「青森遺跡探訪」掲示板旧石器捏造事件ログ5

 このログは、青森遺跡探訪の閉鎖にともない青森遺跡探訪案内人の了解を得て転載したものです。転載にあたり体裁を一部変更しています(01.4.16 早傘)

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[342] 日本の考古学 投稿者:難波紘二 投稿日:2000/12/05(Tue) 20:10:51 [konanba.ias.hiroshima-u.ac.jp]
「アカウンタビリティ」で、日本考古学が我々考古学に関心をもつ一般市民をいかに失望させるものであるかを書きました。「311」の発言に対するBambiさんのコメントの後に、考古学が年間に使っている税金の総額を書いたら、削除されてしまいました。困ったものです。また私の「暴言」と解釈されたようです。日本考古学は、膨大な税金を使っており、それを目当てとする「業界」がちゃんとあります。たぶん知らないのは日本の考古学者だけでしょう。
以下に、「日本考古学」を世界に紹介したキーリィ教授のHPにあるレポートを翻訳して、掲載します。
日本の考古学     チャールズ・T・キーリィ(上智大学考古学教授)
日本考古学は、今日の日本列島における過去の文化の考古学的研究だと定義される。実際に、日本の考古学者の大部分は、日本考古学しか研究していないし、5500人を超える日本人考古学者のほんのひとにぎりしか、海外留学や海外での研究経験がない。ごく少数の非日本人考古学者が、日本の過去を主な研究対象にしているが、日本に永住しているものは稀であり、ほとんどの研究者はこの国に1年か2年住んで、PhDの仕事を仕上げ、以後は時折日本を訪問するにすぎない。
日本には、およそ36万の登録された考古学的遺跡があり、おおざっぱに言うと1平方キロあたり1つの遺跡がある。しかしこの国のほとんど70%は険しい山岳地帯であり、考古学的遺跡の密度は、残りの30%の使用可能な土地においては、著しく高い。これらの遺跡のあるものは、60万年前という古い年代をもっているが、大部分のものは3万5000年よりは若い。しかしながら、登録された遺跡は、多くは19世紀以後の新しいもので、今日多くの考古学者が日常的に掘って、記録している遺跡は、20世紀の半ばに発見された新しいものである。
6,100人以上の専門家(考古学専門家のおよそ3分の2)が、この国での野外調査に何らかの形で、かかわっている。また推定2万ないし5万の恒常的野外作業員(ほとんどは中年の主婦)が、年間この国で行われているおよそ1万の大小の発掘に雇われている。これらの発掘のほとんどは契約事業で、約300そこらの研究事業が1年間に展開されているにすぎない。契約事業の予算は、しばしば巨大で、あるものは見かけたところ、リミットがないようだ。日本の47の都道府県で、1年間に考古学に使われる金の平均額は、25億円から27億円のオーダーに達し、国全体では1200億円から1250億円にのぼる。
毎年2000以上の発掘調査報告書が出版される。これらは小さな報告書から、数千あるいは数万の発掘物のひとつひとつを詳細に記載した、数百ページにわたる何巻もの報告書まで、いろいろである。これらの報告書だけでも、直接発掘作業にかかわらないでも、日本の過去を研究するとてつもない基盤を提供してくれる。しかしながら、これらの報告書のほんの一部が、国際的な出版物として提供されるに過ぎず、その大部分は日本語がよく読めない人には閉ざされている。日本語と外国語に堪能な考古学者が、日本の考古学に関与する必要性は、非常に高い。また外国からのアイデア(思想、見解、学説)が、日本の考古学研究に持ち込まれることも、同じように必要性が高い。 日本の考古学者は、一般的に言って、4つの先史時代と4つの歴史時代を識別している。これらは、それぞれさらに2つ以上の時代に細分され、さらに無数の相(phase)に別れる。以下に、日本人考古学者が研究した8つの先史および歴史時代について簡単な概説を試みる。
日本の先史時代全般について英語のよい本はきわめて少ない。日本の歴史についての英語の本は沢山あるが、これらは大部分が歴史文書に基づいたもので、日本の歴史考古学にはほとんど言及していない。私は、個々の時代を扱うに当たって、関連した英語と日本語の文献を収録した。以下は、日本考古学に関する興味深い日本語出版物のいくつかである。
● 「文化財保護法」(文化的財産を保護するための法律):日本政府、文化庁、文化財保護課
文化財を定義し、保護するための法律は1950年に制定された。もっとも新しい英語訳は、1996.10に出版されている。
● 「埋蔵文化財関係統計資料1996」(埋蔵文化財統計1996):日本政府、文化庁、埋蔵文化財保護課
この報告は、1996財政年における日本の考古学的仕事について、詳細な統計を収録している。出版社から入手可能。
● 「日本考古学年報」(Archaeoloiga japonica: Annual Report of the Japanese Archaeological Studies and Excavations):日本考古学協会 この日本考古学協会の年報は、ある程度役に立つ英語要約を含んでいる。最新の巻はNo.49で1996財政年に対応している。
● 「月刊文化財発掘出土情報」(Monthly Cultural Properties Excavation Information):日本通信情報センター 主に考古学に関する新聞記事の切り抜きの月刊雑誌。100ないし150ページあるが、学会案内などの情報も含まれている。全部日本語だが、この分野における最新の知見ついての非常に有益な情報源である。

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難波紘二 > すみません。接続具合が不調で、パソコンがキャッシュを読み込んだようで、発言は削除されていませんでした。よけいな投稿になりましたが、お許し下さい。 (2000/12/05(Tue) 20:16:06)[konanba.ias.hiroshima-u.ac.jp]

難波紘二 > なおこの文章は1997年に書かれたものであり、「ねつ造」露見以後は、「60万年以前の遺跡うんぬんは取り消す」と注がありました。 (2000/12/05(Tue) 20:25:25)[konanba.ias.hiroshima-u.ac.jp]

うささぎ > 契約事業」と訳されたのはいわゆる「行政発掘」のことですね。 (2000/12/05(Tue) 21:00:18)[global-user.toshima.ne.jp]

うささぎ > あとon the order of は「ほぼ、約」の意の成句ですからオーダーと訳す必要はないのでは? すみません口出しばかりで。自分が頼まれたら面倒だなと思っていたので大助かりです。 (2000/12/05(Tue) 21:06:13)[global-user.toshima.ne.jp]

難波紘二
「contract project」を契約事業と訳しました。 (2000/12/05(Tue) 21:12:41)[konanba.ias.hiroshima-u.ac.jp]

岡安 > お二人の力を、日本考古学の世界に対する情報発信に役立てていただけないでしょうか。お願いします。 (2000/12/05(Tue) 22:38:39)[rt.ctktv.ne.jp]

岡安 > 恥ずかしい話ですが、京都大学関係などごく一部を除いて、日本語しかできない研究者によって占められるのです。ここまで踏み込んだんですから、お願い、力になってください。 (2000/12/05(Tue) 22:41:35)[firewall.ctktv.ne.jp]

うささぎ > 岡安さん、心身ともにリフレッシュできるよう、持ち前の責任感をちょっと脇に置き、とりあえずなんとかゆっくり休む時間をつくってみて下さい。もちろんいろいろ口出しする自分がいけないのですが、今とにかく申し上げたいのはそのことです。将来のことはまたじっくり考えることにしませんか。お力になれることがあれば本当にうれしい限りではありますが・・・・。 (2000/12/05(Tue) 22:54:29)[global-user.toshima.ne.jp]

さとうけいすけ > 簡単ではありますが、英語版のリンク集を作成中です。論文作成で時間がないのですが、最低限すべきことをしようと思っています。http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/christ/sato.subfolder/sato0.Eng.htm (2000/12/06(Wed) 02:13:06)[dhcp092.bun.kyoto-u.ac.jp]

さとうけいすけ > 捏造問題に関するリンク集です。よろしければ、皆様のご助力を賜りたく存じます。 (2000/12/06(Wed) 02:44:49)[dhcp092.bun.kyoto-u.ac.jp]

難波紘二 > 京大大学院修士(キリスト教)の佐藤啓介さんですね。何を協力すればよいのですか。 (2000/12/06(Wed) 10:18:43)[konanba.ias.hiroshima-u.ac.jp]

さとうけいすけ > あれ、ほんとだ。気がつきませんでした。ついローマ字入力のノリで打ってました。ご指摘感謝いたします。 (2000/12/13(Wed) 01:50:54)[dhcp092.bun.kyoto-u.ac.jp]

さとうけいすけ > あれれ、本当だ。bambiさん、本当にありがとうございます。よろしければ、うちのサイトの談話室・休憩室にもメッセージ残してくださるとうれしいです。ともあれ、心より多謝! (2000/12/14(Thu) 05:20:18)[dhcp092.bun.kyoto-u.ac.jp]

さとうけいすけ > ・・・削除キーに何も入れずにレスしたので、削除の仕方がわからない・・・、あぁー (2000/12/15(Fri) 02:23:17)[dhcp092.bun.kyoto-u.ac.jp]

さかいひろこ > ● 「月刊文化財発掘出土情報」(Monthly Cultural Properties Excavation Information):日本通信情報センターの「日本通信情報センター」は正しくは「ジャパン通信情報センターです。どうぞよろしく。(もと社員) (2000/12/15(Fri) 18:31:01)[p84bd9d.tokyjkp3.ap.so-net.ne.jp]


[343] 313におけるやりとりについて 投稿者:トンビ 投稿日:2000/12/06(Wed) 10:58:41 [canal.wslab.ntt.co.jp]
313において、大杉氏が、藤村氏の捏造発覚で、旧石器時代に対して現在得られている知見はどのような影響を受けるのか?という趣旨の質問をしました。
日本考古学の問題点が析出されているようなやりとりですので、皆様、ぜひご覧ください。
最初は旧石器全体では何千箇所もあって、そのうちの藤村氏関連はごく一部だ、と、しれっと答えただけでした。これが、考古学外部の人間に対して、どういう誤解を生む発言か、自覚があってやっているのか、それとも自覚がないのか。
どちらにしても、大問題です。
それを指摘すると、今度は、問題の核心である、前期旧石器時代の遺跡が全体何箇所で、そのうち、藤村氏関係が何箇所であるか、そんなことは公共図書館に行って調べてから質問しろ。
これが考古学者の意見です。どの本を調べたらいいのか、書名も教えないのですよ!
捏造が発覚する前に書かれた本に、全体何個所のうち、藤村氏関連は何箇所なんて記述があるとも思えませんが、まあ、それはよしとしましょう。
その大状況を、大体において把握してるなら、どんなに忙しくても、
「正確ではないけど、大体何箇所のうち、藤村氏関連は何箇所」
と、サっと答えればいいでしょう!
それができないから、噛み付いてごまかしているのでしょうか?


[344] 岡村道雄さんの最近の発言から 投稿者:案内人 投稿日:2000/12/06(Wed) 12:05:41 [c1-215.actv.ne.jp]
11月27日、青森市内のホテルでおよそ800人の考古学ファンを集めて、「三内丸山遺跡縄文フォーラム2000」が開催されました。その時のパネリストの発言が今朝の地元紙に掲載されていました。私は岡村さんは、例の事件のショックで欠席するだろうと思っていたのですが、度胸のある方ですから、聴衆の前に姿を現し、堂々と、次のように語ったようです。「三内丸山という台地の上には人のまとまりが5カ所あった。一時期に立っていた家の数を細かく調べたら、100軒に少し欠けることが分かった。500人という人口があらためて確認された。」
 発掘調査の詳細な分析から集落に住んでいた縄文人の人数まで導き出してしまう画期的な研究成果は、どこに記載されているのだろうと三内丸山遺跡対策室から配布を受けた報告書を見てみても、どこにも書かれていません。私の見落としか、配布を受けていない報告書に書かれているのか、はたまた、関係者にしか配布されない「裏報告書」が存在するのか?
 文化庁は今回の事件に関連して、きちんと正式な発掘調査報告書を刊行するよう通達文書を全国の埋文関係者に出しました。報告書に書いていないことは、発言してはならないというルールはないのですが、遺跡の重大事に関わることは、きちんと論拠を示して発言するのがルールではないでしょうか?そうでないと、同じ土俵の上で、反論できません。
 藤村さんの件で、大打撃を被ったにもかかわらず、同じ轍を踏む気なのでしょうか、岡村さんは?

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うささぎ > 私は今回の捏造事件以後この掲示板を覗くようになった新参者ですが、三内丸山の大集落説や例の巨大建築物復元案について一部の考古学者や古代史研究者から異議が提出されていること、マスコミが大げさに伝えるほど、まだ「公認された」事実とは認められないことは伝え聞いていました。そうした疑義は案内人の相馬さんの「三内丸山の三大キャッチフレーズを暴く」や佐々木藤雄さんの徹底的批判(このサイトの「論文」の項にアップされている)を読んで、ますます強まり、今では素人ながら、岡田さんや小山さん、そして岡村さんの主張は完膚なきまでに打ち崩されている、という印象を深めています。私と同じく前期旧石器の捏造問題がきっかけでこの掲示板の常連になっか皆さんも、ぜひ上記の一連の論述を読んで、三内丸山問題における報道のあり方にも批判的な眼差しを向けていただけたら、と部外者の私からも是非お願いしたい所存です。 (2000/12/07(Thu) 23:28:45)[global-user.toshima.ne.jp]

夢鳥 > いつもお世話になっております>案内人様。東京在住ですが、家族で年に何回も周辺の遺跡を見学します。三内丸山は行く度に発見があり、とても楽しいのですが同時に見学者の感想(つぶやき)も多く耳に入ってきます。大型復原家屋や高床建造物では、意外と「こんなのウソだろう」というつぶやきが聞かれます。必要以上に立派すぎる整備だからでしょうか?まったくの素人でも直感として感じ取るものがあります。》佐々木藤雄氏の著作、論文を拝読してショックを受けたのも事実です。「文化ねつ造」とまで言い切ってよいのかわかりませんが、「この30年間の集落研究はなんだったのか?」という問いかけには強く共感します。》岡村道雄氏はNHK教育「課外授業」という番組を見て、子ども達に接する姿にとても敬服しました。歴史教育の中で既にある時代イメージをものと接することによって常に更新する-こんなイメージ運動がとても大切だからです。しかし、三内丸山や今回のねつ造事件に見られる革新イメージの一人歩き、暴走は、教育活動に携わるものにとって慚愧に耐えない思いです。》『日本列島の石器時代』(岡村道雄・青木書店・2000.1)を読むと、氏の犯している罪な部分が浮き彫りにされてしまうのです。》序章における研究史の中で「自然科学との強い連携のもとに旧石器研究が飛躍的に発展した」とする点。上高森や瓢箪穴洞くつでの豊富な図版類(一般の研究者が使うことのできなかったもの)。そして、ねつ造事件で最も戒められた革新イメージの暴走。》かつて縄文時代研究では主流にならなかった縄文農耕論や精神文化の暗号としての文様解読があらためて注目を浴び、より広くより楽しく考古学に接することができるようになりましたが、権威の衣を着た一部の革新イメージ運動がいかに危ういか、自分の気持ちの中でまだまだ混沌としています。》できるだけレス欄へと言う要望がありましたのでこちらに書きましたが、限られた枠で感想を言うのは難しいですね。何度かメールが戻ってきましたが(トップページのアドレス)、メールは使えるのでしょうか? (2000/12/08(Fri) 00:44:47)[jnclic-66-41.ppp.justnet.ne.jp]

案内人 > 夢鳥さんへ>メールは使えると思います。プロバイダーの回線の調子が一時悪かった事が原因かもしれません。 (2000/12/10(Sun) 21:19:12)[c1-215.actv.ne.jp]


[345] 日本の考古学(2) 投稿者:難波紘二 投稿日:2000/12/06(Wed) 14:45:33 [konanba.ias.hiroshima-u.ac.jp]
Bambiさんが触れていた、「第2回世界 東南アジア考古学会」の抄録をアップします。日本でも、九大、京大、千葉大は結構国際的に頑張っていますね。やはり学問状況からいうと、日本病理学の昭和30年(1955年)頃に相当しますね。ほぼ半世紀遅れている。あまり個人を責めるのも気の毒に思えてきました。
第二回世界東南アジア考古学会(英国Durham, 7, 6-9.,2000)での日本関係演題の抄録 (アルファベット順)
エドワーズ・ウォルター(天理大学):制限された立ち入りー天皇陵をめぐる問題
政府による天皇陵への立ち入り制限や調査禁止が、天皇制の権威と考古学の発展をいかに妨げてきたかの、解説。
S.藤尾(国立歴史博物館):弥生文化の形成にもっとも重要な役割をはたしたのは誰か
弥生文化を創った人々については、2説がある。ひとつは、原住民の縄文人だとし、もうひとつは移住してきた人々だとする説。私の研究の結果は、二つの集団は弥生文化形成に、異なった役割を果たしたといえる。原住民は、産業や水田に従事し、移住民は社会システム、思想、宗教を発展させた。従って、どちらかの役割のみを強調するのは正しくない。
(陰の声:文化とは水田労働などを言わない。結局「騎馬民族征服説」が正しいと言っているのでは)
グレンビル・ジェーン(英国ヨーク大学):日本の民家の文化的意味
江戸期の民家についての考察 (略)
菱田テツオ(京都府立医大):7世紀の古墳集合に見られる階層構造ム兵庫県の東山古墳集合の発掘
(略)
ハドソン・マーク(筑波大学):隼人の民族形成と大和国家
隼人族の民族形成についての既存の学説は、社会的、地理学的隔離による民族的差異の維持を強調している。民族についての原始的な見解に基づいて、隼人族を東南アジアのどこかで発生したものだとする、全体として無批判な受容が行われている。この論文では、逆に、南九州と大和国家の相互作用が、隼人族形成の主たる原因であり、彼らが東南アジア起源であるとする証拠は弱いことを議論する。この論文は、拙著「The Hayato In Ruins of Identity」を発展させたものであり、日本の学者角林ふみおによる最近の批判を述べる。
イカワ・スミス・フミコ(カナダ、マッギル大学):千年紀の変わり目における日本考古学
過去10年間に、以下の話題が日本考古学者により取り上げられた:日本への人類の居住、国家と民族主義の出現、大陸との文化的関係。これらの問題と現在論争中の問題の、方法論的ならびに理論的な枠組みについて概説する。
片山カズ(京都大学):日本における縄文人と弥生人
日本の歴史において弥生時代(ca400BC-AD300)は、多くの点で非常に重要な時代である。1)人々の生活様式が、食物採取と園芸的経済から、稲作農業へと劇的に変化し、その結果、居住域が海岸や山岳地帯から河岸の沖積平野へと変化した。2)青銅と鉄の加工技術が輸入された。3)人口の大規模な増加が生じ、それは20万人程度から500万人規模へという桁違いのものだった。4)人間の外見も著しく変化した。弥生時代におけるこのような変化を説明するいくつかのシナリオが提出されていて、例えば、鈴木(1969)のいわゆる「微小進化」説、金関(1966)の「部分置換」説、埴原(1991)の「二重構造モデル」などである。
この論文では、中橋(1999)が提案した新モデルを紹介し、弥生時代における人口爆発を説明し、神戸市の新保遺跡で発掘された弥生人骨の知見に照らし、既存の諸モデルを吟味し、弥生時代における発明・発見がもたらした変化の意義を強調する。
河野かずたか(京都考古学センター):東アジアにおけるElite Burial Mounds(EBM古墳?)の起源
この論文では、東アジアことに日本におけるEBMの起源に関する仮説を提示する。EBMは三つの現象の結果として生じた。1)海外の品物の流入、2)貴重な品物の階層序列(の確定?)、3)物を破壊する宴会儀式(の誕生?)。さらにEBMの起源は、東アジアから輸入された貴重な品物が、葬式のような破壊をともなう宴会儀式で消費される段階から、貴重な品物が、族長間のきずなを調節し、再確認するために、生産され配布されるという段階に移ったことをあらわしている、と演者は考える。換言すれば、EBMは忠誠イデオロギーを共有する必要性が生み出したものである。
(陰の声:この人の英語はほんとにへたくそ。EBMなんて言わないで、Kofunといえばよいのです。相手は考古学の専門家ですよ。素人じゃない)
キーツ・スーザン(オックスフォード大学):東アジアにおけるホミニドの進化
(略)
(日本の原人のことは、一切触れてありません。よかった。)
前川要(富山大学):中世日本におけるMoated Siteム四角と丸の概念 (略)
マスキー・アンドリュー(ピーボディ・エセックス博物館):盗掘ム日本人におけるアマチュア陶器収集の文化について
(略)
日本文化が盗掘による陶器収集を育てていることを述べている。
宮本かずお(九州大学):青銅器時代のLiaxi地方における地域交流
(略)
中国の二里頭遺跡に関連する研究
モリス・マーチン(千葉大学):江川家ム江戸初期の代官の屋敷における考古学
(略)
伊豆の江川家の発掘記録の発表
溝口こうじ(ロンドンユニバーシティカレッジ):北九州の中期弥生時代における時間、系図意識、社会階層についての認識
(略)
考古学から生きた人間をつかむ面白い研究です。
ピテルカ・モーガン(プリンストン大学):低温から高温へー17-18世紀の京都における陶器の発展
(略)
酒井やすこ(文化伝承大阪センター):高位の族長間における埴輪陶器の再分配?ム北大阪Soji寺遺跡の発掘
(略)
佐々木けん(明治大学):譲渡不能な富としての標準化された古墳様式の分布ム京都の寺戸-大塚かぎ穴型古墳の発掘
(略)TumulusはKofunで通じると思いますがね。
篠藤まりあ(ハイデルベルグ大学):隼人考古学の最近の研究ム線維観察とミネラル分析による成川陶器作製方法の理解
(略) 玉井てつお(千葉大学):16世紀から17世紀初期にかけての町家建築の出現と発展
(略)
田原かんじ(九州大学):ベトナムの過去をどのように再理解するか?漢墓の1例研究とフランス植民地時代に発掘された考古学的遺物
(略)
友井まこと(京都大学):縄文時代の西日本における家屋構造の変化
(略)
宇野T(京都):中国から日本へー中期古墳時代における食物容器と調理法の技術革新
(略)
ヴォストレツォフ・ユーリ(ウラジオストック):中期現世(Holocene)における日本海西部の環境及び文化の変化
(略)

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Murakami > 特定個人に対する誹謗中傷ととられても可笑しくない表現を使いすぎではありませんか?相手を批判するのも結構ですが、発表要旨・論旨に触れず、単にその欠点をあげつらうかの如き表現は謹んでもらいたい。 (2000/12/06(Wed) 23:49:26)[ispgw011.ritsumei.ac.jp]

難波紘二 > では、原文を自分で読んで、私が間違っているかどうか、確かめて下さい。 (2000/12/07(Thu) 13:22:50)[konanba.ias.hiroshima-u.ac.jp]

難波紘二 > 英語文献が自在に読みこなせるかどうかは、現代の学者にとって必須の資格です。 (2000/12/07(Thu) 13:24:28)[konanba.ias.hiroshima-u.ac.jp]

Murakami > 「 英語文献が自在に読みこなせるかどうかは、現代の学者にとって必須の資格です」言いますが、あなたがこれまでこの掲示板を通して主張したかったことは、個人のをあげつらう事だったのかと聞いているんです。上記の書き込みに関して言うと、それぞれの発表内容を要約するのは問題ないと思いますが、その論旨を評価せず、一方的に、「英語がへたくそ」と評価を下すことが、インターネットを用いた議論においてフェアだとお思いですか?繰り返しいいますが、私が問題にしたのは、要約の当否ではなく、あなたの悪意に満ちた言動です。 (2000/12/07(Thu) 13:56:59)[ispgw011.ritsumei.ac.jp]

難波紘二 > 英語がへたくそとあげつらったのではありません。指摘したのです。いやしくも国際学会に出す抄録ぐらいネイティブのチェックを受けるくらいの、国際感覚をもってほしい、ということです。こんなことに金を惜しむな。 (2000/12/07(Thu) 15:04:04)[konanba.ias.hiroshima-u.ac.jp]

bambi > 大会のスケジュールhttp://www.eastasianarchaeology.org/archives/seaaconf2.htm を見て、日本人研究者が、30分単位で世界中の学者を相手に、英語でプレゼンするなんてすごいと、思っていました。薮蛇だったでしょうか… まさか抄訳が、このような形でインターネットで公開されるとは、思っていらっしゃらなかったであろう、お気の毒な方がいらしゃいましたが、英語に自信がないのなら(私注)、「いやしくも国際学会に出す抄録ぐらいネイティブのチェックを」と、言うのは、難波先生流のやさしさではないかと思いました。普通の日本人にはきつすぎますがね。この学会のそもそもの生い立ちを考えてみれば、少なくとも、英語は必須のものと思います。 (2000/12/07(Thu) 17:44:40)[cse8-46.nishinomiya.mbn.or.jp]

