市立図書館でウォルター・J・フリーマンの「脳はいかにして心を創るのか」(産業図書)を見つけたが、なかなか手強そうなので購入しておいた。政治の話が一段落したので読み始めたのだが、日本語版への序文には哲学的背景が書かれている。彼はトーマス・アクィナス「神学大全」の中の「人間論」に共感しているが、先日読んだ中世の哲学にはトーマス・アクィナスの事はあまり書かれていなかった。ともあれ、アリストテレスが、知覚の働きを対象物の質料をそのままにして形相だけを取り込むとしていて、単なる受容作用と見ていたのに対して、トーマス・アクィナスは能動知性がまず感覚するものへの期待を作り出し、実際の感覚と比較することで、理性にその差異を認識させてより正しい認識モデルを作る、という風に心の側からの働きかけ(志向性:身体への突き出し)を知覚と考えている、というところが、著者の研究結果と一致しているのである。トーマス・アクィナスは勿論教会の要請に従って人間を自立的自己と考える必要があったのであるからこう考えたのであって、その後教会の権威が衰退すると、デカルトは脳を魂に支配された機械と見なしてプラトンに逆戻りし、ライプニッツ、トーマス・ウィリス、ヘルムホルツ、フロイトを経て、ブレンターノとフッサール(現象学)に至って志向性は復活したがそれは単にシンボルとその意味でしかなく、志向性本来の意味を回復したのはハイデッガーとメルロポンティの「行動−知覚サイクル」であった。

   意識という言葉は、共有された知識=良心という意味である。アリストテレスは単に行動選択基準の意味で使った。18世紀になって機械論を背景に、意識は脳と身体を制御する機能と考えられた。麻酔法の発明によって意識もまた制御されることが判り、混乱した。アリストテレスは意識に従って行動基準を分析、判断して行動に至る、と考えていたが、10-11世紀におけるイスラム文化圏(バグダッドの図書館)で、ギリシャ哲学だけでなく、インドや中国の思想も混合されて、13世紀にヨーロッパに伝わり、トーマス・アクィナスによってキリスト教神学との融和が図られた結果、まず行動があり、その結果の評価によって学習する、というスキームが得られたのである。

   著者の現在のスキームは下記の通りである。1.「能動知性」のようなものが行動のゴールを決める。2.行動のプラン、3.身構えや体位の準備、4.筋肉・関節からのフィードバック(固有感覚)による準備の確認、5.行動に伴う感覚入力変化を捉えるために随伴発射(Corollary Discharge)により感覚皮質を準備する(プレアフェレンス)、6行動開始。(この後には勿論比較学習があるだろうが。)意識は5.固有感覚と6.随伴発射というフィードバックに伴う感覚刺激で産み出される。欲求が経験されるのはその時である。脳内の神経回路において、このプロセスがどう記述されるのか?がこの本の主題である。簡単に要約する。まず個々の神経は多数の発射とフィードバックを受け取っており、そのままであれば脳では全ての神経が興奮してしまう。しかし、神経が一度興奮するとしばらくは反応できない(不応期がある)ために、一定のレベルに収まっているが、その状態は雑音である。これが脳が生きている証にもなっていて、そのレベルを調節する中枢は脳幹にある。上記の行動スキームに至るとその背景雑音が収束する。これは精密に測定可能である。収束パターンは学習によって決まる。収束した時こそ、自己と意識が統一されており、行動結果と予見のセットの評価がなされているし、その直前こそトーマス・アクィナスの記述した「選択」の瞬間である。選択の主体は脳に蓄積された諸々のパターンの経歴そのもの、つまり自己である。ただし、意識は選択に関与するとしても、それを遅延させる役割しかない。遅延の生物学的役割は勿論社会的適応のための自己抑制である。選択は偶然か、必然か、というのは昔からの哲学的問いであるが、まだ序論では問われていない。脳の活動はカオスダイナミクスであるから、それはマクロに見れば偶然であり、ミクロに見れば必然である、ということになるだろう。もっともミクロを追いかける事は原理的な可能性(数学モデル)としてしかない。

