道・鎌倉街道探索日記

◆◆◆◆◆◆ 寄居・赤浜掘割状遺構  ◆◆◆◆◆◆

下の写真は寄居町普光寺の北方を東西方向に通る県道熊谷寄居線道路脇にある「六大塚」と呼ばれているものです。円墳のような塚で直径は10メートルほどの大きさです。塚の北側は県道に掛かっていますが、西と南側には掘りの跡も確認できます。この塚についての解説はホームページ作者が調べた鎌倉街道上道関連の資料には記されているものがありませんでした。最近、普光寺の山門前に建てられた鎌倉街道の説明版に六大塚と書かれていて、「伝六大御前(平維盛の子)の塚」とあります。この塚は普光寺東側の鎌倉街道と伝わる道端にあり、街道と何らかの関係がありそうです。

寄居町の普光寺北側の六大塚

赤浜の掘割状遺構

普光寺の東側の道を北へ進むと上の写真の六大塚の傍を通り、さらにその先の街道ルートは県道を越えて延長線上の雑木林の中へ進んで行きます。しかし現在では雑木林の中へ進む道はありませんので一般の方は雑木林の中までは入れません。少し強引でしたがホームページ作者は藪漕ぎで進んで行き下の写真の掘割状遺構を撮影しました。危険ですので一般の方は真似ないようにお願いします。

掘割状遺構がある辺りは赤浜天神沢と呼ばれるところです。『歴史の道調査報告書』には「遺構は南に浅く北に行くに従って深くなる形状を示し、深さ0.5~2メートルを測る。上幅約12メートル、下幅約5メートル、長さ約200メートルに渡って現在する。」とあります。

赤浜の掘割状遺構

上記のとおりここの掘割状遺構は昭和56~58年に歴史の道調査の一環として発掘調査が行われています。発掘地点は遺構の鞍部に近く比高差の少ない二箇所で行われ、その間隔も僅かに10メートルであったとあります。第一トレンチでは東西に残る見掛けの立ち上がり部分を含めて、幅2メートル、長さ9メートルのトレンチを設定し、結果として中央部の平坦面は凹凸があり軟質で踏堅めと認められるものではなく、西側に二本の溝が彫り込まれていたとあります。一方、第二トレンチは三基の古墳が存在し比高差のある北の古墳の南裾部に設定し、トレンチの長さは11.8メートルとやや長くとり、結果として井戸と思われる落ち込みを検出し、そこからは陶器片や硯片等が確認されています。またトレンチ中央部は帯状の高まりがあり、砕石が多数検出され、西側は第一トレンチ同様に二本の溝が重なった状態で確認されたそうです。

赤浜の掘割状遺構

以上の調査結果として、二本のトレンチの間隔が僅かな割に、その内容は大きく異なり、唯一西側部で検出された二条の溝のみ共通しているようでありますが、この溝も供にある程度の堆積が進んだ段階で彫り込まれたものであり、ローム層を整形した中央部の遺構とは、時期的に異なるとあります。両トレンチには他の遺構発掘で確認された一定の幅を保った平坦面が検出されていないそうです。また第二トレンチからは井戸と考えられる落ち込みがあり、西側緩斜面では砕石が混在するなど人為的に積まれた土層である可能性が強く、什器片が出土していることも合わせて、ここに何らかの生活の場が存在したことが想起されるということです。出土資料の示す時代に生活の場が築かれた為、それ以前に構築された遺構はかなり破壊されている可能性が考えられ、道路遺構と断定できるものは検出されなかったとするのが妥当であると報告書に書かれていました。

掘割状遺構より北側の古道

残念ながら発掘調査からは道路遺構と認識できる結果ではなかったようです。しかし生活の場が築かれた為に本来の道路遺構が壊されたと考えることもでき、今後規模の大きな発掘を改めて行えば街道遺構と認められるものが出てくるかも知れないのです。発掘の結果はここに街道が通っていなかったといっているのではありません。
下の写真は掘割状遺構の北側の古道跡と思われる窪地状の小道で、写真の北で現在の舗装路の坂道と合流して荒川岸まで急坂を下って行きます。その舗装路も山王坂と呼ばれ以前は掘割状を呈していたそうですが、現在は拡張されてしまっています。舗装路からはところどころで赤浜の渡し場一帯を眺めることができます。

追記・・・
近年、寄居町教育委員会により、この赤浜の遺構の広範囲な調査が行われたそうです。結果として道路遺構であることが確認されたといいます。

掘割状遺構より北側の古道

平成16年5月に寄居町赤浜の掘割状遺構へ数年振りに訪れました。この遺構のあったところは以前とすっかり変わってしまい、上記で探索していた当時の面影はなくなっていました。

県道熊谷寄居線北側の雑木林内の掘割状の窪地は埋められてしまっていました。上の6つの写真は掘割状遺構の北側にあった畜産場付近の現在の状況を撮影したものです。ここは寄居町と川本町の境で川本町側(東側)の土塁状の場所は、以前に繁っていた竹林が刈られ綺麗に整備されていました。そして土塁状の上には川本町教育委員会による鎌倉街道上道の説明板が新たに建てられていました。

以前には鎌倉街道を説明するものは何もなかったのですが古道の雰囲気がある場所でした。しかし、今では整備され鎌倉街道上道の標柱や説明板が建てられたにもかかわらず古道の雰囲気はなくなっているように感じられました。それはおそらく川本町側に大きな倉庫のような建物が古道跡に沿うように建ち、その建物の白く高い壁が周囲の景観を圧迫するようになってしまったからなのかも知れません。

800年もの歴史の由緒ある古道も、現在はただ形式的に残されただけのように感じられました。現在の人達は雰囲気作りという視点から古道を見るという考え方は苦手なのかも知れません。それでもここに鎌倉街道上道の説明板を建ててくれたことに感謝しなければいけないと思いました。

この赤浜掘割状遺構の北側は近年に『鎌倉街道』の名称で川本町指定史跡になっています。

 

オリジナルを重視するため、鎌倉街道上道(埼玉編)の作成当初の市町村銘そのままにしています。 平成27年の鎌倉街道上道が通る市町村は、以下のとおり変更(合併)されています。

花園町→深谷市  川本町→深谷市  児玉町→本庄市

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