花關索/永瀬唯 > 難波さま。勇み足もシャレにならないこともありますのでご自戒を。「古墳」または「Kofun」「kofun」は、そのままでは、「Elite Burial Mounds」に代わる概念にはなりえませんよ。以下、小学館の『スーパーニッポニカ』からまずは引用。「古墳:一般的には古代の墳墓という意味をもっているが、日本の考古学研究ではもうすこし、限定的な用い方をしている。「墳」の字には土を盛り上げた墓という意味があるから、「古」の字が単に古い時代であるとしても、中世や近世の盛り土の墓を古墳とはよばない。それは中世墳墓、近世墳墓と称している。したがって古墳とは、日本の古代、ことに弥生(やよい)時代終末の西暦3世紀後半に出現し、7世紀末ごろまでに築造された高塚の墳墓を古墳とよんでいる」。で、平凡社世界大百科は、「古墳という語は,世界中に通用する普通名詞であるのか,日本の古墳のみをさす固有名詞に近いものか,という問題が生じてくる。日本で古墳という語を用いる場合には,これをどういう語と対比するかによって意味がちがってくる。はじめ古墳と対比して考えたのは横穴であった。古墳は盛土をもち,横穴は盛土がないが,ともに古墳時代の墓であることを,坪井正五郎らがまず認めたのである。つぎに古墳に古墓を対比して,両者をあわせて古墳墓とよんだのは喜田貞吉(きたさだきち)(1871‐1939)である。古墳は古墳時代のものであり,古墓はそれ以後のものとしたのである。なお,《延喜式》は諸陵寮所管の陵墓を天皇および特定の皇后の陵と,皇子・皇女・太政大臣などの墓とに分けている。陵と墓との区別は,被葬者の身分の相違により,営造年代にはかかわらぬという立場である」とし、中国ではすべて「古墓」と呼ぶとし、日本の考古学者が中国で調査した古墓を「××塚」と名づけた例を紹介しています。かくのごとく、ややこしい意味付与がなされている以上、国内においても、「古墳墓」といった呼称が適切なのかもしれません。もとの発表が、日本国内におけるいわゆる「古墳」のみを扱っているのか、それとも「墳墓」一般を扱っているのかもわかりませんが、たとえ前者だったとしても、ややこしい定義の問題を避けるために「Elite Burial Mounds」の語を使うことにイチャモンつける必然性はまったくないでしょう。ちなみに、今、ネットで検索したところでは、「Elite Burial Mounds」という用語は、「Burial Mounds」とともに、さほど頻繁にではありませんが、かなり一般的に使われているようですね。もっとも、「古墳」の条件のひとつである「人工的な盛り土がなされていること」に「mound」の語がかなうかどうかという問題は残りますが。おっと、あとから気が付きましたが、この発表、東アジアにおけるエリート層の墳墓のことじゃないですか。ならば、「古墳」という語を使うのは不適切きわまりないことになります。もっとも、反日の気分がきわめて激しい韓国では「古墳」の語を使ってるそうですけどね。さらにつけくわえると「中国にもあった前方後円墳」なる議論で問題となるのは遺跡の平面形ではなく、盛り土の有無にあると聞いた記憶もありますね。つまり、たとえどんなに大きくとも、日本の定義では「古墳」になりえない古墓(墳墓でさえなかったりする)が、わが東アジアにはいっぱいあるわけですね。こういうことは、まさに日本の考古学というか歴史学の閉鎖性の象徴でもあるわけで、そこんとこを突くのならお見事と言えたのですがねえ。 (2000/12/07(Thu) 20:26:52)[itbs2302.ppp.infoweb.ne.jp]

花關索/永瀬唯 >  なお、手許の英文百科2冊中、日本の「古墳時代」についての検索語が「Tumuli」(Tumulusは複数形)だったのが、「During the Tumulus period, lasting from the 4th through the 6th century,」とあるGrolier Multimedia Encyclopedia、検索語が「Kofun」だったのが、「From the later Kofun, or Tumulus (Grave Mound), period (c. AD 250-552)」とあるSimon & Schuster New Millenium encyclopediaと、「During the Kofun, or Tumulus, period, about AD 250 to 552」となっているThe Encartaョ Desk Encyclopediaの2冊でした。「Tumuli」では単なる「墳墓」どころか、へたすると、小さな盛り土のある墓まで含むことにもなりかねませんので、あえて、「Elite Burial Mounds」にしたくなる気持ちはよっくわかります。ですが、時代名称としては、やはり、「Kofun period」か「Tumulus period」でしょう。 (2000/12/07(Thu) 20:59:59)[itbs2432.ppp.infoweb.ne.jp]

花關索/永瀬唯 > 「なお、手許の英文百科2冊中、」は「3冊」のあやまりでした。 (2000/12/07(Thu) 21:06:26)[itbs2147.ppp.infoweb.ne.jp]

花關索/永瀬唯 >  あとから「はてな? キーリーさんの発言がアップされているのは「東アジア考古学協会−−The Society for East Asian Archaeology」のはずだけど、ここで紹介してる国際学会大会って別モンなのかしらん?」と、レスの中のbambiさんとこにあるリンクをたどてみたら……。なあんだやっぱり、もとのページには「The Society for East Asian Archaeology」のロゴが飾られたその真下に、「Second Worldwide SEAA Conference, 6-9 July 2000,University of Durham, England」とあるじゃないですか。そもそも、「東南アジア」という言葉そのものにもグローバルには通じないという問題点(英語では南東アジア。中国語ではどう表現するのでしょう?)がある上に、南東アジアだったら、日本や韓国は研究対象にならないじゃないですか。こういうのこそ、勇み足どころではないシャレにならないあやまちというべきでしょう。 (2000/12/07(Thu) 22:10:26)[itbs2224.ppp.infoweb.ne.jp]

トンビ > 永瀬さんの文章って、長くて、語調はキツクて、非常にテンション高いですが、何をおっしゃりたいのか、サッパリわからない悪文ですね。ちなみに、問題になっている河野かずたか氏の発表の抄録に、「東アジアことに日本の」と難波さんが紹介されているところは、間違いだということなのでしょうか。 (2000/12/08(Fri) 16:10:24)[canal.wslab.ntt.co.jp]

トラ > 冒頭の「第2回東南アジア考古学会」の部分です。わたしの性格としては見ればわかるんだからそんなことドーでもいいってとこですがね。めくら千人目明き千人(おっと差別語でしたか) (2000/12/08(Fri) 20:07:50)[]

トラ > もちろんドーでもいいってのは「東アジア」でも「東南アジア」でもっていう意味です。 (2000/12/08(Fri) 20:15:41)[]

花關索/永瀬唯 >  トンビさん。わたしは個人の人格およびその能力を、はなから否定するような言説をしたことは一度もありません。文句ぶつけてるのは、ヒトの英語力にイチャモンをつけながら、「古墳はKofunと訳せばそれでいい」といった妄説に対してです。ヒトの人格を否定するというのは「永瀬さんの文章って、長くて、語調はキツクて、非常にテンション高いですが、何をおっしゃりたいのか、サッパリわからない悪文ですね」といったような、問題とされている部分へのレスポンスをいっさい欠いたまま、純粋に悪罵だけでなりたっている文章です。 (2000/12/09(Sat) 16:23:55)[itbs2318.ppp.infoweb.ne.jp]

花關索/永瀬唯 >  本来なら「古墳」は、英語(や他の国語)で書いた論及でふれるときには、「tumuli」や「burial mound」と表現すればすむはずです。ところが、日本における「古墳」には、その直訳となるだろう「old mound」あるいは「墓」の意味合いを付与した「old burial mound」ではすまない特殊な意味合いがつきまとっています。では、「Kofun」で押し通し、そこに解説を加えればいいのか? しかし、その場合も、引用した百科2種にすでにある食い違いからも、実は厳密には、日本国内の現場の人間たちの間でも、厳密な定義は一致していないことがうかがえます。/同様な混乱はたとえば、「縄文があるとは限らない縄文土器」にも生じますが、この場合は、「縄文」がある土器の出土地域がきわめて限定される(「日本」国内)ために、「南米出土の縄文土器」とか「ニューヘブリデス出土の縄文土器」といった例外的事象以外には問題とはならないでいると記憶しています。で、型式の系譜などからすると、前者は日本で言う「縄文時代」の「縄文土器」ではなく、後者はまぎれもない「縄文土器」なんでしたよね?/で、日本の「古墳」と、それに対応する東アジア、あるいは世界の「古墓」「王墓」、「墳墓」を比較する場合、どのようにすべきなんでしょう? 日本の「古墳」の定義にあう海外の「古墓」「墳墓」だけをとりあげたら、そもそも比較にならないでしょう。比較するとしたら、日本における「古墳」の定義からはずれる、しかも、わが日本における、「古墳時代」以前以後の「ベアリアル・マウンド」もとりあげなければおかしいことになります。その場合、論文を書くなら、やはり、それは「王墓」とか「墳墓」、しかも、後者の場合は、英語にすると小さなものまで含まれかねないので「old」とか「elite」とかと意味を限定する形容をつけざるをえないことになります。/だが、もしも、日本で日本語で、なんとなく意味が通じる相手だけで研究を続ける限り、「古墳って何だ?」とか「高句麗の豪族・貴族・王族の墳墓とどう違うのか?」とか「始皇帝の墓は古墳って言うんだろうか?」といった、われわれ素人がすなおに感じるだろう疑問にはこたえないですんでしまうわけです。これこそ、日本考古学、日本の歴史学の閉鎖性、アマチュア相手の国内的なレヴェルにとどまらぬ、まさに国際的な閉鎖性の象徴ではないでしょうか?/いや、おそろしいのは、相手はどうせ専門家なんだから、「Kofun」で通じるはずじゃんかといった、難波さんに代表される、「意識されざる日本特異論」です。上記の引用では省略しましたが、植民地戦争時代の日本の考古学者は、なぜ、中国や朝鮮、「満州」(*)の「王墓」や豪族の「墳墓」に「塚」とつけたのか? 日本だけが世界からみて特異かつ特別な存在であり、「古墳」となづけることは、天皇家を中心とした日本の墓制と中国や朝鮮の墓制を同格とすることになるという軍部などお偉方からの干渉をさけるためでした。「陵」ならまだしも明々白々でわかりやすいのですが、「古墳」のような、一見、中立的な用語の背後には、「言い換え」という姑息な作業を介しての「見えざる天皇制」が隠されているのです。/まあ、ここまで言ったところで、東アジアという広大な地域の中で、日本のいわゆる「古墳」を位置付けようとしたとき、さて、どう外国語で表現しようかと立ち尽くし悩んだだろう研究者の、その苦悩なぞは、英語がとてもお上手で、専門分野の知識の背景の勉強さえしないでも、ぱぱぱっと翻訳してみせるのが大好きな難波さんにはおわかりにならないでしょうけどね。/* 戦前の大日本帝国を冠にした発掘調査というと、だいたい、この範囲内だと思うのですが、例えば南方の軍占領地などほかの地域でも収奪的発掘っておこなわれていたのでしょうか? 教えていただくとうれしいです。 (2000/12/09(Sat) 16:24:49)[itbs2318.ppp.infoweb.ne.jp]

bambi > 提出英文の文法的な正確さは、求められるべきでしょうが、用語の選択に関しては、専門家が、考えに考えぬいて選択した訳語を、keyhole-shaped tumulus を、「前方後円墳」ではなく、「かぎ穴型古墳」と訳してしまう門外漢が、おかしいと言うべきではないと思いますが… (2000/12/10(Sun) 11:43:07)[cse5-42.nishinomiya.mbn.or.jp]

トンビ > 「問題とされている部分」が、明確に示されていない悪文だからレスポンスのしようがないのです。ただ、他人のミスに対して鬼の首を取ったような態度だけが伝わってくる文章で、それが不快だったから不快だと書きました。私はあなたの文章だけを批判したのであって、全人格を否定していませんよ?私がおぼろげにつかんだところでは、花關索/永瀬唯さんは、問題となっている河野氏の発表は、そもそも日本を視野においていないはずだ、という主張をされているようですが、難波さんの発表抄録では、特に、日本のElite Burial Moundsについて発表されたとなっていて、おっしゃることに明確な食い違いがあるのですが、どちらが正しいのですか?という質問をしました。この質問は、かなりハッキリとしたつもりですが、お答えにはならないようですね。 (2000/12/11(Mon) 10:28:58)[canal.wslab.ntt.co.jp]

トンビ > ちなみに、あなたは、難波氏に対して、頓珍漢にも典拠を示していないのは、人格を疑うような不誠実だ、という人格批判をして、そのあと、謝罪もしていないようですね。私は、永瀬さんに、この掲示板からの退場勧告をしたいですね。 (2000/12/11(Mon) 10:36:32)[canal.wslab.ntt.co.jp]

bambi > 論争の仲裁なんて出来るわけも無いのに、のこのこと出てきて目障りでしょうが、今の論調は回りから見ていて、はらはらします。折角のBBSでの会話、もう少し、なごやかにいきましょうよ。私も、トラさんと同様に、「東南アジア学会」のところを、難波先生の以下の大胆発言に目が行ってしまって、見落としていました。その点は、花關索/永瀬唯さん、よく見ていらしたこと。「先生、殺生な。生真面目に東南アジア学会さがして、時間とられてしまいましたゎ〜。」位の、ぼやきでいいんでないかと思うのですが… それと、一般人の私には、花關索/永瀬唯さんが、「古墳」にこめられた思いは、十分伝わりました。それと[351]に飛んでいって、難波先生に一言「すみません」と、言っておきましょうよ。気がつかないことって誰にでも、あることですから… (難波先生にも、気がつかれていないと思われる所はあります。指摘しようとは思いませんが…) (2000/12/15(Fri) 12:51:34)[cse7-42.nishinomiya.mbn.or.jp]

bambi > それとトンビさんのお言葉なんですが、トンビさんは、この掲示板は、案内人さんのものだと言うのは、重々、ご承知の上で、「この掲示板からの退場勧告をしたいですね。」を、書かれていますが、やはりそれは言い過ぎではないでしょうか?トンビさんは、それほどの思いを込めて発言されているわけではないかもしれませんが、BBSの書込みでは、かかれている言葉は、実際にしゃべる時よりも、きつく感じられるのは経験上、往々にしてあります。トンビさんの書込みの後、そのまま、掲示板を去られた方が何人もいらしゃるような気がします。色々な考えをもった人がいろいろな考えを書き込むのですから、議論になるのは仕方ないでしょうが、相手が反論する気もなくなるような書込みを、もう少し言い方をやわらかく変えていただけないでしょうか。これは、お願いです。 (2000/12/15(Fri) 12:56:46)[cse7-42.nishinomiya.mbn.or.jp]


[346] 石器ねつ造の証拠 投稿者:難波紘二 投稿日:2000/12/06(Wed) 17:16:34 [konanba.ias.hiroshima-u.ac.jp] 藤村は本物の石器を埋めただけではなく、たぶん自作したはずだ、と前に書きました。その証拠の一部が見つかりました。
岡村道雄「日本の歴史01 縄文の生活誌」(講談社)のP48に、
宮城県色麻町中島山遺跡出土の石器2点と、山形県尾花沢市袖原3遺跡の石器1点が、完全に接合した、と書いてあります。(10万年前の石器とのこと)
この石器は、中島山のものが、石核と剥片で、袖原3のものが「チョッパー」だとされている。(岡村の記述)
この石材は、頁岩で奥羽山脈より西にしか産出しない。
従って、(本物とすれば)石核と剥片が宮城県にあり、それからとれたチョッパーが山形県にあるのだから、「原人が石核をわざわざ奥羽山脈を越えて、宮城の色麻町まで運び、そこで石を割って、チョッパーをつくり、今度はその石器をたずさえて奥羽山脈を越えて、山形県尾花沢市まで行って、そこで石器を放棄した」という解釈にならざるをえない。
事実とすれば、それはまさに「原人の大冒険」でしょう。
ところが、この本の一ページ前のP47に、これら三点の石の破片の接合写真が載っている。前に見たときは、「なるほど、ちゃんと接合している」という印象しかなかったが、今回よく見ると、石核の右縁の突出部にタガネ状のものを当てた跡があり、ここを中心に、石が三つに割れている。
原石は三角錐をなしており、底辺部に鋭い打撃が一回だけ加えられ、それで石が三つに割れている。
こういう割り方が原人にできるはずがありません。これは原石を万力のようなものでしっかり保持し、たがねとハンマーを使って割ったものだと思います。
結局、宮城に原人が住んでいて、そこで生活していて、従って石器もそこで製作していた、という演出が必要になり、こういう小細工をしたのだと思います。
これで袖原3と中島山は完全に潰れたと思います。
すでに馬場壇Aは、脂肪酸のねつ造を暴くことで、潰しましたから、結局藤村の仕事は、1984年以後はぜんぶねつ造だということが、(原理的、あるいは方法論的に)証明されたと思います。
私は、1983以前についてもねつ造だと思いますが、特に問題となるのが「散乱木」で、これは77~81年と発掘期間が長く、調査報告書をじっくり読まないと、簡単には指摘できない。ねつ造者(あるいは複数?)は、ここが最初の舞台だったはずで、非常に細心の注意を払ったと思います。後になって、全然ばれないので、だんだん犯行は、大胆というかケアレスになってきますが。

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難波紘二 > トラさん、よく考えてみて下さい。あの石は、鋭い一撃で割れている。縄文人が作ったとすれば、それがどうして旧石器の地層から出てくるのでしょうか?それとも縄文人が作った割れた石器(しかも三つが接合する)を藤村がたまたま発見して、それを2カ所に埋めたといわれるの (2000/12/06(Wed) 20:21:08)[konanba.ias.hiroshima-u.ac.jp]

難波紘二 > でしょうか?それにあのチョッパーは縄文時代のものではありません。よく写真を見て下さい。 (2000/12/06(Wed) 20:23:20)[konanba.ias.hiroshima-u.ac.jp]

難波紘二 > あの原石を割るには左手で硬く握り、鋭い細い硬い道具(金属器)で、つよい一撃を加えねばなりません。原人は、1)親指が不自由で、硬く握りしめられない、2)左手で保持して、右手の一撃で割ることは、金属器があっても、非常に難しい、3)原人は金属器をもっていなかった。石 (2000/12/06(Wed) 20:28:19)[konanba.ias.hiroshima-u.ac.jp]

難波紘二 > 4)石器でゾウの骨は削れない。以上です。 (2000/12/06(Wed) 20:30:22)[konanba.ias.hiroshima-u.ac.jp]

トラ > @旧石器の地層から、なぜ縄文人が造った石器が、出てくるかといえば、それは藤村という名前の現代人が埋めたからでしょう。A割れ口が余りにも鋭利だという点も根拠として考えておられるようですが、縄文でもかなり鋭利かつフレッシュに見えるものはあります。(これについては、実物を見ていませんのではっきりはいえませんが。ゴメンナサイ)。B縄文人がつくった割れた石器をたまたま発見して埋めると何か不都合なことがありますか。(なんかブリード氏のような口ぶり)C旧石器時代に特徴的で、縄文ではまれな石器というのは、石刃や細石刃、石刃をとるための石核などいくつかあります。また、つまみ付きナイフと呼ばれる縄文時代に特徴的に見られる石器もあります。しかし、あのような石器は、そのどちらでもなく、たとえ旧石器時代につくられたとしても(晩期旧石器くらいなら)縄文の石器に混ざると区別がつかなく手の石器だと思います。旧石器に比べて縄文の石器製作技法は、アバウトですからいろんなものが出てくるんですよ。Dまた、なぜあんな「演出」(40kmも離れた遺跡の遺物を接合するというまさに「神業」)をした理由がよくわからないんです。わたしにも。あの「神業」の話を聞いた私の周辺の反応は「遺物の取り扱いが、ズサンだから別の遺跡のものがまじっちゃったんじゃねーの」でした。そんなことしたら疑われるだけなのにねえ。その後のことについてはまた後で。 (2000/12/06(Wed) 22:08:15)[]

トラ > すみません。石刃や細石刃やそれらを生産する石核を「縄文時代にまれな石器」としましたが、これらは縄文時代にはありません。誤った記載をして申し訳ない。 (2000/12/06(Wed) 22:27:02)[]

難波紘二 > トラさん、私も現物は見ていません。でも貴方が写真を見て、あれが縄文の石器でもよいと言われるのであれば、これは知識レベルが違いすぎて、論争にはなりません。 (2000/12/06(Wed) 23:17:23)[konanba.ias.hiroshima-u.ac.jp]

難波紘二 > どうも「原人」という言葉に根本的誤解があるようです。原人は、人間ではありません。ゴリラに近い生物です。人間とセックスしても、混血児は生まれないのです。 (2000/12/06(Wed) 23:30:36)[konanba.ias.hiroshima-u.ac.jp]

難波紘二 > 現代でもアフリカのピグミー族は、チンパンとときどきセックスをします。しかし混血児は生まれません。 (2000/12/06(Wed) 23:41:52)[konanba.ias.hiroshima-u.ac.jp]

難波紘二 > 誤解を恐れずに言えば、原人はダウン症の子供の頭脳とゴリラの肉体をもった動物です。もし会えば、人間の感性は、「ああ、これは人間ではない」と即座に判断するでしょう。岡村の荒唐無稽な点は、原人を擬人化した点にあります。 (2000/12/07(Thu) 00:11:08)[konanba.ias.hiroshima-u.ac.jp]

koyugun > 難波さんへ。おっしゃることはよく理解できるのですが、特定の障害を例えとして出すのは、やはりおやめになった方がいいかと。小生の親族にもダウン症ではありませんが、障害児がおりますもので。 (2000/12/07(Thu) 00:28:26)[myzcc-02p58.ppp.odn.ad.jp]

トラ > 難波先生。「知識レベルが違いすぎて、論争になりません」とはどういう意味でしょうか。(おそるおそる)原人はホモ・サピエンスと骨格からして異なるため、比較的単純な技法でしか石器を作り得ない。なのに「前期旧石器」とされているものの多くは、原人では作り得ないような「高度」な技法が使われている。ということは竹岡氏も指摘していました。だから「前期旧石器」の層から原人では作り得ない「複雑な」石器が出土することは「捏造」の根拠となるのでしょう?わたしは、縄文人も藤村氏も同じホモ・サピエンスだから区別(縄文石器と藤村石器を)できないんじゃないですか。と言ったんですが…ねえ。そういえばキーリィ氏も梶原教授は縄文の石器と「前期旧石器」は区別がつかないと言っていたことを暗に「捏造」の根拠として指摘していましたね。 (2000/12/07(Thu) 00:44:32)[cs51347.ppp.infoweb.ne.jp]

うささぎ > koyugunさんの仰る通りだと思います。それから例の別の遺跡から「出土」した石器3点の接合が非常に怪しいとういうのは、考古学者を含めほとんどの人の共通認識だとは思いますが、その他の藤村氏発掘の1000点以上の自称「前中期旧石器」はトラさんのご指摘のとおり、新たに製作されたというより、F氏の私的コレクションにあった縄文石器を埋めたと考える方が遥かに説得力があるのではないですか。私の以前の質問に対し、多くの考古関係者の方々が集めようと思えば「万」の単位を私蔵することも充分可能だ、と答えて下さっています。 (2000/12/07(Thu) 00:45:10)[global-user.toshima.ne.jp]

トラ > もしかして「原人に不可能な技法かどうか確認したい」との発言が誤解を与えたのなら失礼しました。(でも確認くらいさせてよ…ブツブツ) (2000/12/07(Thu) 00:57:09)[cs51347.ppp.infoweb.ne.jp]

