標題: 本の紹介「アフォーダンスの心理学」E.S.リード(新曜社)
---Edward. S. Reed 'Encountering the world' 「アフォーダンスの心理学」新曜社

      以前紹介した「子供達の言語獲得」の最後に紹介してあって、翻訳中という事でしたが、昨年暮れにやっと出版されました。序文を読むと今までの心理学というものが科学的(と言うよりむしろ機械論的)であろうとして心理学の本来の姿「ヒトの行動と意識を研究する自然科学」から逃げ出しているという事が述べられていて、かなり戦闘的な姿勢であることが判ります。

      知覚が感覚のみを前提としているのではなく、むしろ知覚は動物と環境との関係の中にあるというのがおかしな主張だと思っていましたが、動物を外から見たとき、知覚しているということはその動物が環境に対して何らかの適応行動を取る、環境が変わった事に対して応答している、という事でしか証明できない事なのだから、現象としての知覚は確かに動物本体の中だけに在るものとは言えない。アフォーダンスを意識するということは、自覚的であることとは関係が無い。また何か目的を持って適応行動をとるという必要も無い。ただその適応行動が結果として生存への適応であるという事だけであるということです。

      半分くらいまでは戦闘的な姿勢で自らの立場を明確にしていますので、とりあえずスキップします。後半がやっと人間論です。要するに今までの心理学:行動心理学と内省的心理学、神経生理学と認知心理学、といった軸で語られる空間とは別のところに軸を求めています。価値も意味も動物の内部にあるのではなく、環境にある。動物は本来的にそれを探索する存在である。その生きられた時間が動物を進化させてきたし、適応させてきたし、価値と意味を求めて自発的に行動する存在として現在ある。そういう立場から生き方を研究する。行動は意識とは切り離せない。そういう意味の意識があるかどうかは環境を変えて動物の行動を観察すれば判る。この環境心理学は動物とヒトとを区別しない。心的表象も相手にしない。脳は単に環境に適応するための手段に過ぎない。これ以上物理的生理的に立ち入ってもあまり意味が無いと考える。重要なのは機能であるという事ですね。

      ヒトを特徴つけるとすれば、地球上のあらゆる環境で繁殖する唯一の動物であり、群居的環境を作り出す事により、またその技能を伝えることにより、環境を改変する能力を維持している、という事になる。ヒトは種としてのヒトになるのではなくて、その生れ落ちた群居生活の内部のヒトとして最初から位置付けられている。ヒトは生まれると直ぐに独特の養育環境に置かれる。そこで一人の養育者を認識し対話的生活の中で生育し、動ける様になると、第3者としての物に向かう。この対人と対物の三角関係こそヒトにとっての生涯の環境である。既に存在する社会の中に入っていくことで、ヒトは技能を身につけ、思考し、概念を学ぶ。そのプロセスは社会と介在する養育者によって異なる。近代社会は極めて特殊な環境を作り出しているので、しばしば見誤りがちであるが、どんな社会にでも共通しているのは、生活の中での場所と時間との特異性であり、それを手ががりに思考が始まるし、技能が組織される。例えば、寝る場所とトイレとではヒトは別の行動を取る事を期待されており、食事の時と寝る時とは違う行動を期待されている。場所や手順を追う事によってヒトは生きるための技能を身につける。思考が抽象的な心の中の出来事とされたのは近代以降の話であり、それはフィクションに過ぎない。思考は日常の活動と経験のパターンを計画、組織、評価する能力である。思考は典型的には群棲環境の活動の流れの中に埋めこまれており、そこから隔絶されてはいない。さらに、ある目標に向けての集団的活動内での協力と対立を経験したことのない個人の内部に効果的な思考や計画性が生まれる事を示す証拠は無い、という事で何となく思い当たる事例もあるのではないでしょうか?

      言語の発達は2段階に分かれる。家族的な環境の中で生まれる「指し言語」と、社会的環境の中で再組織される「語り言語」。言語は主観的な観念に由来するのではなくエコロジカルな情報に由来する。情報は伝達されるのではない。他の個体を包囲するように利用可能になる(提示される)だけである。それによって自身乃至は集団の活動調整に寄与する。言語が指し示すとしたら、それは第一義的には内的表象であるよりは、環境の状況である。言語はヒトの心の内容を公にすることも可能であるが、心を知るために言語は必ずしも必要ではない。本来的にはむしろ私的な意図を隠すために使われることが多い。

      指し言語は対人と対物の三角関係の中で注意を喚起する手段である。発話としてはまだ意味を為さない様に見えるが、ジェスチャーと組み合わせることによって、その目的は果たされている。また、養育者の発話から基本的な音素は区別し始めている。最後の段階になると、現在の状況を超えたトピックについても伝える事が出来るようになる。およそ人類が小集団で生活している間、これ以上言語を洗練させる必要は余り無かったのではないか?必要があるとすれば、儀礼的な発話であったろう。

