2013.02.02

   広島工業大学図書館で「ダイナミックな脳−カオス的解釈」(岩波書店)を借りてきた。対話形式で書かれていて、「複雑系脳理論−「動的脳観」による脳の理解」(臨時別冊・数理科学SGCライブラリー13、サイエンス社)の一般向け解説版だそうであるが、この本編は絶版品切れで、この辺りの図書館にも置いてない。(京大の幾つかの図書館にはある。)よほど売れなかったものと思われる。

第1章:脳の理論はいかにあるべきか?

    最初に情報の定義が出てくる。物理量を感覚器が神経パルスに変換する処ではまだ情報ではなくて、それが動物の行動や内的状態(情動とか)を引き起こす段階が情報である。つまり動物にとって「意味」が生じた段階を情報と呼ぶ。これは吉田民人流の定義では「記号」である。物理量が最初に「情報」(記号)に変換される場所は皮質からのフィードバックによる意味(動物にとっての文脈)が伝えられる場所、つまり視床ということになる。

    感覚情報自体は不完全であり、必ずや解釈されるが、その基本的原理は
1.脳が世界の内側に居ながらも世界の外側から世界を観測する。つまり、主観と客観を共に生成できる。
2.脳は物体の連続性、空間移動に対する不変性を獲得し、それが普遍であることを知る。つまり物理学。

基本的先行理解として、
1.自己中心座標と物体中心座標の間に変換が存在する。
2.世界の境界は世界の外から見れば負曲率であり、世界の中からは正曲率を持つ。(部屋の角は飛び出さない。)
3.世界に存在する物体は円柱や球で近似できる(凸体)。
4.体性感覚により得られた物体の一次変換に対する不変性は物体に拠らない。
5.光は斜め上方から差し込む。

これらを元にして、感覚情報から最初の世界解釈をするが、勿論その後の検証過程でこれらの解釈が修正されていく。

    ここでは、世界についての完全な情報が可能であるという前提がある。マーの視覚理論の前提であり、静的な視覚情報処理(物体の解釈)については破綻をきたさないが、生物についてはそうは行かない。生物については、ウィトゲンシュタインや郡司幸夫氏のような徹底的な懐疑(完全には知り得ない)の立場と不定な情報も解釈の世界に取り込む客観の立場とがある。基本原理の1は後者の為に必要である。津田氏はどちらかというと後者の立場である。

    解釈とはコミットメントの事である。参画するためには状況の先行的理解が必要である。参画によって解釈が修正されていく。ニューロンの発火を記述する多変数は情報ではない。情報表現のための変数に過ぎない。情報とはそれらの変数が「意味」するものである。しかし、この意味するところのものを我々は予め知る方法を持っていない。つまり、通常の科学における理論と実験だけでは脳は理解できない。それに加えて工学的構成が必要である。ロボットを作ってみることによって脳の解釈をする試みが行われている。(池上高志、谷淳、川人光男、浅田稔、国吉康夫、等々)。脳自身が世界を解釈する存在であり、それ故に我々の脳理解は脳の解釈にならざるをえない。この点が近代科学と異なる点である。(マー、ウィノグラード、フローレンス、マイケル・アービブ、エールディ、等々)

    情報単位(記号の担体、機能を表現する媒体)はその時々に応じて変わる。神経単体である場合もあれば、コラムでもある場合も、脳全体に亘る場合もある。例えば、視覚プロセスで見出された特定方向線検出細胞はそれだけ取り出して取り換える訳には行かない。ネットワークの中でしか働かない。機能モジュールではない。網膜上での興奮の位置情報を直接反映しているとされる一次視覚野の受容野についてすらダイナミックに変化していて、文脈依存的修飾を受けている(櫻井芳雄「ニューロンから心をさぐる」(岩波科学ライブラリー1998)、これは読んでみよう)。最近成人脳においてもニューロンの再生が起きることが発見された(「科学」2000年70巻6号481-489)。極端にいうと「出来合いのニューロンは存在しない。」全体の理解無しに部分が理解できない。だから、解釈学的にならざるをえない。先行的理解と解釈の間の循環プロセスは必ずしも収束するとは限らない。この点で「カオス的脳観」を訂正するということである。

