2005.07.28

河野哲也「エコロジカルな心の哲学」(勁草書房)

        この本は、京大の生協で見つけて、宇都宮市東図書館にリクエストを出しておいたが、買ってくれなかった。二ヶ月ほど経って、千葉県立東図書館から相互利用で借りてくれたが、読むのに3週間もかかってしまって、貸し出し延長をした。ギブソンの思想的背景をうまく捉えていると思われる。「思われる」というのは、僕自身はギブソンの著作を読んでいないからであるし、特に読んでみようとも思わない。東大の環境心理学者達の言語の発達についての本がたまたまあり(1)、なかなか新鮮であったので、何冊か(2,3,4)彼らの著作を読んでみてなるほどと感心した次第ではあるが、完全に納得した訳ではない。以下、まだ消化不良なのだが、本を返さなくてはならないので、大部分は本からの引用文を前後構わず繋いだ文章である。ところどころに僕の追記が入っている。同じようなことを繰り返し書いているので、どこをどう繋いでも意味が通るような気がする。

       根源的には「存在論」にまで遡る。「個物が実在しその運動の枠組みとして空間と時間がある」、というのは確かに近代科学に強く根付いている伝統であって、科学者であればあるほどそういう世界観から逃れるのは難しい。西洋哲学の系譜で言えば、パルメニデス−プラトン−デカルト−ニュートンである。一体の運動を決めるのは他の物体からの相互作用であり、それが基本としてあれば、原理的には宇宙全体はそのような相互作用が繋がったものとして理解できるというわけである。本質的な存在としての物体があり、それは外力という恣意的なものによって個別の運動状態を取る。こういう存在の持つ性質の区別立てが本質的に二元論となる。しかし、これは科学者が実験手段を用意周到に準備して自然法則を導出するまさにそのやり方の中に内在している考え方に過ぎない。法則は再現可能な実験条件でのみ姿を現す。このような本質的な局所性を忘れて、宇宙全体に拡張するのは知性の怠慢と言わざるを得ない。

        これに対して、ヘラクレイトス−アリストテレス−ライプニッツ−ヘーゲル−ベルグソン−メルロ・ポンティという系譜の哲学者達は、物体ではなく過程こそが実在であると考える。事象が基礎的現実としてあり、時間は規則的に繰り返される事象からの抽象概念である。時間の枠組みで事象が生起するのではない。事象は知覚される。しかし時間は知覚されない。空間についても同じである。対象が空間を満たすのではない。なぜならば、はじめから空虚な空間などありはしないからである。環境の中で安定している面が、現実の枠組みになる。世界はまず存在するのであり、それに我々が働きかけて抽象した概念として物体と均一な空間や時間がある。自然法則もその過程の中で現れる。最近の物理学的自然観は関係性こそ実在であるという考えに近づいているが、個別科学、特に技術の段階では忘れられる。それは結局自然を制御しようとする意志があるからである。

       ある対象が何であるかは、その対象が何を為すか、ということに他ならない。対象の性質とは、その対象が何らかの形で内側に携えているものではなく、あらゆる性質はほかの対象との関係的な作用として捉えられる。物理的な見方では他の物理学的対象との関係がその対象の性質であるが、生態学的な見方では動物に対して何を提供するか、ということである。これがその対象の意味であり、アフォーダンスと呼ばれる。そもそも行為は環境中の何らかの事物を前提としているから、身体運動とその事物が一対となってはじめて行為が成立する。アフォーダンスとは、その環境中においてどのような行為が成立可能か、あるいは成立させるべきかを告げている特性であり、それを知覚することで私たちは行為を変化させている。アフォーダンスを知覚することで私たちは自分の行為をコントロールしている。原子や分子のレベルは純粋な物理的対象である。動物が直接関わることの出来るレベルが生態学的な存在となる。アフォーダンスの知覚は殆ど生得的なものから学習を必要とするものまで様々なレベルがある。アフォーダンスは知覚者の状態から独立に存在する。誤って知覚されることもある。「実在」とは「主観性や意識から独立に存在するもの」と定義される。この意味でアフォーダンスは実在する。それは勿論動物にとって個別的であり、異なる動物にとっては異なるアフォーダンスが実在する。また、アフォーダンスは関係であるが、関係こそが「実在」するものである。世界がばらばらの個別物体からなり、それのみが実在するという考えは二元論に行き着いてしまうことは既に述べた。生態学的水準に実在性を認めないのは、じつは物理学ではない。物理学は生態学的水準の記述に関して無関心なだけである。生態学的水準を認めないのはミクロ物理学が記述する水準だけが実在していると考える還元主義的な哲学(怠慢)である。