大学生> >「この石材は、頁岩で奥羽山脈より西にしか産出しない」との記述についてですが、確かに良質なもの(石質が緻密で、鋭利な剥離がしやすいという意味で)は山形県周辺に限られますが、頁岩自体は東北の比較的広い範囲で産出します。私見ですが、中島山遺跡の接合資料の頁岩は鳴瀬川流域で採取されるものとよく似ています。 (2000/12/07(Thu) 04:40:03)[3536141056r11.freeserve.ne.jp]

大学生 > 鳴瀬川流域と書きましたが、中島山周辺のことです。おそらく5km圏内で調達可能と思います。 (2000/12/07(Thu) 04:42:15)[3536141056r11.freeserve.ne.jp]

大学生 > このため、難波さんの接合資料の解釈には誤りがあります。まず、中島山遺跡で出土した小剥片と石核、袖原3遺跡で出土したスクレイパー(上ではチョッパーとなっていますが、調査団発表ではスクレイパーとなっていますので)の3点の石器が接合しています。この接合資料の解釈については、中島山で石核から石器の材料となる剥片をはがす作業が行われ、大型の剥片は遺跡外に持ち出されてスクレイパーとして加工された。スクレイパーは最終的に奥羽山脈を越え、直線で約30kmの袖原まで運ばれ、母岩である石核と小剥片は中島山に残されたと考えることができると思います。調査団は「当時の人々が奥羽山脈を越えて移動生活をしていたことが明らかになった」と発表しています。 (2000/12/07(Thu) 04:42:59)[3536141056r11.freeserve.ne.jp]

大学生 > ちなみに両遺跡の石器出土層は約10万年前と考えられているので、彼らは原人ではなくて旧人であった可能性が高いと思います。 (2000/12/07(Thu) 04:43:33)[3536141056r11.freeserve.ne.jp]

大学生 > なお、「万力、ハンマー云々…」についてですが、「石を割る」ということについて発言されるのでしたら、もう少し剥片剥離技術の勉強をされてはどうでしょうか。 (2000/12/07(Thu) 04:44:11)[3536141056r11.freeserve.ne.jp]

大学生 > 細かいようですが、誤った情報による議論では意味がなくなってしまうと思います。情報提供並びにその解釈はきちんとしておいたほうがいいと思います。最低限。 (2000/12/07(Thu) 04:48:29)[3536141056r11.freeserve.ne.jp]

トラ > 大学生さんの発言が、また考古学者に特有の「冷たさ」と解釈されてはいけませんので、参考文献を挙げておきます。石器の加工技術の解説としては、入手しやすいと言う点で『図録・石器入門事典(先土器)』加藤・鶴丸編著柏書房がよいかと思います。おそらく広島大の図書館にあるでしょう。以前は同じ内容で『石器の基礎知識』といっていたんですけどね。このなかで、先生のおっしゃる方法が「間接打法」として解説されています。もうひとつ、わたしの(乏しい)経験では、間接打法の際金属のような堅いもの(石よりもです)を当てると、石に余計なダメージを与えるので、鹿の角などの弾力のあるものがいいようです。 (2000/12/07(Thu) 05:24:05)[cs51100.ppp.infoweb.ne.jp]

bambi > 猿人・原人・旧人・新人 一般人には、今となっては紹介するのもお気の毒かと思いますが、http://inoues.net/yamataikoku/kodai_nenpyo.html  とてもわかりやすいです。 (2000/12/07(Thu) 05:47:46)[cse4-22.nishinomiya.mbn.or.jp]

bambi > トラさんのようなフォローがいいと思います。こういう風な雰囲気で話が続いていくのを期待します。 (2000/12/07(Thu) 05:52:28)[cse4-22.nishinomiya.mbn.or.jp]

トラ > もうひとつ、「石器でゾウの骨は削れない」という点についてですが、先ほどの『石器入門事典』にドイツ・マイエンドルフの例として、骨を削って細石刃を植えたモリの例が出てますので、「骨」は石器で削れます。またたしか野尻湖でゾウの骨を削ったものが出土していたように記憶していますが。(当方は諸般の事情から文献に不自由な状態にいるのですみません)また、縄文時代には、石器で作った骨(角)器がたくさん出土しています。 (2000/12/07(Thu) 05:57:59)[cs51136.ppp.infoweb.ne.jp]

大学生 > トラさん、bambiさん、ありがとうございます。こちらも基本が欠けていました。申し訳ありません。 (2000/12/07(Thu) 05:58:44)[sendai-ppp-210-253-121-89.interq.or.jp]

早傘 > わざわざ書くまでも無いことと思いますが、原人はゴリラやチンパンジーよりもはるかに人間に近い生物です。実験は不可能ですが、現代人との間に子供を作れる可能性はかなり高いと思います。民族名の表記には注意を払わねばならないのも常識で、かつてピグミー族と呼ばれていた人々はムブティ人というのが一般的な呼び方です。 (2000/12/07(Thu) 07:28:53)[d238056.ppp.asahi-net.or.jp]

早傘 > ところで、「接合資料」とゾウの骨に何の関係が有るのですか? (2000/12/07(Thu) 07:34:14)[d238056.ppp.asahi-net.or.jp]

bambi > 早傘さんへ、この頃は、エスキモーを「イヌイット」と呼ぶのは知っていますが、ピグミー族を「ムブティ人」と呼ぶのは初耳でした。ちなみに、どうしてそう呼ぶべきなのかお教えいただけないでしょうか? そんなに注意して見ている訳ではないですが、今でも、テレビの番組でピグミーという言葉を使っていると思います。又、1995年改定の講談社版 日本語大辞典第2版にも、その言葉は、まだ採録されていないようです。人類学者さんの世界では、「ムブティ人」が常識であるならば、そうして、一般人も「ムブティ人」を使うべきだとお考えでしたら、学会として位で、是非、新聞・TV等を通して、我々一般人に啓蒙をお願いいたします。我々だって、知らずにとはいえ、差別語を使うのは、本意ではありません。 (2000/12/07(Thu) 12:15:36)[cse6-11.nishinomiya.mbn.or.jp]

難波紘二 > 私は、岡村道雄「縄文の生活誌」p47に掲載されている「三点接合」の写真について、これは現代人が割ったものだ、と述べているのです。論点をそらさないで下さい。を (2000/12/07(Thu) 12:41:13)[konanba.ias.hiroshima-u.ac.jp]

難波紘二 > 本をもっていない人には、フォトショップで読み込んだ画像を送りますから、メールで請求して下さい。 (2000/12/07(Thu) 12:42:33)[konanba.ias.hiroshima-u.ac.jp]

花關索/永瀬唯 > bambiさまへ。「ピグミー」の呼称の妥当性については、以前から疑問に感じていたので調べてみました。ですが、その前に、「イヌイット」の呼称について確認を。実は、いわゆる「エスキモー」一般を「イヌイット」と呼ぶことについては、強い反論が提示されています。というのは、いわゆる「エスキモー」が、微妙に言語も異なる「ベーリング海峡地域から,アラスカ,カナダの北極海沿岸,ラブラドル,グリーンランドにいたる極北地方に居住する採集狩猟民」諸部族の総称であるのに対し、「イヌイット」は、「カナダのエスキモーは〈ひと〉という意味の〈イヌイット Inuit〉で自己を表現し,現在では公的にもこれが用いられている」(以下、特記なければ平凡社『世界大百科』より)とあるように、たとえ、カナダでは公的に認知された「名乗りの名」であっても、あくまでもローカルな名前だからです。/現に「アラスカではエスキモーが,グリーンランドではカラーリット Kalaallit が一般的呼称とされている」のです。/ただし、エスキモーの語は、「アルゴンキン系インディアンのアブナキ語やオジブワ語などの〈生肉を食べる人〉を意味する語に由来する」ので、自称ではなく、他称の名ではあるのですが……。/そもそも、自身への民族名が呼称としてが確立されるためには、近代的な国民国家、もしくはそれを目指す民族運動の潮流が形成されている必要がありますから、国境を越え、ひとつの民族という意識での反植民地主義(ならびにその残滓)・反白人中心主義運動が今まで展開されていなかった、しかし、人種的にはひとつの民族として扱うべき存在を呼ぶ「政治的に適切な」呼称は存在しがたいことになります。/それは、わが日本に住む人々がもれなく「日本人」であることを意識するようになったのが、たかだか明治も10年代以後のことであり、いまだに「ニッポン」「ニホン」と国名の発音さえさだかではないことからも実感できるでしょう。/同様の事情は、いわゆる「アメリカ・インディアン」にもあてはまります。「ネイティヴ・アメリカン」なら、いわゆる「エスキモー」まで含むことになってしまうからです。/で、いわゆる「ピグミー」ですが、ネイティヴ(の一部)による、自身への名乗りの名ではありません。それどころか、ギリシアの伝説に登場する矮形の怪物でアフリカに住むとされ、もとは現在のいわゆる「ピグミー」族から生じた伝説であるのでしょうが、怪物としか呼べないほどにグロテスクな存在として描かれています。また、その呼称「ピュグマイオイ」も肘から拳までの長さをあらわす単位からの転用であり、「名乗りの名」では決してありません。しかも、欧米での「ピグミー」の呼称は、かつてはアフリカ広域に居住していた、人種的・人類学的な「ピグミー」族に限定されず、一般的に身長の低い部族への呼び名となり、東南アジア在住の人々までこの名で呼ばれていたりします。/となれば、ボーア語で「どもる人」を意味するあからさまな差別用語である「ホンテントット」が、「コイ・コイン族」ならびに「サン族」(両者をあわせた言語グループの呼称が「コイ・サン」語族)と呼ばれることになったのと同様、「ピグミー」も、その「名乗りの名」で呼ぶべきなのでしょうか?/だが、人類学的な意味での「ピグミー」諸部族は、「コンゴ民主共和国(旧,ザイール),コンゴ共和国の盆地を中心に,西はカメルーンからナイジェリア,東はウガンダ,ルワンダ,ブルンジ,南はタンガニーカ湖の南方まで,かなり広範囲に分散している」上に、「独自の言語はなく,隣接するバントゥー系やスーダン系の農耕民の言語を用いている」こともあって、共通の「名乗りの名」は存在しないのです。/早傘さんがお使いの「ムブティ」とは、コンゴ北東部イトゥリの森に住む部族の名で、ほかにも一箇所にまとまったものとして「コンゴ(ザイール)川の北部とウバンギ川の西の低湿地に住むビンガ Bingaと呼ばれるグループ」があります。ただし、通常、いわゆる「ピグミー」族が話題になるときは、人類学的な調査が長くおこなわれてきたこともあって、この「ムブティ」(複数形は「バンブティ」)を指すことが多いので、間違いではありません。/つまり、ムブティ=「ピグミー」ではあるが、「ピグミー」からずしも「ムブティ」とイコールとは限らないのです。/ことほどさように、明らかに差別的意味合いを含む呼び方でさえも、自身による「名乗りの名」が確立されていない場合には、「政治的に正しい」代替の名を決めることはむずかしいのであります。/(ピグミーチンパンジーが「ボノボ」と呼ばれるようになったのも、つい最近のことです) (2000/12/07(Thu) 15:38:25)[itbs2535.ppp.infoweb.ne.jp]

大学生 > 「袖原3のものが「チョッパー」だとされている。(岡村の記述)」とありますが、どこにもチョッパーとの記載はないので、スクレイパーの勘違いだと思います(岡村道雄「縄文の生活誌」p47-48)。 (2000/12/07(Thu) 16:26:26)[sendai-ppp-210-253-121-161.interq.or.jp]

大学生 > なお、同p47の接合資料の写真は、袖原のスクレイパーは二次加工の及んでいない石材の外皮の面しか写真に写っていません。 (2000/12/07(Thu) 16:28:55)[sendai-ppp-210-253-121-161.interq.or.jp]

大学生 > 加工されている面が分る資料を探してみます。 (2000/12/07(Thu) 16:29:52)[sendai-ppp-210-253-121-161.interq.or.jp]

難波紘二 > 大学生さん、貴方が正しい。スクレイパーの間違いです。しかし本論は「石器の打撃痕は、現代人によるもの」です。 (2000/12/07(Thu) 16:33:02)[konanba.ias.hiroshima-u.ac.jp]

難波紘二 > 資料探しに期待しています。 (2000/12/07(Thu) 16:34:37)[konanba.ias.hiroshima-u.ac.jp]

大学生 > 接合資料の発見の経緯について。1997/12/14 河北新報より『宮城・色麻町と尾花沢市の石器断面接合/「まさに奇跡の発見」あばた模様決め手/10万年の時を超え/興奮隠せぬ専門家』   10万年前に2つに割れ、30キロも離れて眠っていた石器が、ぴたりと合体−。東北旧石器文化研究所(多賀城市)などでつくる合同調査団が13日、尾花沢市の袖原3遺跡と宮城県色麻町の中島山遺跡からそれぞれ出土した約10万年前の石器が、もともとは1つだったと発表したことは、考古学関係者に大きな驚きを与えた。旧人たちが残した超難度のジグソーパズルが解けた興奮に、学者の一人は「まさに天文学的な確率。奇跡としか言いようがない」と叫んだ。   「中期旧石器時代(15万−3万年前)に作られた石器の数は、数万−数十万個に達するだろう。その中で発掘されるのはきわめて少ない。その少ない発掘例で2つの石器がぴったり接合するなんて」と、旧石器遺跡の調査に長年携わってきた芹沢長介東北大名誉教授も驚きを隠せない。   尾花沢市の袖原遺跡からこれまでに出土した中期旧石器時代の石器は104点。一方、宮城県色麻町の中島山遺跡からは同時代の石器42点が出土しているが、両遺跡間の距離は30キロ。   「まさか、これほどぴったりと接合するとは」と、興奮するのは、石器の接合を発見した東北旧石器文化研究所の藤村新一さん(47)。「材質が同じで、色が似ているので、接合するかな」と両遺跡の石器を一つずつ組み合わせていったのだという。   気の遠くなるような作業だが、接合の決め手は、両方の石器の表面にあったあばた模様。「じっと石器を並べて見つめていたら、2つの石器に同じ模様が見えてきた。そして、くっつけてみたら、どんぴしゃりだったわけですよ」   藤村さんは袖原遺跡の発掘調査に参加。中島山遺跡の発掘でも中心的な役割を果たした。両遺跡から出土した石器の共通性を早くから把握できたのも、今回の発見につながった。藤村さんらの調査団は来年以降も接合石器の調査をするが、「もう一度接合石器を発見するのは神業に近い」と芹沢名誉教授は言い切った。  ◎旧人生活解明に手掛かり   【解説】10万年前の旧人たちが革袋に石器を入れて、奥羽山脈を越えていく。そんな光景が、割れた2つの石器から浮かんでくる。今回発見された接合石器は、旧人たちが残した無言のメッセージを解く貴重な手掛かりだ。小さな石器が、約30キロ離れた尾花沢市の袖原遺跡と宮城県色麻町の中島山遺跡を1本の線で結びつけた。旧人たちがどんな生活をしていたのか、想像はますます膨らむ。   石器の接合はこれまでも、理論的には想像できた。しかし、実例を探すのは「天文学的な確率」で、これまでの発見例は世界でも数例しかない。世界最古で、しかも出土地点間の距離が最長の今回のケースは驚異的な発見だ。   2遺跡の間には奥羽山脈が横たわる。周辺には現在も宮城、山形両県を結ぶ峠道の軽井沢街道があるが、高い地点の標高は約600メートルもある。歩くしか交通手段のない石器時代にも険しい奥羽山脈を越えた集団がいたわけだ。季節ごとに移動する動物を追って歩いた可能性が高いという。   当時の気候は現在より寒冷で、旧人たちは少ない動物を追って、石器を持って移動生活をしていたのかもしれない。当然、革袋など石器を持ち運ぶ入れ物が存在した可能性が高い。   石器の接合で、2遺跡の地層が全く同時期のものであると確認された意義も大きい。今後、ほかの遺跡の年代特定にも大きな役割を果たすことになるだろう。   2つの遺跡の周囲には東西数十キロ、南北数十キロの広範囲に、宮城県側では小野田町の薬莱山遺跡群、山形県側には新庄市の山屋遺跡など同時代の遺跡が多数確認されている。当時の人口密度を考えれば、いずれの遺跡も同一集団が移動した痕跡という可能性も出てきた。定住しなかった旧人の生活形態を考える上で興味深いテーマとなりそうだ。   接合した2つの石器が何に使われていたのか、付着した脂肪酸の鑑定などを通じて今後調査される。獲物として仕留められた動物の種類など、旧人の生活の様子がまた一つ解明されていくだろう。(報道部・松田佐世子)  【図】接合した2つの石器の模式図。それぞれの石器の破断面上部に打撃痕が見られる(希望者に画像をメールで送ります) (2000/12/07(Thu) 16:49:25)[sendai-ppp-210-253-121-161.interq.or.jp]

大学生 > 石器製作技術の解説書として、「-Technology of Knapped Stone-石器製作入門」M.-L.Inizan、H.Roche、J.Tixier著、大沼克彦、西秋良宏、鈴木美保訳、クバプロ刊(1998)が、最近のものでは「考古学ライブラリー67・旧石器」戸田正勝著、ニューサイエンス社刊(2000)があります。 (2000/12/07(Thu) 17:22:40)[3536141056r65.freeserve.ne.jp]

難波紘二 > やはり「接合」の発見者はFJMでしたね。画像送って下さい。TIFFかJPEGで大きくも構いません。konanba@hiroshima-u.ac.jp (2000/12/07(Thu) 18:10:30)[konanba.ias.hiroshima-u.ac.jp]

大学生 > 難波さん、何度か送信したのですが、メールがもどってきます。もう一度送信しますが、届かなければ再度送ります。 (2000/12/07(Thu) 18:46:08)[3536140800r68.freeserve.ne.jp]

大学生 > 上の記事がかかれた時点(1997.12)ではまだ石核が発見されておらず、小剥片とスクレイパーの2点の接合です。なお別の記事には袖原のスクレイパーは10月の第4次調査中に地元の調査員が、中島山の小剥片は藤村氏が11月に断面採取したものとあります。防犯のためでしょうが、画像が載せられる掲示板だとよかったですね。 (2000/12/07(Thu) 19:09:11)[3536140800r68.freeserve.ne.jp]

大学生 > なお、中島山の石核は翌年の第1次調査(1998.11)で出土しています。 (2000/12/07(Thu) 19:09:53)[3536140800r68.freeserve.ne.jp]

大学生 > 難波さん、上のアドレスで送信できました。投稿者のところのアドレスがタイプミスのようです。新規の項目を立ち上げる際は御注意ください。 (2000/12/07(Thu) 19:28:57)[3536140800r68.freeserve.ne.jp]

難波紘二 > アドレスは何度も訂正したのですが、ミスが変更できないので、わざわざコメントの横に書いたのです。今から、メールを見ます。 (2000/12/07(Thu) 22:04:33)[konanba.ias.hiroshima-u.ac.jp]

難波紘二 > 6時以後は、Nature12/7号しか届いていませんね。konanba@hiroshima-u.ac.jpに送られましたか? (2000/12/07(Thu) 22:09:00)[konanba.ias.hiroshima-u.ac.jp]

早傘 > bumbi さん 僕自身は人類学の専門家ではありません。人類学の専門家による一般向け書籍から得た知識です。 (2000/12/07(Thu) 22:59:18)[b142025.ppp.asahi-net.or.jp]

大学生 > 6時半頃に送ったのですが。今もう一度送信しました。もどってこないのでたぶん大丈夫と思いますが。 (2000/12/08(Fri) 01:04:39)[sendai-ppp-210-253-120-221.interq.or.jp]

トラ > 河北新報(1997.12.14)に掲載された袖原3と中島山の石器の模式図は、『考古学を知る事典』熊野正也・堀越正行東京堂出版のp50にも載っています。書庫の整理が悪くようやくみつけました。なお、概説書としては、なかなかの本だと思います (2000/12/08(Fri) 06:37:30)[cs51127.ppp.infoweb.ne.jp]

bambi > 花關索さん、詳しいご説明ありがとうございました。ついでに、「花關索」さんって、どうお読みすればいいのでしょう? (2000/12/08(Fri) 09:06:12)[cse9-34.nishinomiya.mbn.or.jp]

bambi > 早傘さん、失礼しました。[316]より、人類学者さんと思ってしまいました。>bambi (2000/12/08(Fri) 09:09:44)[cse9-34.nishinomiya.mbn.or.jp]

トラ > 一般論として、石器に残された痕跡から、加工した工具の材質がわかるか、ということですが、石器自体に何か残存物があれば、分かる可能性があります。今回の石器の割れる原因となった力が加わった点(打点)にのみ純度の高い金属が付着していることがわかれば、しょうめいできるかもしれません。石を「割る」という作業に、材質(というより主に硬度)はあまりかんけいありません。(この点「削る」という作業とは違います)石はある一定以上の力が加われば、その力が加わえたものがなんであれ、「割れ」ます。いくつかの参考文献が示されていますが、石器製作工具として、石のほか骨や角、木があげられていたことと思います。わたしは、フランスで石器製作技法を学んでこられた松沢亜生氏の実演をまじかで見たことがありますが、そんなに強い力も使わず、いとも簡単に角や骨で頁岩や黒曜石の原石から石器をつくっておられました。MJR氏は、「アマチュア」とはいえそのようなことを知らないとは思えません。石器をつくったとしても骨や角で作った可能性が高いのです。「製造疑惑」の立証はなかなか難しい。なお、写真から加工具の材質が判定できるとしたら、大発見だと思います。「考古学研究」や「考古学雑誌」に投稿願います。 (2000/12/08(Fri) 09:54:13)[]

ともさん@2CV > ねつ造問題受け袖原3遺跡を年表から削除」だそうです。http://www.yamagata-np.co.jp/kiji/20001208/0000004377.htmlもうひとつhttp://www.yamagata-np.co.jp/kiji/20001208/0000004377.html真実であることが証明できない以上、「奇跡の発見」は全て忘れられていくのでしょう。 (2000/12/08(Fri) 11:35:52)[e-nb3.lcv.ne.jp]

トラ > さきほどのレスは、少し舌足らずでしたね。石器自体から加工具が金属であることを証明するには、石器が加工の際にどのくらいダメージを受けたか調べるという方法もあるかもしれません。力が加えられた石器の側には、なんらかのダメージがのこりますから、それが自然界に通常存在しえないほど硬いものによると立証できれば可能でしょう。 (2000/12/08(Fri) 12:34:19)[]

難波紘二 > 大学生さん、画像ありがとう。解析を終わりましたので、結果を別途アップします。 (2000/12/08(Fri) 17:26:12)[konanba.ias.hiroshima-u.ac.jp]

早傘 > bambi さん。私が原因でしたね。すみません。そのころ広義の「人類学者」のお手伝い(邪魔)をしていたのです。 (2000/12/08(Fri) 22:24:37)[b142152.ppp.asahi-net.or.jp]

大学生 > 上記の新聞記事および難波さんがおっしゃっている接合資料の写真をUPしましたので皆さんで御検討ください。なお,この掲示板での検討以外の目的では使用しないで下さい。http://www.hello.co.jp/~ppp77/OS_NJY.jpg (2000/12/09(Sat) 07:38:23)[sendai-ppp-210-253-120-221.interq.or.jp]


