道・鎌倉街道探索日記

◆◆◆◆◆◆◆ 鳩山・赤沼・熊井  ◆◆◆◆◆◆◆

鳩山町の今宿の県道玉川坂戸線と県道岩殿岩井線の交差点から、そのすぐ北側の小高い丘は「おしゃもじ山公園」といいます。おしゃもじ山の名称は、杓子母神社(おしゃもじ様)が祀られている祠が麓にあることからそう呼ばれるようになったといいます。公園に登ると展望塔があり、関東平野から秩父の山々などが一望できます。公園西の県道を北にしばらく進むと、東に斜めに分岐する道があります。この道が旧街道です。

県道から分岐する旧街道

赤沼供養塔

県道から東斜めに分岐した旧街道に入ってすぐに、交差する道があり、その角に赤沼供養塔と呼ばれる道標を兼ねた石塔があります。中央の安永8年(1779)の日本廻国四国七遍供養塔は、鎌倉街道上道の案内書には必ず紹介されている道標です。供養塔には「北ハひきの岩殿道」「中ハすがや野原道」「西ハ小が者ちち婦道」と刻まれていて、「中ハすがや野原道」にあたるのが鎌倉街道の道筋を指しているようです。道はこの先で再び県道に合流しますが、かっての街道は電話局の西側から畑の中へ続いていたといいます。『歴史の道調査報告書』には次のように書かれています。付近の民家の人の話によると、日照りが続くと菜畑の菜の葉が6メートル程の幅で黄色に変わるところがあり、其の場所が街道跡で、地面を突き固めて通りやすくしたためであろうということです。

鳩山町赤沼の赤沼供養塔

上の写真で説明したように、電話局の西側から畑の中へつづいていた道は、鳩山診療所東、下の写真の一本杉の墓地の辺りに繋がっていたそうです。この一本杉のところには、かって「街道杉」という大きな杉の木があったといいます。『歴史の道調査報告書』にはここに、幅約5メートル、深さ0.6メートルの掘割状遺構が約37メートル、雑木林の中に残されていると書かれていますが、今は全くわからず墓地の手前に農道があるだけです。街道はこの先の鳩山中の校庭へと続いていたようです。今はその痕跡を辿ることはできませが、以前は鳩山中の校舎直下に掘割状遺構があったそうです。しかし校舎の改築に伴い、今はその位置すらもわからないといいます。校庭南の外壁に鎌倉街道の案内版があるのみでした。

街道杉があったという墓地

赤沼古代瓦窯跡

鳩山中の北東、鳩川を渡った台地状の傾斜地には赤沼古代瓦窯跡があります。ここの窯跡は県内でも最古例のものだそうです。当初武蔵国分寺の瓦を焼いた窯跡と考えられていましたが、近年の発掘調査で国分寺以前の窯跡であることが判明し、窯跡は瓦専用窯ではなく、須恵器窯としても使用された地下式登り窯ということです。この窯で焼かれた瓦には、軒丸瓦に、短弁8葉・12葉と複弁8葉軒丸瓦などがあり、軒平瓦には細格子目文軒平瓦があり、これらの瓦は白鳳寺院として武蔵国最古といわれる、勝呂廃寺(坂戸市勝呂)に供給されたものであるということです。またこの窯跡から南に100メートルのところには、石田国分寺瓦窯跡があり、この付近は窯跡群であって、いずれも瓦以外の物も焼いた、瓦陶兼業窯と呼ばれるものだそうです。

赤沼古代瓦窯跡

妙光寺板碑

鎌倉街道から少し西に外れますが、鳩山駐在所前の交差点から県道東松山越生線を西に1.5キロ程行くと鳩川を渡る橋があり、橋の手前を右に曲がると、石造の白い観音様が立っている寺院が見えてきます。この寺は妙光寺といい、現在はコンクリート造りのお堂と真新しい観音様があり、綺麗に整備された境内になっています。墓地には下の写真の古い板碑が数基あります。越生の法恩寺の末寺で開山は竺翁といい、板碑は弘安9年(1286)に仏の追善供養のために建てられたといいます。また戦後間もない頃、墓地を整理拡張したところ、中世の墳墓が発見され、蔵骨器と板碑百十一枚が出土したそうです。寺は見晴らしの良い高台に位置し、のどかな田園風景と秩父の山並みが見渡せます。

熊井の妙光寺板碑

 

オリジナルを重視するため、鎌倉街道上道(埼玉編)の作成当初の市町村銘そのままにしています。 平成27年の鎌倉街道上道が通る市町村は、以下のとおり変更(合併)されています。

花園町→深谷市  川本町→深谷市  児玉町→本庄市

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