       知覚をどう捉えるかという観点からは、現在常識化している考え方「間接知覚論」に異議を唱える。大部分の文化人は、「外からやってくる物理的刺激を感覚器官で受け取り、その情報が脳で処理されて知覚となる」、と考えている。直接得られるのは単なる神経の刺激であって、そのデータに対して頭の中にあるモデルと照らし合わせて初めて対象を解釈できる。このような考え方は知覚という過程を要素に分割して解析する、という近代科学の方法論によって必然的に生じてくる。プラトンがイデアというモデルに従って具体的な現実を解釈することが出来る、と考えたのと同じである。僕は別にこの考え方が悪いとは思わない。深刻な二元論に陥るかもしれないが、これはこれで有用な技術を生み出す知識体系なのである。しかしギブソンは知覚というのは直接的なものであって、知覚したものが実在すると考える。彼が一番批判しているのは「知覚が環境とは独立した内的世界であるという考え方」である。この批判は尤もである。そもそも、このような考え方に至るのは、個々の感覚器官がそれぞれのデータを齎すと考えると、認知に至るまでにがギャップが存在するからである。

       例えば風景から奥行きを感じるのは網膜に映った2次元のイメージからだと考えるとうまく行かないから、自身の運動も合わせて、心の中にモデルを作り出して、それと照らし合わせなければならないと考える。しかし現実の動物はそんな面倒なことは行っていない。勝手に想像してはならないのである。最初から風景に背景となる面を捉えていてそれとの関係で物の奥行きを知覚している。私たちが住んでいるのは、孤立した対象がぽつぽつ浮かび、その間には暗黒しかない宇宙空間ではない。ルネッサンスや近代初期の光学は、天文学とともに発達してきた為に、視覚を望遠鏡によって天体までの距離を測定するような行為になぞらえてしまう。そこでは、眼と対象を直線で結んでいる光によって視覚が説明される。ところが、私たちが暮らしている環境は宇宙空間ではなくて、地面(乃至は水面)とその上の空からなる地球環境である。地面は、丘や断崖、渓谷といった地形をなし、その表面は肌理ををもっている。この面にそった刺激の勾配こそが距離を知覚するための光学的基礎である。(ギブソンはパイロットであったから、自分の経験を語っている。)網膜は視覚にとって不可欠の器官ではない。例えば昆虫の複眼にはスクリーンのような機能を持った部位はない。視覚情報は諸対象から反射して知覚者を取り巻いている光のパターン、すなわち、包囲光配列の中に存在する。動物は運動しながら光のパターンを全身で感じて、視覚情報としている。自分の動きによって生じる光の流動パターンから知覚対象を抽出するのである。知覚系とは、外界に注意を向けるための身体の全体的な活動の様式乃至は機能的な構造のことである。知覚される世界はそこにあり、知覚とはその部分に注意を向けることである。身体の知覚系を環境に同調させて注意という知覚行為を成立させること、つまり、知覚は、刺激と行為(眼球の動きとか、、)のフィードバック・ループから出来ているのであり、環境から脳に至る直線的過程はその円環の一部をなしているにすぎない。脳はデータから何かを構成したり推論しているのではなく、知覚するシステムの作動や調整に関わっているのである。感覚から知覚が構成されるのではない。むしろ知覚の方が一次的であり、感覚は感覚器官に注意を向けたときに意識される。この意味で、感覚は環境についての情報ではなく、むしろ知覚者の状態を知らしめる。近代科学の方法によって明らかになってきた神経処理における諸特徴の「分別」されたような見かけは、その複雑な環境を可動性のあるセンサーを使って走査し、環境の変化と持続を追跡する循環的な捜査活動にたずさわる神経系にとって必要となった「副産物」にすぎないのであって、知覚を理解するのにそこに立ち入る必要はない。

