2013.01.30

第4章:脳の情報力学過程

    神経細胞のカオス的振る舞いは1982年に林初男と石塚智が発見した。その後合原一幸と松本元が続いた。しかし、単体の神経細胞を詳細に検討しても、脳についての有効なモデルは得られない。その後フリーマンによって兎の嗅球に張り付けた格子電極から匂いの認知に関わるカオスが発見された。既知の匂いには弱いリミットサイクル、未知の匂いには特性不明のカオス、癲癇状態になると大きなリミットサイクル、麻酔時には弱いランダムなカオスが観察された。これはカオスを使って自己制御しているということを意味する。つまり、特性不明のカオス状態が、I don't know 、学習可能な状態である。嗅球においては、視覚野や体性感覚野とはやや異なり、僧帽細胞(投射神経)同士の直接結合が無いために、多くのパターンを処理できないが、抑制細胞に囲まれていて、弁別能力はある。

    人間の脳については電極を固定して実験するわけには行かないが、脳波を観測できる。通常の睡眠は non-REM 睡眠と呼ばれて、低活動度覚醒時の α波があり、低次元カオスになっている。日常的な夢はその時に見られる。視床内側部、前脳基底部、延髄それぞれの一部を non-REM 波で刺激すると、動物を睡眠に誘導することが出来る。REM 睡眠は眼球運動とそれに同期した PGO 波という間欠的なパルスで特徴付けられる。橋−外側膝状体−後頭部視覚野に到る波である。身体の運動は抑制されていて、悪夢や幻想的な夢を見る。左右の脳が交互に眠るイルカを例外として、哺乳類と鳥類に見られる睡眠状態である。これはかなり高次元のカオスと思われるが解析はまだ不十分である。セロトニンによって non-REM 睡眠が誘導され、セロトニン抑制とアセチルコリン+ノルアドレナリンによって REM 睡眠が誘導される。一般的に言えば、解析されていない脳波のノイズは統計的なノイズと見なされているが、何らかの制御が可能なのであるから、本当の処は背後に決定論的方程式の存在するカオスであろうと思う。これはまあ、カオス論者の信念である。

    REM 睡眠の役割についてはクリックが面白い考えを提出している。まずは、通常の神経回路網による認知と学習のモデルであるホップフィールドネットワークで考える。認知されるべきパターンは単純化されて、±1 の値を採りうる S で表される神経間の結合定数 Wij で記述される。

  Wij=(1/N)ΣSi(μ)Sj(μ)

である。ここで、Si(μ)がμ番目の認知パターンを表すベクトルであり、i が個々の神経を表す。和Σはμについて採る。(ここでは認知プロセスを見るので最初からWijを与えるが、学習においては繰り返し刺激によってWijを強化するプロセスがある。)そこで神経の状態変化は、

  Si(t+1)=F(ΣWijSj(t))

である。和Σはi以外の他の神経jについての和である。つまり、結合した神経の活動を重みWijで足し合わせた結果によって、次の時刻の神経iの状態が変わる。関数Fは、ノイズの大きさを表す変数Tを使って、

  確率P(X)=1/(1+exp(−X/T)) で 1 を採り、
  確率1−P(X) で −1 を採る。

但し、この状態変化はランダムに選んだ一つの神経について起きるとする。系のサイズ N が大きくなれば、これは一斉に変化させるのと変わらない。このモデルは甘利氏によって提出され、現在に到るまで、神経回路網の基本となっているが、物理で御馴染みの相転位のイジングスピンのモデルと同じである。変化のさせ方はモンテカルロ法である。従って、エネルギーとして、

  E=(1/2)ΣWijSiSj

を考えることが出来る。状態Si(μ)が異なるμについて直交していれば、Siの作るN次元空間においてEが極小値となるSiが個々のμに相当していて、出発点として選んだSiはいずれそのどれかに落ち着く。ノイズ(温度)があれば、その周辺での「平衡」分布に落ち着く。直交していなければ、どのμにも相当しないEが極小値となるSi(寄生的状態 f)があって、そこに引っかかったまま認知が不正確になる、という事態が生じる。そこで考えられたのが逆学習のアルゴリズムである。つまり、Wijを少しづつ(ΔWij)変えていく。

