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赤浜の渡し寄居町赤浜の荒川岸には川越岩(かわこしいわ)という大きな岩があります。この岩の付近の流れは浅瀬になっていて、対岸にも大きな岩が確認できます。川越岩のことは『新編武蔵風土紀稿』の赤浜村の項にも記されています。この岩の傍らに鎌倉街道の渡し場があったといいます。川越岩は別名を獅子岩といい獅子が伏している姿に似ていたのでそう呼ばれたそうです。この辺りは天気の良い日には釣り人や河原遊びをしている人達が多く見られるところです。 |
寄居町の荒川の渡河地点である赤浜の渡し |
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川越岩は川の流れの水量の目安にもされていたようです。この岩の一定の高さまで水面が上がると川止めされたといいます。この岩には上ることができますが、岩はもろくまた滑りやすいので足下に気を付けて下さい。 この付近で永禄4年から5年に赤浜原の合戦が行われています。小田原北条氏と越後の上杉謙信との松山城紛争による戦いで、北条方の松山城主上田氏の家臣山田伊賀守が上杉方の太田三楽斎資正の配下の道祖土図書助という人物に討ち取られたというものです。これは川島町道祖土家文書に記されているそうです。ところで太田三楽斎資正は岩付城主で、あまり知られてはいませんが、日本の「十三大将」の一人に数えられるほどの人物であったといわれています。 |
赤浜の渡しと川越岩 |
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左の写真の遠景の橋は県道の花園橋です。赤浜の渡しを越えた後の鎌倉街道は二手に分かれます。一つは上道の本道といわれる道で、荒川の北岸をしばらく西に向かいお茶々の井戸へと続く道です。またもう一つは渡岸点からそのまま北へ進み、関越道花園インター付近を通り本庄方面に向かう「榛沢瀬」(はんざわぜ)と呼ばれた道があります。便宜上前者を児玉道と呼び、後者を本庄道と呼んでいるそうです。「榛沢瀬」は鎌倉街道の説明の中の街道の特徴でふれているとおり、具体的な記録が残っていて、実際その遺構も僅かではありますが関越道花園インター付近に残っているそうです。また鎌倉街道上道から分岐する奥州方面の幹線路とも考えられているようです。 |
川越岩 |
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寄居町赤浜付近には幾つか訪ねて見たいとかろがあります。県道熊谷寄居線沿いにある出雲乃伊波比神社は延喜式内社で、中世以降は八幡宮として信仰されていましたが、明治33年に旧社号に復しました。小被神社は同じく延喜式内社ですが以前は隣村の富田塚越にあったものを現在の地に移したものだそうです。更に少し西には昌国寺があり、もと旗本水野石見守長勝の陣屋跡に建てたお寺で、墓地には水野家累代の宝篋印塔の墓があります。また寺には陣屋跡の堀や土塁が残っています。そしてこの辺りの地名は男衾といい、日本史の教科書などで中世武士の資料として有名な絵巻『男衾三郎絵詞』の物語の地とも伝えられているところなのです。 |
花園橋より荒川の上流を見る |