    脳の機能発現の最小単位はメゾスコピックレベル(興奮性と抑制性神経を含む数千〜数万個の単位)であり、時間スケールでは γ 波程度、20〜100Hz、10〜50msec。これは意識による時間の分断化である。エピソード記憶と場所記憶には海馬が必要で、海馬と大脳新皮質を行き来する時間200msecが θ 波の周期になっているという説もあるが、これがエピソード記憶の符号化の単位時間であろう。実際の活動は全てが過渡的である。科学理論構築の方法としては。第一原理からは不可能であり、現象論的記述でも踏み込めない。中間的な計算モデルを作るしかない。フリーマンが嗅球で作ったK3モデルがその例である。

第2章:モデルのリアリティをめぐって

    カール・ポッパーの科学の条件に関しては、解釈学理論は全く反証不可能なのではなくて、反証可能な部分を繋いだものであり、その繋ぎ方が問題なのである。そのもっともらしさの基準の一つは、部分理論の実証性であるが、構造と機能の対応をとることも判定法の一つである。脳内の様々な領野は共通した構造と特異的な構造を持つ。共通した構造には共通機能、記憶や認知や原始的な思考が対応するであろう。津田氏は解剖学的な共通項から動的な連想記憶の骨格モデルを構成した。その特徴として発見されたのがカオス的遍歴である。その条件は、

1.アトラクターの共存を保証する回帰型神経回路、
2.アトラクターのある方向での不安的化もしくは中立化の機構、
3.アトラクターを弱く壊す摂動

である。非一様カオスにおいてはノイズによって秩序が生じる。それは、元々の秩序とノイズとの共存とは区別できる。非一様カオスにおいて情報が保存されたり伝送されたりすることが観測された。一様カオスにおいては情報が減衰してしまう。カオス的遍歴では長時間相関があって冪乗則で支配される。これは類似の挙動が繰り返し現れることを意味する。津田氏の海馬モデルでは CA3 においてカオス的遍歴が見られ、その一断面において繰り返し構造(埋め込み)によるカントール集合が CA1 に写像されることが判った。CA1 からの信号は大脳新皮質に送られてそこでの処理結果が CA3 にフィードバックされる。フリーマンの作った嗅球モデルの場合は前梨状皮質からのフィードバック信号によってカオスを生成するが、結合が双方向であるから定常的にはカントールコーディングが起きない。おそらくは、時系列的に結合のON/OFFが起きていると思われる。

    脳への入力情報というのは、非平衡解放系としてパターンを形成している脳の活動における分岐パラメータなのではないか?しかし、分岐パラメータというとき、それは安定なパターンを想定している。つまり入力の変化がシステムのダイナミクスに比べてゆっくりであることを前提にしている。しかし脳においてそれは成立していない。入力はパラメータとは見なされない。それは他のシステムによって制御された変数であり、全体は Iterated Function Systems (IFS:反復写像系)と見なされる。J.ポラック氏は Recurrent Neural Networks (RNN:回帰型神経回路網)を使い、環境をそれへの変化する入力と見なして IFS を組み立てることで自然言語の学習機械を作った(文献不明)。その時、RNN の内部状態がカントール集合になり、それが言語の文法構造を反映している。津田氏のモデルでは入力を確率的シナプス結合でモデル化した。それはホップフィールド型のモデルとは異なり、記憶間をダイナミックに自律的に遷移する状態(カオス的遍歴)となる。カオス的遍歴の機構として、金子邦彦氏によって、リドルドベイシン(穴の開いたアトラクター近傍)が考えられているが、それとは別な機構を探索している段階である。Hebb則に従って学習すると、連鎖が強化される。記憶の連鎖はあたかもエッシャーの絵のように全体のランドスケープを持たない奇妙なものになる。

