「アクティブ・マインド」:
      G.ライルの考え:知性というのは、さまざまな命題や規則の知識を所有している(事項・知)だけではなく、議論展開のやり方の上手さ(やり方・知)を意味している。やり方・知は事項知から導き出されたり、あるいは単なる習慣であったりするのではなく、それこそが知性の本質である。理知的であることは知識ではなく、いろいろな行為の場面で現れる傾向性である。それではこの知的な傾向性というのは何処から来るのか?人はどうやって知的になるのか?

      J.J.ギブソンの考え:状況に対して知的に振舞うことは、あらかじめ頭の中にある整理された知識の適用だけでは出来ない。この知的に振舞うことも含めて知識と呼ぶことにすれば、それは生体と環境との相互依存関係の中にある。環境が生体にとって持つ意味は環境に生体が関わることによって、生体の活動を誘発したり方向付けたりする(アフォーダンス)ということである。

  1.見るということは単なる視覚パターンの取りこみではない。見ているものに対する身体の関わりの記憶無しには見ているものは見えない。

  2.技能も特定の状況の中で自然に体が動くのであって、頭の中の(言語化できる)知識ではない。

  3.道具というのは特異なアフォーダンス(道具的アフォーダンス)である。
      それは環境のアフォーダンスを変えることが出来る。道具を必要とし、道具を探す意思が無ければ道具は道具として見えない。実は身体というのは道具であり、道具は身体の延長である。外界を知るということは我々が身体という道具で外界を何とかしようと身構えるということである。ところでこのようなことは通常意識されない(透明である)。しかし、我々が何かを習得しようとするときには身体を道具として意識して(不透明化して)いろいろと仮想的に動かしてみたりして工夫する。本当の道具を使うときは身体が透明化して、道具が不透明になるが、熟練すると道具も透明化して身体の一部のようになってしまう。

  4.記号(言語)も道具の一種である。
      記号の始まりはおそらく農耕に必要な暦であった。天体の運動から農作業に必要なアフォーダンスを引き出す為に過去の出来事を記録することが行われ、それが新しい環境となる。すなわち天体の運動という長期間に亘って捉えがたいものを目の前に示す。記号は人々の間で共通化されると社会的関係のアフォーダンスを引き出す道具にもなる。

  5.知識というのは内的道具、記憶の中の道具である。
      ひとまとまりの経験が知識としてあるということは、それを使う状況とそれを使おうという身構えがなければ意識されない。同じひとまとまりの経験でも状況や身構えによって意識される内容(意味)が異なるのは当然である。したがって知識それ自身を独立して捉える事はできない。例えて言えば石ころ(知識に相当)は釘を打ちたいというときには金槌であり、紙切れを風で飛ばしたく無いときは文鎮である。

  6.言語は道具としての知識を不透明化し、吟味して纏めて新しい知識としたりさまざまな可能性を探る為の道具でもある。

第1章:視覚−運動表象による見えの成立−反転眼鏡の実験
      順応過程は変換された視野に対応した視覚−運動経験の記憶表象を新たに形成して行く過程である。手がかりとなる運動は手の運動と頭部回転運動である。
     
第2章:身体と意図が乖離するとき−スリップ現象の解析
      行為は階層的に構成されたスキーマの駆動であり、一連の行為要素は連鎖反応的に駆動されるのではない。意図ははっきりしていても、行為の段階で良く似たプロセスや習慣的なプロセスが紛れ込む。そう言った個々の行為要素は自動化されていて、意識的に制御してはいないのである。急速反復書字はスリップを観察するのに適した実験である。スリップ以外にも、意味飽和(刺激を受けつづけることで刺激の意味がわからなくなる)や過剰抑制(金縛り)といった興味有る現象が見られる。
     
第3章:姿勢の道具論
      我々はこの身体で対象に向かっている。関わりは身体に姿勢として刻印される。そして姿勢は関わりから我々が手にすることが出来た知識の姿をも表現する。姿勢は変わる。その変化は身体の形状の変化であると同時に、世界と我々の関わりの変化であり、そして認識の変化でもある。姿勢は認識の生成と一体となった可塑的な変化体である。
     
第4章:感情(ここでは情動と区別していない)

・信号としての感情:
  喜び−驚き−恐れ−怒り−嫌悪−悲しみ-喜び という円環構造がある。それは更に快−不快の軸と注意−拒否の軸で整理される。それぞれの感情は個々の表情筋のアクションユニットで定義される(Facial Action Coding System)。