[351] 悲劇か喜劇か 投稿者:難波紘二 投稿日:2000/12/06(Wed) 20:10:14 [konanba.ias.hiroshima-u.ac.jp]
一度目は悲劇、二度目は喜劇
「ピルトダウン人」事件は、ふつう生物学や人類学関係の本に書いてあり、それは自分ではよく知っているつもりだったが、今度あらためてW.ブロード、N.ウェード「背信の科学者たち」(化学同人、1988)を開いてみると、前には読み飛ばした箇所に、生物学や人類学の本に書いてないことが書かれていた。
この事件は、今回の事件と非常によく似ている。そっくりといってもよいほど似ている。
英国サセックス州のピルトダウン村の採石場から化石が出るはずと見当をつけて、「何か出たら持ってきてくれ」と頼んでいたのが、引退した弁護士で、趣味が化石集めというアマチュア考古学者のチャールズ・ドウソン。(これが藤村新一の役割)
1908年に石堀作業員が、ドーソンの家に骨の一部をもってきた。それは人間の頭蓋骨の一部だと、ドウソンは判断し、さらにいくつかの破片を発掘し、1912年に、友人の大英博物館の化石魚の専門家、アーサー・ウッドワードに「ドイツのハイデルベルグ人より重要な発見をした」と連絡した。(ウッドワードが岡村道雄と佐原真の役割)
ウッドワードとドウソンが現地を発掘すると、今度は人間のものらしい下顎骨がでてきた。頭蓋骨の断片と下顎骨は同じ個体に属すると確信したウッドワードは、大英博物館に戻り、頭蓋骨を復原し、これを「ピルトダウン人」と命名し、それは1912年の12月に英国地理学会で一般公開され、国内だけでなく、全世界に一大センセーションを巻き起こした。時は第一次世界大戦の直前であり、ドイツに対抗する英国民族主義は、これにより大きく昂揚した。英国の原人は、ドイツより古く、ヨーロッパ人は英国で生まれた、と彼らは考えたのです。
この時、動物学者、解剖学者のなかには、「頭蓋骨は人間だが、下顎はサルではないか」という批判もあったが、世論の圧倒的熱狂の前に、異論は取り上げられず、二人は国民的英雄、天才と讃えられた。
しかし1913年に、現地を訪れた大英博物館の若い動物学者、マーチン・ヒントンは、「すべては悪戯だ」と確信し、批判しても受け入れられないのはわかっているので、「明らかに偽造とわかる」化石を埋め、欺瞞があばかれるのを待つ作戦をたてた。このため博物館のコレクションから、下顎の骨を取り出し犬歯を抜いて、ウッドワードの復元模型にあうように犬歯にヤスリをかけて、現場に埋めておいた。この犬歯は発見されたが、なんとドウソンもウッドワードも、偽物だと気づかず、また「大発見」を新聞に公表し、ますます英雄になってしまった。(この過程も、岡村、佐原にそっくり)
頭に来たヒントンは、今度は、ゾウの脚の化石を持ち出し、ナイフでクリケットのバットのように加工して、それを現場に埋めておいた。ところが今度もウッドワードは、これを本物と信じて、「初期英国人は、すでにバットのような棍棒をゾウの骨から作るという、高度の文化をもっていた」と発表した。(これも上高森原人の、「高度の精神生活」とまったく同じですね。縄文石器をすでに原人がつくっていた。何と進歩していたことか。そう岡村の「縄文の生活誌」には書いてある)(ゾウの骨は、硬くてとうてい石器では削れないのだそうです。しかし彼らはまったく実験しなかった。鎌田も梶原も、岡村も自ら実験は一切していないのでは)
この虚構が崩れ去ったのは、1925年、R.ダートが南アのヨハネスブルグ郊外で、後にリーキィが「オーストラロピテクス」と名づけた猿人化石を発見してからです。これはまったく疑いなく、初期の人類の形態をしていた。(これが毎日のスクープに相当)
これでウッドワードとドウソンの名声は一挙に失墜、ヒントンもやっと自分の作戦がしゃべれるようになり、再調査の結果、頭蓋骨は新しい人間のもの、下顎骨はオランウータンのそれ、と判明した。(岡村は、日本史の一冊を担当するという栄誉の絶頂から、10日後に、どん底に突き落とされた。出版は、10月24日で、発覚は11月4日)
この事件では、虚構の崩壊まで17年かかっている。藤村事件では、19年かかっていて、年月もよく似ている。背景に、日本のナショナリズムの昂揚と東北人の文化的劣等感があり、それがバブル経済による開発ブームと重なり、広い意味で事件の背景をなしていることも、英国の事情とよく似ている。
犯人はいまも不明です。ドウソンは疑われたが、彼には地層判定のための標準化石についての細かい知識がなかった。イエズス会の神父テイヤール・ド・シャルダンも犯人として疑われている。
「誰がそれを行ったかということ(が問題)ではなく、不可解なことは、科学者なら誰でもはっきりとわかるような悪戯に、なぜ(彼らが)巻き込まれてしまったのか、ということである」(p155)
重要な教訓は、「ピルトダウン人」事件では、英国民の落胆と失望がそれほど大きかったので、英国の歴史家の誰一人として、「事件の全貌を解明し、そのばかばかしさをあからさまに世間に公表する」という仕事を、全部放棄してしまった。だから、この事件については、米国の文献で知るしかないという、状況が今でも続いている。
歴史は繰り返す。同じように国民的規模で隠蔽が行われるとは思わないが、考古学関係者は、そうしようとするでしょう。多分。しかし時代が違います。インターネットの時代では、それをやると考古学全体が自らの墓穴を掘ることになるでしょう。

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朝田寛 > はじめまして。私の知っている,ピルトダウン事件は少し違います。ピルトダウン人が偽造と解明されたのは,ケネス・P・オークリー,j・S・ワイナー,W・E・ルグロクラークの研究によるもので,1950年代に入ってからのことだったと思います。  「背信の科学者たち」の記載はマーチン・ヒントの行動も奇妙ですし, "R.ダートが南アのヨハネスブルグ郊外で、後にリーキィが「オーストラロピテクス」と名づけた猿人化石を発見" するとどうしてピルトダウン人が偽物と言うことになるのか説明できないと思いますので,誤りではないでしょうか。 (2000/12/07(Thu) 00:56:41)[kwgc036n083.ppp.infoweb.ne.jp]

難波紘二 > 朝田様、私が読んだのはA.S.Romer: Man and the Vertebrate. 1933のペンギンブック版(1954)です。これにはヒントンのことは書いてありません。ワイナーらがフッ素の測定や重クロム酸による着色を暴いたのは、50年代のことだと思います。オーストラロピテクスの発見により、ピ (2000/12/07(Thu) 12:33:29)[konanba.ias.hiroshima-u.ac.jp]

難波紘二 > ルトダウン人」の「インチキ臭さ」がより明瞭になったのです。 (2000/12/07(Thu) 12:35:48)[konanba.ias.hiroshima-u.ac.jp]

朝田寛 > 難波紘二先生の紹介されたヒントンの逸話は,捏造発覚後にアメリカあたりで作られたジョークのような気がします。 ヒントンは,おそらくhintonで,「ほのめか氏」とでも訳されるべきかなと。 また "英国の歴史家の誰一人として、「事件の全貌を解明し、そのばかばかしさをあからさまに世間に公表する」という仕事を、全部放棄してしまった。" ということはなく,J・S・ワイナーは,「ピルトダウンの偽造」という本を書いています。J.S.Weiner. The Piltdown forgery. Oxford University Press. 1955 (2000/12/07(Thu) 14:56:16)[kwgc035n024.ppp.infoweb.ne.jp]

難波紘二 > 不思議ですね。ブロードらの本は、ご指摘のWeinerの本を参考書としてあげており、また1983に出版された、この本はサイエンス、ネイチャーの書評にも取り上げられ、訳者は牧野賢治といい理学部卒で、毎日新聞東京本社の編集委員(科学・医学担当)です。 (2000/12/07(Thu) 14:56:17)[konanba.ias.hiroshima-u.ac.jp]

朝田寛 > そういうことならば,ブロードは, "英国の歴史家の誰一人として、「事件の全貌を解明し、そのばかばかしさをあからさまに世間に公表する」という仕事を、全部放棄してしまった。だから、この事件については、米国の文献で知るしかないという、状況が今でも続いている。" という記述に関して,自家撞着していることになりますね。 (2000/12/07(Thu) 16:57:55)[kwgc035n095.ppp.infoweb.ne.jp]

花關索/永瀬唯 > 難波さん、すでに指摘しているように、ヒトに、きちんとした典拠を示せといってきた人物が、ある主張に際して、その典拠元を、イチャモンがついからはじめて明かすというのは、ちょっと人格さえも疑うような不誠実さですよ。 (2000/12/08(Fri) 02:18:02)[itbs2424.ppp.infoweb.ne.jp]

朝田寛 > それから,やはり1925年のオーストラロピテクスの発見によって,ウッドワードとドウソンの名声が一挙に失墜したというのは,おかしいとおもいます。   というのは,1933年にピルトダウン人と同じ年代の地層から北京原人が発見された後,ピルトダウン人と北京原人の違いが,白人が優越していることの根拠とされ,そのような考えに基づく系統樹が1930年代から40年代にかけて作られていったことや,40年代にドイツ人の解剖学者でアメリカ自然史博物館客員研究員のフランツ・ワイデンライヒがピルトダウン人について「現代人の頭蓋骨にオラウータンの下顎を人為的に結びつけたもの」という指摘をしたときに,イギリスの人類学の権威アーサー・キースが,「古くある考え方に合わない新しい事実を排除するもの」として批判し,ピルトダウン人を擁護したことからも,50年代にワイナーらが偽造であることを証明するまで,ピルトダウン人を信じるのが学界の主流であったと考えられるからです。 (2000/12/08(Fri) 03:19:40)[kwgc035n035.ppp.infoweb.ne.jp]

朝田寛 > 花關索/永瀬唯様 難波先生は最初からW.ブロード、N.ウェード「背信の科学者たち」(化学同人、1988)と典拠を明らかにしていらっしゃるので,おっしゃるような問題は無いと思います。 (2000/12/08(Fri) 03:33:32)[kwgc035n088.ppp.infoweb.ne.jp]

早傘 > 捏造発覚直後に購入したもののほとんど読んでいなかった『ピルトダウン』(原著:F・スペンサー1990、和訳:山口敏1996)によると Martin hinton は実在人物ですね。ただし、面白い“エピソード”については「読み物としては面白いが、所詮は単なるゴシップ」と切り捨てられています。 (2000/12/08(Fri) 07:50:21)[d238023.ppp.asahi-net.or.jp]

難波紘二 > 朝田様、早傘様、いろいろご教示ありがとうございました。感謝します。 (2000/12/08(Fri) 09:58:17)[konanba.ias.hiroshima-u.ac.jp]


[352] Untitled 投稿者:加藤真二 投稿日:2000/12/06(Wed) 21:34:37 []
早傘さま、遅くなりました。仕事先に報告書がなく、日中も仕事があるものですから。やはりあやふやな記憶で答えるのは、間違いのもとですね。馬場壇A遺跡ではA−5・B−6・E−3の3ヶ所の炉跡とされるものが残留磁気測定法・全磁力測定法で指摘されています。A−5のものについては、富山大の加藤隆司氏らが、「焚火跡であることと矛盾しない。中略 焼成温度はあまり高くないと推定された」(報告書2の100頁としています。B−6のものは福島大の真鍋健一氏が「熱残留磁化を獲得した可能性があるといえる。中略 あまり高い温度で焼成されたとは考えにくい」(報告書1の153頁)とあります。同氏の報告の図66には炉と明記されています。E−3のものは「断定できる証拠は得られなかったが、焚火が第20層上面で行われたとすればこの(略)部分である可能性が高い」(報告書3の58頁)。否定的な表現のものでしょうか。また、意図するものと異なるものに自らの測定成果を使われるとしたら、研究者は強い抗議と反応を示すと思うのですが,そうしたことがあったでしょうか。早傘さま、お教えください。 磁化異常があるにもかかわらず、推定されるその焼成温度が低い理由としては報告書編集者は焚火における地表面の温度上昇は低く(地表下5cmで約100度)、表面があれた20層上面では試料が当時の地表下数cmのところのものであった可能性が高いことを上げています(報告書3の43頁)。なお、蛇足ですが、炉跡と判断するのは様々な情報をもとに考古学者が行うと考えます。磁化異常点、石器の出土状況のほか、この異常点から火受けした石器が発見されていることも判断材料となっています(報告書1の182頁)。炉跡と判断する蓋然性は非常に高いと思うのですが。
 問題はこうした炉跡がまったく石器検出面では分からないこと,石器出土後に判明したことです。たまたま捏造者が石器を撒いたところに炉・異常点があったのでしょうか。私にはどうしても理解できません。座散乱木についてもそうです。当時ほとんど認識されていなかった台形様石器の祖形とみることができる石器がどうして混ざっていたのか。同様に十分に把握されていなかった石器群の構造の祖形とみられる構造をもっていたのか。明確な理由を示していただければ幸いです。 トンビさん,例の2遺跡以外の遺跡が全部マルとはいっていません。私には捏造とは考えられない点が座散乱木・馬場壇にはあると問題提起しているだけです。もちろん背景に考古学者がもつ非科学的・非論理的な遺跡への執着があるかもしれません。なにか、気安く、全部バツといってほしくないような気分があるのも確かです。
 ただ、一部でいいから私の疑問点にお答え下されば幸いです。
 トラさん、怪しいものはけしてアンタッチャブルなものでないと思います。私のささやかな検証、疑問点をご理解ください。
 永瀬唯さま、いろいろご指摘、ありがとうございました。あなたの言葉、胆に命じておきます。

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トンビ > 加藤さんの正直な気持ちはわかりましたし、人間としては共感しますよ。でも、質問を受けているのは私ではなく、加藤さんですよ。まず、ナウマン象については、私の意見は受け入れられたのでしょうか。また、水平に出土することについて、どのように解釈されますか。捏造を肯定する側からは、これは簡単に説明がつくのです。また、学史から捏造を否定する論理ですが、あまりにも奇怪です。なんの論拠にもならないと思いますが、例として、当時、捏造者たちは、まだ考古学の知識が不充分で、台形石器の祖形というような解釈をする能力がなかった可能性がありますね。ほかにもいくらでも、加藤さんの推論がなりたたない可能性があると思います。 (2000/12/07(Thu) 10:25:13)[canal.wslab.ntt.co.jp]

早傘 > 加藤さん 分析者が否定的なものは岡村氏も「炉跡?」と扱っていないことを確認しました。「否定的」という表現は不適切でしたので取り消します。 (2000/12/07(Thu) 22:47:43)[b142025.ppp.asahi-net.or.jp]

花關索/永瀬唯 > 早傘さん、加藤真一さん、この間、最初期の報告書を熟読して感じたことは、90年代になってからの、つまり、石器文化談話会を解体改編した以後の藤村氏をはじめとしたメンバーたちはともあれ、談話会最初期の報告書類には、牽強付会はあったとしても、自らに不利なデータはシカトするといった退廃はまだ生じていないのではないかということです。ぼくは次第に、「不正」(捏造にいたる以前の論理のねじまげを含む)は、すでに1975年あたりから始まっていたという印象を強く持つようになっているのですが、談話会の市民運動としての側面から前提として了解されていた情報の公開という原則は、もしも不正があったとしても、それを防ぐことまではできなかったが、あとから検証するときに役に立つだけの手がかりは残しておいてくれたと感じつつあります。たとえ馬場壇III報告書(1989)のp44には、残留磁気調査の担当者ではなく、報告作成の主体の側による解説が記されていますが、ここでも、否定的な見解が正直に、「真鍋健一氏、加藤隆司氏ほかの測定の結果、A−5・B−6・E−3区の3ヶ所で磁化以上が認められた。これららは必ずしも熱の影響を受けているとは断定できないとのことではあるが、後述のようにその位置と大きさは考古学的に見て石器群の分布と有意な関係を示している」と記されています。しかし、こうしたイチャモンについてもとりあえずは真摯に紹介、答えるという態度は、たとえば、河合信和『最古の日本人を求めて』(新人物往来社、1988)には、すでに見られなくなっています。「一ヶ所だけ七〇×五〇センチの範囲で、六〇〇度C以上の加熱を受けたことを示す熱残留磁気が検出された。シンポジウムでは、木炭・石組みこそ見られないものの、これは太古の炉跡ということで意見が一致した。もちろん、わが国最古の炉跡である、野火とすれば、もっと広範囲に磁化してよいはずだから、その可能性はありえない」はてさて、六〇〇度Cに問題の箇所が加熱されていたなぞと、この調査にかかわった専門家の誰が記しているのでしょうか? また、どうして、「炉跡があったという確証が別にあるなら、ここがその炉跡である可能性がある」という分析結果が、「これは太古の炉跡ということで意見が一致した」ことになるのでしょうか? 河合信和氏は、主要な調査報告書はすべて参考資料として明記してらっしゃり、報告書にはどのような表現がされているかは確認ずみのはずです。もとより、河合氏本人の責任も多いのですが、ぼくには、うるさがたの注文を無視できない全員参加市民運動型発掘ではトーンをおさえた誰かさんが、理化学的分析の有効性の範囲さえつかめぬまま、ふきにふいた結果が反映されている可能性も高いと思います。「熱の影響を受けているとは断定できない」が、どうやったら、「六〇〇度C以上の加熱を受けたことを示す熱残留磁気が検出された」ことになるのでしょうか? これは学会と、これに寄生するようになったマスメディアの考古学閥の共謀共同正犯による、考古学の「学」への殺人行為と呼んでもよろしいのではないでしょうか? (2000/12/08(Fri) 02:13:16)[itbs2424.ppp.infoweb.ne.jp]

早傘 > 昨晩の発言、誤解される恐れがあるかなと思ったので補足しますが、「分析者はどちらかといえば否定的」というのは取り消しても、断定していないものは根拠にならないというのは取り消していませんので念のため。  加藤さんは「真二」さんですね(シンイチにあらず)。 (2000/12/08(Fri) 07:10:38)[d238023.ppp.asahi-net.or.jp]


[353] 最古の猿人化石 投稿者:min-oruk 投稿日:2000/12/06(Wed) 23:24:09 [tbtnni-11p55.ppp12.odn.ad.jp]
始めて投稿します。
 12月5日付けの毎日新聞に「600万年前に二足歩行 ケニアで最古の猿人化石」との見出しの記事が出ていました。読んでみると、捏造事件の後にもかかわらず、こういう内容を書くのかと驚きました。
「今回の化石発見が学会で認められれば、人類の直接の祖先を約160万年もさかのぼらせる。」
藤村氏の事件では、学会に認められないうちに、マスコミによってセンセーショナルに報道されたことに対しても批判があったと思いますが、(確かにあの事件の後も発掘のニュースは頻繁に紙面にでていましたが)
1、人類の起源について、あまりにも急激にさかのぼらせる発見であること。
2、まだ学会に正式に報告されていないこと。
が藤村氏の事件とイメージがダブってしまいました。
また、諏訪元 東大総合研究博物館助教授の話として、「調査チームのリーダー格のピックフォード博士は野外調査では一流で、大きな間違いはないだろう。」というコメントが載っています。「誰々だから間違いないだろう」という言葉にも敏感に反応してしまいました。捏造事件をスクープした毎日新聞がこのような記事で驚きました。
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難波紘二 > 何か勘違いしておられるようですね。ケニアの発掘成果は、今年中にNatureに正式論文として、レフェリーの審査を受けて、出版され、世界中の学者の目に触れます。日本考古学と一緒にしないで下さい。 (2000/12/06(Wed) 23:34:48)[konanba.ias.hiroshima-u.ac.jp]

うささぎ > 「最古」という言葉が例の捏造事件の発覚以後も考古関係の記事で乱発されていることに対する危惧ということであれば私にもお気持ちはわかりますが、このケニヤでの発見は非常に意義の大きい成果ではないかと期待してよさそうに自分は受け止めています。 (2000/12/07(Thu) 00:26:33)[global-user.toshima.ne.jp]

min-oruk > 発見に対して疑念を抱いているということではありませんので、勘違いしないでください。まだ審査を受けていないことが記事になることが、藤村氏の事件での問題の一つだったのではないでしょうかと言いたかったのです。 (2000/12/07(Thu) 08:49:47)[tbtnni-11p188.ppp12.odn.ad.jp]

bambi > 発表から、わずか1ヶ月以内の正式論文発表なんて、夢みたいです。1ヶ月後の難波先生の解説を楽しみにしています。 (2000/12/07(Thu) 12:31:29)[cse6-11.nishinomiya.mbn.or.jp]

難波紘二 > 生協で、Nature11/17号が売られているのを見つけました。オンラインで雑誌が読めない人でも、専門書店や図書館に行けば、藤森のねつ造現場写真を見られます。 (2000/12/07(Thu) 13:17:37)[konanba.ias.hiroshima-u.ac.jp]

難波紘二 > 藤森でなく、藤村でした。いっそFJMという略号に変えたい。 (2000/12/07(Thu) 13:36:24)[konanba.ias.hiroshima-u.ac.jp]


[354] Falling Japan Must Reflect !! 投稿者:物部兵庫 投稿日:2000/12/07(Thu) 01:37:51 [tn-ai143.ppp.ttcn.ne.jp]
「世紀末の情けない日本」の状況を象徴する二つの事件がありました。いずれもキーワードは「FJMR」です。
一人目は「旧石器発掘捏造」を暴かれ、世界中に日本の考古学の出鱈目さを赤裸々にさせたFJMR氏。
二人目はどこぞの大統領になったはいいが、選挙の不正買収や不正蓄財が疑われると「お母ちゃんの陰に隠れる悪ガキ」のように、「任期もまっとうせず先代の故国に逃げ帰り、責任を負うべき自国に海外から辞表を送りつけて帰国しない」といった「世界史上前代未聞の醜態」をさらけ出したFJMR氏。
この両者の事件は以下の点で共通しています。
1)「1990年代の日本人にとってのホープ」とまつりあげられていたが、いずれも「ビデオに撮られて地に堕ちた」。
2)その行為が「世界中の笑い者」になるような行為であり、日本の信用を著しく失墜させた。
3)法的に問題がある可能性が非常に高い(前者は「偽計業務妨害・詐欺・公文書偽造」など、後者は「不法滞在」)にもかかわらず、追求されずマスコミも取扱いをあいまいにしている。
4)地に堕ちたあとは納得のいく説明もせずに隠遁生活をしている。
5)関係者が口をつぐみ問題の処理に真剣に取り組まないばかりか、不当性を糊塗するための詭弁が使われている。(前者は「本人が捏造を認めた2ヶ所以外は捏造が証明されなければ捏造でない」、後者は「亡命ではない。日本国籍は有効である」)
「旧石器捏造」発覚から一月が過ぎて、その間関係者がどのような対応をするのかを注視してきましたが、予想通りの状態でうんざりします。「捏造問題」に限らずこの国は全く「けじめ」をつけられない社会になってしまっています。「世界の中の日本のこの惨状」に対して、日本人はあまりにも感性が鈍すぎるのではないかと思うと悲しくなってきます。
先日国会で「世界中の笑い者」になるような茶番劇が上演されましたが、その主役も加藤と森、すなわち「藤+森」で「FJMR」であったのは偶然でしょうか?
「FJMR」は世紀末を迎えた私達に呼びかける“Falling Japan Must
Reflect(堕落した日本よ反省せよ)”という天の声に聞こえます。「FJMR」の意味をしっかり噛み締めて21世紀を迎えたいと思います。
案内人様、あまりにも情けなくて、「理詰めでダメなら心情で」とつい余計なことを書いてしまいましたが、この場にそぐわないとお考えでしたら遠慮なく削除下さい。


[355] 加藤さんへ 投稿者:トラ 投稿日:2000/12/07(Thu) 05:09:56 [cs51100.ppp.infoweb.ne.jp]
加藤さん。333でのレスについては、すこしきつい言い方になったのと、言い足りない部分があったので気になっていました。
 わたしは、10数年前に大学を卒業し、現在は行政内で遺跡の保護を含む、文化財保護を担当するセクションにおります。わたしは、キーリィ氏が指摘する考古学界に多い「学士」です。わたしの大学時代を思い出してみるとまさに「近親相姦」的な教育の申し子だったと思います。ですから加藤さんのいらだちやくやしさがよくわかります。
 わたしははじめのころ、こう思っていました。「仮説の信頼性は、その根拠となるデータの信頼性にかかっている。だから”捏造”が疑われる資料はすべて切り捨てなければならない。だが、個々の遺跡・遺物が「捏造」かどうかは検証してみなければわからないのだから「捏造」とは言えない。つまりデータとしての評価と「捏造」か否かという判断は別だということです。
 しかし、その後のトンビさんの発言や岡安さんの「サンクコスト」発言を見て徐々に考えが変わってきました。「捏造」かどうかの議論ってやっぱり水掛け論に終わっちゃうんじゃないの?それなら最初からすべて切り捨てるか。「捏造」を立証するという方向で検証するしかないんじゃないか。ということです。この掲示板を見ても、捏造「急進派」の難波先生の議論のほうがよほど捏造とその背景の問題の検証に役だっているというのは、思い違いでしょうか。
 旧石器が専門でもなく、この数年ろくに論文も書いていない「学士」のわたしが、こうした場で発言すること自体無理があるなあと自覚しておりますが、あのときは、加藤さんのくやしさがわかる分、深みにはまっていくのが耐えられなかったのです。ご理解ください。 

