シベリウス
劇音楽『カレリア』


 前回のレニングラード、ドイツ軍はレニングラード市の南側から包囲しようとしてたわけですけど、それじゃ北側はどうなってたか。
 レニングラードの北側は、東のラドガ湖と西のフィンランド湾に挟まれた細長い土地、カレリア地峡になっていて、そこにはフィンランド軍がいましたにゃ。

●フィンランドの戦争
 フィンランドは第二次大戦初期の1939年にソ連に攻め込まれ、どうにかこうにか押し返した「冬戦争」以来、手近な味方としてナチス・ドイツと手を結んでたのですにゃ。
 1941年の独ソ開戦後、いろいろあってフィンランドもソ連に宣戦を布告します。フィンランドで言う「継続戦争」ですにゃ。「冬戦争」の続き、くらいの意味にゃー。

 継続戦争では、もっぱら国内での防衛戦だった冬戦争とは違って、フィンランド軍が国境を越えてソ連領へと侵攻します。ラドガ湖の北に広がる東カレリア地方(ここは歴史的にもロシア/ソ連領)を通って、ムルマンスク鉄道を分断、ラドガ湖東岸でドイツ軍と会合してレニングラードの包囲環を閉じる予定でした。カレリア地峡にフィンランド軍がいたのはそんな流れの一環です。
 北海に面したムルマンスクは、アメリカから船で運んできた対ソ援助物資を受け取る港で、そこから内陸へは鉄道で物資を運んでたわけですにゃ。ムルマンスク鉄道はソ連にとって重要な補給線だったのにゃー。
ラドガ湖はと言えば夏季の水運と、冬季には凍結した湖上に敷かれた軽便鉄道によって、レニングラードの命脈を保つための補給ルートとなってました。
 なのでこれらの兵站線を遮断するのは戦略的、戦術的な大目標だったんですにゃ。でも結局ドイツ軍もフィンランド軍もラドガ湖の東側までは進むことができず、鉄道はところどころ占領したものの迂回線を使われて輸送そのものは止められず、レニングラードの包囲も不完全なまま。攻略戦は失敗に終わるわけですにゃー。

 今回のお題のシベリウス、冬戦争から継続戦争、その後ソ連に負けてフィンランド領内からドイツ軍を追い出す役を押し付けられた「ラップランド戦争」を通じて、実はほとんど作曲活動をしてません(年表)にゃ。だいたい1929年あたりを最後に創作の筆も進まず、ヤルヴェンパーにある自宅、アイノラ(奥さんであるアイノの家て意味)に文字通り引きこもってました。
 継続戦争でフィンランドが枢軸側の立場を明確にして以来、連合国側の諸国とは断交状態になってましたけど、シベリウス個人に対しては、アメリカやスウェーデンから、こっちに避難してはとお誘いが来てたりしました。
 アメリカの新聞に「シベリウス氏は葉巻が手に入らなくて困っている」て記事が載ると、まもなくアイノラに大量の葉巻が届いた、なんてエピソードもあったりしますにゃー。
 シベリウスは1914年にアメリカのノーフォークの音楽祭に招待され、新作の『大洋の女神』を披露して大成功を収めてます。この時にエール大学の名誉博士号を授与されてますし、アメリカでのシベリウスの評判はとても高かったのですにゃー。
 しかし、シベリウスは彼の青春の思い出の地であるカレリアが戦場となっているとき、祖国を離れる気にはなれなかったんですにゃ。

 ということで、時代は少しさかのぼって、シベリウスが創作を活発に行っていたフィンランド独立前後のお話になりますにゃー。

●シベリウスの青春とフィンランドの独立
 ジャン・シベリウスて言うと、よく音楽の教科書に載ってるアブドーラ・ザ・ブッチャー(て昔いたプロレスラー)みたいな肖像写真の顔で、国から年金貰ってアイノラで悠々自適な暮らしをしてた印象がありますにゃ。
 でも、ブッチャー面も悠々自適も、それこそアイノラにこもるようになった晩年の話ですにゃ。若い頃は父親譲りの金に頓着しない性分と、根っからの社交好きのせいで、借金抱えて苦労してますにゃー。
 お金の面では、彼にはアクセル・カルペラン男爵てファンがいました。世が世ならベートーヴェンにとってのロプコヴィッツ侯爵みたいに貴族のパトロンてことにもなるんでしょうけど、この男爵もシベやん同様お金持ってないのでほんとにファンなだけ。でも献身的なファンではあって、シベリウスのために募金を呼びかけたりして援助してますにゃー。

