道・鎌倉街道探索日記

◆◆◆◆◆◆ 小川・能増  ◆◆◆◆◆◆

小川町能増の掘割状遺構

小川町伊勢根の掘割状遺構の北側の道路から能増の掘割状遺構方面に向かって、畑地内を通る舗装路が通っています。その舗装路の西側には道路遺構らしき地形(掘割道の土塁状の片辺)が見られます。この舗装路は直ぐ先でT字路になり、その前に一軒の民家が建っています。そこでこちらの民家で何か鎌倉街道について話が聞けるかも知れないと思い、思い切って尋ねてみることにしました。民家の前の畑で子供を連れて農作業をしていた女性に声を掛けてみると、おばあちゃんなら詳しいと、家中まで案内してくれました。

小川町能増の掘割状遺構

こちらの民家のおばあちゃんの話によると、「今の家から三代前の家の玄関は、街道の跡だったと聞いています」と、玄関の壁に掛けられている先代の家の写真を見ながら語られました。こちらの民家はいつ頃からここに建っていたのですかと尋ねると、ちょっとそれは私にもわからないといわれました。「もう何代も昔からここにあるんですよ」といわれ、「以前は古い資料が多く残っていたんですが、何代か前に家を整理するときに処分してしまったとは聞いていますが」と語られました。「亡くなられた前のおじいちゃんはけっこう詳しかったんですけどねと」といわれました。

能増の掘割状遺構

こちらの民家の屋号は「門跡」(もんぜき)と呼ぶそうです。昔、偉いお殿様が、こちらの大きな家で休憩された時に、「門跡」と呼ぶようにといわれて、それ以来そう呼んでいるということです。
最後にお礼をいって帰り際に「ご苦労様」と缶コーヒーをくれました。何やらお仕事中の最中だった様子で、突然に尋ねてきた私の方こそお礼をしなければいけないのにと思いました。「おばあちゃん、どうもありがとう。」とても気持よく帰ることが出来ました。

能増の掘割状遺構

ホームページ作者にとっては「掘割状遺構」が鎌倉街道を一番実感できるものでしたので、このホームページの写真は掘割状遺構の雑木林が多くて大変恐縮しています。掘割状遺構の前に立って、この遺構はいつ頃に造られたものなのだろうか、ここを畠山重忠や新田義貞などの関東のつわものどもが鎌倉を目指して通り抜けていったのか、などと想像していると我を忘れた心境になれるのでした。自分はなぜ800年も昔の鎌倉街道にこんなに夢中になっているのか、自分でもわかりません。何か見えないものに導かれてここに来ている感じがしないでもありません。

能増の掘割状遺構

小川町能増の掘割状遺構について『歴史の道調査報告書』には、上幅約12メートル、下幅約4メートル、深さ約2メートルを測り、長さ約70メートルにわたり遺存すると書かれています。この道路遺構は山林中をゆるやかに下り、市野川の段丘面を降りています。街道はこの先では県道寄居・菅谷線の西に沿って北上して行ったものと思われます。丘状を降りたところは小さな池になっていて、県道からほんの数メートルのところです。写真でもわかるように、丘上を人工的に削り切通しの形状を呈し、現在は樹木や竹林に覆われていて、かなり以前から遺構が残っていたと思われます。現存する周辺の地形や掘割の型、掘割の方向性などからも館の跡の堀などとは違う性格のものと想像できます。ここの遺構は発掘調査などは行われていないようです。また南にある伊勢根の遺構より掘割の下幅は狭いようです。

能増の掘割状遺構

下の写真は能増の掘割状遺構の北側で県道菅谷寄居線に出たところです。県道東沿いには墓地があります。この辺りの字名は「重殿」と呼ばれていて『歴史の道調査報告書』には、「いつ頃からこのように呼ばれ始めたのか定かでないが、注目すべき地名である」と書かれています。ここから先、北側の街道の道筋は、市野川の氾濫源を横断することから、はっきりしていないようです。寄居町今市までは、ほぼ現在の県道がその道筋だと推測されているようでもあります。

能増の掘割状遺構をぬけて県道に出たところ

 

オリジナルを重視するため、鎌倉街道上道(埼玉編)の作成当初の市町村銘そのままにしています。 平成27年の鎌倉街道上道が通る市町村は、以下のとおり変更(合併)されています。

花園町→深谷市  川本町→深谷市  児玉町→本庄市

PAGE TOP