この松は県指定天然記念物になっていましたが、昭和59年に松くい虫によって枯れてしまい、一部伐採されてしまったそうです。以前は樹齢800年とも言われていたようなのですが、伐採時の年輪調査によれば338年であったといいます。この松に関する記録は多くはありませんが『小川町史』には群馬県太田市の玉厳寺に、この大松に関したものと思われる二つの伝承があることが記されています。「伊勢根にある老人がいて、この老人にときの人が大松の年を聞いたところ、千年にして枝が地に達するとして、大松は一昨年地に着いたので、千と三つ也といった」という話と、「昔、某将軍がこの地を通って記念に松を植え、荒川を渡っていった。その時の渡しを植松の渡しと名付けた」というのが書かれています。ここで語られているときの人と某将軍はあの新田義貞だと思われます。大松はもとは鎌倉街道沿いにあったのかもしれません。近くの鎌倉街道跡にも大きな木の切り株があったと伝えられています。
小川町能増の永昌寺大松
小川町高谷の総合運動場前から見た四津山
県道菅谷寄居線から四津山の入り口
四津山神社は火遇突智命を始め十七神を祭神として、御神体は勝軍地蔵とあります。古来より火防の神とされて信仰厚く、信者は関八週に及ぶそうです。宝暦9年(1759)に山麓の明王寺の住職、権大僧都法印祐慶師の代に古来より境内に祀られていた寺の氏神である愛宕神社を、山頂に遷座して以来、重誉師を始め時の住職は御神体を奉じて山に登り、神事を執行されてきたといいます。明治に入り神仏分離により山麓の高見、能増の村社十一社を愛宕神社に合祀して、山の地名より四津山神社と改称したということです。
四津山に向かう道
四津山山頂にある四津山神社
四津山山頂から見た高見原
室町時代に山内・扇谷の両上杉氏は鎌倉公方の補佐役として相模・武蔵・上野にかけて勢力を二分していました。文明18年(1486)に扇谷定正が家臣の太田道灌を殺害した後、両家は互いに覇権をめぐって争うこととなります。長享2年(1488)に両上杉氏は現在の嵐山町菅谷の須賀谷原でぶつかります。山内顕定・憲房方は二千騎、扇谷定正・朝良及び古河公方政氏と長尾景春らは合わせて千五百騎が相争い多数の戦死者が出たといわれます。この戦の五ヶ月後に両者は再びここ高見原で戦となります。山内方三千騎、扇谷方二千騎。この時は山内方は多勢にもかかわらす敗北します。この時の情況を『鎌倉公方九代記』に壮烈な戦いてあったことが書かれています。そしてその後延徳3年(1491)に再びこの地で両上杉氏は戦を行うことになるのです。
高見原から四津山を見る