2013.01.26

   広島市立図書館で、津田一郎の「カオス的脳観」(サイエンス社)を借りてきた。1990年の出版である。津田氏は僕よりは6年下の学年で物理の富田研に居たらしい。富田研ではプリゴジンに刺激されて、平衡から遠いエネルギー散逸系で生じる自己組織化の物理を始めていた。化学教室に居て、もっぱら物質の個性を解明するために統計力学を応用していた我々にはどうもそれが実体を離れた数学に見えていたので、関心を向けようとはしなかった。僕は1981年にカナダで研究員の職を得て、心理学の学生から神経ネットワークについて教えてもらったが、帰国しても研究の方向性を変えなかった。その結果としてだろうが、僕はその後研究の方向性を見失い、企業に入って現実の工学の中に幾多の発見をすることになった。けれども、一方で自らの関わる工学、企業活動、その総体としての近代社会に対する違和感が拭えず、工学とは別に、人間とは何か、社会とは何か、を追求せざるをえなかった。だから、その挙句の果てに、エネルギー散逸系をベースにして情報処理(つまり学習や適応)をする主体としての生物、人間の本質がカオスダイナミクスで記述される、という地点に至ったのは、とんでもない回り道だったのかもしれない、とも思う。

    まあ、そんなことはどうでもよい。津田氏は富田研で化学反応における自己組織化の研究をして、それと神経活動の類似性に気づき、脳の研究にこそ近代を乗り越える契機があると信じたのである。この本はその宣言であって、確立された知識ではない、と言うが、現在の僕の目からは、彼の理論の拠って立つ基盤を実に簡潔に要約してあるので、有用な知識である。

    何かが始まったのは1960-70年頃である。ルネ・トムのカタストロフィー理論は研究室でも話題にはなった。プリゴジンの理論もちょっとは勉強した。ハーケンのシナジェティクスはやや誇大妄想に見えた。他、レオ・カダノフ、ガンサー・ステント(近代の限界を指摘)、デビッド・マー(視覚過程の解析)等々。津田氏もそれらに刺激を受けている。物理の世界では、平衡から離れた系(散逸系)でのパターン形成を自己組織化と呼ぶが、生物の系はそれだけでは済まされない。つまり、環境の変化に対して自らの自己組織化を崩して再編して適応する必要があるからである。吉田民人流にはプログラムというものを保持していてそれを改変する、ということになるのであるが、物理はそのような安易な2元論を許さない。しかし、情報という地平で自己組織化を考えるという意味では共通している。情報というとコンピューターとの対比になる訳であるが、津田氏はもう少し哲学的である。これは多分富田和久教授の影響だろうが、生物が情報を利用するという事の中には自己言及がついてまわるから、チューリングの計算可能性とかゲーデルの不完全性定理とかに触れないわけにはいかない。この情報的な意味での自己組織化がカオスダイナミクスで解明できる、というのが津田氏の信念である。

第1章:カオス基礎論

    カオスの始まりは、1899年ポアンカレの3体問題の解析である。万有引力で相互作用する3つの天体の運動は解析的には解けず、数値的に解いてみても解の様相が複雑で掴めない。ポアンカレは解の大域的様子を知る方法として、ストロボ写真のように周期的に得られた解をプロットするという方法を発明した。その結果、安定と不安定が同居する(峠点)二重漸近解が無限に存在する、という解が見つかった。ポアンカレの様な保存系(エネルギーが保存)で非可積分系(他に保存量がない)については、幾つか重要な問題が残されている。一つはカオス的な振る舞いこそが微視的には可逆な力学から巨視的な非可逆性(エントロピーの増大)を説明するものではないか、ということであるが、これはそれほど単純ではないらしい。量子力学は古典力学の解を量子化して得られるのであるが、古典力学系でのカオスに対応する量子力学的記述は何か、という量子化オスの問題もある。これらと絡み合うのがエルゴード仮説である。

    散逸力学系では最初から時間は非可逆である。ミクロな力学から巨視的なパラメータで記述される状態が自然に生まれる。昔から、薄い流体を下から均一に加熱すると、ある熱流以上では流れのパターンが生じ、更に熱流を上げると乱流になることが知られている(ベルナール対流)。これに触発されて、1961年に気象学者ローレンツは流体力学と熱伝導(と重力)が働く空気の層の運動として気象のモデルを作って、その振る舞いを解析した。変数はx、y、zでパラメータはσ、r、bである。方程式は、

