道・鎌倉街道探索日記

◆◆◆◆◆◆ 美里・広木庚申塔  ◆◆◆◆◆◆

下の写真の庚申塔群は、美里町を通る国道254号線の駒衣の信号付近から西側に見える小道に沿って建っているものです。前の小道は鎌倉街道跡の道と伝えられているようです。この道は美里町の広木と駒衣の境を通るもので、ここからなだらかな丘陵を上り坂を下ったところが広木の村落内を通る旧国道です。写真のような庚申塔などが立ち並ぶ景観はは古い街道を感じさせてくれるものです。ただこれらの石塔類は時代的にそんなに古いものではなさそうなので、鎌倉街道というよりは近世の川越・児玉往還に沿って建てられたものではないでしょうか。

美里町広木に向かう街道沿いの庚申塔群

鎌倉街道を訪ね歩いていると良く庚申塔に出会うことがあります。庚申塔は鎌倉街道に限らず古い街道の道端や辻などに建てられています。そこで庚申塔とはどのような物なのか、少しだけ調べてみることにしました。

庚申信仰とは道教の中に出てくる健康長寿を願う信仰だそうです。人の身体の中に三尸九虫(さんしきゅうちゅう)というものが宿っていて、この三尸九虫が庚申の夜に天帝に人の罪過を告げて短命にすると考えられていて、それを除去する方法として六十日に一度巡ってくる庚申の日に、三尸九虫が体内から出ないように夜を眠らずに過ごすのがこの教えなのです。

美里町庚申塔群

平安・鎌倉時代に貴族や武士達の間で庚申の夜に詩歌管弦などをして眠らずに一夜を過ごすものを守庚申といいます。これは特例を除き本尊の礼拝や宗教的儀礼は行われず守庚申においては庚申塔を造立することはなかったとされます。それに対して本尊を掲げ、宗教的儀礼を行い夜を過ごすのを庚申待と呼んでいます。守庚申と庚申待は一応区別して扱われているそうです。庚申塔が造立されるようになるのは室町時代からで、庚申信仰が守庚申から庚申待へと変わって行き、念仏講や月待講で供養塔を造立する風習から庚申塔は造られて行きました。現在沖縄を除いて庚申塔のないところは無く、また庚申塔は実にバラエティーに富んでいて、塔型で分類すると、宝塔、宝篋印塔、石幢、灯籠、層塔、五輪塔、板碑、摩崖仏、石祠、各種の墓石型、自然石、その他なとがあります。現在知られている最古の庚申塔は文明3年(1471)の造立のもので埼玉県川口市領家にある日蓮宗実相寺の青石板碑の断片だそうです。

美里町広木に向かう街道

庚申の主尊は青面金剛とされていますが、菩薩や如来像も崇拝されています。また庚申待は、庚(かのえ)申(さる)の日に行われるので猿との関わりから猿を刻むものがあります。猿はまた山王の使者とも化神とも考えられ、山王の猿が本尊ないし崇拝の対象とされるようになったようです。
現在では庚申塔はどこにでもあり街道や道そのものとは特に関連のあるものではなさそうです。だだ庚申関連の子待塔は、村の辻、道端、社寺の入り口などに建てられているようで、これらが街道端でよく見られるものなのかも知れません。
これだけ多く存在する庚申塔なのですが、庚申信仰そのものは現在ではほとんど行われなくなり、忘れ去られてしまっていることは事実です。庚申塔そのものは、かっての村落の風景の一部と考えることも出来るのではないでしょうか。

下の写真は旧街道が現在の国道254号線に出たところで、この道を北に延長すると沼上の水殿瓦窯跡へ向かいます。

旧街道が国道に出た所

 

オリジナルを重視するため、鎌倉街道上道(埼玉編)の作成当初の市町村銘そのままにしています。 平成27年の鎌倉街道上道が通る市町村は、以下のとおり変更(合併)されています。

花園町→深谷市  川本町→深谷市  児玉町→本庄市

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