  ΔWij=−εSi(f)Sj(f)

とする。これによって、寄生的状態のエネルギーを相対的に均してしまって、引っかからないようにすることができる。

    ということで、長くなってしまったが、クリックはこの逆学習が REM 睡眠の本質であると言ったのであり、その傍証として、彼は脳のサイズをいろいろな動物に亘って比較して、哺乳類と鳥類が記憶能力の割には脳のサイズが小さくて済んでいるのはその為だと言う。寄生的状態は、本来の記憶 μ 間の相関から出来ているので、本来無関連な記憶が入り混じって不思議な夢になる、という次第である。勿論これには何の検証もないが、魅力的なアイデアではある。

    ホップフィールド型モデルは、現実に観測される連想現象を説明できない。現実の連想は、プルーストの小説で記述されたように、記憶した時の同時性やその順序には従わず、夢の様に変転していくことを我々は知っている。むしろ、夢こそが本来の脳の連想形態なのであって、覚醒時には環境によってある程度束縛されているのではないだろうか?そこで、津田氏は動的なメカニズムを提案する。記憶作用の内で記銘は海馬無しには起こらないことが知られているし、記憶の場所としては側頭葉が有力である。実際側頭葉を刺激するとさまざまな記憶が蘇ることも知られている。大脳皮質は5000個程度の神経細胞を含むコラム構造をしている。小脳がマイクロコラムあたり一つの出力細胞(プルキンエ細胞)しか持たないのに対して、大脳皮質では半分位の細胞が出力細胞(錐体細胞)である。6層が区別できる。一番上の第 I 層は皮質間の連絡繊維と左右脳間の連絡繊維である。第 II、III 層は皮質間に結合している錐体細胞である。軸索は側枝を出していて、コラム内外の細胞と結合している。IV 層には有棘星状細胞があって、視床からの出力を受け取り、周辺にある担当する錐体細胞に絡み付いて出力を出す。V、VI 層は皮質下(視床、辺縁系、脳幹)と結合する錐体細胞である。II 層には更にアクソナルタフト細胞があって、II 層の錐体細胞に抑制性出力を出している。その配置から錐体細胞への入力の空間微分を計算していると考えられる。IV 層にもマルチノッチ細胞があるが、その機能は良く判っていないので省略する。

    これらの構造情報から一つのミニコラムの神経細胞ネットワークモデルを作った。実際のコラムはこのミニコラムが数多く構造化された結合とランダムな結合とによってお互いに相互作用しているが、まだ良く判っていない。そこで、仮想的な全体との相互作用から来る確率を入れてミニコラムでのダイナミクスを計算することにする。つまり、多数の力学系を確率的に同時並列して計算することで全体を把握する。(具体的にはどうしたのか?論文が引用されていないので判らない。)それはホップフィールド型のような対称結合による記憶収束の傾向と非対称結合による部分系の働きによる平衡から外れさせようとする傾向の共存系となる。実際に計算してみると、刺激が続く間は記憶に従った状態に落ち着いているが、取り去ってやるとやがて偽記憶(寄生的状態)を経てあちこちの記憶へとランダムに遷移する。単なるノイズによって遷移していく場合がマルコフ過程(過去の履歴に依存しない)であるのとは異なり、プロセスが過去の全履歴に依存している。つまり決定論的カオスとして記述できる。

