2005.07.09

     ジャン=ジャック・ナティエの「音楽記号学」(春秋社)は記号学的な立場でいろいろな音楽論を再配置しているだけで、音楽そのものについての目新しい考えはなかった。音楽の記号学がややこしいところは、音楽を創出する場面と、音楽の物理的存在や構造と、音楽を聴取する場面と、それぞれで記号学的な意味づけが全く異なるという点にあり、そういう考え方で過去の多様な音楽論を整理しているのである。音楽の物理的存在は西洋音楽のように楽譜というものがあるともう少し多重化するが、基本的にそのレベルで考えようとすると、楽譜や採取音に頼らざるを得ない。

    混乱を招いているのはこれら三つのレベルがそれぞれ基本的には独立している、ということであって、それらが統一されるという状況(音楽がコミュニケーションであるという状況)は余程の社会的な成熟でもない限り不可能である。作曲家が思っている作品の意味はそれとして、聴取者が感じる作品の意味もまた別途ある。それらは個人の人生経験全体に亘っていて、そういう意味では聴取者もまた積極的に意味を創造しているのである。これらに対して音楽の物理的存在や構造を解析するのは専ら音楽学者であったり、演奏家の一部であったりする。そこには多少なりとも研究の社会的蓄積が見られることになる。作品の意味が確立していくには多くの演奏家の解釈の積み重ねが必要である。演奏家は物理的実在としての音楽の意味づけに関わりながら、その演奏技術によって意味の表現にも関わる。そして、その演奏結果が次々と引きつがれて音楽作品の社会的価値を創造していく。バッハの作品が素晴らしく思えるのは過去の演奏家の努力の賜物でもあるのであって、この点で現代音楽は不利である。実際、武満徹の音楽などは演奏によって随分印象が変わってしまう。良く判らない曲だったり、ああ、こんな良い曲だったのか、と気づいたりする。工藤重典のCD「巡り 武満徹作品集」などは素晴らしい演奏である。

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