 1865年生まれのシベやんの青春時代は、ちょうどフィンランドで民族主義芸術が盛り上がってた頃にあたります。当時のフィンランドはロシアの一地方て扱いだったんですけど、フィン人としての民族的、文化的な自立を目指す動きが胎動しつつあったんですにゃ。
 シベやんはヘルシンキのレストラン「カンッピ」で、画家のアクセリ・ガッレン=カッレラとか、指揮者で作曲家のローベルト・カヤーヌスといった友人達と、政治とか人生論、芸術論、とりわけフィンランド伝統の神話歌謡『カレワラ』について、いろいろ議論を戦わせてましたにゃ。

 それから、ヘルシンキ音楽院の学生時代に親しくなったアルマス・ヤーネフェルトて友人がいまして、その家で開かれる芸術サロンにも出入りしてました。そこでアルマスの妹で後にシベやんの奥さんとなるアイノと出会うわけですにゃー。
 このヤーネフェルト家は貴族の名門で、アルマスやアイノの父親、アレクサンダー・ヤーネフェルトは陸軍大将でしたにゃ。1901年にフィンランド軍はロシア軍に統合されちゃいますけど、この時点ではまだフィンランドの軍人としての大将を意味します。
 フィンランドはロシア時代の前、長らくスウェーデン統治時代が続いてたので、フィンランドの上流階級、知識階級はスウェーデン語を話します。シベやんもスウェーデン語で育ったので、フィン語は苦手でした。晩年にラジオのインタビューで「スウェーデン語でいいかな」と口走って、アイノや娘に「フィン語で話しなさい!」と叱られたくらい。
 それがこのヤーネフェルト家では、アレクサンダー大将の民族主義的な方針によって、フィン語しか話さないんですにゃ。当然、サロンでもフィン語がメインとなってました。

 そんな環境もあって、若い頃のシベリウスの作風はフィンランドの伝統文化に根ざしたものになります。いわゆる「国民楽派」とおおざっぱに括られる作曲家の一人として活躍していくわけですにゃー。

 後には紳士専用クラブ「ケーニヒ」で開かれる「エウテリペ」て言う文化人サークルに加わります。ここはシベやんには居心地が良かったと見えて、ひとたび出かけると何日も入り浸って、いつ帰るかわからないありさまでしたにゃー。
 あんまり帰ってこないので奥さんがケーニヒへ迎えに行って、紳士専用で入れないからボーイさんにシベやんを呼び出して貰おうとしたら、本人は出てこないで「今は帰れない」てメモが戻ってきたとか。そりゃお金も無くなろうと言うものですにゃ。

●作曲の依頼
 さて、芸術サロンに入り浸って、借金抱えた民族主義的シュトゥルム・ウント・ドランクしてたシベやんに、1893年、ヴィープリのアレキサンダー帝国大学の学生組合から作曲の依頼が舞い込みます。

 ヴィープリてのは、歴史的にはスウェーデンによる北方十字軍てのがあって、その時にノヴゴロド公国(古代ロシア)侵攻のための拠点として城が築かれたとこですにゃー。
 19世紀当時にはフィンランド第二の都市だったヴィープリは、カレリア地峡の北西の端にありますにゃ。いわばフィンランドにとってのロシアのサンクト・ペテルブルク(レニングラード)みたいな位置にあります。成立事情からもわかる通り戦略上の要地で、後の冬戦争や継続戦争でも争奪戦が繰り広げられて、最終的にソ連(ロシア)領となって今に至りますにゃ。