    感覚器から皮質への結合をフォワード結合(感覚情報処理)、逆をバックワード結合(意図、動機、状況、条件などの文脈)と呼ぶと、それらは結合の型が異なる。感覚器からの信号が入ってくると本来持っていた文脈情報が一旦見えなくなってしまうので、生理学者は長い間フィードバックのルートを無視してきた。嗅球がカオスに遷移するためには前梨状皮質からの信号が必要であり、その意味は動物の空腹である。つまり、こういう形で行動が知覚を誘導している。津田氏のモデルにおいては、行動の要素は確率的に与えられている(この辺が具体的には判らない)。

    津田氏の理論は数学的で抽象的である。心理学は言語(シンボル)で語り、生理学は神経の活動と心を結びつける方法を持たない。津田氏は数学的解釈で脳を語り、予測可能な理論を作る。ローレンツの気象モデルは現実には気象のモデルになっていないにも関わらず、その本質を突いていたからこそ、大きなインパクトを与えたのである。あるレベルでの性質の生成の機構を観測された運動そのものと区別することが、理論の信頼性を保つのに重要であり、この区別を見失うことで人々はしばしばリアリティーを失ったモデルで現実を説明しようとするものなのである。この一文の意味は、今までの記述から推定するに、実験偏重による実験者の先入観の紛れ込みとか、安易に現実的なモデルの枠組みに拘る事で強引な幕引きをしてしまうとか、そんな事である。

第3章:カオスは実在するか?

    カオスの計算機としての機能は、拡大型の力学と縮小型の力学が相空間の切り貼りで埋め込まれている時に実現される。これは最初にクリス・ムーア氏が示した一般化シフト写像というものである。拡大部で情報の読み出し、縮小部で情報を書き込む(この辺はさっぱり判らない。シフト写像というのは一連の力学的状態遷移を時間順に移動することであり、一般化となると、それに自己引用的な操作が追加される)。スティーヴ・スメイル氏の馬蹄形写像(半球と円柱を繋いだ薬のペレット状のものを縦に引き伸ばして馬蹄形に折り曲げて元のペレット内部に埋め込む操作)は典型的なカオス力学系である。拡大方向の力学はカオスを生み出し、縮小方向の力学は拡大方向の力学に依存する。縮小率が1/2より小さいと縮小方向にカントール集合ができる。初期分布はカントール集合上に書き込まれる。カントール・コーディングによって、情報が階層的に埋め込まれる。事象の系列順序が相空間の階層的なクラスターで表現される。

    カオスの発見により、多くのランダム現象が決定論的カオスから帰結され、そのランダムネスは相空間の非線形変換に起因し、ランダムな時系列は多様体上の軌道の1次元実数軸上への写像である、という見方を多くの人が信じるようになってきた。しかし、現状でのカオス解析、特に埋め込みの方法は低次元系にのみ有効である。高次元系や非定常系には使えない。だからノイズと区別するのは難しい。

第4章:ダイナミックな脳−情報と記憶のしくみ

    この章は多少突っ込んだ内容にはなっているが、原論文に当たらないと良く理解できないことには変わりない。多重コードというのは、要するに1つのニューロンが仕事の度に呼び出されて、ニューロン(あるいはコード)の集成体として機能している、ということのようである。階層的な情報処理で閉じているならば必要ない。アメーバのように異なる階層間で同じニューロン(あるいはコード)が共用される。櫻井芳雄氏は海馬でそれを見つけた。また岩村吉晃氏はサルの体性感覚野でサルが自らの意志で行動を起こして物を掴んだときだけに興奮し、同じ物をサルの手に載せたときには反応しないニューロンを見つけた。つまりトップダウンの効果がニューロンのコードに影響を与えている。タスクに応じた集成体が形成されて、その中で同じニューロンが異なるコードを持つようになっている。