    変数はN個の神経細胞の状態であるが、特定の記憶状態からのハミング距離(一致度合い)の時間変化を追いかけると、ある程度の滞在時間を持つ状態があって、そこから離れたり戻ったりすることが判る。そこでその状態からの距離 θ についてローレンツプロット(θt と θt+1 のグラフ)をすると、曲線の上に乗るので決定論的カオスであることが判る。リャプノフ数は正であるから軌道は発散的であるが、非線型であるために折り返す。θ と独立な成分 φ をとって、θ と φ とでプロットすると、θ=0 上に2つの峠点(ある方向から近づくのは安定で別の方向から近づくのは不安定)があり、ヘテロクリニックな多様体の上の運動であることが判る。こうして、様々な記憶状態を遍歴しながらカオス的な運動をしている時(これが白昼夢の状態と考えられる)に、外から刺激を与えることによって、通常のニューラルネットワークと同じような学習をさせることが可能である。更に、このミニコラムは非一様カオスであり、それの連結としてコラムがあるから、記憶の動的保持が可能であると考えられる。

    これらの知見から短期記憶の問題を考える。人間の短期的な情報処理能力や記憶能力には限界がある。ジョージ・ミラーという心理学者が徹底的な実験を行って、3つに分類した。

1.注意のスパン(範囲)の限界:シンボル数として7〜8個が限界。
2.判断のスパン:多くの情報があるときに、6〜7個にクラス別けをする。
3.自然言語における自己挿入の限界:3重程度の構造(引用)が限界。

    言語習得過程を見ると、呼気によって発声することから始まり、一つの呼気の間に区切りを入れて分節が始まり、大人の真似が出来るのは2〜3才位までであり、そこから動詞的な単語→名詞的な単語→述語文→主語述語文→目的語をあちこちに入れる、となり、その後は文化的制約を受けて分岐していく。こういった自然の根底に潜む普遍的な規則は高次の非線形の再帰的なアルゴリズムによって与えられるのではないだろうか?

    ミラーはこれら3つは別々のものと考えたが、津田はその背後にはカオスによる情報圧縮や情報生成がある、と考える。もともとの変数空間から見て。カオスの軌道がフラクタル次元の多様体上の運動に収縮する(アトラクター)ことから、受け取った刺激を圧縮すると考えると、その圧縮率からビット数を割り出すことができ、大体数ビットに収まる。(この辺の理屈はよく判らない。)もともとの初期条件を忘れているということを考慮すると、相関のある時間内での情報の塊が心理学でいうチャンクに相当すると考えられる。

    カオス力学系を本質的に支えているロジックは自己言及である。少し前の自分と今の自分を同一視できるということは、自己言及が可能ということである。自己言及は主語的自己述語的自己の間で行われる。この自己言及によって時間が生み出される。2〜3才までは、外の世界に働きかけてその世界の住人達と接触できる私と、その私をただ見ていることしかできない私に分裂している、という記憶が津田氏にはあるらしい。もともとは無意識の一つの私であったのだが、行動を通して述語的なものが認識されて、述語的な私が脳内に生じてくる。それをモニターするために主語的な私が生まれて、初めて外界を解釈できるようになる。しかし、解釈は意味を持たねばならず、そのためには主語的な私と述語的な私が自己言及の関係にならなくてはならない。こうして初めて統一された意識する主体が生まれる。動作というのが決定的に重要である。それによって物の世界を知る。つまり、物は世界から分離され、それ自身の不変性と並進対称性を持つことを知る。これは物理学が持つ原理に他ならない。それに対して生物は多様性と歴史性がその基本的な見方である。本来的に個別的である個々の生物を普遍的に生き物として知るには生活圏の拡大による経験の蓄積が必要である。述語的な自己への自己言及がこうして可能となる。ともあれ、自己意識は物質的な自己組織化で語ることができず、情報的な自己言及化でしか語れない。

    カオスにおいて2つの軌道はいくら近づいていてもやがて離れていくが、非線型運動によって折り返してきて再び近づく。これはある意味では生命のナイーブなアナロジーでもある。絶えず自分自身から外れていく存在。外的な制約に対しては自由ではなく、記憶に引きずられる。しかし記憶というのはカオスの全変数からみればほんの一部の空間であり、他の空間においては依然として自由に遍歴しているのである。このようなカオス的遍歴こそが生命の本質的自由を記述する概念なのではないだろうか?