 ヴィープリの学生組合は、ヴィープリに新しい大学の設立とフィンランド文化育成を目的とする資金調達の宝くじを実施するため、その余興としてカレリア地方の歴史を描いた活人画をやりたいと考えてたんですにゃ。
 よくロシアによる圧政にあえぐフィンランド、みたいな言われ方しますけど、圧政らしい圧政が本格的になるのは、1894年に即位するニコライ二世の時代ですにゃ。それまでもロシア皇帝がフィンランド大公を兼ねる形で支配下にはおいてましたけど、実際には独自の議会、独自の通貨を持ち、スウェーデン時代からの法律や宗教もそのまま。そんな感じで大幅な自治権が認められていましたにゃー。
 それが1890年に「フィンランドから出す国際郵便にはロシアの切手を貼れ」て布告が出たのを皮切りに、フィンランドのロシア化が始まってました。そこで学生達はフィン人のアイデンティティを確かめるために、こういう宝くじとかの催しをやろうて話になったんですにゃー。

 そんなわけで、活人画のための音楽をシベリウスに書いて貰おう、てことになりました。活人画の背景にはガッレン=カッレラも携わってますにゃ。
 シベやんは前年にカレリア地方へ民謡の採集(の名目でヘルシンキ大学に旅費を出してもらった新婚旅行)に出かけてるので、この依頼はなかなか良いタイミングでしたにゃー。

 ちなみに活人画て今日ではすっかり廃れてますけど、要はそれっぽい衣装を着た役者さんが適当な背景の前でいかにもなポーズを取って、あたかも一幅の絵画のように見せるものですにゃ。だから日本語で「劇音楽『カレリア』」て呼ばれると、なんかお芝居でもやったみたいに思いますけど、実際はだいぶ違うものだったわけですにゃー。

●初演とその後
 宝くじの夜会(ソワレ、ってたぶん抽選会)はヘルシンキで1893年の11月13日に開かれました。
 富裕階級の女性達による援助もあって多くの景品が集められ、愛国的な雰囲気が大いに盛り上がる中、シベリウス作曲による活人画、歴史的情景『カレリア』が演じられますにゃ。
 だが、しかし、宝くじって場が悪かったのか、誰も音楽なんか聴いちゃいにゃー。てゆーか「みんな大声で騒ぐので、音楽が聞こえないくらいだった」とシベやんが弟への手紙で嘆くようなありさまだったそうですにゃ。

 シベやんとしては納得いかなかったヴィープリの宝くじも、それはそれで所期の目的をしっかり達して、ちゃんと新しい大学が建ってます。

 11月18日にはあらためて音楽だけで再演されてますけど、シベやんとしてはもう失敗作以外のなにものでもなくなってて、翌年にはこの中から抜粋して手を加え、最終的には『カレリア序曲』作品10と、三曲からなる『カレリア組曲』作品11に仕立て直してしまいますにゃー。
 元の劇音楽の方に作品番号がないのはそう言う事情ですにゃ。
 序曲と組曲が別の作品になってるのは、もとは四曲の組曲だったのを1906年にライプツィヒのブライトコップフ・ウント・ヘルテルから出版するときに「序曲はあまりにも若書きだから組曲から外してくれ」みたいな注文付けて三曲にしたことによりますにゃー。

 後年シベやんが歳を取って隠居時代に入ると、自己批判の傾向がどんどん強まって、1940年ころに昔の作品の自筆楽譜をまとめて暖炉に放り込んじゃうんですにゃ。幻に終わった交響曲第八番も、この時に焼かれたんじゃないかと言われてます。
 まあ、昔書いたあーんなものやこーんなものを、今の自分の目の前に突きつけられたら、身悶えするくらい恥ずかしい、てのは誰にでもある話ですけどにゃー。それにしてももったいにゃー。

 なので、シベやんにとってすっかり黒歴史と化した劇音楽『カレリア』も、当然のように自筆楽譜のほとんどを焼いてしまいましたにゃー。
 おかげで作曲家の死後、カレリアの自筆楽譜は、序曲と組曲の他にはわずかに第一曲「カレリアの家、戦争の知らせ(1923)」がヘルシンキ大学の図書館にあったのと、第七曲の作曲者による1904年改訂版が生き残ったのみでしたにゃー。

