ベートーヴェン
『ウェリントンの勝利、またはヴィットリアの戦い』作品91


 まず記念すべき最初の登場は、楽聖ベートーヴェンの作品の中でも駄作の誉れ高き『ウェリントンの勝利』ですにゃ。

●参考CD
 何の因果かこの曲、うちには2枚もありますにゃー。古いのであまし参考にはなんないかもにゃ。
 左の一枚目はテラークのCD-80079、エリック・カンゼル指揮シンシナティ交響楽団。大砲とマスケットはノース・サウス・スカーミッシュ・アソシエーション(南北小戦協会)です。スコアに合わせて本物の12ポンド砲や火縄マスケットの音をミキシングしてあって、大砲の音がでかいので、オーディオ装置を壊さないように、て注意書き(左上の黄色い丸)が泣かせますにゃー。
 右の二枚目はCBSソニーの30DC 706、ロリン・マゼール指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団。大砲やなんかの音も入ってますけど特にデータ無し。ウィーン楽友協会ホールの残響がひど、いや、豊かすぎて、対岸の火事てゆーか細部でなにやってんのか良く聞こえにゃーのが残念。

●楽曲解説
 この作品、またの名を『戦争交響曲』とも呼ばれます。しかし、形式としては全然交響曲ではなくて、後のリストあたりの頃なら交響詩と呼ばれるようなものですにゃー。
 全体は二部構成で、前半がイギリス軍とフランス軍のヴィットリアの戦いを描き、後半でイギリス軍の勝利を祝う祝典音楽になっています。
 曲の中でラッパと打楽器を舞台左右に振り分けて、舞台上手がフランス軍、下手がイギリス軍の役をやります。大太鼓が大砲、ラチェットが小銃を表していて、左右から撃ち合う趣向ですにゃ。最近の演奏では、いわば代用品である大太鼓やラチェットではなく、上のCDのように本物の音を使ってることもあります。

 曲が始まると、左(下手)の方から太鼓の音が近づいてきます。ラッパに続いて響くは「ルール・ブリタニア」、ウェリントン公アーサー・ウェルズリー率いるイギリス軍が布陣を終えたようです。
 続いて右からも太鼓とファンファーレ、そして「マールボロ行進曲」です。フランス軍も位置に着きました。
 双方ラッパによるエールの交換(違)を行って、いよいよ戦闘開始。勇壮な音楽に合わせて先に大砲ぶっ放したのはフランス軍。それにイギリスも大砲とマスケットで応戦します。
 しばし激しい砲火の応酬が続きけど、早くも開戦3分ほどで、フランスの大砲はだんだん間遠になって聞こえなくなってきます。やがて短調になったマールボロ行進曲が流れます。どうやらフランス軍は敗走しているようですにゃ。でもイギリスの砲撃は続きます。追い打ちです。容赦にゃーです。

 戦闘が終わって第2部。イギリスの凱歌が上がって、ひとしきりの祝賀ムードが落ち着くと、静かに流れるイギリス国歌「ゴッド・セーブ・ザ・キング」によるフーガが荘重に奏でられます。
 でも……長い。長いよママン(なぜフランス語)。正味の戦闘よりお祝いの方が長いくらいですにゃー。

●べートーヴェンとナポレオン
 ルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェンの創作時期はほぼフランス革命後のナポレオンの勃興と没落に重なりますにゃ。そもそも年齢もナポレオンはベートーヴェンの一歳上ですし。関連年表(PDF)とか作ってみましたにゃー。
 子供の頃にアメリカの独立があって、青春の多感なころにフランス革命があって、そんなこんなでベートヴェンはフランス革命の理念「友情、努力、勝利」……じゃなかった「自由、平等、博愛」を奉じる自由主義者でした。

 それからベートヴェンは同じ頃に流行していたカントの思想なんかにも影響されて「音楽は芸術だ」と言い始めた最初の人でもあります。
 それまでは音楽家の栄達の道と言えば、どこかの王侯貴族の宮廷楽士になることでした。主人のために食事の時のBGMやら舞踏会やらさまざまなイベントのための音楽を書いたり演奏したりが仕事だったんですにゃ。
 モーツァルトなんかは宮廷に入り込めなかったので、貧乏暮らしが続いて命を縮めたりしたわけですにゃー。
 そんな時代、ベーさんは貴族相手に「芸術家」として対等な扱いをするよう求めたわけです。
 でも、彼の「自由、平等、博愛」もあんまし徹底してなくて、女中さんとかにはささいなことで当たり散らして、もう人間扱いしてないみたいなところもあったみたいですにゃ。惚れる女も貴族ばっかしだし、もしかしたらベーさん、心の底では自由主義者どころか自分が貴族になりたかったのかもしれませんにゃ。