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早傘 > トラさんに限らず、掲示板の参加者の皆さんへのお願いです。案内人さんによると、今月末に予定されている新掲示板への移行時には、100件の話題しか移転できないそうです。新規にする必然性の無い投稿はできるだけ、関連する話題への返信扱いで御願いします。 (2000/12/07(Thu) 07:09:24)[d238056.ppp.asahi-net.or.jp]

トンビ > 私が加藤さんその他の考古学者にいいたいのは、まず、基本的な論理的思考力を鍛えてからでないと、いくら専門知識を振り回しても今回みたいな空しい結果に終わるだけなのでは?ということです。たびたび繰り返しますが、「藤村氏が来ると出る、来ないと出ない」ということに対しても、現場にいるとそういう人がいるので、気持ちは分かると言ったような発言が考古学サイドからありました。そんな非科学的な心情で学問やってたら、そりゃー、こういうことは何度でも起きますよ。その後も、後代の石器を地層にねじ込んだだけかもしれないという疑惑を論じる文脈で、地層を検証するべきだなんて意見が出て来たり、、、そんな考え方をしているようじゃ、どんなに高度な地層の年代検証の方法を知っていても、まるで無意味です。どうも、外見的に科学的な体裁を整えたいために、高度な技術の知識を振り回されている印象があり、肝心の、もっとも重要な、中身の論理性が著しく、欠けているように思います。森浩一氏(私は尊敬しています)の「考古学 その見方と解釈」(筑摩書房 1991年刊)の宣伝文句は「新しい発掘があいつぐ現在、切実に求められているのは、発掘されたデータを系統づけ、解釈する視点である。上巻では、基礎的な学説の変遷をおさえつつ、最新の発掘成果までをフォローして、時代を捉える基本姿勢を明らかにする。」となっていますが、心してはいかがでしょうか。 (2000/12/07(Thu) 10:54:00)[canal.wslab.ntt.co.jp]

櫻井 > はじめまして、櫻井@埼大と申します。早傘さんの「できるだけ多くの発言を残したい」という意見に同感です。その一方で、新しい発言が躊躇されるようだと、それもまたもったいないことだと思います。 手元に11月5日以降の発言は(ほとんど)セーブしてあり、案内人さんからの依頼があればいつでも提供可能です。お役立ていただけると嬉しいのですが。 (2000/12/07(Thu) 13:20:33)[rimath5.rimath.saitama-u.ac.jp]

難波紘二 > 櫻井様、198以後(11/9)の発言は保存してあるのですが、それ以前がありません。11/5~11/8のものをお送りいただけませんか。konanba@hiroshima-u.ac.jp (2000/12/07(Thu) 13:41:53)[konanba.ias.hiroshima-u.ac.jp]

櫻井 > 了解しました。 (2000/12/07(Thu) 14:27:31)[rimath5.rimath.saitama-u.ac.jp]

案内人 > 櫻井さんへ、11月5日以降のログがあるそうですが、できましたら、お手数でも送付していただければ助かります。貴重な記録として、一括して別立てで掲載したいと思います。 (2000/12/07(Thu) 20:08:04)[c1-215.actv.ne.jp]

案内人 > 新しい掲示板は、まっさらな状態から始まります。したがいまして、ログの移行はありませんので、悪しからず。 (2000/12/07(Thu) 20:09:42)[c1-215.actv.ne.jp]

櫻井 > とりあえず、 [300] までを送付いたします。 ご尊父のご不幸というつらい時期にもかかわらず、掲示板を維持してくださったことで、本当に貴重な記録が残されたと思います。  ありがとうございました。 > 案内人さま (2000/12/07(Thu) 22:28:15)[rimath5.rimath.saitama-u.ac.jp]


[356] 「炉跡」問題、加藤真一氏への再反論 投稿者:花關索/永瀬唯 投稿日:2000/12/07(Thu) 19:11:45 [itbs2332.ppp.infoweb.ne.jp]
加藤真一さんの発言([352]Untitled投稿者:加藤真一投稿日:2000/12/06(Wed)21:34:37)へのレスです。
 「返信」という形でつなげないと、あっという間に保存措置ができなくなるとのことですが、前回のレス、改行なしというのは、自分で見てもあまりにもみにくいので、前回の引用部分を含め、改めてアップします。
 さて、馬場壇Aについての三つの報告書(Bについては大原Bと合冊で1990年刊。ともに発行主体は東北歴史資料館と石器文化談話会)に改めてあたった上での、加藤真一さんの反論についてです。
 まず事実の確認から。
 馬場壇Aにおける炉跡(または焚火跡)である可能性が検討された場所は4箇所。
 うち3箇所は、報告書本体にも採用されていますが、報告書3の第5章で真鍋健一氏が検討している「Y・Z−1区遺構」は、熟読するも、その妥当性の低さからしても、他3箇所とまったく同様と思えるのですが、報告書本体には採用されていない。
 馬場壇については、磁気異常(磁気アノマリー)が関係する部分だけを網羅的にコピーしたつもりだったのですが、報告書2の該当部分が抜けていた。もしも、このための不備があればご指摘いただきたい。
 馬場壇Aの発掘においては、まず、第1次発掘において、B−5区に磁気アノマリーが発見された。
 これはサンプリングした試料を磁力計にかけて測定した結果で、100Oe(エルステッド。CGS単位で、現在主流のSI単位ではないが、各自、事典などで換算いただきたい)の強さの交流磁場による消磁によっても、なお、問題地点の試料の磁場の強さが、80%程度にしか減少しないことから、かなり安定した磁力が残留していると判断された。
 しかし、一方で、200Oeの交流磁場を付加すると、半分(約50%)にまで磁場の強さが減少することから、強い磁力で磁場が付加されたのではないことが示唆されている。
 こうした残留磁場(磁場の化石)は、どのようにして生じるのか?
 まず、ここで原因として検討されている「磁気エクスカーション」とは、どのような現象か?
 地磁気は、永年変動と呼ばれる、方向、その強さをあわせた、ゆっくりとした変動を持続するととともに、数十〜数百万年周期で南北の向きを完全に逆転させる。
 現在の地球の磁極は、磁石のN極が北をさすことからも明らかなように、S極が北極近くに、N極が南極近くに位置しているが、この向きがダイナミックに逆転するわけである。
 しかも、こうした逆転現象は、より短い間隔で短期間におこることが、近年になってわかってきた。
 報告書3での加藤隆司氏らの記述を援用すれば、現在は「ブルンヌ正磁極期」という73万年つづいた大きなサイクルの中にあるが、この73万年間には、きわめて短い逆転期−−磁気エクスカーションが何度か存在した。
 馬場壇Aにおける「炉跡遺跡」の探索は、この磁気エクスカーションが、馬場壇Aであったのではないかという推測に端を発している。 ところが、馬場壇における磁気エクスカーションの可能性は、まずAの22層、Bの29c層について、1986年に指摘されたのである。
 つづいて、1988年には、広岡・寺崎によって、馬場壇Aの19g層において、磁気エクスカーションがあったとの報告がなされているという。
 ただし、ここで注意しなければならないのは、1986年に、馬場壇Aにおける磁気アノマリーが報告され、シンポジウムなどで検討されたのは、馬場壇Aの「20層」上面であって、この地層への堆積がおこなわれたときに磁気エクスカーションがおこったことを示唆するような「別の証拠」は、1988年までは存在しなかったことである。
 また、報告を見る限りでは、以後の古磁気学研究においても、絶対年代の測定の重要なてがかりとなるべき、馬場壇A22層、馬場壇B29c層、馬場壇A19c層における、磁気エクスカーションの実在が、ほかの遺跡で確認されたかどうかについての確認作業の有無は不明である。
 もしも、磁気的なアノマリーが磁気エクスカーションによるものだとすると、きわめて特異な時期に、焚火または炉としての使用がおこなわれ、その場の土に、既存の残留磁気が焼失し、さらに同じ磁気エクステーションの間に、炉としての使用が中止され、磁場ゼロの状態になていた土に、逆転期の地球磁場による逆向きの磁力が付加されたということになる。
 この化石磁場ポイントは、以後、炉として使用されることなく、今日まで土中に封印されていたというわけである。
 しかし、この場合、なんらかのほかの原因による残留磁気である可能性も考えなくてはならない。
 問題の地層の直上において磁気エクスカーションがあったとの知見が、カケラも存在しない時点で発刊された報告書1において、この問題は、その大問題を含め、どのように語られているのだろうか?
 1886年2月2日に東北歴史資料館で開催されたシンポジウム「馬場壇A遺跡をめぐる自然科学的検討」の、報告書1に所載の記録によれば、
 〃年代測定では、今回新たに古磁気測定法が加わり検討材料が増加した。多くの方法が試みられ、その際に測定原理(前提条件)とサンプリングの問題には十分な注意が払われなければならない。<中略>/最後に、熱残留磁気測定法による土壌の受熱分析が興味深い成果をもたらした。堆積熱残留磁気とはオーダーの異なる強度と斉一的な方向を持つ試料が、狭い範囲に認められた。これらは狭い面積からして山火事の結果とは考えられず、また、強度から見て落雷の痕跡とも考えられないという。石器集中地点内に存在すること、さらに付近には火バネ痕を持つ石器も見られること、面積が人間がたき火をしたと考えるのにふさわしいことより、当時の炉跡である可能性がきわめて高い〃。
 ここで後段の論理が、残留磁気以外の証拠により、残留磁気がたき火の跡であると証明されているとつながっていることに留意されたい。
 磁気アノマリーは、そこがたき火であるという別の証拠を補強するものであっても、それ自体では、「当時の炉跡である可能性がきわめて高い」のを証明しているわけではないのである。
 しかも、こうした遺跡の局所的磁気アノマリーの原因として、まず最初に候補となるはずの「雷の化石」については、シンポジウム記録では、「強度から見て落雷の痕跡とも考えられないという」と、奇妙な表現を用いている。これはいったいどなたの発言であろうか? 後述の真鍋健一氏の、同じ報告書1に所載の分析においては、
 〃このように、図68の消磁曲線は、破線の範囲内の試料に比べて安定であることを示している。これらのことから、破線で囲った範囲内の残留磁化は、地層の堆積後にこの部分が熱の影響を受けて磁化(熱残留磁化)を獲得した可能性があるといえる〃
 としているが、本文中には、「炉」である可能性は一言も語っていないし、また、ほかの可能性についてはいっさい言及されていない。
 加藤真一さんは、この箇所を引いて、
 〃B−6のものは福島大の真鍋健一氏が「熱残留磁化を獲得した可能性があるといえる。中略 あまり高い温度で焼成されたとは考えにくい」(報告書1の153頁)とあります〃
 と引用し、〃否定的な表現のものでしょうか〃と記しているが、こうした分析の結果は、「ある」「ない」二つにわかたれるものではないことは自明の理である。
 ここで真鍋氏が言っているのは、
 ノイズを除去する交流磁場の付加によっても残る、安定した磁場が、該当部分に発見された。 その原因の一つとして、局所的な加熱が考えられる。
 以上の2項目のみである。
 ところが、加藤真一氏の引用では省かれた箇所では、加藤隆司氏は、みずからの職分の範囲内で検討した結果として、
 〃しかし、図68の消磁曲線では、200Oeの交流磁場で約50%に消磁されてしまうことや、試料そのものの肉眼的な特徴(色・硬さなど)が他のの周辺部分のものとあまり差がないことなどを考えあわせると、あまり高い温度で焼成されたとは考えにくい〃
 とも語っている。
 つまり、熱による残留磁気だとすると、その強度が低すぎるという矛盾が残り、熱によるものだという前提で、それを説明するならば、高い温度が加わっていないということになるというのだ。 また、残留磁気が付加されたならば、おそらくはかなりの確率で残るはずの痕跡−−「肉眼的な特徴(色・硬さなど)」が、まったく見られなかったことも注目すべきだ。
 すでに述べたように、馬場壇遺跡Aにおける残留磁気アノマリーは、ほかの報告書掲載の分析においても、またこの報告書1においても、たき火がおこなわれたという強い証拠がほかにあった場合に、それを傍証し、その位置を確定する役割をはたしうるが、それそのものによって「確証」とするだけの条件はととのっておらず、また、ほかの成因については、この報告でも、また、報告3の加藤隆司氏らの分析においても、たとえば「雷の化石」の可能性については、いっさい検討されていない。
 すべての分析は、「もしも炉の跡があるとすれば」という前提でなされているのである。
 ところで、20層上面が「磁気エクスカーション」にあたるという、「炉跡磁気化石」説にとては必要不可欠である条件は、真鍋氏の分析ではどのように検討されているのだろうか?
 氏は、
 〃図67には、各点での残留磁化の方向(ただし偏角のみ)と強度を図示してある。この図からわかるように、磁化の方向は全体的にばらついており、しかも現在の磁北から大きくずれた方向を向いたものが卓越している。このことは、火山灰堆積後に上面が多少かき乱された可能性があることと、火山灰堆積時に”地磁気エクスカーション”が起こっていた可能性もあることをもの語っている〃
 と記している。
 そこで、問題の図を見ると、磁気の向きはまさにてんでばらばらであり、たまたま、近接する7つのサンプルで磁気の向きが似通っており、うち1つの磁気が3.0×10-4(マイナス4乗)ガウス以上、2つが1.5〜3.0×10-4ガウスと、比較的強いことから、この場所をアノマリーと判断したことがわかる。 この解釈には、大きな疑問をいだかざるをえない。
 まず、同じ20層の、報告3に加藤隆司氏らによって提示されたD−3区のアノマリーでは、磁気の向きは北向きにほぼ揃っており、まさに局所的に磁気の向きが南向きに逆転している。これは、同じ報告3の真鍋氏によるY・Z−1区における磁気アノマリーではもっとはっきりとしており、磁気の逆転が明白にとらえられている。
 Y・Z−1区が炉跡として主張されておらず、一方、もしもコンターマップ(磁気の強さの等高線図)を検分したところで、たぶん、ほとんど判別されないだろうB−6が「炉跡」とされるのには首をかしげざるをえない。
 その上、この貧弱な結果にもとづき、磁気アノマリーとされたB−6形成期が磁気エクスカーションであったという推測の根拠として真鍋氏が提示している、報告1での発掘場所の磁気の向きがバラバラであるという知見は、D−3やY・Z−1では、まったくあてはまらないのだ。
 ここで、作業仮説として、2つの可能性を提示したい。
 ひとつは、報告1における「炉跡」のあったサイトが、隣接する同じ20層の発掘場所と異なり、周囲の磁気の向きがバラバラであることからして、「火山灰堆積後に上面が多少かき乱された」、あるいは、多少どころでなく撹乱された可能性だ。
 もうひとつは、もしかするとこのB−6も、そして、他の2つ(3つ)の磁気アノマリーも、報告1のシンポジウムでは、「強度から見て落雷の痕跡とも考えられないという」と、推定の根拠を提示した主体も明白ではないままに否定された「雷の化石」であるという可能性だ。
 大原B報告書において、小林剛/加藤隆司らが分析しているように、雷の化石には明白な特徴があり、馬場壇Aの4つの磁気アノマリーと、きちんと調べれば峻別しうるとしても、報告1や報告2では、エキスパートによるそうした可能性の検討はいっいなされていない。
 また、「炉の跡」だとするなら、
 たまたま、磁気エクスカーションの時期に馬場壇A20層の「生活面」が残され、そこでたき火がされ、残留時期が焼失したのちに、炉としての使用が中止され、さらに、逆転地球磁場が土壌に付加されるほどの長きにわたって、炉の使用後も逆転期がつづき、そして、そののちにも炉として使われることがなかった。
 との幸運が重ならなければならない。しかも、報告が暗示するところでは狭い地域で3箇所にわたって、である。
 ところが、残留時期の焼失と、新たな磁気の付加がいちどきにおこる、しかも、発生の可能性が常に存在する「雷撃」によるならば、こうした偶然というか僥倖をもちだす必要はないのだ。
 ところで、「雷撃」である蓋然性が、「炉跡」よりも高いとする推測の根拠となりうる事実が、もうひとつ、報告3には記されている。
 〃焚火実験による地面の温度の上昇は意外に低く、地表下5cmでは100℃程度で(森永他、1987)、しかもその範囲内はかなり狭くなると予想される。したがって、生活面より数cm下がった面で20cm間隔のサンプリングを行っても、磁化異常を捉えられないことが起こりうる〃。
 加熱による残留磁化の消失は、少なくとも100℃程度ではおこりえないだろう。
 また、ちょっと手許のコピーでは確認できなかったが、いくら、藤村石器の発見される「生活面」が同じ層位に平面的にはりついているとはいえ、数cmの範囲におさまるとは考えられないし、発掘による特定の層位の確定も、手作業でおこなっている以上、かなりの誤差を含むはずである。
 地層の堆積時の自然な撹乱がなかったとしてさえも、この狭い領域で、厚さ何cmかの、おそらくは2〜3cm以下の厚さの磁気異常層(しかも横方向の広がりもきわめて狭いはずだ)を、しかも3つも、こうしたサンプリングにより発見することは可能であろうか?
 報告書3は、よってもっと精緻に調べれば、同じ箇所でもっと多くの炉跡がと続くが、これは逆に、発掘のべ面積あたりの中期・前期旧石器の発見率が高すぎるという藤村石器の難点と似て、炉跡の磁気的化石ではないかという仮説の問題的をさらにきわだたせることにしかならない。 一方、雷撃によるアノマリーは、その性格上、撹乱がなければ、発見されたものよりもずっと強くなるはずという難点はあるものの、強力な電流によるため、加熱によるものよりもずっと「厚い痕跡」、「深い厚みを持った痕跡」を残しうる。
 個人的には、報告1の「炉跡」は、磁気の向きがバラバラになったのと同じ原因であろう物理的(あるいは化学的)磁気的撹乱による、単なる偶然の結果であり、残る2つも、雷撃を含む別の原因によるものという印象を持つ。もちろん、これは仮の説にすぎないが、「炉跡」であるとの確証が得られたと主張する向きには、こうした可能性に対する反証が、必然的かつ義務として要求されることは特記しておきたい。
 そう、要求されるのは「炉跡であった可能性」ではなく、「ほかに考えられる可能性ではなく、まさに炉跡以外にないとする根拠」なのである。

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早傘 > 永瀬さん。論旨にはおおむね同感ですが2点ほど。地磁気エクスカーションは数百・数千年単位の現象、熱残留磁気は数時間の焚火で生じる刻印ですので、上の文章の「 たまたま、磁気エクスカーションの時期に馬場壇A20層の「生活面」が残され、そこでたき火がされ、残留時期が焼失したのちに、炉としての使用が中止され、さらに、逆転地球磁場が土壌に付加されるほどの長きにわたって、炉の使用後も逆転期がつづき、そして、そののちにも炉として使われることがなかった。」というのはどうかなと思います。僕が不思議なのは、あれが炉跡だとした場合、それが残されたと考えられる直近の地磁気エクスカーションは馬場壇Aでは19f層の時期のはずなのに、なぜ、それが「20層上面」の石器集中と関連づけられて語られるのかということです。 (2000/12/08(Fri) 07:25:52)[d238023.ppp.asahi-net.or.jp]

早傘 > 「19f層」を「19g層」の訂正 (2000/12/08(Fri) 07:31:34)[d238023.ppp.asahi-net.or.jp]

早傘 > またミスった。“「19g層」に訂正”です。 (2000/12/08(Fri) 07:34:11)[d238023.ppp.asahi-net.or.jp]

トンビ > 永瀬様。なんか物凄く読みにくいんですが、最後の1行が結論と理解してよろしいのでしょうか? (2000/12/08(Fri) 11:40:03)[canal.wslab.ntt.co.jp]

トンビ > いずれにしても、加藤さんがしようとしている、「捏造がなかったこと」の証明は所詮、不可能なんだから、上記の議論(加藤さんへの反論)は実益が乏しいと思います。もちろん、捏造がなかったということが、なんか別の理由でハッキリすれば、永瀬さんや早傘さんの議論は有意義だと思いますよ。でも、捏造があったかもしれないという前提で、お二方のされようとしている議論は無意味だと思います。加藤さんの証明は、所詮不可能なんですから。(一例として、極端な場合を言いますが、炉跡だとするデータ自体が捏造でないという証明が必要です)。結局、不本意ながら、捏造であったことの証拠があるかどうか見ていくしかないのですが、雷の問題とか、19層か20層かというのは、捏造があったことの証拠にはならないですね。出土したものに対して、別の解釈がありえたことの指摘に過ぎない。私は、部外者として、一番有力な手がかりは、水平に出土していることの異常性だと思うのですが、このあたり、専門家の皆様はどのようにお考えになられるのでしょうか? (2000/12/08(Fri) 11:59:31)[canal.wslab.ntt.co.jp]

花關索/永瀬唯 > トンビさん、なにか勘違いしてやしませんか。少なくとも、ここでの議論でぼくが問題にしているのは、「捏造があったか」ではなく、「発掘調査の方法論と、その解析結果の信憑性」なのですが。それにそもそも、「「捏造がなかったこと」の証明は不可能なんだから」とされるなら、ここで、トンビさんが加藤真一さんとコミュニケーションをとること自体、意味がないことになるわけです。なるほど、一連の藤村遺跡で問題とすべきが、「捏造かそうでないか」の二者択一しかありえないというトンビさんの、難波さんとものの見事に一致する論理にしたがえば、「捏造があったことの証拠」のみを求めるというスタンスをとらざるを得ず、適切な科学的分析ではなく、こじつけに等しい解釈によって解析結果をねじまげているものと推測される事象も、関係者による意図的な捏造という前提のもとにのみ解析するしかなくなるわけですね。 (2000/12/09(Sat) 01:13:57)[itbs2210.ppp.infoweb.ne.jp]

花關索/永瀬唯 > 早傘さん、記憶では磁気エクスカーションの持続期間について、確固たる絶対的数値は得られていないと思ったのですが、「数百・数千年単位の現象」というのは、なにか確定的な傍証が得られているのでしょうか? ご教示ねがえれば幸いです。とぼしい知識からすると、物理的観点からは、この種のエクスカーションは、ずっと短い期間しか持続しないものだったように思えるのですが、自分でもちょっと解説などさがしてみます。確か、「日経サイエンス」にも昔、載ってましたね。もうひとつ、該当の報告では、あまりにも頻繁に、磁気エクスカーションがおきているように思えます。上にも少しふれたように、たった一つの(一群の)遺跡で策定された磁気エクスカーションの実在を確定させるためには、他の遺跡や地層での、これに相当する磁気異常の確認が必要です。そのような作業は馬場壇以後なされているのでしょうか?もし、のちの調査がそうした馬場壇磁気エクスカーションの存在を傍証していないなら、馬場壇のデータの信憑性はきわめて低いものと解釈せざるをえません。さらに一点。藤村石器学派のひとたちの論理は、「20層の「生活面」で発見された石器に焼成された跡があった」「ならばと調べると、炉跡とも解釈できる磁気異常地点がみつかった(最初のものはそうでさえないと思います)」「その焼成された石器の配置を調べると炉跡候補地点の周囲に集中しているようにも見える」とつながると思うのですが、どうも、報告書を見ても、その「焼成」をどのようにして見分けたのかがよくわかりません。別にアップする予定ですが、なにしろ、あの世界最古の土製動物像についてさえも、座散乱木報告1では「よく焼成されている」とあったのが、報告2では、十分な焼成はされていなかったと変わってしまっているくらいで。石が焼けたかどうかよりもずっとわかりやすいはずの土が焼かれたかどうかも、発掘から報告書発刊までの1年半もの間にきちんと調べられない人たちの目というのは、ちょっとすなおに信じるわけにはゆかないと思うのです。 (2000/12/09(Sat) 01:41:01)[itbs2215.ppp.infoweb.ne.jp]

