(かがやくみどり つちとみず 21せいきのみぬまたんぼ)






1.遺言 保全の「種」後輩が開花

 「月日がたった」。白い冊子を手に元県地域政策監の栗田三郎(73)がつぶやいた。見沼田圃(たんぼ)土地利用基本計画策定調査報告書。86年3月、県の委託で埼玉総合研究機構がまとめた。調査委員会に栗田の名がある。
 開発か保全か。バブルが膨らみ始め、ゴルフ場開発などを迫る業者と地域政策課の間で攻防が続いた。栗田は開発推進派だった。
 当時の畑和知事は「見沼を全部守るのは無理だ。真ん中にゴルフ場を造って斜面林で囲んだらいい」と口にしていた。
 その価値に着目し、場所によっては開発が可能な見沼3原則を廃止しようという保全派の動きも県庁にはあった。その1人で栗田の部下だった北原典夫(現川越土木事務所長)は乱開発に反対し、「見沼は1つの体だ」と主張した。
 できあがった報告書は大規模緑地空間として遊水機能を保持しつつ全域を整備すると明記した。保全に踏み込んだ画期的な内容だった。
 だが、栗田は「こんなもの出せない。シュレッダー送りだ」と報告書を突き返す。しまい込まれた報告書を記者や市民団体が知り、開示を迫って県庁から持ち出した。
 北原ら課員4人はとばされ、北原は「見沼を守ってくれ。10年守れば必ず見直される」と後輩に「遺言」を託した。

県庁内攻防 汚職で幕

 87年2月。ゴルフ場開発をめぐる汚職容疑で粟田が警視庁に逮捕された。業者などから計600万円を受け取ったとされた。追及は厳しい。「話せば県政は……。自分が泥をかぶればいい。捜査の手をこれ以上広げないなら認める」と捜査員に話したという。執行猶予付きの有罪判決を受けた。
 栗田は「500万円は確かに受け取ったが、懐に入れたのは別の人物。残りの100万円はもともと口座にあった。県政は守られた」と主張し、恥じてはいない。
 この事件で県は揺れ、開発熱はしぼんだ。
 91年に土地利用協議会が生まれ、見沼3原則に代わる新たな基本方針が95年に策定された。見沼は保全へと変わり、その柱に公有地化事業が位置づけられた。
 方向を定めたのは北原の後輩たちだった。「報告書という種を埋めておいたら、やっと花が咲いた」。北原は話した。(敬称略)

朝日新聞埼玉版(2001年(平成13年)4月6日 金曜日)から転載

 




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