  dx/dt=−σx+σy
  dy/dt=−y+rx−xz
  dz/dt=−bz+xy

である。x,y,zという空間の中で、解(x,y,z)は何層にも重なった曲面(多様体)の中をぐるぐると周るが、それだけでは規則性が見つからない。しかし、その軌道の中でzの極大値に番号を付けて、(zn、zn+1)をプロットすると上向きのカスプ(槍の先のような形)の曲線の上に収まる。つまり、znが判ればzn+1が決定論的に決まる。決まったzn+1は今度はカスプのグラフの横軸に再帰されて次のzn+2を決める、というぐあいである。やはりこれは決定論的方程式の解になっているのであるが、問題はカスプの傾斜が大きいことであり、2つの初期値から平行して解いていくと、その解の相違は指数的に拡大していく。つまり、ほんの少しでも初期値がずれていれば、将来の状態は全く異なるものになってしまう。ローレンツはこのことから、気象学において遠い将来の天気予報は不可能であると結論した。もう少しこれに解釈を追加する。左辺のベクトル(dx/dt、dy/dt、dz/dt)のダイバージェンス(それぞれをx,y,zで微分して足す)はある体積を持つ閉じた3次元空間を埋める初期値が辿る先での体積変化である。計算すると−(σ+1+r)となり、負である。(σ、rは正)。つまり、運動の軌跡を追うと体積が減少して行くから、通常であれば、これは軌跡が2次元の平面に収まるということを意味する。実際には3次元空間での複雑な運動をしているのであるから、これは奇妙である。この矛盾は整数でない次元、ハウスドルフ次元(集合の中身がスケールの何乗に比例しているか?)を導入することで解決する。つまり、3次元の内の一つの次元については実数値として無限に存在しながらも不連続な状態なのである。ローレンツの解集合では次元が 2.06 になる。このような軌跡を strange attractor と呼ぶ。流体運動が層流から乱流に転移するときにも同様な軌跡が現れるが、詳細については研究が進行中である。

第2章:複雑さの理論

    この章はやや高尚で判りにくい。カオスは無秩序ということではなくて、複雑なのであるが、その複雑さというのはどう定義すればよいか?例として整数列を考える。011011011・・・と無限に繰り返すならば、011の繰り返しという生成プログラムで済むから単純であるし1.41421356・・・という数であれば、√2であるから、繰り返し計算でいくらでも生成できる。これも単純である。これらは結局その情報を圧縮できる、ということである。しかし、一般的には法則の見つからない無限個の整数列や小数列があって、それらは、その数を並べることでしか記述できないから複雑である。カオスは一般的に非周期的であって、圧縮可能なものと圧縮不可能なものが同居する。したがって、カオスで生じる分布では高次のモーメント(平均値からの外れの高次冪の平均)が発散するからモーメント展開が出来ない。これも複雑さの目安であろう。

  xn+1=axn(1−xn)   :ロジスティック写像

という生成式で生み出される数列は、aが小さい時は不動点に収束し、その内2値を交代で取るようになり、4値、8値、と周期が分岐していく。それぞれ新しい周期の近傍では同じような振る舞いをする。aはある値に近づくと周期は無限に長くなり、遂には不安定化してカオスに至る。その振る舞いを繰り込み群でうまく解析することができるが、その論理はゲーデルの不完全性定理の証明と同じである、と富田和久は言った。(ここは判らない。)命題と自然数との間に1:1の対応を見出して、証明できない命題としてカオスの不動点(カオスに至る境界点)を見出した、という感じであろうか?不動点というのは自己言及の限界を表す。つまり、カオスというのは自己言及が破綻した先に現れる現象である。

    カオスにおいては、数値計算ですら誤差が拡大していくのであるから、真実の振る舞いを見ることができない。擬軌道追跡性の破れである。しかし、限界の認識は新しい科学の地平を切り開いてきた。コミュニケーションの限界は相対論を産み出したし、ミクロレベルでの客観的記述の限界は量子力学を産み出したカオスにおいては初期条件と法則の分離可能性に限界がある。(このような状況における「法則」が吉田民人流にはプログラムということになる。)例として、上記2次関数の写像列を考えるが、記述として残すのはx<0.5(L)かx>0.5(R)だけにする。その有限個のLR列が同じになるような初期値で0〜1までの区間を仕切ったものをマルコフ分割と呼ぶ。LRの数が4個であれば、16個の区間に仕切られることになる。LRの数というのは、観測時間Tに相当する。観測時間が長いほど、分割数が多く、それだけ正確に初期値が判る、ということである。つまり、初期値の精度ΔXと観測時間の間には、ΔX・T≧定数、という不確定関係がある。これが初期条件と法則との分離不可能性である。カオス力学系においては、運動方程式を解いて得られた解と同等の複雑性をもつ初期条件を与えなくてはならない。これは不可能である。つまり、我々が適当な初期条件を与えて解いたカオスの振る舞いが真実である、という保障はない。

第3章:カオスの情報力学

    最初に情報量の定義の話。情報を受け取る前に想定されていた可能性が n個あって、それが情報によって 1個に確定されたとすれば、その情報量は n ということになる。これは情報の意味とは異なる。多ければ意味があるというものではない。一般的には情報によって x となる事前の確率p(x) が p'(x) に変化すれば、情報量は ∫ln{p'(x)/p(x)}dx である。津田氏は自然言語の持つ情報を例に挙げている。簡単の為に単語として、ABSTRCT を考える。情報を発する人と受け取る人を想定する。まず受け取る人は最初の文字が何かを言い当てて、YesかNoかを受け取り、当たるまで繰り返す。当たれば次の文字を言い当てる。この繰り返しの間に、当たるまでの回数は少なくなるであろう。その回数の総和を文字数(7)で割れば、1文字あたりの情報量である。これをいろいろな文で実験して、平均する。大体 2bit/文字程度になるそうである。興味があるのはそのプロセスであって、文字の出現には相関があるし、単語が出てくれば単語同士の相関もある。また意味を確定していくために生じる相関もあるから、情報を受け取る人は絶えず仮説を更新しながら意味へ向って進むのであり、正に志向性そのものである。意味の確定にはヒトの全来歴が寄与している。