花關索/永瀬唯 >  数cm、それも、焚火実験の結果からすれば、2〜3cm以内の厚さしかない焼成土壌層が、こうした調査で発見されうることそのものがおかしいという点ですが、ようやく、直感的に納得できる対比埋蔵事象に思い当たりました。焚火をすれば、その下に、木などを焼いた炭化層が形成されます。この炭化層があれば、確実にそこで焚火がおこなわれたことが証明され、そこと磁気異常域が重なれば、磁気アノマリーは、焚火遺跡説への強力な傍証となります。ところで、この遺跡では、炭化層はみつかっていません。それどころか、ほかの各種の調査によっても、焚火跡であるという証拠はまったく確定できませんでした。プラント・オパールの調査によっても、「炉跡」ならびにその周辺に多いのではという観点からの調査の結果は、逆に少ないという結果、つまり、かえって否定的な結論となっています。ところで、炭化層は、使用の期間がそんなに長くなければ、焚火跡の直下、さして厚くない層として堆積することになります。以前に古墳時代初期の関東の遺跡発掘現場を見学させていただいた時に実見した、集落の火事によって積もった炭化層の厚さは1cmからせいぜいがとこ3cmにもならないくらいだったと記憶しています。一方の炉跡に形成される磁気異常層は、もしも、磁気エクスカーションと重なるという僥倖により形成されたとしても、やはり、同じくらいの厚みしかないことになるでしょう。となれば、炭化層の不在は即、磁気エクスカーション層の、炭化層の存在を消したのと同じミニマムな撹乱による、炉跡磁気アノマリーの消失という事態をもたらすのではないでしょうか? 炭化層はみあたらないけど、磁気異常は観測されたというのは、あまりにも都合がよすぎるように思えます。 (2000/12/09(Sat) 15:35:06)[itbs2228.ppp.infoweb.ne.jp]

花關索/永瀬唯 > 失礼、今ごろになって気が付きました。加藤真二さまでしたね、おわびとともにつつしんで訂正させていただきます。 (2000/12/09(Sat) 15:36:29)[itbs2228.ppp.infoweb.ne.jp]

花關索/永瀬唯 >  もちろん、これは、地磁気残留磁気を地層を貫く層位として観測し、それらの試料を綜合して、地磁気エクスカーションの時期を、相対的絶対的に確定してゆく作業が無意味だというのではありません。そうした作業によって確定された地磁気エクスカーションの時期を、たとえば、サンプリングが宮城県に集中していた場合は日本全国の資料と、そして、地磁気エクスカーションが全地球的な現象である以上、全世界の資料と対応させた上で、それが20層上面と一致してはじめて、「磁気エクスカーション」の化石説として成立することになります。そのような作業は馬場壇AならびにBの発掘以後、きちんとした形でなされているのでしょうか? 19層gにあったとされる「地磁気エクスカーション」の実在は措くとしても、早傘さんがおっしゃっているように、もとより、この異常時期期が、つごうよくも、20層上面の形成期までつづいたとする証拠はいっさいないのですが。 (2000/12/09(Sat) 15:37:28)[itbs2228.ppp.infoweb.ne.jp]

早傘 > 今手元に有る参考文献は 広岡公夫,「日本列島に原人は存在したか(二) 古地磁気からさぐる」,『考古学と化学を結ぶ』,2000.7,東大出版会です。エクスカーションの時間幅に関する記載としては、(10万年間程度の)「イベントよりもう一桁持続時間の短い」とか「長くても一万年前後」との記述が有ることから大体において数千年短くても数百年であろうと読みとったわけです(あまり短いと発見されにくい)。で、広岡氏は、宮城県内の80万年前以降の地層に10数回のエクスカーションの痕跡を見出しており、それはおおむね日本各地および世界各地で発見されているエクスカーションに対応可能なようです。馬場壇Aの問題のエクスカーションは国内ではBiwaI 国際的にはBlake イベントに対比されています。そこまでは、広岡氏の言に従うとして、実はこの文献、困った部分もありまして、結論が「日本最古の上高森遺跡の石器は約六十万年前にまでさかのぼることになり」というのは、まあ、可哀想にと思うだけなのですが、問題なのは、本文中では、問題のエクスカーションの層準を19e層および19g層と記述しているのに、最後のまとめの図ではなぜか20層となっている。20層は「炉跡」以外は正磁極のはずだろうに。 (2000/12/09(Sat) 16:08:54)[d238057.ppp.asahi-net.or.jp]

早傘 > 肉眼的に可能な火の痕跡について。報告書は持っていないので大雑把な議論ですが、岡村さんの『日本旧石器時代史』によると“前期旧石器遺跡”から出土する石器はどの遺跡でも1割程度は火を受けた痕跡を持った者を含んでいるそうです。だから、石器集中範囲を分析し「炉跡」を発見した場合、そこに火を受けた痕跡のある石器が出土していることはさして不思議ではなさそうです。次に、「炉跡」から炭化物層が肉眼的に観察されることは滅多にありません。通常は、使用面よりしたの土が熱により「焼土化」しています。この焼土化の厚さは(使用時間などに起因すると予想される)違いがありますが、肉眼的にもはっきり赤く見える層が数?、熱伝導のみにより硬化した層が10?程度というものがよくあります。この場合、使用面から遠く、硬化が弱い下の部分ほど温度は低く熱残留磁気は弱くなるでしょう。また、炉跡のはずなのに肉眼的には今ひとつ使用の痕跡が明瞭でない場合もあることも申し添えます。ですから、20層の熱残留磁気分析によって20層より上位の19g層で火を焚いた痕跡を発見したとすれば一応つじつまはあうわけです。 (2000/12/09(Sat) 16:26:08)[d238057.ppp.asahi-net.or.jp]

花關索/永瀬唯 >  早傘さん、どうもありがとうございました。磁気エクスカーションについては、また、資料にあたってみます。とりわけ、馬場壇Aのコピーしていなかった磁気的地層分析の項目と、エクスカーションそのものの関連資料をみてみないとナニなのですが、先走っての疑問がひとつ。/磁気エクスカーションの痕跡は、地層が形成されるときに、熱を受けて残留時期がちゃらになったために、逆転期の磁極の向きが保存されるか、水がからんだゆっくりとした堆積時に、磁性体を含む堆積微粒子が、逆転磁気の向きに揃って堆積される、の2つの条件が必要とされるように思えます。でなければ、交流磁場であとから付加された時の時期を消去したあとに残るのは、コアの部分に印加されている通常の北がNの磁気だと思うのです。となると、広岡氏の「宮城県内の80万年前以降の地層に10数回のエクスカーションの痕跡を見出しており」とする分析は、どのような地点のどのような地層から解析されたものなのか、そして、その磁気エクスカーションの時期が、どのくらいの妥当性で、20層A(のすぐ上)に相当するのかという疑問が生じます。なにはともあれ、まずは、,「日本列島に原人は存在したか(二) 古地磁気からさぐる」,『考古学と化学を結ぶ』(2000.7,東大出版会)にあたってみます。『古文化財の自然科学的研究』(1984、同朋社出版)には、エクスカーションについての記載はあったかなあ? いずれにせよ金曜に行く山の上の校舎にしか置いてないから、この件についてのレスはしばらくしてからということで、どうも。 (2000/12/09(Sat) 20:26:41)[itbs2240.ppp.infoweb.ne.jp]

トンビ > 花關索/永瀬唯さんも困った方ですね。。。。そもそも、この議論は加藤さんが、馬場壇Aおよび座散乱木は捏造ではない、と、投稿したところから始まったのです。議論のポイントを自分で勝手に変えておいて、勘違い呼ばわりされるのでは、たまったもんじゃありませんね。しかも、今この時点では、捏造かどうかを判断するのが先決だという基本がまったく分かっていらっしゃらないし。 (2000/12/11(Mon) 10:21:20)[canal.wslab.ntt.co.jp]

トンビ > 私の議論は、加藤さんの「捏造はなかった」という主張に対して、「捏造がなかったことの根拠が示せていない」と指摘したもので、意味はあるのです。どうしてこんなことが分からないで学問ができるのか、不思議でなりません。 (2000/12/11(Mon) 10:47:03)[canal.wslab.ntt.co.jp]

トンビ > どうも、この永瀬さんという方は考古学者じゃなくて、技術系ライターなのかな。そうだとしたら、「どうしてこんなことが分からないで学問ができるのか、不思議でなりません。」という発言は無意味でしたね。しかし、これだけ派手にポイントをはずした議論を、これだけ分かりにくい文章でしか書けないライターって。。。 (2000/12/11(Mon) 21:28:32)[canal.wslab.ntt.co.jp]


[357] 提案 投稿者:難波紘二 投稿日:2000/12/07(Thu) 22:18:33 [konanba.ias.hiroshima-u.ac.jp]
私自身に関しては「捏造問題」はもう終わりました。「大学生」さんの反応や、櫻井さんのメールを読んでそう思いました。しかし事件は調査委員会にまかせるとして、ここではもっと建設的な議論をしたいですね。科学における欺瞞をどう防ぐかという。実は、この間「死と生の掟ー生命倫理の基本問題を考える」という本を執筆していて、最後の章(第12章)を書き上げ、明日出版社に渡します。ここでは、研究者倫理の問題を扱いました。
その要旨をアップしますので、皆さんにご検討いただければと思います。今度の事件は考古学にとって大打撃だと思いますが、転んでもただでは起きない精神が必要だと思いますよ。以下少し長いのですが、勘弁して下さい。(なおORI=科学評論家さんのコメントは、考えるのをまとめるのに大変参考になりました。本で謝辞を述べたいので、メール下さい)

情報社会と学者の倫理
産業革命がおこる前は、人もモノもほとんど移動しなかったから、偽の情報で普通の人が騙されて、大損をしたり、大恥をかいたりということは、まずなかった。つまりこの社会では、発生する情報が少なく、従って偽情報の発生数もすくなかった。産業革命以後になると、情報の産生数は増加し、それにともなって偽情報の発生数も増加した。新しい情報は、主に科学者、医学者が生み出したものである。
ことに新情報が、実験により生み出された場合は、それを科学者の社会が受け入れるための条件を、経験知により確定していった。まず、その「新情報」は、論文として詳しく、科学の雑誌に発表されなければいけない。同僚科学者たちは、新聞発表によってではなく、雑誌に掲載された論文を詳しく検討し、あるいは発表者に手紙を書いて、論文の「別刷」を送ってもらい、それを検討して、内容が真実かどうかを判断する。また、科学者たちは「追試」により、その真偽を確認するという態度をとった。つまり第三者がその実験をおこなってみて、その通りの結果がえられるかどうか、言い換えると「再現性」があるかどうかをお互いにチェックしあった。
これが大体、1950年頃までの、世界の科学者の常識であった。
ところが、第二次世界大戦が終わり、平和になり、科学者の本格的活動が全分野にわたり展開されはじめると、世界で生産される論文の数は、急激に増えはじめた。それはほとんど指数曲線(対数カーブ)を描いて、増加していき、30年後の1980年頃には、40倍にも増えた。研究を続けながら、これらの論文に眼をとおすのは数に限度がある。私は、二年の留学中に、3000本の論文を読み、そのすべてをカード化し、要旨を記入したが、それでも自分の専門分野の主な論文(過去のものを含め)に眼を通せたにすぎない。20年後の今日では、もっと論文発表数は増えており、もはやパソコンを使っても、そのすべてを読むのは不可能である。
このような事態が起こりはじめたとき、科学者たちは、「ピア・レビュー」あるいは「レフェリー」という方法を導入した。雑誌に投稿された原稿を、その分野の専門家からなる「査読委員会」があらかじめ眼をとおし、実験の手順や結果の解釈に間違いがないかどうか、過去の論文が正確に引用されているかどうか、得られたデータからは言えないような「新説」や「奇説」を唱えていないかどうか、などを審査するのである。このシステムのおかげで、英国の科学週刊誌「ネイチャー」に掲載される論文などは、極度に圧縮された表現で、科学的新知見を正確に読者に伝えることができている。例えば、ノーベル賞をもらったワトソンとクリックの有名な「DNA二重らせんモデル」の論文は、ネイチャーに掲載されたが、A4版の雑誌のわずか二ページを占めるに過ぎない、短いものである。
今日、自然科学や医学の論文が掲載される雑誌で、国際的に名の通ったもので、「ピア・レビュー」制度をもたないものはない。日本国内の雑誌でも、自然科学や医学関係の学会が発行している雑誌はすべて、この制度を採用しており、それぞれ「採択率」を公表している。採択率100%の雑誌は、定員割れをおこしている大学の入学試験のようなもので、どのような質の論文でも、実質的にフリーパスということであり、制度は有名無実である。しかし出版社や新聞社が発行している「商業雑誌」は、読者が買ってくれなくてはいけないので、「有名な」学者に原稿を依頼する、という編集方針をとっており、レフェリー制はない。編集者の見識だけが頼りであり、このためずいぶんいい加減な論文を掲載している雑誌もある。その代表が、岩波の「科学」である。
さて、1980年代に、世界の科学者や医学者の数は、著しく増加し、その論文生産数もおびただしくなった。すると科学者の間でも、先陣争いや研究費の獲得競争や、よいポジションを求めての競争が激しくなってくる。競争に勝つためには、研究費(欧米では、研究費で人を雇うことができる)だけではなく、素早い情報(新しい機械、試薬、相手の研究の進み具合などについて)が必要である。科学が素晴らしい成果をあげるにつれて、科学者がえる収入や栄誉は増大してきた。競争に勝ち抜き、栄冠を手にするためには、一流の雑誌に、沢山の論文を発表しなければいけない、それが競争のルールとなってきた。
こうなると、一部の科学者たちが自らの良心を裏切り、社会の信頼を踏みにじり、実験データを操作したり、あるいはデータを捏造したり、他人のデータを剽窃したり、さらには架空の実験をでっちあげたり、ということをはじめるのは、今から振り返ると、時間の問題であった。科学者の研究上の不正は、これまでにもあった。科学史の専門書を読むと、ニュートンや野口英世の論文にも、不正が認められるという。どの世界にも、功名心にとらわれて、あるいは欲に目がくらんで、不正を行うものは、一定の割合で存在する。
しかし仮にその比率が一定でも、生産される情報の総量が少ない社会では、社会に内在する安全弁が作動し、間違った情報が与える被害は、少なくてすむ。しかし情報量が飛躍的に増大した社会では、同率の発生でも、間違った情報の絶対数は著しく増加し、それにともなう被害も増大するのは、当然のことである。けれども80年代に生じた科学社会の変化は、いわば構造的に科学者に対して、捏造してでも論文生産数を増やす、という圧力をかけるものだったのである。当時、米国の科学者社会で、広くささやかれたモットーがある。それは「パブリッシュ・オア・ペリッシュ」(出すか、出されるか)という言葉で、論文を出版するか、それとも研究室から追い出されるか、という厳しい研究環境に科学者がおかれていたことを示している。
実際に1980年代に、米国では、科学者にたいする信頼を根底からゆるがすような、研究上の不正事件が多発した。その一例をあげる。
ジョン・ロング事件(1980年発覚):ハーバード大学医学部を卒業したロングは、1970年にマサチューセッツ総合病院でレジデントを勤め、その間に有名な癌研究者の下で、「ホジキン病」という病気の患者から、これまでほとんど成功した学者がいない、この腫瘍細胞の培養株を樹立するという成果をあげた。
74年から一年間、陸軍病理学研究所で兵役を勤めたのち、ハーバードに戻り、凍結保存してあった培養株を用いて、この病気に関する新しい発見をつぎつぎとおこなった。まもなく彼は助教授に昇進した。
発覚は、不審に思った研究助手が生データが載っている研究ノート(「ログブック」という)を調べたところ、捏造の証拠が見つかった。調査委員会がつくられ、調べたところ、「人間の細胞」だとされていた培養株は、実際にはサルの細胞だった。ロングは故意にすり替えたのではなく、試験管がサルの細胞により汚染された結果だと主張した。(培養細胞では、これはよく起こる現象である)しかしその他の点については、データの捏造を認めた。NIH(国立保健衛生研究所)はロングの研究に、80万ドル以上の研究費を支給しており、議会でも大きな問題となった。
この事件では、ハーバード大学医学部卒業というアメリカの超エリートが10年近く不正を行ってきていて、それがまったく周囲に感づかれなかった点が、社会に大きな衝撃を与え、「エリートに甘いエリートたち」という批判がおこった。また問題の細胞の染色体写真は、二つの超有名科学誌の表紙に使われており、動物細胞の専門家が見れば「人間の細胞でないことは、一目でわかる」はずだった、ということも指摘された。
事件後、ロングは研究者をやめ、中西部の町で病理開業医(米国では病理医が開業できる)になった。彼のその後を、私も注目していたが、数年前に、ある病理標本を誤診し、患者の追求をおそれ、「誤診」がなかったように見せかけるために、標本をすり替えたことが判明し、医師免許証を剥奪された。彼は最初、研究者資格を失い、ついで卒業後30年近く経って、医師資格を失ったわけである。このことから見ると、「ハーバード卒のエリート」が不正を行ったのではなく、「不正を行う性格をもった人物」がハーバードの医学部に入れた、という点が問題になるだろうと思われる。
そのほかにも多くの「欺瞞(fraud)」が、科学のすべての分野で生じているが、ここでは私が比較的よく知っている医学の分野で80年頃に生じた事件を取り上げた。これらは米国の事件であるが、他の国でも同じような事件が多発しており、日本も例外ではない。ただ日本の場合、表沙汰になるケースが少ないだけであろう。
これらの欺瞞論文は、厳重な審査制度をもつ、超一流の専門雑誌に発表されており、このことから審査制度は「良心なき科学者」の前には無力であると、判断された。実際ある雑誌で、掲載を拒否された質の悪い論文でも、ランクを落とせば、結局どこかの雑誌に掲載されるのである。「ダルシー事件」という、やはり偽造論文をつぎつぎと医学雑誌に発表した事件があるが、これを調べていて、偽造論文のいくつかは、日本の英語医学誌に発表されているのを見つけた。これらはいずれも東日本の大学紀要で、審査が甘いことで知られている。
さて、このような衝撃的な事態に、議会の政治家たちが動いた。その中心は、民主党のアルバート・ゴア(後の副大統領)とエドワード・ケネディである。この結果、米国では法律が制定され、政府が研究費を出す条件として、科学者の不正に対して、疑いを抱いた同僚やその施設に通報の義務があること、調査は研究費を出す機関とは別個の機関がおこない、通報者の保護と徹底した「捜査」を行い、被疑者同席の上で査問会を開き、本人が認めた場合には、研究費の支給停止などの懲罰をおこなうことが、1983年に定められた。その後いくつかの改正がおこなわれ、現在ではORI(Office of Research Integrity: 研究の誠実確保局とでも訳そうか)という部局が設立され、科学の世界におけるFBIのような存在になっている。調査結果と処分は実名入りで、インターネット上に公開されている。したがってここに摘発されたら、研究者や学者としての生命は、実質的に終わりである。
このため米国では、科学者による意図的な捏造事件は、まったく姿を消した。しかし医師免許保持者による医療上の悪徳は、私的行為であり、これに対しては妙案がなく、問題として残っている。
高度情報化社会における偽の科学情報発信を防ぐために米国がいろいろな対策を講じているが、研究者倫理の問題については、ORIの創設で、一応の解決を見たといえよう。
しかし1995年にインターネットが発明されて以来。情報発信の空間は拡大し、その種類と量も飛躍的に増大し、今も増大しつつある。そこには沢山の「掲示板」、「談話室」、「フォーラム」という名前の、意見交換や交流の場があり、さらに一定の問題に対して、ネット市民が示すさまざまな反応がある。例えば、1999年後半に生じた「東芝HP事件」を想い出してもらいたい。東芝製のビデオレコーダーの不具合に対する応対に怒った一人の市民が、それを自分のHPに公開し(応対の録音まであった)、これに対して短期間に100万件を超えるアクセスがあった。このようにネット空間が、新しいひとつの世界を形成してくると、今度はそれを研究対象にする研究者がでてくるのは、当然である。
また、ネット空間では、かなりの人が、「ハンドルネーム」という仮名を用いて発言したり、交信したりしている。いわば匿名の社会である。人はそこでは「別の人格」になりすますことができ、それがまた仮想空間の魅力となっているところもある。
ネット空間を利用して、雑誌が発行され、学会の案内がおこなわれ、学会の演題申し込みが受け付けられ、発表もそこで行われるようになってきている。また上記の「フォーラム」も国際的なものが沢山できつつあり、英語で会話が行われている。
この仮想空間で、私がいま直面している問題は、次のようなものだ。
私は日本全国の有志からなる病理医のネットワークに加盟し、「フォーラム」で意見交換を行っているが、その多くは若い人であり、当然無名であるから、私は個人的に知らない。(もちろんこのネットにはハンドルネームは通用しない。全員実名である)しかし、彼らが述べる職場での苦境や不満はどの程度客観的な真実なのであろうか?私は、それをどうやって判断したらよいのであろうか?証拠もなしに取り上げて、アクションを起こせば、私は落とし穴にはまるのではないだろうか?
また中国やバングラデッシュから届いた、見も知らぬ病理医(それが本当かどうかさえ、確かめる手段はないのだ)からの、政治的迫害の訴えや留学の希望を、どのように受けとめたらよいのだろうか?
またハンドルネームの使用が許されている「広場」での意見には、どの程度の信頼性があるのであろうか?ここではしばしば同一人物が、二つ以上の名前をもっている場合がある。それがよもやま話や、無害な話ならともかく、科学の信頼性にかんして議論が行われたり、科学的情報の発信が行われたりする場合に、それが虚偽だったり、錯誤だったりした場合の責任は誰が負うのか?
これらの匿名発言のなかには、面白い発想や貴重な情報が含まれていることもある。また「石器捏造事件」に対しての一般市民の批判に対する、考古学者の反応の時間的変化など、社会心理学や行動科学の面で、非常に貴重なデータもある。それらをすべて記録し、適切な解析を行い、論文として発表することは、許されるのだろうか?実名が分かっている人については、同意が必要なことは当然として、匿名の人物の了承についてはどうしたらよいのだろうか?
これらは広い意味で「ネット倫理」あるいは「ネット市民(ネチズン)倫理」に属するものだが、科学のメディアが徐々に、印刷媒体から、ネット媒体に移りつつある現状では、「研究者倫理」としても考慮しなくていはいけない、重要な問題になりつつある。
この点についても、米国は一歩先を進んでいて、1999年の6月に、米国科学振興協会とNIHが中心になって、ワシントンでワークショップを開いている。そこで扱われたのが、私が上に述べたような問題である。つまりこのワークショップでは、「インターネット上の人間を対象とした研究にともなう法的、倫理的問題」が議論されている。この会合には、倫理学、心理学、教育、法律、科学行政、情報科学などの専門家が集合し、問題を多角的に検討している。
具体的な結論は得られていないが、「責任あるネット研究」を推進する点では、全員の合意が得られ、今度の行動目標が定められている。
科学の歴史をみれば、科学者の数が増え、論文の総数が増えると、よこしまな人間の数も増えるのはわかりきっている。そして情報社会とは、多種多様な科学者が著しく増加し、情報の生産と消費が行われる社会なのだ。新しい社会で、不正や欺瞞がどのような形で出現するかは、起こってみないとわからない。ネット社会が、研究発表の場になり、さらにネット上の人々が研究対象になれば、そこにまた新たな倫理上の問題が発生するのは、予期されることで、それにそなえて健全なネット社会の発展を促進することが、重要なのである。
日本では、五年後に世界一のネット社会をつくると豪語しているが、光ファイバーを張りめぐらし、各家庭にコンピュータを導入し、高速情報通信インフラをつくりあげることだけでは、ネット社会は形成されないのだ。ましてシステムが悪用されたり、善意で誤用されたりすることへの対応策を備えていないと、「東北原人事件」のような大醜態を引き起こし、市民を不安のどん底に突き落とし、世界の物笑いになることだって起こりえるのだ。

引用文献:
1)W.ブロード、N.ウェード(牧野賢治訳):背信の科学者たち. 化学同人、1988
2)ORIホームページ:http://ori.dhhs.gov/html
3)ネット研究についての報告書:http://www.aaas.org/spp/dspp/sfrl/projects/Intres/main.html

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bambi > > 2)ORIホームページ:http://ori.dhhs.gov/    3ネット研究についての報告書: ついては、リンクできませんでした。 (2000/12/08(Fri) 08:14:54)[cse9-22.nishinomiya.mbn.or.jp]

bambi > 難波先生におたずねしたいのですが、先生の本は、いつ頃、どこの出版社からの発行予定なのでしょうか?又、上に書き込まれた文章が、原稿の論旨であるのなら、第20段落の「しかし1995年にインターネットが発明されて以来。…」の、本原稿を、この下の「レス」ではなく、別トッピックを立てて、掲載していただけないでしょうか。よろしくお願いいたします。 (2000/12/08(Fri) 08:42:05)[cse9-34.nishinomiya.mbn.or.jp]