 ただ幸いなことに演奏用に使われたパート譜が発見されました。ビオラ、チェロ、コントラバス、フルートが一部欠けてはいるものの、1965年、それらパート譜を元にカレヴィ・コウサによって欠けたところは空白のままで全曲が復元されましたにゃ。
 このコウサ版を元に、作曲家のカレヴィ・アホやヨウニ・カイパイネンが、それぞれ欠けた部分の補筆を試みて、演奏用完成版を作ってますにゃー。

●参考CDと楽曲解説 劇音楽『カレリア』
 このCD、1997年にアホさんが補筆した版の世界初録音ですにゃ。指揮はオスモ・ヴァンスカ、ラハティ交響楽団です。BIS-CD-915
 一緒に劇音楽『クオレマ』作品44も入ってて、こちらも組曲版ではない劇音楽版は世界初録音にゃー。おまけにクオレマの第一曲『悲しいワルツ』の現行版も収録されてますにゃ。
   ヴァンスカとラハティSOは、近年シベリウス作品の初稿版とか、あまし知られてない曲の録音を積極的に行ってますにゃ。

 劇音楽『カレリア』は、序曲と八つのタブロー、二つの間奏曲から成っています。作曲の目的から、ヴィープリやカレリア地方の歴史に関わる情景を描いた活人画の伴奏になりますにゃ。各タブローの題に付いた括弧内の数字は、その情景の年代ですにゃ。
 このCDでの演奏時間は50分ちょうどですにゃー。

序曲:
爽やかな序曲の主題と、このあとのタブローの主な主題が交互に現れる構成になってます。

タブロー1:「カレリアの家、戦争の知らせ(1293)」
伝統的なスタイルによるカレワラの朗誦の一部が聞かれます。
二人の男性が素朴なメロディに乗って1行ずつ代わる代わる歌い継いでいきます。初演ではラリン・パラスケて女性が歌ったとか。
伴奏は木管と、民族楽器カンテレを模した弦のピチカート。
新婚旅行でカレリア地方を巡った経験が生かされてますにゃ。
ここで歌われるのはカレワラの14章、レミンカイネンがヒーシの鹿を狩るため、天空の神ウッコに祈る言葉ですにゃ。
ウッコ、至高のおん神よ、
大空なる大慈大悲のおん父よ、
我がためにいま二つのよき雪靴を、
滑るによき革の雪靴を作らせ給え、
我がそれを穿きて速やかに滑り、
陸や沼地を越えて行き、
ヒイシの土地を滑り行き、
ポホヤの荒れ野を横ぎりて、
ヒイシの大鹿を狩るために、
速き馴鹿(トナカイ)を捕らうるために、
 (以下略)
 森本覚丹訳、講談社文庫「フィンランド国民的叙事詩カレワラ(上)」より
上の引用部分が、ここで歌われてるところの半分くらいですかにゃ。
タブローの最後では、カレワラを遮って突然響く不協和音によって、伝令が開戦の報をもたらします。
初演では誰も音楽聞いてなかった、て割にはこのタブローは人気だったようで、なんどかアンコールされたとか。

タブロー2:「ヴィープリ城の築城(1293)」
第三次北方十字軍の時代、スウェーデンのトルギス・クヌトソンによるヴィープリ城の築城を描きます。
ちなみに同じ頃、トゥルクとハメーンリンナにも城が築かれてますけど、後者はシベリウスの生まれ故郷ですにゃ。

タブロー3:「リトアニア公ナリモント、カキサルミ地方に税金を課す(1333)」
序曲や次の間奏曲にも現れるメロディがやや暗い感じで奏されます。
この時代、フィンランドは大きく分割されて、ラドガ湖西岸のカキサルミ(現プリオジョールスク)がノヴゴロド公国領になりますにゃ。それで税金取られるようになったと。馬上の公爵の前に毛皮とかで物納されたものが集められる場面ですにゃ。