    文字の連鎖がカオス的な場合には、いつまで経っても予想が外れていく。つまり情報の圧縮が起きない。情報量はどんどん増えていくばかりである。微分方程式の言葉で言うと、最初は近かった解の軌道が離れていく。その程度をリャプノフ数 λ と定義する。初期条件をε程度の精度で決めたとして、tc〜ln(1/ε)/λ 程度の時間が経てば、その記憶が失われる。つまり因果関係が無くなる。

    次に、著者の解析したB-Z反応系の話である。これは昔から知られていた、パターンを生成しながら振動するという反応系である。プリゴジンを始めとして殆どの物理屋はこの系をモデルにして非線形現象の理論を構築した。ある臨界の原料供給を超えるとパターンは乱雑化することも知られていて、単なる無秩序化と考えられていた。著者は空間的には攪拌で均一化して時間変化だけに着目し、無秩序化した段階において、ローレンツプロットを作り、これが決定論に従っている事、つまりカオスであることを発見した(tomita & tsuda, progr.theor.phys.64(1980),1138)。そのときの写像

  xn+1=f(xn)

における関数 f の形はやや歪になった(ピークが左側に偏った)ロジスティック的な(1つのピークを持つ)写像である(本の(8)式)。これとロジスティック写像とを比較する為に、初期条件の失われ方の振る舞いを見る。これは相互情報量で計算できる。相関係数のようなものである。初期の値を x 時間 t での値を y として、
相互情報量(この定義としては一般的には異なる変数間)は

  I=∫p(x,y)ln{p(x,y)/p(x)p(y)}dxdy

である。ここでp(x,y) は x であり且つ y である確率、p(x)、p(y) はそれぞれ x である確率、y である確率。例えば、独立であれば、p(x,y)=p(x)p(y) だから、0 になる。

    この振る舞いの時間変化は、ロジスティック写像の場合は時間に対して比例して減少して 0 になるが、B-Z系では時間に対して指数関数的に減少して 0 になる(matsumoto & tsuda, j.phys.A:math.gen. 18(1985),3561)。それが何だ、ということであるが、時間に比例して相関が消えていく、というのは過去の相対的時間構造(どういう順序で事象が起きたか)が変わらないままで、拡散していく、ということであり、指数関数的に相関が消えていくということは、過去の相対的時間構造が混合されていく、つまり順序が曖昧になっていく、ということである。これは、カオス軌道の乗る多様体(strange attractor)の構造が一様でない、ということである(らしい)。このようなカオスを非一様カオスという。

    B-Zカオスを幾つか結合して、情報の伝達を調べてみる。i=1〜N の B-Zカオスを考えて、離散時間を n で表して、

  X(n+1,i)=f(X(n,i))+d(X(n,i-1)−X(n,i))  、i=2〜N-1

第1項は B-Zカオスの写像であるが、結合定数 d で隣のカオスと同じになる方向にずらされるということである。
端のカオスは、

  X(n+1,1)=f(X(n,i))−dX(n,i)
  X(n+1,N)=f(X(n,N))+dX(n,i-1)

としておく。
カオス連鎖の途中に、生成された別のカオス Y(n) を追加しておいて、このY(n)とそれぞれのカオス X(n,i)との相互情報量を計算する。それぞれのカオスにおいて、相互情報量は時間に対して指数関数的に減衰していくが、注入したカオスから先のカオスでの相互情報量のピークは殆ど変化せず、カオスからカオスへと減衰せずに情報が伝わることが判った(matsumoto & tsuda,Physica 26D(1987) 347)ロジスティックカオスの連鎖ではこうは行かない。直ぐに減衰してしまう。これはB-Zカオスの内部において情報が時間を超越して伝達されているからである。

    非一様カオスは系の持つ固有の窓、隣り合う軌道を区別するのに必要な観測精度、が場所によって大きく違うようなカオスである。非一様カオスの持つもう一つの特性は、ノイズを与えることで生じる秩序である。つまりノイズを追加していくと、リャプノフ数は正から負に変わり、パワースペクトルにピークが生じ、エントロピーが急激に下がり、軌道の束がある幅の範囲で周期的になる。更に、B-Zカオスの連結によって、周期振動の検出や動的な記憶の保持も可能であることが示されたようであるが、理屈は良く判らない(tsuda & shimizu, in complex systems-operational approaches (ed. by haken, springer 1985) 240)。

    これらの特性は神経細胞の結合系と良く似ている。実際神経細胞の応答は非一様カオスであり、非対称結合を持つニューラルネットワークにはカオスが現れて、情報処理の機能を果たす。ということで、ここまでが予備知識である。

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