日曜日にはTVを消せ No.2
★1974年12月15日(日)
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★ 『夢の島少女』誌上再放送
★ 特別付録「夢の島の少女」コピイ
★ 制作★PHC・TV★豊橋=札幌
★ 提供★混血桃色通信=PHC (豊橋市東小浜町129白井方【当時】・藤田真男)
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* ************************ 夢の島の少女 佐々木昭一郎 「シナリオ」1975年1月号より pp.21-25 十一月十四日のイリュージョン日記。私は今日も同じ夢を見た。私の意識は今,一人の少女を「活字」によってなぶりものにし陥し入れようとしているある背景をカサに着た一人の男に向って流れている。 その男は「無署名」だった。「無署名」はふちなしメガネだった。「無署名」は黒っぽいコートを着ていた。 「無署名」のメガネの奥の陰気な目は何かを隠してネラッていた。全てが「無署名」だった。「無署名」は無垢の少女の心臓を一突きにしたのだ。私は昨日も同じ夢を見てしまった。 少女の胸から伝わる血液が背負っている少年の私の背中にニカワのようにこびり付き,私は無人の夢の島のゴミを踏みつけて果てしなく歩いていくのだった。そこは海だった。 黒い空が同じ色の海につながっていて,風が吹いている。波の間に間に私の父親の死体が見え隠れして浮いている。 黒いデコボコの岩の上に下駄をはいた少年の私が海を見ている。これが意識が芽生えてから私が記憶した最初の風景だ。 これが何歳の記憶かも日本のどこの海かも分からない。なのに私の記憶にこびりついて離れようとしない。 私は,記憶が芽生えてから,私がものを「見て」「感じた」全ての事柄を記憶に留めておこうとしたのは,父が私を江の島に連れていった時からだろう…。 中学二年の夏から,私はかつぎ屋をはじめた。 上野から汽車で十六時間,仙台の先の鹿島台から歩いて三里の山奥にある父の兄の家から, 四斗米をリュックとボストンに詰め込んで大宮駅で下車するのがいつもの手だった。東北線に乗るのは苦しくなかったが,郡山の二つ手前にある須賀川を通過するのが苦しくかった。 この駅で私の父は死んだのだ。6歳の夏,父は私の目の前で大量の血を吐き出した。血は窓ガラスにも吹き上げ,血だらけの私は立ちつくしてふるえていた。 水兵が二人父の体を窓外に運び出し,真夏の駅のベンチで父は放ったらかされて死んだのだ。 海を見に行った次の日だった。翌日,東京からとんできた母と父の死体を見に行った。ホルマリンが悪臭を放ち私のシャツに浸みこんだ。 病院の庭一面に真赤なボタンが咲いていて,母のハンドバッグがその上にこぼれ落ちた。口紅と手鏡とチリ紙を拾いながら「あしたからどうしよう」と母が呟いたのを覚えている。 ハンドバッグの止め金がこわれてクチを開いたままになったのも覚えている。葬式が済み,私は小学校に行った。クラスの全ての視線が私に集った。その視線は私を異状な人間として見ているような気がしてならなかった。 私の体が悪臭を発しているような,匂いをかぐような視線だった。 それ以来,私は人々の視線によって犯されているのではないかと云う恐怖におびえ続けるようになった。 中学を卒業すると,私は英語の塾に入った。相変わらず一ケ月一回のかつぎ屋をやっていたのだがもううんざりだった。
何とかして独立したいと気持ばかりが焦り,その頃流行の通訳になって金を得たかったのだ。英語塾は御茶水と神田の中間にあった。
丸坊主でツメエリの生徒は私一人だけで他の五○人ほどの生徒は銀行や会社から派遣された大人だった。辞書を食うほど英語を暗記した。
声を発して体で覚えるやり方は内閉的な私の性格を開放した。レスター・ホールというアメリカ人の牧師が担任だった。
何かにつけ可愛がってくれた。私は,おぢさんと呼ばれていた四○歳位の中国人と机を並べていた。
「きみは一番若いから可愛がられるのだ」とおぢさんはいつも言っていた。
ある日,レスターさんは私を廊下に呼んで,私をアメリカの大学に入れるようにするから頑張るように,とにっこり笑って手を握った。
その時,レスターさんの顔はキリストのようだった。私はどんな事があってもこのチャンスは逃がすまいと思った。
FENの「口笛を吹く男」と云うラジオドラマや,「ボッブホープショー」などの英語が,ほとんど理解できるようになっていて,
この事を逐一レスターさんに報告した。レスターさんは気に入った生徒を毎週土曜の夜,自宅に招待してくれるようになった。
私は中国人のおぢさんといつもいっしょに出かけた。その家は有栖川宮公園の近くのレスターさんの教会と同じ敷地にあった。
コーンスープ,コンビーフ,玉ネギの薄切りをパンの間にはさんで食べるハンバーガーがいつもごちそうだった。