・行動としての感情:
  適応行動の機能類型-合一−保護−定位付け−再統合−拒否−破壊−探索−生殖。対応する行動類型-世話−逃避−固着−泣く−回避(嘔吐)−攻撃−調べる-番う。感情は行動の為に身体を動かす手段である。

・共振としての感情:
  表情の模倣は人にとって基本的な性向である。それによって感情が伝播する。模倣による理解は言語以前のコミュニケーションとして最も基本的な手段であった。幼児においてそれは著しい。

  人間の認識の仕組みを考えるときに、触覚・聴覚・視覚の情報がそれぞれ独立に処理された後に統合されるのだという説明は尤らしく聞こえる。しかし、新生児でも触覚のみで体験した対象を視覚的に弁別可能であるという実験などを考えると、感覚経路毎に独立した情報処理というのは機械論的なモデルに過ぎない。感情についても生理的過程と認知的過程は別々のものではない。
 
第5章:記憶
      記憶は受動的な現象ではなくて、常に何かの為に記憶し、何かの為に想起する。記憶は過去の事柄の貯蔵庫や中身なのではなくて、経験された事柄を後で使いやすいように整理し、その後の行為の中で必要とされたときに想起をおこなうという一連の過程全体を指すものである。人間が過去を現在あるいは未来の為に利用する行為全体が記憶ということである。

      我々はたった1人で記憶行為を行い、複雑極まりない世界に立ち向かっているのではなく、他者の記憶行為の助けを借りることで個人の能力を超えた、より豊かな活動を行うことが出来る。1人1人が異なった視点から世界のありさまを記憶にとどめ、それを同世代の人々と共有し後の世代の人々に伝えて行く巨大な記憶システムこそ人間の社会性の大きな特徴である。
 
第6章:カテゴリー
      カテゴリー、典型性と家族的類似性。しかし何故我々はそのカテゴリーを持つのか?何が個々の事物間に凝集性を与えるのか?我々は刺激を受けているだけではなく、それを解釈し関係付けを行って知識としている。それ無しにはカテゴリーは成立しない。この知識を得る過程は我々の活動である。状況の中で行動しそこに関わってきた事物の知識が整理されてカテゴリーが生まれる。例えば家具というカテゴリーは人々が家に定住し、家の中にはさまざまな移動可能な物品が揃えられているという文化的環境から来ているので、遊牧生活を営む人々とはカテゴリーが異なる。教師は学校という文化的・歴史的環境に依存しているし、デザートはディナーに依存している。知覚的特徴によって決められている訳ではない。

  カテゴリーは活動によって生じるだけでなく、カテゴリーが活動を変える場合もある。何かを別なカテゴリーと見なしたり見たてたりすることでその対象を別な活動の中に引き込むことが出来る。
 
第7章:音声と文字
      書かれた文字は単に論理的概念的に意味を持つだけではない。音読によって浮かび上がる身振りがある。それは韻であったり、文法的な屈折であったりして、リズムの要素がある。我々は日常的にこの美的経験を行っている。シンボルは単に何かを意味するものではない。動きを感じることで伝わるものがある。

      シンボルを使用するというのは対話の場である。使用者は対象に何らかの媒介物をもって応答する。媒介物の客観性(繰り返し可能性)によってミーニングが生じる。これが一つ。もう一つは状況の中で明らかになる有意味性がセンスである。例:カーテンを引くと部屋が真っ暗という内容を表現しようとした四歳児が勢い良く縦線を引いた。これは真っ暗を全身的なアクションで表現したものである。この真っ暗という意味は縦線を引くという応答の最中で作られたもので客観的ではないが、その場に立ち会った人には意味が伝わる。これがセンスである。一方縦線を引く行為そのものは一般的なものであり、これがミーニングである。

      音素は文字のメタファーである。文章を数珠繋ぎになった文字で表す様に、音声を直線的な時間の上にある要素的なシンボルの連なりと見るメタファーが音素概念の元にある。ヤコブソンは音素を弁別素性の束と捉えた。すなわち少数の2項対立の特徴の集合で経済的に記述した。音素はそれ自身は意味を表さないが、この2項対立によってお互いに関係付けられて意味の特定に寄与する。ここまではソシュール流の構造的考え方であるが、ヤコブソンは更に進んで音素の必然性に進む。それぞれの音素はきめ・いろ・かたち・身振り等の評価軸に沿って吟味される。この評価のアクションとして音素の必然性が議論される。母音性・非母音性、子音性・非子音性、中断性・連続性、抑止性・非抑止性、粗擦性・円熟性、有声・無声、集約性・拡散性、低音調性・高音調性、変音調性・常音調性、嬰音調性・常音調性、緊張性・弛緩性、鼻音性・口音性。オノトマペとしても利用されている。