難波紘二 > ORIはhtmlは不要でした。「ネット研究」はhttp://www.aaas.org/spp/dspp/sfrl/projects/intres/main.htmlで接続できるはずです。 (2000/12/08(Fri) 09:54:21)[konanba.ias.hiroshima-u.ac.jp]

難波紘二 > 本のことは、この「考古学掲示板」からはずれるので、メールを下さい。 (2000/12/08(Fri) 09:55:46)[konanba.ias.hiroshima-u.ac.jp]

トラ > 「ルイセンコ事件」との相似といい今回の書き込みといいありがとうございます。こころに重く残るものがあります。 (2000/12/08(Fri) 12:48:12)[]

元企業技術者y > 【一連のネット上の議論は考古学の今後に役立つのか】 (2000/12/08(Fri) 21:38:08)[tn2-an119.ppp.ttcn.ne.jp]

櫻井 > 本論から外れますが... 東芝の例の事件は 7.22 の副社長による謝罪でネット世論的には(ほぼ)決着したと理解しています.私としては1999年前半の事件という印象の方が強いです.http://members.nbci.com/_XMCM/yoshida3/index.html  この事件に関しては, http://www3.justnet.ne.jp/~ilc/toshibavtr/ で法律論からの論考が,また, http://www.cio-cyber.com/pj/ec2/BACK/n025.html では企業の危機管理の問題としての検討がなされています(ご存知でしたら申し訳ないです). (2000/12/09(Sat) 13:30:44)[rimath5.rimath.saitama-u.ac.jp]

難波紘二 > 櫻井さま、ご指摘ありがとうございました。勘違いしていました。 (2000/12/09(Sat) 15:37:41)[konanba.ias.hiroshima-u.ac.jp]

bambi > 難波先生、3ネット研究、2度目のURLも、いつアクセスしようとしても出来ません。似たようなURL で、http://www.aaas.org/spp/dspp/sfrl/projects/integrity.htm  というのがありますが、ぱっと見なんですが、違うようです。サイト名を教えていただけますでしょうか? (2000/12/10(Sun) 08:38:15)[cse7-8.nishinomiya.mbn.or.jp]

bambi > 難波先生が、「ここでは、研究者倫理の問題を扱いました。その要旨をアップしますので、皆さんにご検討いただければと思います。」と、書かれていましたので、要旨だけでは、おっしゃりたいことが正確に把握できないといけないと思い、該当箇所の掲載をお願い致しました。この事は、考古学には直接は関係有りませんが、インターネットでネット社会(このBBS)に参加している私達全員の問題だと、思ったからです。尚、私が現在使用中のパソコン環境では個人的メールが使用出来ませんので、ネット上で、不都合であれば、私の希望はご放念ください。 (2000/12/10(Sun) 08:40:53)[cse7-8.nishinomiya.mbn.or.jp]

bambi > トラさん、[351]を、最後の2000/12/08(Fri) 09:58:17の難波先生のコメントまで、読まれてのご発言でしょうか? (2000/12/10(Sun) 08:46:43)[cse7-8.nishinomiya.mbn.or.jp]

難波紘二 > Bambiさんへ、ネットで商品の宣伝をするのはフェアでないと思っただけです。私の本は溪水社という本屋から来年の3月頃出版されます。前に「歴史のなかの性ー性倫理の歴史」を出した出版社です。 (2000/12/11(Mon) 12:33:12)[konanba.ias.hiroshima-u.ac.jp]

トラ > bambiさん。申し訳ない。レスを見落としていました。bambiさんの意図がよくわからないので、こちらの勝手な解釈でご返事します。またピントがずれていたらごめんなさい。/もちろん、読んだ上での発言です。わたしが思うに、難波氏の発言は、日本の考古学界の問題解決能力、ひいては学問のレベルに対する疑いと皮肉に満ちています。しかし、その原因のいくつかは、言い逃れのできないものだ。「捏造」(というより「神の手」か)しかり「脂肪酸分析」しかり、いずれも内部で問題を指摘されていながら、ここまで放置されてきた問題です。その原因に灘波氏の言うような点もあったことは事実でしょう。明らかに先入観に基づいていたり、感情的に受け入れ難い部分も多いのは事実ですが、すくなくともこのような批判を受け入れ、評価できるものは評価するキャパシティは持っていたいと思う。けっして「一億総懺悔」でなく自分が感じたことを書き込みました。 (2000/12/11(Mon) 12:47:11)[]

bambi > トラさん、気持ちを聞かせていただいてありがとうございました。多少誤解しかけた面もあったのですが、[364]と上の書込みを読んで、理解しました。 (2000/12/12(Tue) 09:08:10)[cse4-30.nishinomiya.mbn.or.jp]


[361] 石器は偽物 投稿者:難波紘二 投稿日:2000/12/08(Fri) 17:27:18 [konanba.ias.hiroshima-u.ac.jp]
三点接合石器の鑑定
「大学生」さんが送ってくれた「2点接合」の写真は、新聞写真のコピーをスキャナーで読み込んだもので、画質が非常に悪いが、しかし以下の2点は、はっきり言える。
1) スケッチに目盛りがあり、「石核」の最大径が約7cmであること、
2) 新聞写真は、片面加工された石器であり、従ってこれは「縄文石器」ではありえないこと。
【材料と方法】
そこで「縄文の生活誌」p47に掲載されている、「3点接合」の写真を、以下の方法で画像解析した。
Canoscan FB620Sを用い、解像度300dpi、白黒ハーフトーンモードで、AdobePhotoshop 5.0に取り込み、圧縮率80%のJPEG画像を作製、これをAdobePhotoDeluxeで開き、原寸大の白黒画像を作成し、EPSON PM-770Cを用いて、エプソンフォトプリント紙に印刷した。画像サイズは、最終で15MBであった。
印刷された画像では、元のオフセット印刷の網点がきれいに描画され、画質の劣化はほとんどなかった。
【画像の解析】 「3点接合の石器を分離した写真」(写真1)は石核に残る離断面を明瞭に示している。また「3点を接合させた写真」(写真2)は、原石の自然表面を、撮影したものであることが、判断できる。
原石(石核)(A)から、スクレイパー(B)が離断した面は、平滑でなく、右下方端におよそ9x22mmの別の離断面があり、これが剥片(C)の断面と接合する。また接合部を自然面から撮影した写真(写真2)には、長径7mmの円形もしくは類円形の「打撃痕」と思われるクレーター状の傷が認められ、これを中心にして3本の割れ目が発生している。一本はこの点から、石核の左方と下方に走り、この割れ目が石核本体(A)とスクレイパー(B)を分離させた主要因と考えられる。
他方この下方に向かう割れ目と、打撃点から奥に向かう短い割れ目が、剥片(C)を、AとBから分離させている。
従って、A, B, Cの三点は、一度に分離したに相違なく、このことは長径7mmのクレーター状の傷が、この原石(石核)に加えられた打撃点であることを示している。
【考察】
原石Aと剥片Cは宮城県中島山遺跡から発見され、スクレイパーBは山形県袖原3遺跡より発見された。
仮にこれが「原人」により作成されたものであるとすると、剥片Cは原石加工の際に飛び散ったものであり、原人がこれを石器として使用したのでなければ、原石の近くに遺棄されたと推定するのが妥当であろう。長さ3cm幅1cmの頁岩の重量は、別途に測定しないとわからないが、石器製作における破片の散らばり方を統計的に研究した岡澤3)によると、大きさ30mm以上の粗割り工程における破片の飛翔距離は、製作者から2メートル以内である。ほとんどは製作者のすぐ側に落ちる。
従って、問題の剥片は原石のすぐそばに落ちたはずであり、このことは原人が石器製作を行った地表面で、原石Aと剥片Cは半径2メートルの円内に存在したはずだということができる。
原人はまもなくこの場所を立ち去り、奥羽山脈を越えて、袖原へ移動したのであるから、この場は誰にも荒らされることなく、堆積の下になったと考えられる。
さてそれが何十万年を経て、中島山遺跡として発掘されたと仮定しよう。
中島山遺跡は、1997年から発掘が開始された。その年の12月14日の「河北新報」1)は、これまでにこの遺跡から42点の石器が発掘されたと報道している。
またスクレイパーBが見つかった袖原3遺跡は、1993年から発掘が開始され、99年まで続いた。河北新報の報道では、当時104点の石器が見つかっている。
藤村新一が石器の多くを発見したことは知られているが、スクレイパーBと破片Cを発見したのが誰かは、現時点では定かでない。
しかしこの合計、146点の石器から、「2個が接合する」ということを「発見した」のは、ほかの誰でもない藤村であった。
注目すべきは、この時点では石核Aは中島山遺跡からは見つかっていないことである。発掘隊は破片Cの周囲2mの範囲の地層を発掘しなかったのだろうか?そういうことは、素人目に考えてもありそうもない。では石核Aは破片Cが発掘されたときには、どこにあったのだろうか?
もう一つ注目すべきことは、藤村が「旧石器の神様」と心から尊敬する芹沢長介が、藤村の偉業を評して、「もう一度接合石器を発見するのは、神業に近い」とコメントしている1)ことである。
この新聞報道から、後に(それが何時かは現時点では不明である)ついに石核Aが中島山から発見され、ついに三点の石器の接合という、世界でも恐らくはじめての偉業が達成された。藤村は、「神業」を成し遂げたのである。
石核Aがどのような状況で、誰により発見されたのか、接合が2点ではなく3点であることを誰が発見したのかは、現時点では不明である。しかし我々は、この石核Aが相当不自然な距離で、不自然な状況下に発見され、接合の発見者はまたしても藤村新一だったであろうと、推測することは可能である。
ついで石器の製作技術について考察する。問題の原石は、直径7ミリすなわちボールペンの軸程度の太さの細く硬いもので、一撃され、そのために三つに割れたことは疑いがないだろう。それは「間接打撃」すなわち棒状物を原石にあて、他端を石か金槌のような重量のあるもので叩くという方法で作られている。注目すべきは、頁岩の表面に深さ1mm近い陥没が生じていることである。これは重要な、科学的鑑定の手がかりになる。
もともとものの硬さつまり硬度は、鉄の小球などを加圧した際に生じる窪みの深さで、定義されている(ブリネルの硬さ)4)。従って、頁岩の硬度がわかり、窪みの深さがわかると、加えられた圧力が計算でき、それによって棒状のものに要求される物理的性質も推定可能だからである。
太さ7ミリで、頁岩にこのような窪みを残す材質を、「原人」がもっていたとは、常識的には考えられない。
従って、ここで「原人がこの石器を作った」という仮定は、いくつかの点で、破綻を来すわけである。
この矛盾を解決するもう一つの仮説は、「石器は藤村が作り、あちこちに埋めた」というものであり、この仮説ならすべては矛盾なく説明できる。
この仮説を採用すると、次に重要な論理的帰結が浮かび上がる。それは藤村の犯行は、「出来心」による発作的なものではなく、入念に計画された何年にもわたる計画的犯行だ、ということである。つまり犯行は、1981年座散乱木遺跡における「旧石器」発掘はおろか、彼が参加した1977年以後の全ての発掘が、疑惑に包まれるということである。
筆者は、「調査委員会」がこれらの指摘に、耳を傾けられ、要となる発掘と遺物について集中的に科学的調査を進められ、費用と労力を最小化しそれでいて国民の負託には最大限寄与するという、選択が行われることを切望している。
【要約】いわゆる「3点接合石器」について、画像解析を行い、これは原人が作成したものではなく、現代人が作ったものであることを指摘し、それが今回のねつ造事件に対してもつ意味を考察した。
引用文献:
1) 河北新報:1997. 12. 14記事
2) 岡村道雄:縄文の生活誌. 講談社、2000, p47
3) 岡澤祥子:旧石器時代研究における極微細石片の役割ム石器製作実験に基づく検討.第四紀研究 39(5):479-486, 2000
4) 岩波科学百科:「硬さ」の項、p177, 岩波書店、1989

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トラ > これだけの短時間でまとめるとは、お見事言うしかありません。とりあえずスゴイ。細かい部分には検証が必要だし、(「太さ7ミリで、頁岩にこのようなくぼみを残す材質を「原人」がもっていたとは、常識的に考えられない」が問題です。)なりより石器が「メイドインFJMR」だとの「断定」には承服しがたいのですが、それでもスゴイ。【要約】の「現代人」をホモ・サピエンスの意とするなら大筋で異論ありません。 (2000/12/08(Fri) 19:26:25)[]

トラ > 大学生さん。灘波先生が分析された「写真」とは河北新報に掲載されたものですか。確認したいので詳しく教えてください。 (2000/12/08(Fri) 19:32:28)[]

トラ > それと「片面加工された石器」だとどうして「縄文石器」でありえないんでしょう。縄文の石器には両面加工もあれば、片面加工もあります。だから、いろんな研究者が、縄文石器とそっくりだと言ったんです。これが、石刃やナイフ型石器、細石刃核などだったら縄文でないと言えるんです。でもあの石器はまさに「縄文と混ぜると区別がつかない」ものです。 (2000/12/08(Fri) 19:40:41)[]

tak > なるほど、そうすると、彼は極めて頭が良く、学者や新聞記者を非常に高等な方法で喜ばせてやろうと言う構想力があり,どの発掘でどのようなねつ造を行おうかと言う高度な計画性を持ち、功名心によってすぐに成果を示そうと言う短慮は無く、大胆に、かつ精密なねつ造を行ったと言うことになりますね。そうなると、私も多少は知っている彼の人物像を大幅に修正しなければならない。あるいは、あのグループが全員で偽造を構想し、分担して計画を実行したと言う推論も可能ですな。 (2000/12/08(Fri) 20:08:23)[h028.n068.nhk.or.jp]

大学生 > 短時間での『解析』に驚きました。ただし,剥離面の解釈にはかなり問題があると思います。画像をUPしましたので考古学関係者で石器の分かる方,その他皆さんで御検討ください。なお,画像はこの掲示板上での検討以外の目的には使用しないで下さい。http://www.hello.co.jp/~ppp77/OS_NJY.jpg (2000/12/09(Sat) 07:34:19)[sendai-ppp-210-253-120-221.interq.or.jp]

トラ > 大学生さんありがとう。現在、検討中です。 (2000/12/09(Sat) 07:58:38)[cs51234.ppp.infoweb.ne.jp]

大学生 > まず,難波さんが打撃痕とする『自然面のクレーター状の傷』がどこをさすのか,よく分からないので具体的にお願いします。   それから,『3点が同時割れ』であるとの見解について,剥離面の切り合い関係から,同時割れではないことが分かります。スクレイパーの腹面と小剥片にまたがる剥離(二次加工)が,双方の切断面によって切られているので,石核から剥片(後のスクレイパー)が剥がされた時点では小剥片は生成されていないことが分かります。   『片面加工なので縄文石器ではありえない』との見解についてはトラさんが上にお書きになったのと同じ理由でそのような判断はできないと考えます。片面加工の石器自体は旧石器・縄文とも普遍的に存在するもので,「どちらの時代に特徴的」というい方もできないものです。 (2000/12/09(Sat) 08:01:53)[sendai-ppp-210-253-120-221.interq.or.jp]

大学生 > 中島山遺跡で出土した剥片と石核は同一コンセントレーション内です。二つの距離は1.5mほどだったと思います。難波さんの言う「2m円内」での出土です。97年の剥片は「断面採取」といって,踏査による露頭観察の際に発見されたもので,このときは発掘調査ではありません。翌年に周辺の発掘調査が実施され,石核が出土しました。 (2000/12/09(Sat) 08:08:22)[sendai-ppp-210-253-120-221.interq.or.jp]

大学生 > 次にトラさんはお分かりと思いますが,これが一番の問題なのですが,石核から剥がされた剥片(後のスクレイパー)の剥離面の解釈です。おそらく「節理」の影響を多分に受けていると思います。河北写真の実測図のスケールの「0」のあたりが打点(接合状態の写真を見て分かるとおり「打点」そのものは二次加工で失われていますが)と思われますので,写真を見る限り中央のリングの変換部を境に節理に引っ張られて割れていると考えますが,トラさん,他の皆さんはどうお考えになるでしょうか。 (2000/12/09(Sat) 08:16:27)[sendai-ppp-210-253-120-221.interq.or.jp]

大学生 > それから,いくつか補足を。以前言いましたが中島山・袖原の接合資料は約10万年前の地層からの出土とされていますので,原人ではなく旧人を想定するのが妥当と思いますが。  そして,遺跡間石器接合の事例は後期旧石器では日本でもいくつかあります。 (2000/12/09(Sat) 08:20:59)[sendai-ppp-210-253-120-221.interq.or.jp]

大学生 > 石器の発見者について。[346]でも書きましたが,今分かるのは,袖原のスクレイパーは97年10月の第4次調査中に地元の調査員が、中島山の小剥片は藤村氏が97年11月に断面採取,石核は98年11月の第1次調査で出土。です。   この書き込みは難波さんの[346]からの流れですので,参照してください。 テレホタイム終了で時間切れです。トラさん,皆さんの見解を待ちます。 (2000/12/09(Sat) 08:26:20)[sendai-ppp-210-253-120-221.interq.or.jp]

大学生 > 「頁岩の表面に7mmの窪み」とありますが,これも実際に割った経験のある方は分かると思いますが,石材に打撃で「窪み」を生じることはまず考えられません。よほど固い石材ならば有り得なくもないでしょうが,頁岩の場合そのような窪みを生じる前に剥離を起こします。難波さんが打撃痕として指摘している「窪み」は剥片剥離の打撃によるものでなく,転石の過程で堆積時の不純物が抜け落ちたりしてできた原石の表皮の凹凸と考えられます。  なお,『3点が同時割れ』を否定した部分については,やはり実際に石器を見てみないと断定できません。石核から剥片(のちのスクレイパー)を剥がす際の「一回の打撃で」という点に厳密にこだわらなければ,小剥片が生成されたのも時間的にそう離れていないはずで,「同時割れ」という表現もできなくはないと思います。   この資料については23,24日の「東北日本の旧石器文化を語る会」(会津若松市)に参加できる方は参加して実際に間近で見て検討するのがいいと思います。私も参加するつもりです。画像資料で石器を語るのには限界がありますので。「語る会」の情報は「八ヶ岳旧石器通信」や「みやぎ文化財発掘出土情報」にあります。このサイトのリンクからいけると思います。 (2000/12/09(Sat) 09:14:58)[sendai-ppp-210-253-121-132.interq.or.jp]

bambi > はじめまして、takさん。takさんは、藤村氏を直接ご存知のようですが、takさんから見た氏はどのような感じの人物ですか?よろしければお聞かせいただけないでしょうか?また、一部ネットで行方不明説が流れていますが、氏の所在確認は出来ているのでしょうか? (2000/12/10(Sun) 08:35:21)[cse7-8.nishinomiya.mbn.or.jp]

難波紘二 > 彼は宮城県内の某精神病院に入院しているようですよ。 (2000/12/10(Sun) 23:04:08)[konanba.ias.hiroshima-u.ac.jp]

早傘 > 情報源は週刊文春(12/14号)の未確認情報ということでよろしいですか。 (2000/12/11(Mon) 23:05:24)[b142214.ppp.asahi-net.or.jp]

bambi > 週刊誌情報じゃなくて、takさんにお聞きしてみたいのですが… (2000/12/12(Tue) 13:20:39)[cse8-18.nishinomiya.mbn.or.jp]


[362] 今年はいつ??? 投稿者:こうせい 投稿日:2000/12/08(Fri) 23:12:08 [c1-185.actv.ne.jp]
案内人様 今年の埋文センターの発表会の日時は決まったのでしょうか?
是非教えてください。よろしくお願いします。

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案内人 > ホームページでも紹介しましたが、12月9・10日です。要するに、明日と明後日です。詳しくは http://jomon.cside.ne.jp/ao-houkokukai-2000/ao-houkokukai-2000.htm をご覧下さい。 (2000/12/08(Fri) 23:43:55)[c1-215.actv.ne.jp]

こうせい > 見落としていました、有難うございました。 (2000/12/09(Sat) 13:24:10)[c1-185.actv.ne.jp]

難波紘二 > 案内人さんと「こうせい」さんにお訊ねします。青森県でも「旧石器」が出土するのでしょうか? (2000/12/11(Mon) 15:12:00)[konanba.ias.hiroshima-u.ac.jp]

案内人 > 手元にある青森県遺跡台帳のデータベースを検索しましたら8遺跡が該当します。4000箇所あまりの遺跡の中で、8箇所ですから、非常に少ないと思います。おそらく、後期旧石器だと思いますが、調べてみます。 (2000/12/11(Mon) 19:02:17)[c1-215.actv.ne.jp]

難波紘二 > 「後期旧石器文化」は基本的にホモ・サピエンスの文化で、その日本での存在を私は疑っていません。 (2000/12/11(Mon) 23:20:32)[konanba.ias.hiroshima-u.ac.jp]

bambi > [332]の大阪の民博の三内丸山遺跡・縄文シンポジウムは、結局いけませんでした。埋文センターの発表日に、青森県教育庁文化課の偉い方がいらっしゃらなくてもいいの?と思いましたが、発表内容はわかっていらっしゃったから、安心して大阪に行かれたのでしょうか… 発表会は、どうでした?案内人さんも発表されたのですか? (2000/12/12(Tue) 11:23:30)[cse8-26.nishinomiya.mbn.or.jp]

案内人 > 遺跡報告会の概要をアップしましたのでご覧下さい。主催は青森県埋蔵文化財調査センターですので、県文化課はほとんど関係ありません。大阪の三丸シンポの変わらぬパネリストの発表より、遺跡報告会の方が新鮮みがあって聞き応えがあったと思います。案内人は黒子に徹していましたので、発表は無しです。 (2000/12/12(Tue) 20:00:16)[c1-215.actv.ne.jp]

さかいひろこ > なかなか青森の遺跡発表会にいけず、今回も大阪におりました。9日の米山俊直氏や佐々木史郎氏などの発言は新鮮でした。10日の縄文ファッションのほうは私も黒子だったので、いつか青森でこういうことをやってみたいなあ…と思っています。 (2000/12/13(Wed) 17:08:57)[p84bdd6.tokyjkp3.ap.so-net.ne.jp]

案内人 > 小山修三さんらの三丸肯定派の人たちだけでなく、佐々木藤雄さんのような三丸に否定的な人を呼んで大々的に議論をしたら面白いでしょうね。三丸関係者は佐々木さんの三丸大批判に知らぬ顔をしているのですから、それ位しても良いと思うのですが、無理な注文か? (2000/12/13(Wed) 23:38:58)[c1-215.actv.ne.jp]

bambi > 三内丸山遺跡が、一番事情のわかっている現地の埋文関係者が、今の解釈は違うと言われているというのは、このBBSに参加させて頂いて初めて知りました。今回の藤村事件も、関係者が毎日新聞に連絡したのか、毎日新聞がネットの話を拾い上げたのか知りませんが、マスコミに通報するとか…どうでしょうか?マスコミは、ニュース性がないと飛びついてくれないでしょうか… (2000/12/14(Thu) 00:28:27)[cse6-6.nishinomiya.mbn.or.jp]

bambi > さかいさん、大阪のシンポの両氏のお話は、どんな感じだったのでしょう?実は、私、30年近く前から、人類学者米山先生のファン?でした。ハンサムな先生も、だいぶお年を召して来られました。先生が京大教養で、ゼミの学生を使って、祇園祭のフィールドワークをされたのですが、中公新書の祇園祭を読んでいたら、弟の小学校の友人が、よく働いてくれる大学生として、名前が出ていて、おおっと思ったものでした。 (2000/12/14(Thu) 00:46:57)[cse6-6.nishinomiya.mbn.or.jp]

