺すのも,小屋を焼くのも,少年の作り上げたイメージか。少年は少女の死―という考えにとりつかれているのだろうか。
 少女が訳もわからず走るー何かから逃げている。少年は現実であれ幻想であれ,少女を追い求めつづけている。画面はそれ以上を語らない。また,それで十分なのだ。画面は夢のように交錯し流れ続ける。(MAO)
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 霧雨が降っている国道で,少年は,車を止めようとしている。車は止まらない。
 少女とおとなが乗っている車。少女が降りる。立っている少女。
 この辺り,どうだったか,全然記憶が定かでない。

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 街へ戻った少年は,松葉杖を白く塗って,雨の中,路上で男の車を待ちうけるのである。びっこをひき,道を横切る。男の赤い車がとまる。少女は少年にとりあわない。松葉杖をふりかざして,男に殴りかかる少年。同じカットのリピート。
 この時の少女は,紺のミニ・スカート。別の時,少年が男の部屋(?)に一人いる少女を連れ戻そうとする。少女は少年を無視。この時も,同じ衣装。衣装の区別で,どうにか少女の置かれたシチュエーションが判る。
 また別の時,少年が男(一人だ)の車を止める。男,少年を乗せ「どこへ?」とたずねる。少年は「夢の島の駅まで」と答える。夢の島の駅−とは何ぞや?そんな所は,あり得ない。
 これらはみな,少年の幻想−というより,想い,そのものであり,ウソもホントもない。どォでもいいのだ。(MAO)
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 ラスト・シーン,少年は少女を背におぶって,大地を歩いている。少年と少女をフォローしていたカメラが,ふたりの周りをゆっくり回って,次第に上空にのぼってゆく。
 少女を背負った少年は,歩きつづけている。少年は再び少女を得たのか。あるいはファースト・シーンにつながるのか。わからない。それでも感動するのだ!
 再放送された際には,ぜひみんな見よう。今度は少し落ち着いて,要点をメモしておこうと思うのだ。

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 ラスト・シーンは,たしか,こんな風である。
 まず,海に突き出した堤防のロング・ショット。パン。
 少年が埋立地の上を,はじめと同じ,赤いミニのワンピースの少女を背負って歩いている。ミディアム・ロングまたはロングなので,ふたりの表情などはわからない。そして,カメラは回りながら,ヘリ・ショットへつづき,ふたりは小さく小さくなってゆく。
 ラスト・シーンの直前が,どんな情景だったのか,それも忘れた。たしか,少年と少女が,初めてふたり並んで,おだやかな表情でどこかをみつめているカットがあった。そのあたりから,すでにテーマ曲が低く流れ,いつのまにか曲がじょじょに盛り上がり,気がつくと,ラストだった,という次第。
 そして,ごく,あっさりと,モノクロのクレジットが,読み取れないほど手短に現われ,消えて,終わる。 (MAO)
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    朝日新聞(1974年10月15日 TV作品紹介欄)

       夢の島少女          メルヘン風に描く異色作

 物質第一主義の現代−人々は,一番大切な何かを,あの"夢の島の廃品"同様に捨ててしまい,
かえりみないのではないだろうか。これは田舎から東京へ出て来た清らかな少女と,孤独な少年との出会いを,メルヘン風に描くことによって,現代とは何かを問いなおす異色のドキュメンタリー・ドラマ。作・演出・佐々木昭一郎。芸術祭参加作品。

 早朝,東京都内のある川のほとりで真っ赤なワンピースの少女小夜子(中尾幸世)が気を失って倒れていた。川沿いの安アパートで文鳥を飼う少年ケン(横倉健児)は少女を助け,部屋で介抱する。少女は少しずつ意識を回復,画面に彼女の過去が浮かびあがってくる。そして,少年は次第に少女の記憶の中にはいってゆく。

