道・鎌倉街道探索日記

◆◆◆◆◆◆ 小川・四津山  ◆◆◆◆◆◆

永昌寺の大松

永昌寺の大松は県指定天然記念物になっていましたが、昭和59年に松くい虫によって枯れてしまい、一部伐採されてしまったそうです。以前は樹齢800年とも言われていたようなのですが、伐採時の年輪調査によれば338年であったといいます。この松に関する記録は多くはありませんが『小川町史』には群馬県太田市の玉厳寺に、この大松に関したものと思われる二つの伝承があることが記されているそうです。「伊勢根にある老人がいて、この老人にときの人が大松の年を聞いたところ、千年にして枝が地に達するとして、大松は一昨年地に着いたので、千と三つ也といった」という話と、「昔、某将軍がこの地を通って記念に松を植え、荒川を渡っていった。その時の渡しを植松の渡しと名付けた」というのが書かれています。ここで語られている「ときの人」と「某将軍」はあの新田義貞だと思われます。大松はもとは鎌倉街道沿いにあったのかもしれません。近くの鎌倉街道跡にも大きな木の切り株があったと伝えられています。

小川町能増の永昌寺大松

嵐山町から県道菅谷寄居線を北に向かって行くと、小川町との境付近からは北西方向に独立したピラミッド型の山が見えてきます。下の写真はその独立した山で「四津山」といいます。この山の頂上には四津山神社があり、そしてその神社は高見城跡に建っています。小川町のこの付近の見通しの効くところなら必ずこの山が目を引きます。この山の東麓を通っていた鎌倉街道上道を行き交う人々にはこの山の存在を意識せずにはおられなかったのではと思われます。そして室町時代から戦国時代かけて山頂に高見城が築かれていたのです。

小川町高谷の総合運動場前から見た四津山

下の写真は県道菅谷寄居線沿いの、四津山への入り口にあたるところです。ここから四津山までは村落の中を少しずつ上っていくことになります。写真の場所から山の登り口まで徒歩で行きますと1キロほどの距離と登りの坂がありけっこう疲れます。
小川町の四津山は、埼玉県内の鎌倉街道上道沿いにある唯一の山らしい山です。街道散策で時間があればぜひ寄って山に登ってみたいところです。

県道菅谷寄居線から四津山の入り口

四津山神社と高見城跡>

四津山神社は火遇突智命を始め十七神を祭神として、御神体は勝軍地蔵とあります。古来より火防の神とされて信仰厚く、信者は関八週に及ぶそうです。宝暦9年(1759)に山麓の明王寺の住職、権大僧都法印祐慶師の代に古来より境内に祀られていた寺の氏神である愛宕神社を、山頂に遷座して以来、重誉師を始め時の住職は御神体を奉じて山に登り、神事を執行されてきたといいます。明治に入り神仏分離により山麓の高見、能増の村社十一社を愛宕神社に合祀して、山の地名より四津山神社と改称したということです。

四津山に向かう道

高見城跡は四津山の山頂に築かれた中世の典型的な山城です。城跡からは、北は荒川流域一帯、南は市野川筋を一望でき、鎌倉街道上道を押さえる軍事上の要所に建てられていることがわかります。戦国時代には鉢形城と松山城の中間にあって、重要な役割を果たしたと考えられています。城跡は細長い尾根を巧みに利用し、四津山神社の建つ本郭と北に連なる三つの郭で構成されていて、それぞれの郭は土塁と堀切によって区画されています。城の築城年代や城主については不明な点が多いようで、『新編武蔵風土記稿』には長享元年(1487)に没した増田四郎重富の居城と伝えているようです。

四津山山頂にある四津山神社

四津山の山頂からは素晴らしい展望が得られます。東側には関越自動車道が見へ、市野川筋南方は杉山城辺りまで眺められます。下の写真は北東の寄居町今市方面を眺めたもので、この辺り一体が古戦場の高見原と思われます。四津山の山頂に上るには麓の登山口にある鳥居前から長い登りの参道を進みます。その参道を上るだけでも相当息切れを感じます。慌てて上ると山頂では疲れてへとへとになってしまいます。山登りの時のように一歩一歩ゆっくりと上ることをお勧めします。長い直線の参道が尽きると、そこから右に折れ、その先に石仏があります。その左手に四津山神社まで一挙に上る急な石段が天に昇るように続いています。また石仏のところを直進する迂回路もあり女坂と呼ばれていて、大回りですが登りは石段よりは緩く神社の裏手辺りに出られます。この女坂と呼ばれる上りが本来の大手口ではないかと思われます。登り切ると、ここ迄の苦しさも一新して素晴らしい遠望が楽しめます。

四津山山頂から見た高見原

高見原古戦場跡

室町時代に山内・扇谷の両上杉氏は鎌倉公方の補佐役として相模・武蔵・上野にかけて勢力を二分していました。文明18年(1486)に扇谷定正が家臣の太田道灌を殺害した後、両家は互いに覇権をめぐって争うこととなります。長享2年(1488)に両上杉氏は現在の嵐山町菅谷の須賀谷原でぶつかります。山内顕定・憲房方は二千騎、扇谷定正・朝良及び古河公方政氏と長尾景春らは合わせて千五百騎が相争い多数の戦死者が出たといわれます。この戦の五ヶ月後に両者は再びここ高見原で戦となります。山内方三千騎、扇谷方二千騎。この時は山内方は多勢にもかかわらす敗北します。この時の情況を『鎌倉公方九代記』に壮烈な戦いてあったことが書かれています。そしてその後の延徳3年(1491)に再びこの地で両上杉氏は戦を行うことになるのです。

高見原から四津山を見る

 

オリジナルを重視するため、鎌倉街道上道(埼玉編)の作成当初の市町村銘そのままにしています。 平成27年の鎌倉街道上道が通る市町村は、以下のとおり変更(合併)されています。

花園町→深谷市  川本町→深谷市  児玉町→本庄市

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