間奏曲1:
後に『カレリア組曲』の第一曲、「間奏曲」となる曲ですにゃ。金管楽器によるファンファーレ風のメロディが印象的です。

タブロー4:「ヴィープリ城のカール・クヌトソン、バラード(1446)」
この曲は『カレリア組曲』の第二曲「バラード」になる曲ですけど、組曲との大きな違いは後半に歌が入ること。アドルフ・イーヴァル・アルヴィドソンによる詩「民族の仮面」(? 英語訳でFolk-Visorらしいにゃ)に基づく恋の歌ですにゃー。
場面としては、ヴィープリ城の一室でクヌトソン王とその家来が吟遊詩人の歌を聴いているところですにゃ。

タブロー5:「1580年のカキサルミの門におけるポントゥス・デ・ラ・ガルディ」
戦雲に覆われた不穏な感じの音楽ですにゃ。スウェーデンのポントゥス・デ・ラ・ガルディがカキサルミの街に大砲を向けてるシーンです。この時に街の大部分が破壊されて、スウェーデンに占領されますにゃー。
このポントゥスさん、元はフランスの兵隊で、後にデンマークに移って、スウェーデンの捕虜になり、1580年に対ロシア戦争の上級指揮官になった人だそうですにゃ。

間奏曲2:
『カレリア組曲』第三曲「マーチ風に」になる曲です。ポントゥス・デ・ラ・ガルディのマーチ、て呼ばれることもあるとか。

タブロー6:「ヴィープリ包囲戦(1710)」
風雲急を告げる大北方戦争のときの情景ですにゃ。
ロシアの将校が双眼鏡を通して見た光景、てことで、ヴィープリ城そのものは見えず、堡塁と大砲だけが見えているんだそうですにゃー。

タブロー7/8:「旧フィンランド(カレリア)、他地域と再統合(1811)」「フィンランド国歌」
1808年、ナポレオンの大陸封鎖と連動して発生した、スウェーデンとロシアによるフィンランド戦争の結果、フィンランドはロシア皇帝アレクサンドル1世を大公とする大公国となります。1812年にはロシア領だったカレリア地方がフィンランド大公国に編入されるので、その前後を描いたタブローてことになりますにゃー。
時期的にはチャイコフスキーの1812年ともちょっとリンクしますにゃー。
舞台では、片手にライオンが描かれた楯(フィンランドの紋章で、下の『新聞祭典の音楽』のジャケットにあるようなやつ)を持った乙女が、他方の手で寄り添う若い女性を掻き抱き、その左右には農民達が鍬や糸巻きを運んでいる、みたいな情景だったそうですにゃー。
音楽はやや暗めの騒然とした雰囲気で始まり、最後は朗らかなフィンランド国歌(我らが国)になだれ込みます。
ただし、この国歌は1848年に書かれたものだそうですにゃー。またぞろ考証的にアレですにゃー。

●フィンランドの目覚め
 さて、せっかくのシベリウスなので、もういっちょ『新聞祭典の音楽』行きますにゃ。

 ニコライ二世の治下となって、フィンランドのロシア化は着々と進みます。背景としては、世界的に盛り上がりつつあった民族自決主義や民主主義への警戒とか、ヨーロッパで急速に台頭してきたドイツの脅威への対抗、とかがありますにゃ。

 1899年にはニコライ・イワノヴィチ・ボブリコフがフィンランド総督として着任、2月15日にロシア皇帝の名の元に二月宣言を発しますにゃー。この二月宣言は、フィンランドの議会をロシア基本法の制限化に置く、というものですにゃ。もちろんフィンランド議会を通したものではありませんし、フィンランドの憲法を尊重する、て従来のロシア皇帝(フィンランド大公)の立場とも異なるものですにゃー。
 その後も1900年には公用語としてロシア語を強制したり、1901年にはフィンランド軍をロシア軍に統合したりと続いたもんだから、フィンランド人の恨みを買ったボブリコフさんは暗殺されちゃいますにゃ。

 ボブリコフ統治の下では、言論の自由、集会の自由は大きく制限されて、新聞の検閲も始まりますにゃー。あちこちの新聞が廃刊に追い込まれ、9月には「若きスオミ」グループの新聞、パイヴァレーティがわずか数ヶ月の活動の後に発禁となりますにゃ。
 そこで1899年の11月3日から5日、弾圧された新聞関係者の年金基金設立のために、資金調達のページェントが開かれます。年金のため、てのは表向きで、実際には新聞の(言論の)自由を守るための、いわば決起集会でした。
 三日間の催しの中日には、ヘルシンキのスウェーデン劇場でフィンランドの歴史を描いた活人画が行われます。この活人画にシベやんが付けた音楽が『新聞祭典の音楽』ですにゃー。