案内人 > bammbiさんへ、私の三丸批判コラムや佐々木藤雄さんの三丸批判論文の件については、マスコミの方に話をしたことがありますが、皆さん無関心を装っています。岡田さんからネタを貰えなくなるのが怖いのかな?構造的には今回の旧跡捏造事件と似ているところがあるわけで、細々ながらこのホームページで「遠吠え」をさせていただきます。 (2000/12/14(Thu) 06:58:09)[c1-215.actv.ne.jp]

bambi > 今から4年位前の夏でしたか、三内丸山遺跡を中心とした縄文人展が大阪の南港ATCで開かれ、娘と行きました。タレントの小島聖がイメージキャラクターで、アメリカインディアンの女の子のような縄文人のかっこをしていて、キャッチコピーが「私って綺麗?」だったでしょうか…とにかく大盛況でした。あんなに押し合いへしあいして、土偶を眺めたことはかつてなかったです。パンフレットが手元にないのですが、その時の三内丸山は、もうすでに「とんでも解釈」になっていたのでしょうか?縄文人の衣服とか、再現してあるのを見たら、今のアイヌ民族の衣装とかなり雰囲気が似ています。縄文人と全国ひとくくりにしちゃうといけないと思いますが、少なくとも、三内丸山の再現縄文人は、アイヌ民族とすごく似ている気がしました。でも、展示の中では、全くその事に言及されていないんですよね。縄文にもアイヌにもたいした知識を持たない一般人としては、なんか不思議な気がしました。折角なので、案内人さんに解説お願いしたいです。 (2000/12/14(Thu) 11:54:22)[cse5-20.nishinomiya.mbn.or.jp]

案内人 > 三内丸山遺跡の人口500人説が登場したのは、遺跡の全面保存が決定した直後の、今から6年前の朝日新聞によるフォーラムの時だったという記憶がありますから、そのころから「とんでも解釈」が始まっていたと思います。私は遺跡そのものの価値まで否定はしていないのです。佐々木藤雄さんが近著で述べているように、「私たちが求めているのは、新しい歴史でも古い歴史でもない、真実の歴史である。」、このことに尽きるのです。縄文人の衣服ひとつとっても、発掘調査の成果から語れることは、ほんのわずかで、皆さんに具体的な衣装で紹介できるほどの成果はでていないと思います。 (2000/12/14(Thu) 21:33:03)[c1-215.actv.ne.jp]

さかいひろこ > bambiさま 米山先生が調査されている国で何もないところに突如として何千人もの人があつまる市が立つという紹介があり、それが一番インパクトがありました。また、大阪で開催された (2000/12/15(Fri) 17:54:13)[p84bdd8.tokyjkp3.ap.so-net.ne.jp]

さかいひろこ > 4年前の縄文人展というのは『縄文まほろば博』のことだと思います。縄文服については男性のものはアイスマンを参考にして、女性のものは三内丸山遺跡の土偶の模様を参考に復元されています。まほろば博では鹿皮をイメージした復元ですが(縄文人が鹿や猪を狩猟対象にしていたことから)、三内丸山遺跡では編布で作られた衣装も展示されています。…私も土偶や民族例をもとに描いた絵を展示してもらっています。 (2000/12/15(Fri) 17:58:49)[p84bdd8.tokyjkp3.ap.so-net.ne.jp]

案内人 > 繰り返しになりますが、「私たちが求めているのは、新しい歴史でも古い歴史でもない、真実の歴史である。」。根拠のないカヤで葺かれた復元住居、三層構造の14.7mの6本柱建物等々、国民の前に現実の復元物として現れたときから、それは一人歩きし、あたかも縄文時代にもそのようなものが存在したかのように思わせてしまう魔力があります。だからこそ、復元は慎重であれねばならないし、とても怖いことなのです。 (2000/12/17(Sun) 02:10:35)[c1-215.actv.ne.jp]

さかいひろこ > そうですね。「復元」絵を描くのはとても恐い職業だと思ってやってます。 (2000/12/17(Sun) 09:43:51)[p84bdb7.tokyjkp3.ap.so-net.ne.jp]

さかいひろこ > 三内丸山遺跡では樹皮葺きや土葺きも検討されてますよね。どんな整備されていくか興味があります。三内丸山は慎重にやっているほうだと思いますが。 (2000/12/17(Sun) 09:46:06)[p84bdb7.tokyjkp3.ap.so-net.ne.jp]

うささぎ > さかいさん、はじめまして。私は太古の建築物だけでなく恐竜の復元(の危うさ)についても、また漫画版の歴史書における人物の髪型や服装の描写の危なさについても一家言持っている者です。こうした難しいお仕事に従事されている方と一度じっくり意見交換をしてみたいものだと前から思っていました。だいぶ先になってしまうかもしれませんがお話できる機会を将来ぜひ見つけたいものだと思っております。さかいさんの「本拠のグラウンド」はどこですか? 「八ヶ岳」でしたら遠からずこちらからアクセスを試みてみます。 (2000/12/18(Mon) 02:42:16)[global-user.toshima.ne.jp]

さかいひろこ > うささぎさんこんにちは。私は水戸に住んでいますが、山梨や長野でもお仕事をさせていただいています。八ヶ岳では八ヶ岳パーキングエリアの駐車場壁面に後期旧石器のナウマン象狩りをイメージした絵などを描かせてもらったりしています。よろしかったらr-saeki@sa2.so-net.ne.jpへご連絡下さい。 (2000/12/18(Mon) 10:17:58)[p84bdea.tokyjkp3.ap.so-net.ne.jp]

案内人 > さかいさんへ、三内丸山遺跡の復元は、慎重にやられている方だとのご意見ですが私はそうは思いません。なぜなら、例えば、茅葺きの復元住居にしても復元当時の知見に照らし合わせても、既に時代遅れの考え方でしたし、最近ようやく試験的にはじめた土葺き住居や樹皮葺きの説が当時からあったような記憶があります。それを茅葺きにして復元し、既に200万人以上の方々の脳裏にそのイメージを刻み込んでしまったのです。そのことの意味は非常に重いものがあると思います。三内丸山遺跡対策室では、当時からこれは仮整備で、新しい知見があればすぐに変更すると言っていましたが、実際に変更された復元物は皆無なはずです。1回復元されてしまえば、変更は実際にはなかなか難しいという好例でしょうね。また、岡安光彦さんが、他の掲示板で指摘していたことだと思いますが、これらの復元が全て税金を使って行われているところに、大きな疑問を感じるのです。 (2000/12/18(Mon) 10:55:08)[c3-069.actv.ne.jp]

うささぎ > さかいさん、早速のお返事ありがとう。私の基本的立場は「ビジュアルな復元案は危ない、というかどうしても基本的に無理があるにもかかわらず言語の記述よりも強いインパクトを与えてしまうから怖い」というもので、これは貴女のようなお立場の方を「元気にする」ことのない見解です。「ではどうしたらよいのか」について今は名案がありませんが、少しでも建設的な方向の考えをまとめた段階でご連絡します。案内人さんへ>三内丸山がとくにひどいのではなく、弥生以前の建築物の復元の信憑性の乏しさはどこも大同小異ではないかと思っています。釈迦に説法とはこのことですが、三内丸山の問題はその「危ない」復元案があまりにも有名になってしまっていること、これに尽きるのではないでしょうか。個人的には例の巨大建築物(?)に屋根や壁がつかなかったことだけでも、「最悪の事態」は免れているように感じますが、「柱の太さと建築の高さは比例していない」という佐々木藤雄さんの説得力ある反論を読むと、やはり空しい気持ちを抱かざるを得ませんね。 (2000/12/18(Mon) 15:22:39)[global-user.toshima.ne.jp]

bambi > さかいさん、『縄文まほろば博』の説明ありがとうございました。アイスマンに皮服、そういうのもあったような気がします。その当時、「もののけ姫」っていう映画も流行っていませんでした?ほんの少し前の事なのに、ほとんど忘れてしまっていますね。ちょっと、恥ずかしい… (2000/12/18(Mon) 18:48:01)[cse5-36.nishinomiya.mbn.or.jp]

bambi > 案内人さん、そういえば、難波先生が聞いていらした、青森県内の旧石器遺跡のデータは集まりましたでしょうか? (2000/12/18(Mon) 18:50:49)[cse5-36.nishinomiya.mbn.or.jp]

案内人 > 近日中に青森県埋蔵文化財調査センターの研究紀要第6号-20周年特集号に青森県の旧石器時代20年を総括した論文が載っており、それをアップする予定でいますので、今少しお待ち下さい。 (2000/12/18(Mon) 19:05:16)[c3-069.actv.ne.jp]


[363] 教育への影響 投稿者:夢鳥 投稿日:2000/12/08(Fri) 23:40:44 [jnclic-66-26.ppp.justnet.ne.jp] [344]案内人さんへのレプライでは、十分に言い表せないと感じましたので、別スレッドにて発言させていただきます。
 [313] における大杉さんの質問〔2000/12/01(Fri)〕、それに対するお二人の専門家によるレプライ、大杉さんとのやりとりを読み、教育現場に携わる者として看過できない認識のズレを感じました。 大杉さんの言う「‥では、何が確かなのか?」という基本的な疑問は、この問題をきっかけに旧石器時代研究へ関心を持った子どもから大人までのかなり多数を占める基本的な疑問であると考えます。webや新聞上で散見する旧石器時代研究者の意見としては「前期の成果に関しては、ほとんど氏が関わっていただろう」「3万5000年前まで遡って検討する必要がある」というものから、「氏の関わっていない遺跡で前・中期は確かにある」「〜では良い資料が出土しているようだ」まで様々です。子どもも一般の大人も「では、列島における人類の生活痕跡はいつ頃のものがより確かなのか?」という学問成果の到達点(現時点での見解)が全くつかめないことにいらだちが募るわけです。
 「日本の旧石器時代全般を解説した本なんて、普通の公立図書館でも数冊は置いてあるはずです。それを借りてきて、その中から藤村氏が関与した遺跡を取り除く」(早傘さん)というような作業では、簡単にコトは解決しません。
果たして、氏がどこまで地元の図書館での旧石器時代に関する蔵書を把握しているかは定かではありませんが、一般向けの概説書であっても加藤晋平氏の著作・編集によるものと岡村道雄氏によるものでは雲泥の差があるのです。 とかく教育への影響と言った場合、教科書記述の削除ばかりが論じられていますが、付随する生徒用資料集(まさか戦後半世紀近く経って、教科書類を塗りつぶす事態になるとは考えてもいませんでした)、そして教育機関としての位置づけを持つ公共図書館の一般蔵書、そして博物館資料の取り扱いと速やかに対応を検討しなくてはならない範囲を考慮していくと「やがて誰かが解説するでしょうから、楽しみに待っていてください。」(ソフィーさん)という認識ではすまされない深刻さがあるのではないでしょうか? 発言されたお二人に反論することが真意ではなく、同じ様な認識を持たれている方々、あるいは寡黙に静観されている研究者の方々に足下の地域図書館や博物館における資料が、今回の件で市民に対してどのような影響を与えているか是非、眼を向けていただきたいと願う次第です。ちなみに、三内丸山関係になると、かつての邪馬台国論争モノに匹敵する現状です。
 同時に、大杉さんが主張する「こんなに考古学に興味が集まっているのですから、その面白さを伝える良い機会だとも思うのです。ぜひ素人の素朴な疑問に根拠を持って答えられるようなサイトづくりを目指してください。」という要望は、とても率直で貴重な意見であると思います。(個人的に、当HPに強く惹かれたのはトップページにある開設主旨ですが、それは大杉さんの提案とつながるものがあるのではないかと感じます) ここでの指摘を受けて、自分自身が地元の図書館(図書館界では先進地域です)から選び出した図書の一部です。
・争点 日本の歴史(1) 新人物往来社 1990  →前期旧石器文化について、考古の立場と人類学の立場が対比されており   参考になりました。しかし、疑惑の成果を除くと考古側は揺らぎます。
・日本列島の旧石器時代  青木書店  岡村道雄 2000  →既に紹介しましたが、どうしてこの本が話題にもあがらないのか不思議です。しかし、気になるのは山形県・寒河江市富山遺跡(氏が関わっていない、とされる10〜12万年前の遺跡)の資料で、2000点に及ぶ剥片の接合や石器というのは、竹岡さんの言う「山形の確かな前期遺跡」とは、ここのことを言っているのでしょうか? * 富山遺跡発掘調査報告書1998 山形県埋文センター 第51集
・考古ライブラリー67 旧石器 ニューサイエンス社 戸田正勝 1999  →東京都小平市・鈴木遺跡での方法論の検討、成果の導きは素人が聞いても驚嘆するものでした。本の中で、栃木県・那須の七曲遺跡(4万5000年前)を詳しく分析していますが、藤村氏関連遺跡なんですよね。これほど緻密な資料と考察を、どう捉えたらいいものか..。

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早傘 > [313]の発言に関しては、どうか[313]を何度でもお読みくださいというばかりです。もしご理解いただけなければ、ネット上の情報交換というものについての認識が僕と違うのでしょう。/ところで足下の図書館についてどの程度把握しているかとの疑問を抱かれたようですが、僕の職場は、図書館の2階に事務室を間借りしていましてまさに足下に図書館があるわけです。どのような蔵書があるかは当然把握しています。それ以外でも、いくつかの地域図書館はたまにいくことがあります/そもそも考古学の研究者は、一般向けに書かれたものであっても「概説書」には大体目を通していると思っていただいて結構です。もし夢鳥さんがniftyを読むことが出来るならば FREKISHIの縄文会議室をのぞいていただければ、僕が多くの一般向け縄文関係書籍の紹介に努めていることを御覧いただけるでしょう/これ以外にもいろいろ書きたいことがある。夢鳥さんの発言はそういう、誘起力があるんですが、生来ズボラなぼくは、とりあえず、ここまでで終わりにしてしまいます/あ、でも一つだけ。竹岡さんのいう山形の前期遺跡=富山遺跡です。この遺跡については岡村さんも前期遺跡とする。しかし、岡村さんと近い関係の会田容弘さんは縄文時代の遺跡としています。面白いでしょ (2000/12/10(Sun) 00:06:20)[d238038.ppp.asahi-net.or.jp]

夢鳥 > (早傘さんへ)都内の私立小学校に勤務する内藤と申します。一方でネットの教育活用、公共性、倫理問題に関しては公の肩書きも持ちますので、ネット上の情報交換についてはメールにてご意見を聞かせていただければ幸いです。》お名前を出したことで気分を害されたのであればお詫びします。また、個別の質問についてお答えいただいて感謝します。ただ、最後の一言については何が「面白い」のかは理解できませんが..。》私は学校教育の現場におりますが、図書館や博物館における社会的役割に強く関心を持つ者です。多少時代に合わない言い方ですが、社会制度から言うと埋蔵文化財も社会教育の一領域としても捉えられていますよね。》その視点でもって「教育への影響」としたわけで、個人としての疑義ではありませんので御理解ください。 (2000/12/10(Sun) 03:04:10)[jnclic-66-38.ppp.justnet.ne.jp]

早傘 > 気分を害したわけでは有りません。そういう文体なんです(人柄がにじみ出ている?)/竹岡さんが富山こそ前期旧石器だ、上高森なんか縄文の石器だと言ったのに対し、(ゴッドハンド寄りの)会田さんは、上高森は大丈夫、富山こそ縄文だと返したわけです/図書館の社会的役割についても関心は持っています。歴史関係の選書の面でも近現代史関係だと司書によるフィルターがかかる図書館がまま見られるのに対し超古代史ものは平気で置いてあったりしますよね/また博物館の社会教育施設としての側面(現状ではその側面が強調されすぎのきらいがありますが)は行政内の文化財関係者ならば強く意識しているところです/考古学と社会の接点としての「博物館」という方面の話題は南河内考古学研究所の方が向いているかも知れません(以前そういう趣向のツリーもあったような)/今回の事件に関しても、各館の関連資料・講演会のあつかいに注目して見ています/マスコミのこの事件の扱いも興味深く観察しておりまして、主要な新聞・雑誌で関連の記事は可能な限り収集しています。先週あたりからようやく月刊誌にも関連記事が掲載されてきました。現在把握しているところでは「正論」「現代」「文芸春秋」(発売順)の新年号に関連の記事が載っており、それぞれの雑誌の性格の違いが露骨に現れていて面白いです/僕の場合は考古学史に興味がありますので、50年後にそなえてここまで収集しているわけです (2000/12/10(Sun) 08:41:27)[b142100.ppp.asahi-net.or.jp]

ash > 『世界』2000-1で小田静夫氏が、『中央公論』2000-1で芹沢長介氏が書いていますね。未読なので何とも言えませんが、タイトルを見る限り自分のことを棚にあげてそう(苦笑)/写真図版が多いものとしては、岡村道雄『石器の盛衰』(歴史発掘1)講談社,1998、考古学者と人類学者のシンポジウムの記録の『旧石器時代の考古学』(シンポジウム日本の考古学1)学生社,1998があります。ただどちらにしても前期旧石器に関しては藤村氏関係の遺跡が用いられているので、真に受けずに話半分で受けておくのが良いでしょう。 (2000/12/11(Mon) 01:46:23)[tkscc-01p11.ppp.odn.ad.jp]

夢鳥 > 早傘さんの言われる富山遺跡の評価をめぐっての応酬なんかを伺うと、その「話半分で聞く」というのがなかなか難しいですね。一般に概説書では「座散乱木遺跡の評価で論争に決着がついた」とくくっているものが多いですから。》それにしても「50年後にそなえて」(早傘さん)というのはスゴイですね。私はとっくにいなくなっていますよ..。 (2000/12/11(Mon) 02:59:18)[jnclic-66-71.ppp.justnet.ne.jp]

早傘 > ashさん御教示ありがとうございます。世界は新聞広告でチェックしたはずなのに目次での扱いが小さくて気づかなかった。しかも、いまや普通の書店では「正論」は平積みになっているのに「世界」は全くおいていない。県内最大書店まで買い出しに行ってしまいました/中央公論を読んでの感想ですが、芹沢長介さんほどの大物になると、さすがに心の「棚」の大きさも並外れています(^^; (2000/12/11(Mon) 22:17:06)[b142214.ppp.asahi-net.or.jp]

トンビ > 重要な問題だと考えますので、別にスレッドを立てるかもしれませんが、早傘さんのネットにおける情報交換の考え方、というのは、どんどん時代遅れになっていく考え方だと思います。ネットワークでは、他人に対する寛容、情報の公開、ボランタリー的情報提供、分かりやすい文章、論理的主張、これらが一番大事です。ほかの手段を全て尽くして調べたけど駄目だった、という人のみ、ネットで質問する資格があるなんて言う考え方でやってたら、考古学は間違いなく時代から取り残されるでしょうね。 (2000/12/13(Wed) 16:56:30)[canal.wslab.ntt.co.jp]

ソフィー > 「他人に対する寛容」はとても大切です。これは、何を言っても許す寛容というよりも、他人の発言をできるだけ善意にうけとめて考える姿勢を意味するのではないでしょうか。勝手に相手の発言をわるい方に解釈して、頭から批判してしまう言説をこの掲示板でもよく見掛けます。 (2000/12/14(Thu) 14:18:35)[]

ソフィー > 「やがて誰かが解説するでしょうから、楽しみに待っていてください」と私が即答を避けたのは、この10年間ばかり、旧石器研究から別の分野に軸足を移しているため、関係情報の把握が不十分であることが第一の理由です。また、いずれ実名できちっとお答えしたいという思いがあったものですから、こういう表現になったのです。全国で旧石器時代遺跡が何ヶ所発見されていて、そのうち前期旧石器遺跡は何ヶ所で、藤村が関与していないのはどれだけかをできるだけ正確に答えようとすると、けっこう調べる必要があるのですよ。 (2000/12/14(Thu) 14:35:11)[]

トンビ > 私だって寛容になりたいよ。。。あなたみたいな嘘つきがいなければ、簡単なのにね。「もうすこしご自分で調べてみれば、1と2についての情報が簡単に得られるはずですが。」これはあなたの発言ですよ。あなたは、専門家である自分にも簡単じゃないことを、素人に要求していたのですか? (2000/12/14(Thu) 14:45:17)[canal.wslab.ntt.co.jp]

トンビ > 寛容というのは、ウソ、欺瞞や、悪意に対して寛容であることじゃなくって、他者の意見からなるべく良い点を汲み取るということだと私は理解します。ウソをつく人がいる以上、それに対して寛容ではコミュニケーションの質は維持できない。 (2000/12/14(Thu) 14:49:36)[canal.wslab.ntt.co.jp]

トンビ > いずれにせよ、あの件に関しては、早傘さんとソフィーさんは、言ってることは180度違うのに、考古学者という立場で、共同戦線を張ったということですね。これを部外者に対して閉鎖的、敵対的と指摘しているのですよ。 (2000/12/14(Thu) 17:30:51)[canal.wslab.ntt.co.jp]

ソフィー > 大杉さんの原文とそれに対する私の返信内容を確認してきました。1と2をコピーしてきた1.藤村氏が関わっていない旧石器遺跡はどんなのがあるのか。 (2000/12/14(Thu) 22:39:22)[]

ソフィー > キー操作を間違えましたので、言い直します。1と2をコピーしてきたつもりが、1だけになっていたので、とりあえず。「1.藤村氏が関わっていない旧石器遺跡はどんなのがあるのか」の旧石器遺跡は、前期旧石器だけを意味するとは私は理解していなかったので、後期旧石器を扱ったサイトはいくつかあるはずですから、それにあたれば全部ではなくても「どんなのがあるか」程度ならば分かるはずですし、それらの多くが藤村氏が関与したものではないことも分かるはずだと思って、例の発言をしたわけです。しかし、全部で何ヶ所あって、そのうちの何パーセントというような正確なことを調べるのは私でも簡単にいかないわけです。嘘など一つもついていませんよ。私はコミュニケーションのあり方という観点からも、BBSを経験してみることにしたのですが、トンビさんはまさに反面教師ですね。他者の発言を正確に把握しないで、やたら批判だけがさきになっています。 (2000/12/14(Thu) 23:04:47)[]

トンビ > 苦しいですねえ。。。私は実のところ、ソフィーさんがここまでの嘘つきだという確信をもって批判し始めたわけではなかったので、正直なところ少し驚いています。大杉さんの質問に対して、ソフィーさんが、「藤村氏が関与したのは、数千箇所にのぼる旧石器時代遺跡のごく一部です。」という、あえて誤解を生むような書き方をするので、私が、「数千箇所にのぼる旧石器時代遺跡のごく一部という書き方はあきらかに不適当でしょう。どうしてこう、デマゴギーが横行するのかなあ。質問の趣旨は明らかに、今回の捏造発覚で影響を受ける時代=前期旧石器の遺跡のうち、どれだけの数藤村氏が関わっているかということなんだから。」と批判をしました。大杉さんも、「.書き方が悪かったのですが、トンビさんの助け舟の内容が知りたいのです」と書きました。私は、「どうも、ここには人の発言の字面しか読めない読解力の人が多いのかな。。。わたしはそこまで読解力がないとは想像もできなかったので、悪意で的外れな答えを返していると推定したのですが。」と、大杉さんの質問が、前期旧石器に範囲を限った質問だと読めないのは読解力の問題だ、と書きました。そうしたらあなたは、「ご希望はよくわかっていても、仕事の合間や資料をおいていないところからの書き込みだったりして、申しわけないけど、とりあえず書き込んだ次第です。」と書いているのですよ。前期旧石器のことだというのは、わかっていた、と。 (2000/12/15(Fri) 10:08:29)[canal.wslab.ntt.co.jp]

トンビ > 長々と引用しましたけど、考古学者のなかに、ここまでの嘘吐きがいる、ということを記録に残すためで、やりとりとしての意義はもうないと思っています。病的なくらいの虚言癖の人と、やりとりして得るものはありませんから。 (2000/12/15(Fri) 10:10:30)[canal.wslab.ntt.co.jp]

夢鳥 > (ソフィーさんへ)私がこのスレッドを立てるにあたって、大杉氏とのメールを交換しています。また、早傘さん、ソフィーさん両氏に対して個人的に反論や弁明を求めているわけではないことも付記しております。》早傘さんとのやりとりの中で本名も職業的立場も公開しているのですから、ご自身の発言の補足であるならば、私がメールアドレスを何のために表示しているか、今一度お考えください。差し出がましいのですが、その方が無用なストレスを避けられるのではないでしょうか?岡安さん、フォローよろしくお願いします。 (2000/12/15(Fri) 21:11:14)[jnclic-66-47.ppp.justnet.ne.jp]


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