   いくつかの定義をしておく。

・志向性(intent):自己(self)がすることを選択した何か、
・動機(motivation):ある行動を選択したことに自分が与える理由、
・欲求(desire):志向についての気づきが齎す感情的経験、
・感情(emotion):プリアフェレンスが引き起こす感覚皮質の活動であり、その内容は、目標を達成した時にどのような感覚が得られるかについての想像(能動知性)によって構成される。
これらのプロセスは、本能(instinct)、イド(Id)、elan vital、現存在(Dasein)、と呼ばれてきた。志向性は欲求に先行する。ちなみに、「退屈」というのは、志向性の失敗である。つまり、十分な学習が無いために、行動に至らない志向性が齎す感情である。

      第1章がもともとの序文である。この本の目的が、近代以降の自然科学の進歩によってますます強化されつつある人間の運命の遺伝的・環境的決定論、に対する反駁であることを宣言している。決定論を信奉する哲学者達や神経科学者達は、意識を脳の活動の随伴現象と解釈し、クオリアは純粋な私的経験であって、科学の対象ではない、とする。アリストテレスは因果律を質量因、形相因、動力因、目的因として、説明したが、想像ということを考えに取り入れなかった。他の流派の脳科学者達は、神経的出来事と心的出来事は同じものの異なる様相であると提案することで、思考の問題を回避している。これらに対して、著者は「選択」という生物学的能力を説明する。その条件は、

1.選択のオプションがニューロンによって構成されることを示す脳のメカニズムを提示する、
2.選択の瞬間にニューロン回路で何が起きているかを説明する、
3.気づきの本性とその役割、その状態と意識内容の継起との関連を説明する、
である。
このような試みを可能にした技術は、

1.脳画像検査法によるニューロン集団の各領域が形成する活動パターンの観測と測定、
2.非線形脳ダイナミクスによるカオスの理解、つまり、従来雑音として確率的にしか扱われてこなかった現象の中にカオスという秩序を見出したこと、
である。

      著者が目指すのは、人間は選択能力を有するという信念の強化であり、その為に、脳の内部で形成された目標を行動によって表現することに関わる神経メカニズムを解明する。このメカニズムが因果律という人間に特有な考えを産み出すことになる。このプロセスをトーマス・アクィナスに倣ってヒト及び動物における志向性(intentionality)と名づける。この語を適正に使っているのは弁護士である。哲学者はそれを志向(intention)として思考や信念が指示するものとの関係を意味するとしているのみである。内科医や外科医は身体の成長や損傷からの回復過程の意味で使っている。ヒトと動物の大きな相違は、ヒトが自己への気づき(self-awareness)を有しているということにある。それは意志作用(volition)に不可欠である。

      以下各章の概要である。

第2章は志向性のプロセスから意味が産み出されることを示す。トーマス・アクィナスとジャン・ピアジェは同化(assimilation)と呼んだ。自己が世界への適応によって世界を理解していく過程である。

第3章では意味の生命的な構造がカオスの理論によって理解される。

第4章では、そのダイナミクスの概念を知覚のプロセス理解に適用する。脳は感覚に応答して一次感覚皮質を不安定化させて意味の構成要素となる新たなパターンを生成し、他の部位に伝える。これは食べ物が消化されるのと類似していて、情報の消化である。これは「認識論的独我論」である。この孤立の超克を目的として「意味」が構築される。

第5章では、脳活動パターンにおける脳の各部分の間で生じる自己組織化のメカニズムを説明する。脳活動はどこの部位が指導するものでもなく、合唱団がお互いの声を聞き反応しあうようにして起きる。

第6章は、気づき(awareness)が意味の生成と表出にどう関与するかを述べる。因果律という考え方は、志向性が先行してそれに気づきながら我々の意識経験が起きる、というそのやり方によって産まれてくる。直線的因果性には限界があり、「循環的因果性」というものを理解する必要がある。第7章では、脳がいかにして独我論的な孤立を超克して社会を形成するかについて考察する。意味内容の幾分かは社会構成メンバーによって部分的に消化されて知識となるが、より深い信頼の形成のためには「脱学習」(unlearning)が必要である。さまざまな行動や薬物によって、個人の自己意識による制御を緩和して意味の崩壊へと向かわせて、新たな学習に備える必要がある。結局、意識とは人間と全ての生物に対する我々の倫理的行動と態度を律する社会的契約である。
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