道・鎌倉街道探索日記

◆◆◆◆◆◆ 寄居・普光寺  ◆◆◆◆◆◆

普光寺

普光寺は天台宗に属し、享保4年(1719)の記録に、山王社・稲荷社・鬼子母神・観音堂再建とあるそうですが、後に観音堂を除き、塚田の三島神社に移されとあります。埼玉県教育委員会の歴史の道調査が行われた頃(昭和56~58年)にはこの寺は無住だったそうです。普光寺には町指定文化財の木造薬師如来座像があり、座高85.5センチメートルで、後世の手が加えられているものの、定朝様といわれる平安仏の特徴を一部に残していることから、制作は平安時代末期と考えられています。

寄居町赤浜の普光寺

普光寺の境内本堂前左手には下の写真の五輪塔と板碑群があります。昭和54年の通路造成の際に現在地より出土したものだそうです。碑文には鎌倉時代末期、元徳元年(1329)北朝の年号も見られるようです。推測されることは、荒川を渡る要衝のこの地で攻守往来の武士達の供養の為の板碑ではないかということです。いずれにしてもこの地が鎌倉街道上道沿いであって、街道を行き来する武士や旅人の往時の様子を偲ばせてくれるものです。

普光寺境内の五輪塔と板碑群

普光寺境内の東側の道は鎌倉街道上道の跡であると伝えています。この道を北に進むと県道熊谷寄居線と交差して更にその先は山王坂と呼ばれる坂を下り荒川岸に至ります。山王坂の名の由来は、その昔伝教大師が開かれた比叡山に倣い、山王権現を祀った名残りであるといいます。荒川の渡しは山王の渡しと称し、大沢半左衛門という人が関守をしていたので、半左の渡しともいわれたそうです。そしてその渡しから直ぐ西側の川上には赤浜の渡しがあります。この普光寺東側より山王の渡しと称せられるところまでは、ほぼ直線で繋がっています。途中赤浜の掘割状遺構と呼ばれる街道遺構を通過します。

平成16年5月にここを訪れると写真の鎌倉街道上道の標柱は新しいものに変わっていました。

普光寺東側の街道跡の道

普光寺境内北側には杉林があり、その中に下の写真のような掘割地形が確認できます。この掘割地形は寺の北側で東西方向に掘り込まれているようです。最近になって寺の門前に新しい案内版ができ、その案内板にこの掘割地形が載っていました。杉林の中にあるために注意して見ないと気がつかないようです。案内版によると、寺の東側の街道跡の道から寺の裏手で西へ分岐してこの掘割地形を通り墓地の北側から寺の西側の小道に繋がる道として描かれています。この掘割地形が道の跡なのか、或いは寺域をめぐる空堀のようなものなのか、真相はわかりませんでした。

追記・・・
平成25年時には普光寺の北側の杉林の木が刈られ、この掘割状地形がよく観察できるようになりました。

普光寺北側の掘割

下の写真は普光寺東側の道で観察しながら歩くと古道の趣が感じられる道です。現在路面に敷かれている砂利を取り除くと窪地状の道(凹道)になるのではないでしょうか。写真の左手(西側)には道脇の土手を思わせる僅かな土の盛り上がりが確認できます。一見なんの変哲もない普通の道も鎌倉街道であると意識して見ればいろいろなものが見えてきます。上の写真で説明した普光寺北側の掘割状の地形が左の林の中に見られます。写真奥の白い家の後ろには県道熊谷寄居線が通り、さらに後方の森の中へこの道は続いていたものと考えられます。そしてその森の中には赤浜の掘割状遺構があるのです。

普光寺東側の道

普光寺西側の墓地の端にも北へ向かう小道があります。一説にはこの道も鎌倉街道だといわれています。この道が県道熊谷寄居線と交差して、さらにその先には現在の赤浜の荒川岸に下りる狭い舗装路があるのです。現在普光寺から赤浜の荒川岸まで行くにはこの道を通るしかありません。普光寺の東側の鎌倉街道跡である掘割状遺構付近は、現在は深い藪で道にはなっていません。掘割状遺構を見たいというのであれば、藪の中に入っていく覚悟が必要です。

普光寺西側の墓地よりの小道

 

オリジナルを重視するため、鎌倉街道上道(埼玉編)の作成当初の市町村銘そのままにしています。 平成27年の鎌倉街道上道が通る市町村は、以下のとおり変更(合併)されています。

花園町→深谷市  川本町→深谷市  児玉町→本庄市

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