道・鎌倉街道探索日記

◆◆◆◆◆ 毛呂山・市場と大類境の街道跡  ◆◆◆◆◆

毛呂山町の鎌倉街道上道は埼玉県内でも保存状態が良好で、未舗装の街道跡の道を歩くことができ、鎌倉街道ファンは是非訪れてみたいところです。下の写真は市場の掘割状遺構から街道跡の道を、北にしばらく進んだ付近のものです。写真のこの辺りは市場と大類の境になっています。『新編武蔵風土紀稿』の大類村の項に次のようにあります。「小名 鎌倉道 西方川角村の境を云、ここに鎌倉への古道あり、北の方苦林村より村内九町を過て、南方大久保・市場二村の間に通ぜり、今は尤小径となれり、是は鎌倉治世の頃、上下野州より鎌倉への往来なり、今も此細径を北へ往ば、越辺川を経て児玉郡本庄宿へ通ぜり、南の方は市場・大久保の境を過、高麗川を渡りて森戸・四日市場村の間をつらぬけり、」とあります。この記述は現在確認されている鎌倉街道上道の道筋を忠実に語っているものです。

毛呂山の市場と大類の境の街道跡

毛呂山町の鎌倉街道を歩くのは楽しいとはいってみても、いったい何が楽しいのか、そのように思う人もいることでしょう。そもそも鎌倉街道を訪ね歩く楽しみとは、どういったところにあるのか。古道歩きの楽しさは人それぞれ違うはずです。ホームページの作者の場合は、古い歴史が好きであったことから古道に興味を持つようになりました。史跡、遺跡、文化財を尋ね歩くのが趣味でしたので、それらを周り巡っていると古道で繋がっていることがよくありました。そして古道は歴史そのものであり、史跡そのものであり、文化財そのものであと考えるようになりました。史跡である館跡や城跡などは、もちろん古道で繋がれています。古い社寺や古墳などの遺跡も古道で繋がれていることが多いのです。古道を意識したとき、古道は歴史探索の原点であるように思われたのです。近世より古い歴史は文献も少なく、歴史の探索には古道は欠かせないと考え始めたのです。

歴史地理学という学問があるようですが、これまで歴史と古道を関連づけて研究する専門家は、城館などの研究者など一部の人達に限られていたようです。昔の地理的中心(都)から有力豪族の本拠地はどのように繋がれていたのだろうか、歴史上の出来事(合戦など)の実際の現場はどこなのか、宗教や文化はどのように広がったのか、それらはもとより、昔の人達の生活で産業や経済活動などを詳しく調べると、道や交通のことは無視できないものでした。とりわけ東国の中世史は鎌倉街道抜きには考えられないのです。話が長くなりましたが、鎌倉時代から戦国時代の中世に興味を持つことで、おのずと鎌倉街道を探索したくなるものです。

毛呂山の市場と大類の境の街道跡

しかし、現在に至り、中世の鎌倉街道を正確に探すことはかなり困難な話で、実際の鎌倉街道といわれる道であっても今では普通の車道であったりして、また道の周りの景観も近世の街道のような歴史的おもむきが感じられるところは鎌倉街道には殆どありません。

そんな中で、毛呂山町の鎌倉街道跡の道は、未舗装の砂利道で、掘割状遺構も見られ、発掘調査では堂山下遺跡という中世集落跡及び中世寺院跡とそこを通る中世道路跡も確認されています。鎌倉街道伝承も江戸時代の地誌に見られ、古墳群や板碑があることから、ここの鎌倉街道は確実性がかなり高いわけです。普通の道のように見える写真の道も、鎌倉武士達が行き来した道だと思うと、わくわくしてきませんか。そのように想像を掻き立てることで、道と道の周りの景観により興味と好奇心が昂ぶられ、そして我を忘れ、藪の中に鎌倉街道跡がないかと夢中で探している自分がいるのでした。道を含めた歴史的空間は、そこに埋もれているであろう街道遺構が、何かを語りかけてくれように感じたりするのでした。

街はずれの砂利道にしか見えない毛呂山町の鎌倉街道も、遠い昔は鎌倉まで続いていた道で、歴史上に知られた人物がここを通りぬけて行ったのだと想像することで歴史ロマンにしたることができるのです。そんなところが鎌倉街道歩きの楽しみなのでした。

毛呂山の市場と大類の境の街道跡

 

オリジナルを重視するため、鎌倉街道上道(埼玉編)の作成当初の市町村銘そのままにしています。 平成27年の鎌倉街道上道が通る市町村は、以下のとおり変更(合併)されています。

花園町→深谷市  川本町→深谷市  児玉町→本庄市

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