    E.タルビングの記憶分類では、長期記憶が手続き記憶宣言的記憶に分かれ、宣言的記憶が意味記憶エピソード記憶に分かれる。エピソード記憶は個人的な経験であり、塚田稔はそれに「未来記憶」、J.ミーチャムとB.ライマンは「予期的記憶」、も含めた。前頭葉は個人的経験の無矛盾性を重視するから、海馬においてその時間順序などは書き換えられる。カオス的遍歴によって、出来事の記憶痕跡がリンクされる。出来事の列は海馬の CA3 において CA1 のカントール集合に埋め込まれる。非一様カオスにおいては、情報のビット混合が起きるから、伝達において情報が効率よく保存される。これは例えて言えば(位相付き)フーリエ変換によって、元の信号が周波数成分として伝わり、多少成分が失われても元の信号を逆変換である程度再現できる、という感じである。非一様カオスの軌道が繰り返し接近することで、フーリエ変換のような機能を果たしている、という感じであろうか?厳密には理解できない。脳における情報の意味は、その情報が脳の中を行き来して巡回している、というその事によって与えられる。長期記憶に関しては、海馬と前頭葉の間の3年以上に亘る情報のやり取りの中で定着することが知られている。記憶の呼び出し経路は2つあると考えられる。1つは感覚刺激が内嗅野から CA3 に入ってきて、カオス的遍歴を起動して直接経験に関係した記憶が連想的に呼び出される。もう1つは、CA3 を経由しないで CA1 に直接至る経路(貫通繊維)によるもので、プルーストのような直接経験の全体から遊離した記憶を想起すると考えられる。

    ということで、津田氏のやっていることの凡そのイメージは掴めたかと思う。彼が計算した系は動的連想記憶モデルと海馬くらいのようである。その後は理論というよりは思想に近い。いろいろな機会に講演をしているのでその記録が多くて、実質的な仕事の文献を判別入手するのが難しい。とりあえず、「複雑系脳理論−「動的脳観」による脳の理解」の目次だけをインターネットからコピーしておく。いつか入手して読みたいと思う。

第1章 序
 ことのおこり
第2章 脳の見方
    2.1 静的脳観と動的脳観
    2.2 解釈過程に基づく解釈デバイスとしての脳
第3章 脳活動の力学系解釈:低次元アトラクターによる解釈から高次元遍歴による解釈へ
    3.1 神経系でのノイズと斜積変換
    3.2 力学系とノイズとの相互作用
    3.3 カオス的なもの
第4章 カオス的遍歴
    4.1 動的連想記憶モデルとカオス的遍歴
    4.2 カオス的遍歴の発見
    4.3 カオス的遍歴の数学的側面
    4.4 カオス的遍歴の情報構造と脳における意義
第5章 カオスと縮小写像の干渉
    5.1 カオスと縮小写像の干渉
    5.2 レスラーの拡張(二次元)
    5.3 次元
    5.4 モザーの力学系と構造安定性
    5.5 馬蹄形写像パイこね変換と斜積変換
    5.6 さらに三次元四次元へ
    5.7 ニューラルネットへの拡張
第6章 脳のカントールコーディング
    6.1 嗅覚系
    6.2 海馬系とエピソード記憶の形成に関する仮説
第7章 論理と力学系
    7.1 ブールの不動点
    7.2 変換理論
    7.3 自己言及命題と力学系
    7.4 不動点型神経回路網と結び付け問題
    7.5 酵素から神経回路に普遍な論理と力学
第8章 記述不安定性
    8.1 構造安定性の概念を越えて
    8.2 不安定な論理世界
    8.3 推論の階層とカオス
    8.4 自覚的システム
第9章 思考・推論の力学理論の構築へ向けて
    9.1 なぜ実験の理論なのか
    9.2 認知実験の形式化
    9.3 動的インターフェイス
    9.4 デーモンと思考

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