道・鎌倉街道探索日記

◆◆◆◆◆◆◆ 毛呂山・大類  ◆◆◆◆◆◆◆

毛呂山町に残る街道跡の道は、今も未舗装で比較的長い距離を歩ける散策地です。周辺には史跡も多く、毛呂山町歴史民俗資料館もすぐ近くにあります。そして市場と西大久保の境界には県内屈指の鎌倉街道上道掘割状遺構があるところなのです。下の写真は旧街道が県道川越坂戸毛呂山線を横切るところで、その角には大きな鎌倉街道上道の案内看板が立っています。(平成16年4月には左の写真の看板はなく別の鎌倉街道の看板になっていました。)この交差点から県道を東に約200メートルのところに毛呂山町歴史民俗資料館があります。駐車場も有り無料で見学できます。

県道川越坂戸毛呂山線と交差する旧街道

鎌倉街道上道以外にも鎌倉街道と伝わる道は埼玉県内の至るところにあります。鎌倉街道は名前の示すとおり、相模国鎌倉に繋がっていた道ということになると思いますが、一方で単に近世以前の古い道を鎌倉街道と呼ぶこともあるようです。街道というからには幹線路であり、向かう目的地がはっきりしていなければならないと思います。数多くある鎌倉街道の支道は、武蔵の国や北関東に館を構えた鎌倉幕府の有力御家人が「いざ鎌倉」として利用した道というのが一般的な解釈です。また戦国時代に後北条氏が支城を結んだと思われる道なども、鎌倉街道と呼ばれているものがあるようです。

毛呂山町大類の街道跡

毛呂山町大類の街道

下の写真は毛呂山町歴史民俗資料館近くの街道跡の道です。ここは西側のみ堀割状の跡が残り、すぐ北側には川角古墳郡や大類古墳群があります。この付近は幸いにも土地開発が遅れたことから昔のままの砂利道が街道の面影を良く伝えています。鎌倉街道の資料や著書の多くは昭和50年代の古いものが多く、それらの書籍の写真を見ると、この辺りの風景はその頃からあまり変わっていないようです。是非ともこのままの状態で後世に伝え残したいところです。ですから可能であるならば、この付近の街道跡は史跡指定にして保護してもらいたいと思っています。

毛呂山町大類の街道跡

ここ毛呂山町を通る鎌倉街道は上道(かみつみち・かみのみち・かみみち等、地域によって読まれ方が若干違う)といい、この上道は関東に残る鎌倉街道の中でも推定ルートがはっきりしていることや、歴史の舞台として文献史料などにも地名が登場しているところが多いことなどから、もっとも知られている鎌倉街道なのです。ここ毛呂山町の街道跡は、往時の姿に近い状態で残る貴重なところで、私達に中世歴史物語を感じさせてくれる道だと思います。ただここが鎌倉街道とは知らず、何も考えずに通り過ぎれば、この道はだだの雑木林の中を行く農道としか感じられないかも知れません。 ですからホームページ作者は「鎌倉街道」を意識してもらうための啓蒙活動が必要だと感じています。

上の写真及び下の写真の付近は「鎌倉街道B遺跡」といい、接続する道路などの改良工事に伴う埋蔵文化財発掘調査が行われています。現在ある鎌倉街道跡の道そのものの発掘ではありませんが、この道に接続する別の道の部分で、調査範囲も限られ狭い部分のみでしたが、道路の側溝と思われる溝跡や道路面と考えられる硬化面が検出されています。現表土より約45センチの地中に、鎌倉街道と考えられる遺構が埋もれているようです。発掘調査から現西側壁面下部から東へ約4メートルの幅の道であることが想定されます。

毛呂山町大類の街道跡

下の写真の鎌倉街道遺跡の標示がある裏(写真の右側)には古墳があります。その頂に江戸時代の庚申塔が立っています。この付近には幾つもの古墳が確認できます。庚申塔の立つ古墳から林の中を東に約200メートルほど行った大類グラウンドの前に湧き水の池があります。池の辺りは何かの遺跡のような感じがするところで、鎌倉街道遺跡の標示説明には大薬寺という寺が庚申塔のある古墳の辺りにあったということです。また下の写真の手前には南北に通る鎌倉街道と交差する東西の道があります。その道を西にしばらく行くと川角古墳群と崇徳寺跡があります。ここは古代の古墳、中世の鎌倉街道、近世の庚申塔、そして現代の大類グラウンドとタイムトラベルの中にいるようなところなのです。

毛呂山町大類の街道跡の道

下の写真は大類グラウンドと毛呂山養護学校の間の街道跡の道です。写真の左が大類グラウンドで右側が毛呂山養護学校になります。この辺りは「堂山下遺跡」といって、室町時代の集落があったところです。遺跡からは中国製の陶器なども出土したそうです。また下の写真の道も同時に発掘調査され、幅員約4メートルの側溝を持つ道路状遺構が検出されているそうです。この遺跡は鎌倉街道上道が越辺川を渡る地点に存在し、中世の文献に出てくる「苦林宿」ではないかともいわれています。堂山下遺跡の説明版が大類グラウンドの入り口からちょっと入ったところにあります。ここから北の街道は越辺川を渡りますが、越辺川の流路が昔と随分と変わっているために、渡岸点もはっきりしていなく、鳩山町今宿迄はその道筋を辿ることは今ではきわめて困難であるようです。

大類グラウンドと毛呂山養護学校の間の旧街道

追記・・・ 平成24年に毛呂山町教育委員会が発掘調査した崇徳寺跡から、50基ほどの板碑が発見されています。高さ2メートほどの板碑もあり、板碑の台石も出土しています。古くからの古墳の石室を壊して墓地が造られていたといいます。

 

オリジナルを重視するため、鎌倉街道上道(埼玉編)の作成当初の市町村銘そのままにしています。 平成27年の鎌倉街道上道が通る市町村は、以下のとおり変更(合併)されています。

花園町→深谷市  川本町→深谷市  児玉町→本庄市

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