 その記憶の世界を,時間や地理的空間の概念を無視して映像化した感覚的な作品。出演はすべて素人。
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     夢のまた夢 <夢の島少女>
      でまかせ対談 構成MAO  
  YOTA★池田博明 × MAO★藤田真男
 当時は手紙をやりとりするだけしか、通信方法が無かった。室に電話もなかったのだ。この対談は手紙の文言をツギハギして藤田君が対談風に構成したものである。


MAO=みたか、夢の島少女―――
YOTA=みたヨ(と、さりげなく)
M=なー(と、万感こめ)
Y=ウーム。
M=どォ?!
Y=すばらしい!
M=よくわかんなかったけど。
Y=別に難解じゃない。なのにわかんない…
M=それでも大感動できる。
Y=そう。なぜ感動するのか、それがわからないのだ。けど、とにかく今年のTVドラマのベストはこれだ!
M=ぼくは、生涯のベスト・ワンに決定!何といっても、ラスト・シーンでは本当に涙が出てしまって、TV見て泣けたなんて初めてなんで、我ながらおどろいたのだ。ホントに。
Y=少年が少女をおんぶして歩いている。それだけなのにね。
M=ラストだけみても、どォということはない。また、ラストがなければ、それまでの70分以上では感動しないと思う。
Y=ナヌ?それじゃ、お風呂のシーンに心うたれなかったとゆーのか?この人でなし!もう知らん!
M=いや、画面はすべて均質なんだよ。ただ、ラストでは、それまでなかった、ある自然な統一が生まれるようになっている。
Y=たしかに、映像が美しいというようなことはないね。モノクロでみたから、よくわからなかったけど。
M=ぼくは、わざわざ帰省して家のカラーTVでみたけど、カメラもカラーも、あたりまえのドキュメンタリー調だ。
Y=ただ、構成というか編集が、とてもついいて行けないほど、めまぐるしい。『顔役』みたいな油ぎった迫力じゃないから、シンドイという感じはないけど。
M=アップも少ないしね。ふつうの意味での迫力じゃない。

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Y=みてるそばから、どんどん忘れてたみたい。セリフが画面の流れを補うということもないし。
M=セリフは本当に必要最小限まで捨て去られてる。主なセリフといえば、さっきの<論>の中にあげたのでほとんどすべてだよ。
Y=それで75分だからね、信じられん。
M=時がたったから記憶がアイマイになるーというようなもんじゃない。まァ、記憶力はいい方じゃないけどさ。ほんとにみながら忘れていく。
Y=夢みたいに。夢っていうのは、半ばめざめかけている時に<みる>ものだ。<みる>というのは、つまりぼんやり覚えている部分をいうわけね。
M=ほとんど忘れちゃう。しかも目がさめて、その直後に夢を忘れてしまう瞬間があって、その瞬間を通りすぎて、なお記憶に戻ってきたものが、いわゆる<夢>なんだ。
Y=そういう体験と、とてもよく似ているね。このドラマをみるってことは。
M=意識と無意識のはざまにまさに跳梁している、としかいえない。
Y=ストーリィも、ほとんどないに等しい。カット割りも一見デタラメ。あえて、ふつうのドラマのように説明しようと組み立て直せば、さっきの<論>のような形にはなるけど…・。結局、そんなものは、どォでもいいのだーというと言いわけめくかなァ。
M=でも、やっぱりそうだよ。
Y=いいものは、いいのだ!このドラマに関しては「よかった!」「すばらしい!」だけで充分なのだ。あー、またゴマ化すみたいで悩んでしまうなァ。

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M=テーマ…というと<現代文明>だの<メルヘン>だのということばを当てはめた紋切り型になってしまうけど、それではひどく空しい。
Y=何ひとつ、すくえない。コトバを捨てていくドラマだからね。
M=遠心的ドラマとは、さすが、うまいこというなァ。じゃ中心には何があるわけ?
Y=さァはっきりとは、わかったような、わからないような…<ふれあい>かな?
M=ただぬくもりが欲しいだけ?沖田センセに聞いたらわかるかもね?(中村雅俊のT Vドラマと歌「ふれあい」に関係して)。でも、当るらずとも遠からじ…じゃないかな。こじつけになるけど、ラストでカメラが二人の周を回りながら遠ざかってゆく。これ、まさに遠心的。
Y=で、中心には二人だけが残され、他はすべて切り捨てられるわけか。
「人間の諸々の外的な属性を切り捨てていったあとに残るのは、無時間的で無意味な世界にさらされている自分の肉体ひとつであり、貧しさは人間の外側をおおっている非本質的な夾雑物を取り払って、人間を自然状態へ近接させるのだ」