       記憶の役割についてもギブソンは面白い考えを示す。間接知覚の立場では環境中の刺激作用に空間的な構造を認めないから、「心が感覚を構造化する」、ということを想定せざるを得ないが、同様に環境中の刺激作用に時間性を認めないと、「心が時間を構成する」、と想定せざるを得ない。知覚には最初から持続性が与えられている。過去と現在をはっきりと峻別する習慣は言語的な概念区分を知覚に投影した結果であり、知覚の実際の姿ではない。現在という一瞬しか存在しないと考えるから、過去は記憶に保存されていると考えざるをえないのである。記憶によって一瞬の知覚データが解釈されていると考えざるを得ない。そうではなくて、過去の経験によって知覚者はより的確に環境に呼応できるようになる、ということが本質である。知覚はあくまで知覚者の移動を伴なう持続性を持った行為であって、経験によって訓練されるということがすなわち記憶である。

       行動は脳の指令で起きるのではない。また行動は刺激に対する応答でもない。動物は本来的に行動するのであり、環境中のアフォーダンスを知覚することで自分の行動を制御するのである。行動のコントロールは脳の中にはなく、動物−環境システムにある。中枢神経系も身体への命令者でもなければ、観念やメッセージが保存されている場所でもなく、環境と動物の機能的な諸関係を維持するための選択システムである。動物の行動は姿勢と運動から成る。姿勢とは動物と環境の関係を維持する調整活動であり、運動とは動物と環境の関係を変化させる調整活動である。動物は停止状態にあることはない。常に動いている。脳の指令によって、或いは環境からの刺激によって、突然動き出すように考えるのは、身体を機械と捉える習慣による。行為とは、脳の中に表象された地図や行為のプランによって身体を動かしていくことではありえない。行為とは既にあるものであり、調整されるものである。

       最近のロボットは計算主義の限界を乗り越えようとしている。部屋を歩き回って物を探すロボットを作ろうとすると、感覚と運動のための周辺機構を作り、あとでそれらを統合する中央機構を作ることになる。そして環境についてのあらゆる情報と、自分の動きに伴なう変化を、内的な地図(表象)として中央機構に登録した上で、移動の手順を決める。しかし、このようなロボットは計算に膨大な時間がかかり、適応性もなく、生きているようには見えない。これに対してブルックスという研究者は知覚装置と運動装置を直接につなげたロボットを作った。それは知覚と行為を直接に繋げたいくつかの「層」からなる。例えば「避ける層」は、前進しながら近くの障害物を感知し、それを避ける為に方向を変えることを実行する、ためのセットであり、「探る層」は、環境内に目標を探し、それに方向を向ける、ためのセットである。この二つの層が同時に働くことで、ロボットは環境中の障害を避けて迅速に目標に近づくことが出来る。従来型は環境を全て表象していたのに対して、ブルックスのロボットは環境についての表象(内部モデル)を持たない。ロボットの行為は実際の環境に出会うことでその都度決定されるから迅速なのである。「避ける層」と「探る層」はそれらを制御する中央装置を持たない。それは環境を表象しない。むしろ環境そのものがロボットを制御しているとも言える。もろもろの知覚−行為の対(反射)を組み立てることで目的論的な行動が形成される。こうした目的(特定対象)−手段(内部機構の構造)の分岐こそが精神の誕生である。日常的なふるまいの主体は世界をモデルとして内的な表象を作る必要はないのであって、世界それ自体が「最良の表象」なのだということである。さらに、日常的な振る舞いを導くのは、あらかじめ明示的に心的に構成された計画や意志ではなく、そうした意志や計画なしに環境との相互作用を通して一定の目的的な方向性が形成されうるということである。

