道・鎌倉街道探索日記

◆◆◆◆◆◆ 広木・曝井の遺跡・伝大伴部真足女の遺跡  ◆◆◆◆◆◆

美里町広木は中世の鎌倉街道上道と、古代万葉の里といった趣のあるところです。万葉遺跡・古代住居跡・延喜式内神社・古墳群等と「鎌倉街道探索の旅」の著者である芳賀善次郎氏は「広木・沼上一帯を歩いていると、土地の様子は奈良盆地を歩いているような錯覚をおぼえる。」と著されていますがホームページ作者も同じようなものを感じました。西方の山並みが奈良盆地の山並みの風景と重なるものがあります。このあたりの雰囲気から鎌倉街道上道は古代からの道であったように思われてくるのです。下の写真は広木の集落中程の三夜党に並ぶ庚申塔などの石塔類です。

美里町広木の庚申塔や石仏、石碑類

曝井の遺跡

曝井は美里町広木の枌木川の端にある湧き水です。万葉集巻九に出てくる「曝井の歌」の発祥の地と考えられています。曝井とは織布を洗いさらす井戸のことです。これらの織布は調布として朝廷に献納されたそうです。また織布をさらす井戸は共同作業所であり、若い女性が集まるところから男女交歓の場所ともなっていたようです。

広木の曝井の遺跡

万葉集 九巻 1745
三栗の那賀に向へる曝井の絶えず通はん其所に妻もが

「那賀の向かいに流れる曝井の水が絶えることなく涌いている。私も絶えずそこに通って行きたい。そしてその曝井に妻なるひとが居てくれたらよいが。」

この歌が万葉集の曝井の歌です。曝井の伝承地は武蔵国那賀郡のほかに常陸国那賀郡にもあるそうです。江戸時代の国学者、橘守部はこの広木の地が曝井の遺跡としてここに碑文を書いています。この遺跡の前の道路は県道広木折原線でこの道も古い道だそうです。曝井の水は隣を流れる川の水位に関係なく常に一定でしたが、昭和45年の隣接の河川改修工事によって湧水脈を切断してしまい現在は水が涸れてしまいました。なおこの遺跡の前の常福寺は創立が天平時代で弘紀郷の領主檜前舎人石前の創建した寺と伝えられ、寺には平安時代藤原様式の阿弥陀如来座像があり境内の観音堂には百体観音が安置されています。

広木の曝井の遺跡

伝大伴部真足女(でんおおともべのまたりめ)の遺跡

ここ一帯を大字広木字御所の内と呼んでいるそうです。堀形の田畑に囲まれた90メートル四方を防人檜前舎人石前(さきもりのひのくまのとねりいわさき)の館跡であったといいます。真足女は檜前舎人石前の妻であり防人として九州に赴く夫に歌を寄せています。

万葉集二十巻 4413
枕太刀腰にとりはき真憐しきせろがまきこむ月のしらなく

「枕太刀を腰に差して、私のいとしい夫が晴れて帰って来るのは、いつの月かはわからないが、早く無事に戻って来てほしい。」
<枕太刀は、寝る時に枕元に置く愛刀>

埼玉県には万葉の歌碑が幾つかありますが、広木には曝井とともにふたつの万葉歌があるのは珍しく、ここは『和名抄』の弘紀郷の本郷だといわれ万葉の時代からの古い集落なのです。

広木の伝大伴部真足女の遺跡

広木を通る鎌倉街道はふたつの伝承ルートがあります。ひとつは広木の集落の南方の旧国道交差地点を真っ直ぐ北へ進み、摩訶池の北側をめぐって大町古墳群の中を抜け広木の一里塚跡に達するルートです。もうひとつは旧国道交差地点を左に曲がり旧国道を道なりに一里塚跡に繋げるものでこちらは近世の川越・児玉往還でもあります。これまでの街道調査ではどちらが本道ルートなのか確定することはできていないようです。下の写真は広木の集落の中を通る旧国道を撮影したものです。

広木集落内を通る旧国道

 

オリジナルを重視するため、鎌倉街道上道(埼玉編)の作成当初の市町村銘そのままにしています。 平成27年の鎌倉街道上道が通る市町村は、以下のとおり変更(合併)されています。

花園町→深谷市  川本町→深谷市  児玉町→本庄市

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