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M=これは、堀切直人が、つげ義春の『李さん一家』について述べたことばだけど、そのまま『夢の島少女』にもいえる。夢の島っていうのは、これも紋切り型でいえば、現代文明のゴミ溜めということになる。
Y=でも、それじゃ、また落ちこぼれてしまう。
M=<無時間で無意味な世界>、それが<夢の島>だ。歴史も意味も失われた、無用のガラクタの堆積、そこで少年と少女は、あらゆる意味関係から自由なのだ。
Y=それが、さっきいった、ある自然な統一ということ?
M=多分ね。画面の流れと音楽の流れ(B・G・Mだけでなく、唄も音も含めた)も、ラストに至って初めて調和する。別々の河の流れが海へ出たように。佐々木昭一郎の3作とも、みな海で終っているのはそのためだろうね。もちろん、3作通して少年にとっての海は変化している。それは、もちろん<成長>ということじゃないし、また、母なる海=胎内回帰願望と短絡させるのもまちがってるように思う。
Y=じゃ、『マザー』での<ぼくの海>と『さすらい』での<大家族>と、今度の<夢の島>は、ひとつの水脈なんだね。
M=うん。どこでどう結びついているかは、よくわからないけど、多分、そうだと思う。
Y=なるほど。とにかく、そこでは、もう流れは終って、意味=コトバがない、ということだね。だから、少女のピアノと「これ、あたしがみつけたの」というセリフからテーマ曲へ移って行くところがキイ・ワードというわけね。カノン形式のテーマ曲を使ったわけがわかる。ドシラ〜の旋律がテーマを追いかけ、ラストで一つになる。ところで、少女の口ずさむ「私のボニイ」云々という唄は何?
M=さア、Bring Back,Bring Back My Bonnie to me to me てな歌詞だと思うけど。昔、ぼくも学校で習ったような気がする。
Y=「望郷」の方はいろいろ調べてみて、ようやくわかった。歌詞はドラマのものとは違ってたけど。テーマの方は大体、パッヘルベルのカノンを元にしてると思う。

 *その後、調査して同じ歌詞で教育芸術社「中学生の音楽2」(中学2年生用の教科書である)に「望郷の歌」(3部合唱。宮沢章ニ作詞,ドイツ民謡)として載っていた(この教科書は1974年発行だった.1971年から検定済で使用されていた。ちなみに『夢の島少女』の放送は1974年)。さし絵を安野光雅が書いている。そして、この教科書では「望郷の歌」の次の曲が「My Bonnie」(イギリス民謡)。小夜子が中学で使用していた教科書はこれに違いない!
 「望郷の歌」自体は昭和30年(1965年)には,「小学生の音楽6」(音楽之友社)には「わかれ」(小林純一作詞)として載っている。歌詞は「うるわしき 花は 梢を飾り 楽しげに 鳥は さえずり 鳴けど さらば さらば 友よ さらば 別れ行く 朝(あした) ここに 来たりぬ」 。古くから親しまれている曲なのだ。スワビヤ民謡とは確かなにかの楽譜集にあったと思うが、「スワビヤ」という地名は見つからない。池田2000年追記