すべて生まれてはじめて食べるものばかりだった。記憶が芽生えてから,楽しいと感じたのはこの時期がはじめてだった。
私は有頂天だった。いつもアメリカの大学の事ばかりが頭にこびりついていて夢のようだった。
が,そんな夢が,バカみたいに一変する日がやって来た。ある日,私一人だけがレスターさんの家に呼ばれた。
レスターさんは険しい顔をして,私にお祈りをさせた。それから,身を清めるようにと私の手を取った。
私は何の事かさっぱり分からず,言われる通りにした。
私は吸い込まれるようにいつもハンバーガーを食べた居間の裏手にあるシャワー室につれて行かれた。
シャワー室の扉は下の方が三十センチほど切り取られていて,外から見ると人間の足だけが見える仕掛けに作られていた。
私はシャワーを浴びた。するとその三十センチのスキ間からレスターさんがタオルを持って覗き込んでいるのだ。
私はその時はじめてこの人が何をしようとしているのか咄嗟に理解する事ができた。
私は夢中でシャワー室から飛び出して身体も拭かずに洋服を着た。レスターさんは私の足元にすがりつき,
何やら訳の分からない事を口走っていた。六月の末だった。私は汗だらけになって夜の道を走った。
もうキリストの裸像など見るのもイヤだった。翌日,塾へ行った。
何となくクラスの視線が異様に私に向けられているようで,私は下ばかり向いていた。
その視線は,父がのたれ死にしてから,はじめて小学校に登校した日のものと同じような気がしてならなかった。
私は,私自身の存在が,人々に対して,何か卑猥な響を発しているような錯覚にとらわれて仕方がなかったのだ。
私の存在が,人とは違って異状で,汚らわしい悪臭を放っている,と感じるようになっていった。
それはなにもレスターさんの事が全ての原因ではないのだ,と思った。
電車に乗っていても人々の視線が気になったから,私はいつもドアガラスに鼻がひっつくようにして外ばかり見なければならなかった。
一種の対人恐怖症にずっととり憑かれていたのだ。アメリカの夢から醒める迄一週間はかかった。私は塾へ行くのも止めた。
当面,何とかして英語を進歩させ,同時に食べて行く方法を探すことにした。
そんなある日,新聞広告で通訳募集の広告を見つけた。
新宿駅から歩いて十分,今の風林会館から三百メートル位裏手にあったホテルメトロが募集主だった。
焼跡の原っぱの中の白いモルタル風の二階家だった。通称兄貴,タンさんと呼ばれている人が支配人だった。
私とレイ子さんと云う女の人二人がその日のうちに採用された。レイ子さんは住み込み,私は朝9時から夜9時迄の日勤だった。
仕事はアメリカ兵を部屋に案内し,ベッドシーツを取り変えるのが主の下足番だった。
日給三百円と云う約束だった。レイ子さんの仕事は電話交換と受付だった。髪の長い目の大きな美人だった。
十七歳を二十歳とウソをついていると私にだけ教えてくれた。私は十五歳を十八歳と偽っていた。
ある日レイ子さんは片足血だらけになって階段から落ちて来た。それから毎日泣いていた。
一週間位経つと,すごい化粧顔に変り,私にはクチもきいてくれなくなった。十日目に支配人は五○○円くれた。
そして年齢を偽ったから給料を減らした,とすごんだ。私は他に行くところがないので,
もっと働きたいと云うと,「アメリカ兵の言う事を聞くなら」もっと働かせてやると言った。
私はキリストの裸像を思い出し,辞めることにした。辞める日に,レイ子さんが千円くれた。
返そうと思ったが,なぜかポケットに入れてしまった。私は何のあてもなく新宿を歩いた。
新星館で「狂恋の果て」と云うフランス映画を見た。ジャン・ギャバンとディートリッヒの映画だった。
浮気女に夢中になった男が全てを失って最後に女を殺す物語だった。そのみじめったらしいうじうじした男の生活が,
何故か私の来るべき姿なおではないか,と想像しゾッとした。
同時に胸がスーッとしたのを覚えている。何とかして英語で身を立てたいと重い,立川のキャンプや成増,
築地の海軍病院に売り込みに通ったのだが,いずれもゲートのMPから門前払いを食わされた。
夜はFENを聞いて勉強し,昼は新宿の安映画館に入りっきりでアメリカ映画の英語を聞く生活が十日ばかり続いた。
電車賃が惜しいので歩いて通った。そのうち,帝都日活の上に三○円の映画館があるのを発見し,毎日通うようになった・
上映されている映画はフランス映画ばかりだった。
どのアメリカ映画よりも胸に響いてくるものが多かった。それ等は皆,不幸な主人公の異状で犯罪的なものばかりだった。
私はそれ等の主人公と同じように最後はボロボロになってしまう人生に自分を置きかえることを想像して異状な興奮を覚えたのだった。
悲痛な恋の物語が多かった。が,それ等は遠い国の遠い物語なのに身近な現実の出来事として私をとらえて放さなかったのだ。
ダメな方向に全てが押し流されて行く人物に光を当てて描こうとする作家はまた何とやさしく,残酷な人だろう,と考え込んだりした。