第5章:脳のモデルの可能性

    近代科学の方法論は、再現可能な現象を選択し、仮説を立ててモデルを作り、モデルの元で予測をし、実験で確認する、というものである。人工知能においてはコンピュータ上でモデルを作り、検証する。コンピュータに合せた形式化が必須となる。しかし、脳は過去の全履歴を背負っており、形式化が不可能である。形式化の替わりに解釈学、つまり理解するとは何か?をまず考えなくてはならない。

    デビッド・マーは視覚情報処理においてその立場を明確に示した。哲学としては聖書解釈学から始まった。ディルタイ、ハイデッガー、ガダマーが解釈学の立場に立つ。人間は歴史的である状況に投げ込まれた存在であり、世界の認知行為は決して完結することがなく、形式化もされない。全ての認知活動は解釈である。これはウィトゲンシュタインでもそうである。語りえないものが残る。具体的に我々の認知過程を反省してみれば明らかである。最初の情報から我々は幾つかの可能性の中に投げ込まれ、次の情報を得て可能性を限定し、次第に意味を収束させていくが、このプロセスは幾つかのアトラクターを遍歴していくカオスそのものであり、その運動を決定付けているのは我々個人の来歴の全体であり、生物としての、進化を含めた全歴史である。その意味の収束はいつまでたっても閉じることが無く不完全である。心理学的な実験によってこのことは実証されている。錯視、多義図形、だまし絵、片眼立体視、逆さ眼鏡、等々。我々はメタファーとして世界をみるしかない。日常生活はいつも不完全であり、我々が意味に気づくのは日常性の破れによることが殆どである。ミンスキーのフレーム理論やペリーの状況意味論は解釈学に近い。人工知能は結局の処、人間の常識を追加することなしには無用の長物であった。莫大な常識を追加して得たものはエキスパートシステムであるが、それでも普通の人間の常識を形式化して組み込む事は不可能である。

    形式化が不可能であって、しかも研究の対象になっている現象は、2つある。1つは量子現象であるが、これは脳からは如何にも遠い。もう1つがカオスである。脳を部分として分析しても脳の理解には至らない。マーは計算論的アプローチを提唱して人工知能研究に大きな影響を与えた。つまり、脳の部品を研究して組み立ててみるのではなく、まず脳が何を計算しているのかを明らかにする。この計算論を確立した後で、それを脳がどう表現しているかを調べる。その上で表現に必要なハードウェアーとして何を持っているかを見るのである。計算論はニューラルネットワークであった。しかし、しばしば陥り勝ちな問題点は、もはや脳の理解に及ばなくても良い、工学的応用があればよい、という諦めである。自然界には階層があり、脳の本質はもう一段高い処にある、という諦めである。しかし、ミクロの相違がマクロに繋がっていく脳においては、この階層構造が成り立たない、というのも脳の本質的な特徴なのである。結局の処、個別に確認できるモデルを繋げていって、もっともらしい脳の物語を作る、という解釈学を採るしかないのである。部分のモデルについては工学的な方法で検証すればよい。脳は機能部品の集まりではなく、一部の機能を変更すれば全体の機能分担の再編成をしてしまう。こうして、津田は動物としての適応をしながら絶えず全体が変化しているシステムとして脳を捉える、これが「動的脳観」という立場である。

    ということで津田氏のアジテーションが終わる。階層構造として自然界を把握するという習慣は実用的であるから抜きがたいものである。僕自身も企業に入ってエンジニアの多くが物質を巨視的な物性でしか認識しない事に驚いた記憶がある。分子論からはありえない物性ですら可能性として考慮に入れるし、物性のおよその値は測定しなくても推定できるのに、測定値無しでは設計が始まらない。その代わりに彼等は工学と経営との結びつきについてはプロなのである。社会においても、人間界と神の世界とか、人民と支配者とかの階層構造を認めてしまえば随分と気が楽である。階層構造の破れが顕わになるのは相転移であり、社会では革命ということになるが、脳においては日常茶飯事である、ということなのであろう。

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