M=TVガイドには「音楽・渡辺晋一郎」とあるけど、これは池辺晋一郎のミスだろう。今年の芸術祭ラジオ部門に、彼の「ダイモルフィズム」というパイプオルガンとオーケストラのための曲が参加した。ぼくはクラシックには全く無知だから、バッハもベートーベンもわかんないけど、とにかく『夢の島少女』のテーマ曲は、すばらしかった!
M=おぼつかない足どりで少年は少女を背負って歩きつづける。カメラは旋回しながら上昇して行く。ひどく不安定だけど、やさしく包み込む、いや包み込むのではなく、遠ざかる。この時のカメラの、ひいては我々の視線は、すごく重要だ。このラスト・シーンで何か思い出さなかった?
Y=さァ、何だろう?頭で感動を受けとめられるようなものではなかった。
M=つげ義春の『紅い花』のラストね、ぼくは『夢の島少女』を見終わった時、まずそれが浮かんできた。さっき堀切直人の文を引用したのも、それがあったからなんだよ。
Y=なるほど、似てるなァ。『紅い花』も、少年が少女を背負って花畑の向うを歩いているロングで終っている。その時の二人のやさしさは、我々には関知できない距離がある。少女もオカッパだ。
M=しかも、ラストの小さなコマの中の地平線は傾いている。これは『夢の島少女』の不安定なショットと同じなのだ。でね、ぼくは『紅い花』は、昔、読んだきりで、少女の名前を忘れちゃって、何ていう名だったかな…と考えてたら、さっき不意に思い出した。
Y=少年が、シンデン(新田)のマサジ。少女はキクチ・サヨコ…じゃなかった?ん?サヨコか?!
M=そうなのだ!小夜子と書かないから、コロっと忘れてたけど、小夜子=サヨコとわかって、『夢の島少女』は絶対、佐々木昭一郎の『紅い花』であろう、とね、確信した。
Y=そうかァ!これで少しはわかったよ。すると、あのラストで少年はマサジのように「眠れや…」といってるかもしれないね、ナットク。
M=そういうこと。 (1974年11月15日  未完)

*佐々木さんの記憶によりますと,“『紅い花』は『夢の島少女』のロケーション中に中尾さんから教わり,ロケーション後に読みました。『夢の島少女』の主役の名前をどうするか、ケンと中尾さんに聞いたところ,ケンはケンにすると答え,中尾さんは、ややあって、小夜子と紙に書いてくれました。それで,キクチサヨコを知りました”(2010年池田追記)。

TEST PATTERN あとがき
* *************
  いささか冗長だったけれど,16ページを費やしたところで,ぼく自身,佐々木昭一郎の世界がみえてきたような気がする。もちろん,わかっていないことの方が,はるかに多いだろう。ここでは,あくまでも表層をなぞってみたにすぎない。佐々木昭一郎の名を知っている人は多くはないだろうし,ここには述べたことから,はたしてどれほどのことをわかってもらえるか心もとない。
  ♪私の気持ちがうまく あなたに伝わるかしら
    ♪心に思う 半分も いえないことが 心配なの
    (アグネス★星に願いを)

============== 
 ようするに,佐々木昭一郎というТVディレクターがいることを覚えていてほしいのだ。そして『夢の島少女』が再放送されたなら,ぜひ見てもらいたい。それがムリなら,何年先になるかわからないけど,彼の次回作を見てもらいたい。
 つげ義春の読者である人になら,佐々木昭一郎の世界を,おぼろげかもしれないが想像してもらえることと思う。つげ義春も知らない人は,「ガロ」の青林堂に注文しよう!
 そして,「映画評論」1971年4月号,堀切直人の「つげ義春あるいは洞窟から迷宮へ」という論文も,ぜひ目を通すべし!
 この,つげ義春論は,かなりの部分を,そのまま佐々木昭一郎論として読みかえることが出来るように思う。たとえば ――

==============
  だが,表現には対象化と意味賦与作用が絶えずつきまとわずにはいないのであるから,当然,つげの表現は意外と無意味とが交錯する場となる。 無意味の表現なるものは,それ自体逆説的な存在であり,いいかえれば<表現の不可能性>の表現であり,<無意味の不可能性>による無意味の捕捉であるために,こうした表現は表現の死滅をめがける<運動>としてみずからをあらわす。彼の作品はそのような表現と無意味との敵対関係(アンタゴニズム)の引き起こす運動の軌跡なのである。 (堀切直人)