       心の問題、特に志向性の問題を考察する。ここでは表象という概念そのものが批判される。意識は何物かについての意識であって、純粋な意識というのは存在しない。それが志向性である。見るものは志向性によって異なって解釈されることは良く知られている。結論として、志向性とは、「ひとたび習慣的に(ないしは社会慣習的に)成立した行為を繰り返し行おうとしている人物の心理状態」である。表象という概念はこの志向性の再現的な性格から生まれている。私達は何かを志向するときは成功した行為をモデルとしている。この事態を、心の中にもう一つの世界(世界の表象)を形成したという風に言い換えることによって、あたかも脳の中にモデルが存在するように考えることが出来るのである。その上に立って、更にその表象とは何で出来ているのかという問いを立て、知識であるとか信念とか、記号であると解釈するのである。そこでは、志向性が言語による指示作用をモデルにして理解される。こういった立場からはその表象は結局記憶によって齎されることになる。こうして、ここで記憶が再び登場するが、そもそも記憶とは何であろうか?それが必ずしも表象でないことは最近の脳研究によっても明らかになってきている。むしろ記憶というのは知覚と運動を過去に行ったのと同じように結びつける為に、神経学的過程を構造化する能力である。記憶の文脈性からもそれは明らかであろう。私たちは人の名前や電話番号を苦もなく思い出せるが、それは特定の状況や文脈においてである。検索されて思い出されるストックされた表象なのではなく、他の知覚や運動過程との関係で生じる発話であったり、ダイアルを回したりといった行為なのである。記憶の効果をしめすような振る舞いの変化は、行為者と環境の相互関係という文脈の中で生じるのであり、記憶を内的プロセスのみに還元することは出来ない。世界なくして記憶はあり得ない。特にわたしたち人間の知覚や記憶はむしろ表現物に支えられている。人間の認知は、人間によって築き上げられた環境の中で育まれ、そこにおける様々な人工物(技術、芸術、制度など)を前提として形成される。心の働きは外界の対象と分離し得ない。特に心にとっては身体が不可欠である。私達の思考は、さまざまな道具・器具・装置によって物質化され、客観的に表現されうる。そして今度はそれらの表現物によって私達の思考が支えられる。わたしたちの思考は、心の中だけで行われているのではない。思考の対象が思考から独立に存在し得ないのではなく、その逆に、わたしたちの思考は、少なくとも相当に多くの場合、客観化された思考の対象から独立に働き得ない。私たちか思考と呼んでいるのは、実は、人工物や文明の産物との制度化されたインタラクションのことなのである。文化的学習とは、慣習や社会規約の内面化(表象化)ではなく、ある人が自力で文化的活動を行えるように、文化的環境がアクセス可能な状態になっている、ということである。

       最後に自己についての考え方が論じられる。ギブソンはこの「自己知覚」についての考え方が最も革新的なものであると自ら評価していたようである。これまでの哲学では、認識している風景の中には自己は存在しない、とか、見ている自分は見られない、という風なロマンティックな考え方が為されてきた。世界が脳の中に表象されると信じている間接知覚論者も、その表象された世界の中に当の自己自身を含めていない。つまり自己は知覚される世界の外にあると考える。自己受容感覚は事実上筋肉を動かすことによる運動感覚とされてきた。しかし、ギブソンは、自己知覚を全身の知覚系を用いた総合的な機能であると考える。知覚はカメラではない。知覚は世界の知覚であると同時に自己の知覚である。世界と自己は単に注意の両極に過ぎない。知覚のなかで自分の身体に注意を向け、自分についての不変項を抽出するとき自己が知覚されることになる。世界の知覚とはいつでも世界のある側面の知覚である。しかしこれは世界の性質ではない。動けば変わることから判るように、それはむしろ自己の身体を特定しているのである。事物の感覚的性質は自分の目や耳や肌に注意を向けたことの結果として現れるのであるから、それは事物の性質というよりは自己の性質なのである。感覚的性質はわれわれが特別の分析的態度を取って現れるのであって、自然に知覚するときはその事物のアフォーダンスが現れる。通常の態度で知覚される世界はもろもろの事物で一杯である。しかし注意を自分の身体に集中し、まさに、世界を知覚していることはどういう感じなのか、と問いかけたとき、意識に与えられるものは一変する(現象学的還元)。そこではある特定の視点から切り取られたアスペクトが、自分の経験の基本をなしているように感じられる。そのとき、世界は現在時点の自分のパースペクティブ以外のあらゆるものを潜在的に保持しているように思える。パースペクティブ性の意識は、運動に対する静止の意識である。わたしたちは、実在が時間的で過程的であることを暗黙のうちに了解しており、今の自分の断片的な知覚像が、自分と世界の関係のある種の休止状態に過ぎないことを無意識に理解しているのである。それは、世界を背景としながら、現在の限定された自己の経験を意識することであり、逆に言えば、自己に意識を集中することで、その背後に世界の汲みつくし難さを意識することである。

       以上述べたことは、ナイサー(ギブソンの同僚)の分類でいうと、
(1)生態学的自己:知覚される身体的自己、
(2)対人的自己:他者のとの社会的交渉に基づく自己、
である。
(3)概念的自己:自分自身についての言語化された心的表象、
(4)持続的自己:ライフストーリーとしての自己、
についてはギブソンはあまり触れていない。通常「自己」が問題となるのはこの二つである。自己の行為が一貫性を欠いた場合や、他者からの自己評価が大きく変化して、それまでの自己評価と矛盾した場合に、自己の同一性が問題となる。これは哲学的問題ではなく、むしろ自分の置かれている社会的関係の再構築の問題である。
(5)私秘的自己:子供が私秘的意識を理解するようになり、自分の思考や夢や経験の解釈にはだれもはいりこめないことが判ると現れる自己、形而上学的自己、
については、ヤーッコ・ヒンティカという人が以下のように述べている。