「望郷」「シーラ山の狼」「令嬢ジュリー」「鉄格子の彼方へ」「狂恋の果て」。
ダメな人間がダメなりに生きて行ける見本のようなものを示された私は,
それからというもの,一層空想にばかり耽るようになり,あらぬ事を考えては新宿と家の間を歩いていたのだった。
空想する,と云う事は私を増々ダメにして行った。英語の勉強は当然のように停止した。
そんなダメなある日,私は何となくレイ子さんに会いたくなり,メトロホテルの方向に歩いて行った。
ホテルの前にさしかかった時,一人のレインコートを着たふらふらになった男が,
十人ばかりの群衆にとりかこまれてばり雑言をあびせられているのを見た。
その男はコートのエリを立て,顔中血だらけだった。群衆の中にはアメリカ兵が四人いた。
男はバツが悪そうにとぼとぼ歩き出し群衆は散って行った。男は人々の視線をあびていながら必死にそれを無視するように歩いて行った。
男は一年前私の家の近くの物置小屋に住んでいた金子万吉さんだった。
私は万吉さんが「世界は人殺しを商売にしてもうけているのだ」とクチぐせのようにくり返していた言葉を想い出した。
万吉さんは横須賀の米軍基地で死体処理をやっていた人だった。
ある日,万吉さんに連れられて横須賀線に乗った。
電車の中で,万吉さんは「一日二千円になるからやってみないか」と仕事の内容を説明した。
朝鮮戦争で戦死した兵士のバラバラ死体の五体を合わせ,包帯でグルグル巻きにすること。
五体は一致しなくてもいいからとにかく適当につなぎ合わせて巻いてしまえば良い。
大金持になれる。どうせ世界は人殺しを商売にしてもうけているのだから,と云う事だった。
私は横須賀のゲートに着く迄,万吉さんの話を信用しなかった。
海軍基地のゲートには銃剣を持ったMPが4人いた。私は当然,追っぱらわれた。万吉さんは震えていた。
ゲートの奥の方に黒い船が止っていた。その船の底で万吉さんはこれから仕事を始めるのだ。
彼は誰かそばに居て欲しかったのだ。私は電車賃が無いので駅の改札口で万吉さんが帰って来るのを待っていた。
万吉さんは酔って帰って来た。帰りの横須賀線はガラガラだった。万吉さんは一言も発しなかった。
横浜で東横線に乗りかえた。電車は混んでいた。人々の視線が万吉さんに集中した。彼は異臭を放っていたのだ。
「今日はシャワーを忘れた」と万吉さんは小声で言った。
人々の視線を感じたのか万吉さんは次の駅で「気持が悪くなった」と言って一人で下車して行った。
その万吉さんが,新宿のメトロホテル前で人々になぐり倒され同じような視線によって殺されかけていたのだった。
私は万吉さんに声をかける事もできなかった。
一年前横須賀に行った記憶が現在の事のように感じられ,今目の前の出来事がずっと遠い映画のシーンのように思えてならなかった。
万吉さんはとぼとぼ歩いて行った。群衆も散って行った。
すると,ふらふらのはずの万吉さんが風のようなスピードでメトロの前に走り引き返して来た。
彼はメトロの前のドラムカンやゴミ箱を力いっぱいに投げつけ,ガラス戸はメチャメチャに破れた。
彼は野球のピッチャーのようなかっこうで手当たり次第に物を投げつけた。再び人々が群がり万吉さんを取り押えた。
彼は「人殺しめ」と大声でわめき散らしていた。私は恐ろしかった。と同時に鳥肌が立つような感動を覚えた。
これ迄観たどの映画よりも熱い感動が全身に伝わった。
今,人の視線を全身で浴びて殺されかけている三十を過ぎた万吉さんが,どうしても十五歳のこの私と同じ人物であるような気がしてならなかった。
人々に何か卑猥な驚きを発して存在している等質の人間であるような気がしてならなかった。
それからまた,新宿と家との歩きの生活は続いた。
金が無くなると品川の専売公社ピース工場で香料の大ビンを運ぶ仕事をした。四百円だった。
テネシー・ウイリアムズの主人公に魅かれ,ドストエフスキーの主人公やフォークナーの主人公に熱中した。
ダメな人物に心を魅せられダメな自分を励まそうとしたのだった ―― 私は,自分が作ってきたテレビジョンの方法について書こうとして筆をとった。
が,なぜかこのような幼児体験の記憶の断片を記してしまった。私には,どうしてもそこへ帰って行ってしまう悪癖がある。
私は「記憶」をノスタルジーと考えた事は一度もない。むしろその逆だ。
ものを,「見て」「感じ」とっていた何の背景もない幼少の頃の私は真実の私だったと思う。
意識が芽生えてから,私は私が体験し,記憶したものの全てを重箱のスミをつつくように頭の中に記ロクして詰め込んでおこうとしたのだった。
現実生活者として背景を背負い,時代にコミットしはじめてからの私は,幼少の頃と比較すると,「真実」からほど遠い所に居る。
私が私のテレビ作法を敢えて語るとすれば,それはこの二つの間の真実をゆれ動いている「私」を伝えようとしている何かだと考える。 |