      文字と言うのは認知発達の外側から持ちこまれるものではなくて、起源は全身的なシンボル使用による対話の場の中での応答過程にある。我々が漢字を思い起こそうとするときの空書行動は道具を持って紙に向かうと言う場面を先行的に作り出すアクションである。拍単位を取り出すというアクションによって、幼児はひらがなを習得する。これは文化的なものであり、短歌など多くの言語芸術に利用されている。文字にはこのような音声認識でのアクションだけでなく、図像的な表情がある。表情が繰り返しによって失われる現象が意味飽和・意味消失である。しかし意味飽和はその意味に対応した行動を伴ないながら繰り返すことによって防ぐことが出来る。意味の了解は応答の過程の中で行われるものである。要約すると文字は単なるコードではない。我々の能動的行動によって意味が絶えず保たれているという動的なものである。
 
第8章:読むこと
      我々は意味を志向せずに読むことが出来るが、これは受験勉強の習慣である。単語検索作業で自動的に要約するのもそれに近い。通常の読みは内容のモデルを構成し、修正する行動である。更に進んで読むことは作者への応答であり、文章の意味を契機とした自分の世界の構築でもある。
 
第9章:推論と活動
      日常世界は絶えず変化しているが、我々はその中で事物それ自身は変化していないという事物の同一性を認識しているからこそ、変化そのものが認識できている。このような質的判断だけでなく、何かと何かを比べるとき、移動したり曲がったりしても量的変化が無いことを認識している。すなわち量の保存性である。一般に同一性課題は約5歳、保存課題は約7歳で正答されるようになる。

      ピアジェの理論では同一性は事物を実際に動かしたり曲げたりするという体験によってもたらされ、量の保存性はそれらの行動は元に戻したり、別の行動によって相殺するとかといった、行為間の関係を認識することによってもたらされる。しかし行為というのはいつも何かの為の行為であって生態学的に意味付けられている。同じ動かしたり曲げたりする行為でも目的によって注目される事物の特質は異なる。推論においても課題状況を、折る為に曲げるとして見たてるのか、結ぶ為に曲げるとして見たてるのか、によって結果が異なる。知るという活動においては目的を持った行為をしようとするときにこそ、始めて認識の単位となる場が決定されるのであり、働きかけによる事物の変形もそうした世界の中で行われる。推論とは何らかの論理的規則に従ったりそれらを適用することではない。むしろ論理的規則とは見たて活動という我々と対象との相互作用の中で顕在化する一種の制約である。

      長さ保存課題に誤答する子供はその問題を長さの問題として認識していないことが多い。変化を単なる長さや距離の長短ではなく認識主体を中心として上下、前後、近遠等の概念で表現していて、線分の動きを電車が追い越す場面に見たてている。すなわち動かした方が頭を出していて頭が前に出ているのだからその方が長いのである。動くものは頭に注目するのが自然であり尻尾の位置は無視される。実際に線分に電車の頭をつけてやり、向きを変えて見るとそれが明らかになる。また同じ問題を橋架け問題として呈示すれば正答する。もう一つの問題は子供にとっての課題とは会話状況において如何に相手の知りたがっている情報を伝えるかということである、と言うことで、これは状況によって左右される。そもそも課題の意味と言うのは言葉だけでは伝わらず、背景に暗黙の文化的了解事項がある。心理テストを受けるという状況は日常的な感覚を無視しても正しさに固執することであり、これは極めて現代的な態度である。本来的に人は現実の世界で起こっていることを前提とし、そうした事実の中でいかにも起こりそうなことを予想するとき始めてその場を課題と見なし、論理的推論を働かせる。問題の前提が仮想的なものであり、事実や自分の信念とは異なることを受け入れなければならないとか、質問者は答えを知っていて自分たちの能力を試すために質問しているという状況は論外なのである。従って推論能力を使おうとはしない。心理テストに正答するのは自分がテストされているという状況の理解、すなわち学校文化に染められているためであることが多い。

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