================ 
  表現の死滅をめがける運動の軌跡 − 思えば,<作品=表現>の存在し得ないТVにおいてこそ,このような逆説的な敵対関係が生まれてきて当然なのだ。佐々木昭一郎の<ドキュメンタリイ・ドラマ>が,まさにそれである。<作品>対<番組>。

 「毎日新聞」10月31日付「映像時評」で,岡本博が『夢の島少女』にふれて,ТVにおける<記録>について述べている。トチ狂ったТVドキュメンタリー論としかいえない雑文だが,論のマクラとして,佐々木昭一郎の短いコメントが引用されている。
  彼は,『夢の島少女』を演出するにあたって,ドラマトゥルギーをその<一回性>によったということだ。 ぼくは『さすらい』のところで,佐々木作品を,素人ТVドラマだといった。ことばのアヤかもしれないが,ウソをいうつもりはない。ただ,そんな風にいうと,いいかげんな即興的思いつきを並べ,ストーリイなど初めから度外視した,いわゆる<ハプニング>とやらを安売りするドラマ(非ドラマ)のようにとられかねない。そうではないのだ。ドラマトゥルギーの一回性,表現の不可能性との敵対において,ストーリイやシチュエーションは仮設され,捨て去られるのである

============ 
 つげ作品と佐々木作品の軌跡を重ね合せて,もっとくわしく検討すべきだが,そろそろ紙数も尽きるし,忘れてしまったことが多すぎる。いくつか気付いた点を並べるだけにする。

============
  『夢の島少女』で少年は汚くよどんだ川から少女を拾う。つげ義春「山椒魚」での地下水道の上流から流れてくる胎児の死体のようだ。
  少年の飼っている文鳥は,つげの「チーコ」を思わせる。
  小夜子の婆ちゃん,『さすらい』の老婆たちは,「ねじ式」「ゲンセン館主人」の老婆=生れる以前のおっ母さんだ。老婆は,小夜子やひろしに非性的小児的なやすらぎ,なつかしさ=故郷=を与えるが,それは一時的なものにすぎない。お風呂は,羊水。といえば考えすぎ?
  ひろしが出会うのが,霊場めぐりのお遍路さんであったのなら,これは,こじつけとはいえぬ。『さすらい』に<性>がぬけおちているのも注目すべきだ。性的対象としての女性は,ひろしの<さすらい>をとめ,定着させるだろう。笠井紀美子は<母>というより,『マザー』のアメリカ女性に似た設定だろう。
  それから,『夢の島少女』の少年は『マザー』の少年と同一人物である(横倉健児)。
  『マザー』から『夢の島少女』まで,少年の生は閉じられた円環であり,過去は空白,無時間世界にいる。小夜子の生は有限で直線的。大人になりつつあり,大人になれず,過去や死へ逃げようとする。
  汽車が次々とトンネルをぬける −少女の夢または回想への入口,そこへ少年の幻想が同乗する − 光・闇・光・闇…すなわち<時間>である。少女は過去へさかのぼり,<帰郷>するのだ。
 主題に通じる重要なセリフ<夢の島の駅>― それは<時間>の線上にはなく,少女を自分の世界へ引き入れようとする少年の想像力の中にあるのだろう。<銀河鉄道>?!
  三作を比較し,更に対象とカメラの視線の関係と表現について考え出したらキリがないように思うので,それはやめとく。
  いろんな意味で,『マザー』と『さすらい』を合せたのが『夢の島少女』であるように思う。ラスト・シーンの二人の姿は,0時を指したまま,重なり合ってピタリと停止した時計の長針と短針に似ている。

============ 
 とにかく,佐々木昭一郎は,我々の魂の内に深く根を下した<遺失物>を探り出そうとする恐しく,鋭くナイーヴな感性をそなえ持つ人であるといえる。(MAO)。
* ***********************
 
★ 次号予告★ 第2号は,ガラリ一転,ハードボイルド・ギャグ,アニメ「ルパン三世」特集! サッポロ(YOTA)から出ます。乞御期待!

 日曜日にはTVを消せ 第2号

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