 『新聞祭典の音楽』は前奏曲と六つのタブローで構成されます。このうちタブロー1、4、3が後に『歴史的情景第1番』作品25としてまとめられ、最後のタブロー6「フィンランドの目覚め」が、数度の改訂を経てあの『フィンランディア』になるのですにゃー。

●参考CDと楽曲解説 『新聞祭典の音楽』
 演奏は『カレリア』と同じくオスモ・ヴァンスカ指揮、ラハティ交響楽団です。BIS-CD-1115

 『新聞祭典の音楽』の他には、『ウレオ川の氷解』作品30、『レミンカイネンの歌』作品31No.1、『おまえに勇気があるか』作品31No.2、『アテネ人の歌』作品31No.3、『フィンランドは目覚める』が収録されてますにゃ。
 作品31の三曲は、合唱とオーケストラのための作品を集めて、てきとーに一つの作品番号にまとめたものみたいです。
 最後のやつは『新聞祭典』の最後にあるタブロー6の別ヴァージョンですにゃー。

前奏曲:
前半の叙情的な木管の響きと、金管の雄大なファンファーレが印象的な音楽ですにゃ。

タブロー1:「ワイナモイネンは自然と、そしてカレヴァとポホョラの人々を、彼の歌で楽しませる」
カレワラの主人公の一人ワイナモイネンが、岩の上に腰かけてカンテレを弾きながら歌う情景ですにゃー。カンテレてのはチターに似たフィンランドの民族楽器です。
歴史て言うより神話で、フィンランド人のアイデンティティーを明るく歌い上げる感じですにゃ。

タブロー2:「フィン人が洗礼を受ける」
1155年に始まるスウェーデンのエリック王(後に聖エリックとして列聖され、スウェーデンとフィンランドの守護聖人とされる)率いる北方十字軍によって、フィンランドの人々がキリスト教化されていく時代を描いてますにゃ。ヘンリク司教が若いフィンランドの酋長に洗礼を授け、他の人々も洗礼を待っている風景ですにゃー。
鐘の音で始まる重く陰鬱な雰囲気の音楽ですにゃ。

タブロー3:「公爵ヨハンの宮廷の情景から」
1550年代、スウェーデンのフィンランド公ヨハン(スウェーデン王グスタフ・ヴァーサの次男で、後のスウェーデン王、ヨハン三世)が、1812年までフィンランドの首都だったトゥルクの城で、彼がフィンランドに愛情を持ってこの国を幸福な地にしたい、と宣言する場面ですにゃ。
スペイン風のリズム(にゃんで?)が印象的な軽快な曲ですにゃー。「歴史的情景第1番」になってからの改訂では、カスタネットまで追加されて、よりいっそうスペイン風に。

タブロー4:「30年戦争におけるフィン人」
フィンランドの若い農民が、自由の旗を手に高地から戦いへと急ぐ情景、だそうですにゃー。
30年戦争は神聖ローマ帝国のプロテスタント弾圧に始まって、1618年から1648年にかけてヨーロッパ各国で行われた戦争の総称ですにゃ。フィンランドは直接戦場になってませんけど、1630年にスウェーデンが参戦すると、フィンランド人も兵隊として駆り出されるはめになってます。
寂しげな三拍子のメロディで始まったとこに、突如としてラッパが割って入り、急速な戦いの描写に移ります。最後は勝利の行進曲で終わりますにゃ。

タブロー5:「大いなる敵意」
1700年から1721年の大北方戦争を描いた活人画ですにゃー。
この戦争で、スウェーデンの一部だったフィンランドは、ヴィープリを始めとするカレリア地方をロシアに奪われ、ロシア皇帝の下でフィンランド大公国となるわけですにゃ。この戦争の時代をフィン語で「Isonvihan aikana」と呼びます。英語では「Great Hostility」と訳すみたいですにゃー。
前のタブロー4が明るく終わったのと対照的に、こっちは徹底して暗い沈痛な雰囲気に終始します。