      生後 18 ヶ月くらいで起きる語彙の急激な増加の時期、子供の認知能力とそれに関連した言語能力とは良く相関する。出来事の因果関係構造の理解はいくつかの動詞の使用や驚きの間投詞の表現に先行し、物の永続性の概念とある種のカテゴリー形成は物の名前と物自体とは区別されるカテゴリーの名前の学習に先行する。言語を生成的に(文法に則って活用して)使えるようになるには多少時間がかかるが、それによって指し示すのではなく、語ることが出来るようになる。あらかじめ子供がそのルールを持っているとは考え難く、むしろコミュニケーションの必要性が強い動機になって学習していると考えられる。環境には、自分以外の能動的で動機付けられ計画を持った観察者並びに発話者の群が居住していることを子供は学習すると同時に、その中で望ましい結果を引き出す発話をしなければならなくなる。こうして子供は周囲で話されている言語に固有の生成的パターンを発見して行く。

      認識とは自己の周囲との接触を維持する個体の能力である。それは生きること自体と切り離せない。ヒトにおいては認識は個人の営みと言うよりは多数の人々が関わる集団的営みである。認識を一個体の内面で進行する情報処理過程の諸状態として研究することは、虹を一つ一つの水滴の中で起きる事だけを仔細に観察し、その周囲の全てを無視しながら理解しようとする態度に似ている。
      思考は論理的なプロセスではなく内容、それも大抵は知覚内容に基づいている。複雑な環境の中でヒトは役に立つ情報を検知するする為の探索手段(知覚)を発達させ、そこから特定の情報を選択し他者に提示する能力も進化させてきた。他者に意識させる技能は自分自身に意識させる技能でもある。これがおそらく思考の始まりである。(こう言う風に考えると情報の伝達というのは言語の本来のあり方ではなくて、むしろ情報の提示と言うべきであろう。その発展形としては他者を操作するための道具としての言語であり、思考の道具としての言語がその次に来る。)

      情報の選択の中で重要なのは予期性である。このままほっておくとどうなるとか、自分がある行為をすればどうなるとか、ということを情報から引き出す事は動物が生きていくために必要な事であり、それを他者に提示することが可能となれば、思考が始まっていると言う事ではないだろうか?この段階ではそれは予期的意識とでも言うべきであろう。幼児の養育者は乳児の経験に徹底的な反復とリズムを持たせることによってその文化の日常のルーティンとそれが行われる場所へと幼児を導いていく。ひとたびそれに成功すれば、今度はそれが群棲環境の持続的特徴への予期的意識を作り出す。幼児は場所をわきまえ、時刻をわきまえるようになるのである。言語は予期的意識を支える情報の多くを際立たせる手段として用いられる。養育者の幼児への語りかけはその時単に指示的なものではなく、未来意識的なものとなる。例えば、「ほら、あそこに犬がいるよ。」とか「さあ、一緒にあそぼう。」とか。。。こういった言葉は、幼児がしばしば睡眠前に発する言葉でもあり、その時、言語に助けられた思考が始まっている。思考とは意味を求める高次の努力であり、そこにおいてヒトは利用可能な情報は何であれ利用しようとする。言語を生成的に使う事によって、思考は認識(知覚)を離れる事が出来る。しばしば思考は一つの流れとして想像されるが、これは訓練された大人が学習の結果出きることなのであって、思考の本来のあり方は同時多発的である。

      思考は具体的な文化的状況の中で創発する。どの文化にも探索的活動:思考を調整するための手続きのレパートリーがある。言語は言うまでも無く、歌、韻律、リズム、物語、儀礼、度量法、数、計算、描画、書字、、、、、、これらが思考という意識の自立的制御を容易にするために使われる。表象を使いこなすには訓練が必要であるが、同時に表象体系はその集団の文化的特徴そのものであり、思考をある程度規定するが故に社会的階級(権力機構)によって制限される事が多い。

      結局ヒトを記述するにしても、生物を記述するいしても、地球と共に進化してきたことを無視しては語り切れない。それは単に現在ある遺伝子や生理学的構造という意味ではない。神経生理学や脳科学の成果を見ると、あたかも心の問題が物理と化学と生理学と情報科学で片付きそうに思えるが、それはとんでもない幻想であって、生きる主体というものは自動的に導かれるものではない。生きるプロセスは語れても、価値と意味を求めて行動する存在としての生物そのものはそこにあるものとして認めざると得ない。そういう立場で見たときに、生物のあり方は生物の生理的構造だけで語れるものではなくて、環境と一体化したものとしてしか語れない。本質的に出会いである環境に対して、原子分子から構成して行く方法は余りにも迂遠である。生物(動物)にとっての環境はアフォーダンスという枠組みで捉えるのが効果的であり、それによって初めて環境と一体化した動物を研究することが出来る。そう言う立場からヒトの心の問題を研究するという事であろう。これも一種の二元論のような気がしますね。私の受け取り方が問題なのでしょうか?ともあれ具体的な研究成果については、いろいろと論文にもなっているようです。

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