    「わたし」と発話することは、一種の行為逐行的な発言である。それはコミュニケーションにおいて自己を打ちたて、自己の存在を宣言する行為である。また「わたし」は文章の主語というだけでなく、生きた現実の発話者を指示し、言語的記述と現実の人物を結びつける蝶番の役割を果たす。また「わたし」は汎用的な一人称である。どんな状況でも発話者を示す。これらは単に言語的な利便性のためである。この代名詞の汎用性の為に、あたかも世界の外側にあって恣意的に自己の身体と結びついているかのように見える自己(私秘的自己)が意識される。文法的な構造を実体化して捉えた結果がそのような自己の概念なのであって、それを本当に実体と思ったり、追求したりするのは誤りである。デカルトがいうように、「わたしはある、わたしは存在する」というのは常に真となる命題である。しかしそれはデカルトが想定したように、わたしが絶対的な精神実体だからではなく、単にその命題が発話されたとたんに自動的に真となる文章だからである。逆に「わたしは存在しない」というのは実体論的に不整合である。なぜなら発話者がその命題を発話しながらも存在しないということは文法的にありえないからである。勿論これらのことが言えるのは発話された瞬間だけであり、それが言語として理解される場合だけである。手紙にそう書いても死んでしまった後で読んだ人にとっては偽である。デカルトはこれにも気づいていたから、「私がこれを言い表すたびに、、」と付け加えたのである。ところで言語は現実世界の約束事であるから、デカルトのコギトは、発話を行い、それを自分の声として認識できる主体でなくてはならない。そうした主体は精神実体などではなく、身体を持った行為者である。世界の外側から世界を認識するという形而上学的自己、そして、その起源であるデカルトのコギトは、二つの条件の上に成り立っている。ひとつは、自己の行為を自己帰属できる身体的自己、すなわち生態学的自己であり、もうひとつは言語である。言語はいうまでもなく社会的な交渉の中から生まれてくる。神秘的で超越的な自己(デカルトのコギト)というのは誤った概念化の産物にすぎない。

    ところで、英語など欧米語に比べて日本語の「わたし」は主語を表す代名詞的な機能が弱く、名詞的な色彩を帯びている。「俺」とか「僕」とか「拙者」とか、、、日本語にはいろいろな言い方が使い分けられているからである。これらはそれぞれは完全に汎用性があるわけではなく、かえって身分を表したり、態度や帰属意識を表したりする。「わたしは」という言い方そのものが何か気恥ずかしい、晴れがましい感じさえするので、通常は省略されてしまう。もともと西洋語の翻訳の必要性から生まれた代名詞だからであり、金谷武洋によれば、主語という文法的機能は日本語には本来存在しないのである。(動作の主体を表す限定詞であり、副詞句と考えた方がよい。主語は文にとって必須の要素ではないということ。)「僕」にとって私秘的自己という概念そのものがもう一つピンと来ないのはそのためかもしれない。

    こうして全体をコンパクトにまとめて読み直してみると、ここでは、決して科学的方法論を否定している訳ではない。むしろ、神経生理学的研究によって、知覚、記憶、意識、行為、といった心理学的概念の実際の姿が明らかになりつつあり、それはギブソンの考えを支持してきているように思える。確かにそれらの研究成果は、「動物の複雑な環境を可動性のあるセンサーを使って走査し、環境の変化と持続を追跡する循環的な捜査活動にたずさわる神経系にとって必要となった副産物にすぎない」のかもしれない。しかし、それらの「副産物」も欠落すれば深刻な精神障害となるわけであるから、実在しているのである。ギブソンが言いたいのは、それはそれとして、その全体像を考えてみれば、そういった概念は不要なものである、ということである。これは、「脳は可塑的であり、欠落した「副産物」は環境との相互作用(リハビリテーション)によって脳の他の部分で補われるのであるから、その程度のものに拘る必要はない」、ということであろう。こうして考えてみると、これは医者や科学者や技術者ではなく哲学者の考え方であることが良く判るが、技術だけで世の中を仕切ることの原理的限界を教えてくれていると考えておけばよいのかもしれない。

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