タブロー6:「フィンランドは目覚める」
これはもうほとんどフィンランディアそのものですにゃー。最後のコーダのとこが現在のとは違って、例の「フィンランディア賛歌」の動機が出ずに終わるくらいの違い。

 このCDにはタブロー5の前の幕間の音楽(て言っても弦のピアニッシモで和音が4つ奏でられるだけ)も収録されてますにゃー。それとタブロー6のコーダを書き改めて「賛歌」を金管がフルコーラスやっちゃうヴァージョンと、その二つは世界初録音ですにゃー。

●独立と内戦とシベやん救出大作戦
 そんなこんなで盛り上がりまくったフィンランド独立の機運ですけど、結局フィンランド国民が銃を手にロシア帝国に叛旗を翻す、みたいな状況は訪れませんにゃ。それより先にロシアの方が日露戦争やらラスプーチンやら第一次大戦やらで疲弊し尽くして、革命でソビエト体制になっちゃったので、その隙にフィンランドは1917年12月4日に独立宣言を国会に上程して6日に承認、そんな感じで念願の独立を果たしたんですにゃー。

 ソビエトはこれと言って邪魔だてもせずに独立を承認します。まあソ連も自分とこの革命するのに忙しいし、フィンランドだってほっといても革命するだろう、て思ってたんでしょうにゃ。実際、独立前から対立してた左派と右派の各勢力が、各地の武装自警団を赤衛軍と白軍とにまとめあげて、内戦に突入してしまいます。
 やがて首都ヘルシンキは赤衛軍の手に落ち、マンネルヘイム率いる白軍は内閣と共にヴァーサに逃れますにゃー。

 ちなみにこの内戦の時、白軍に航空機を寄贈したり、なにかと援助してくれたのがスウェーデンのエリック・フォン・ローゼン伯爵ですにゃ。
 第二次大戦当時のフィンランド軍は、敵味方の識別マークとして「ハカリスティ」と呼ばれるナチスドイツの鉤十字を青くしたみたいなやつを付けてますけど、これはローゼン伯爵の家紋だか幸運のシンボルだかで、ナチスとは無関係の偶然の一致なんですにゃ。

 この内戦当時、シベやんが住んでたアイノラのあるヤルヴェンパーは、ヘルシンキに近いこともあって、赤衛軍の勢力圏に入っちゃいます。アイノラも兵隊に踏み込まれて荒らされてしまいますにゃ。
 シベやん自身どっちかというと上流階級出身で、旧体制から国家年金貰ってるし、奥さんのアイノも名家の出身なので、赤衛軍から見ればブルジョワ階級ですにゃ。幸いなことにアイノラに来た兵士はシベリウスをよく知らなかったみたいですけど、バレたら最後、とても危険な状況ですにゃ。
 なにせシベやんは白軍のために「フィンランド狙撃兵行進曲」作品91aなんてのも書いてますしにゃー。匿名でだけど。

 この事態を危ぶんだヘルシンキ管弦楽団の指揮者、ロベルト・カヤヌス(ヘルシンキに留まっていた)が赤衛軍司令部に直談判、身の安全を保障する一筆と護衛の兵を出させて、シベリウスの救出に向かいます。頑固オヤジのシベやんはアイノラを出るのを嫌がったそうですけど、カヤヌスがなんとか説得してヘルシンキに避難したのでしたにゃー。
 ちょうどこの内戦の頃にカルペラン男爵が亡くなってしまい、シベやんにとってはつらい時期となりました。

 フィンランドの内戦は最終的に白軍の勝利に終わりました。
 独立当初は王制(てゆーか立憲君主制)を敷こうとしたものの、肝心の王様のなり手がいない、て情けない理由で、フィンランド共和国が成立することになりますにゃー。一旦はドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の義弟、フリードリヒ・カールが国王に内定するんですけど、結局辞退したとかゆー話にゃ。

 こんなとこでシベリウス編はおしまい。次は一度ロシアに戻って、プロコフィエフと一緒にシベリア超特急で日本を目指しますにゃー。

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