 まあそんなこんなでベートーヴェンはフランス共和国の革命の英雄であるナポレオンの熱烈なファンだったのですにゃー。それがどうしてナポレオンが負けたヴィットリアの戦いをネタにするに至ったか。

 1804年、人民の英雄ナポレオンがなんとフランス皇帝に即位してしまいます。
 この報を聞いたベーさんが、ヤツも所詮は俗物だったか、と激怒して、ナポレオンに献呈しようとしていた交響曲第三番の楽譜の表紙に書いてあった『ヴォナパルテ』て標題をペンで激しく塗り消した、と言うのはよく知られたエピソードですにゃ。
 ただ、これももう少しいきさつがあって、弟子のリースの回想録には、リースが初めてこの知らせをベーさんにもたらしたとき、ベーさんは怒りのあまり『ヴォナパルテ』と書いてある交響曲の草稿の一枚目を破り捨てた(ものの、曲の中身はなくなると困るのでまた書き直すはめになった)とあるそうですにゃ。表紙を塗り消した、てのは曲の完成後に清書した自分用の総譜の話みたいですにゃ。それも一旦消した後にまた鉛筆で書き直そうとした跡があるとか。自筆楽譜の実物って、手にとって見たことはないですけどにゃー。
 だから全部ホントだとすれば、草稿に書いてあった題名を消して、完成した総譜にまた書いて消して、さらに書こうとしたことになりますにゃ。迷ってますにゃー。

 この曲に関しては、ベーさんのパトロンだった音楽好きな貴族ロプコヴィッツ侯爵が400グルデンで買い取ろうとか申し出ていたそうで、ナポさんに献呈するかロプさんに売るかで迷ったみたいなんですにゃ。当時は献呈と言えば基本的にただであげちゃう(とは言っても、お金とかなんらかの見返りは期待してのことで、だいたいの相場みたいなのはあったそうですけど)ことになるので、お金にうるさいベーさんとしては皇帝云々とはまた別に悩みの種があったわけです。
 結局、この交響曲第三番はロプコヴィッツ侯に「献呈」されて、題名も『英雄』となり、非公式の初演もロプコヴィッツ邸で行われることになります。

 さて、戴冠後のナポさんは、翌年のトラファルガー海戦を始め、周辺諸国との戦争を繰り返します。フランスの覇権主義に対して、周りも幾度となく対仏大同盟を組んで対抗します。
 対仏大同盟の中心はおおむねイギリスとオーストリアですにゃ。そんなわけで第三次対仏大同盟や第五次大同盟のオーストリア戦役では、フランス軍がベートーヴェンの居るウィーンを占領したりしてます。しかも第三次のときのウィーン入城は1805年の11月14日で、因縁の英雄交響曲公式初演(4月7日)から七ヶ月後てタイミングですにゃー。

●ベートーヴェンとメルツェル
 その後、1808年ごろになるとベートーヴェンの方はスランプに陥ったりとかして、かなり貧乏になってました。
 そんな折り、ウェストファリア国王からベートーヴェンに、カッセルの宮廷楽長として招聘したい、というお誘いがかかります。本人はかなり行く気になってたんですけど、ウィーンの音楽好きの有志がベーさんを惜しんで、前出のロプコヴィッツ侯爵、キンスキー侯爵、さらにルドルフ大公を動かし、この三人がベーさんに年金を支給することでカッセル行きを止めさせました。
 この年金契約が1809年の3月ごろですけど、そのわずか二ヶ月後の5月13日、第五次対仏大同盟がらみでフランス軍がまたもやウィーンに進駐します。そんなこともあって、度重なる戦争で疲弊してるオーストリア経済はガタガタになりますにゃ。平価切り下げなんかもあって、せっかくのベーさんの年金も値打ちが下がります。
 さらにナポレオンがロシア侵攻を始める1812年になると、ロプコヴィッツ侯は音楽好きが昂じて始めた劇場の経営に失敗、破産して年金どころじゃなくなります。さらにさらにキンスキー侯が落馬事故で急死して、やはり年金支払いが停止。もう踏んだり蹴ったりですにゃー。

 またまたお金に困り始めたベートーヴェンに、後にメトロノームの発明者として名をはせることになる、音楽ファンで機械職人のメルツェルさんが声をかけます。時は1813年、ロシアで負けたナポレオンがどんどん追いつめられていく時期ですにゃ。
 メルツェルのお誘いは、彼が作った初期のオーケストリオンである『パンハルモニコン』で演奏するために、ぜひ音楽を書いてくださいな、というお話。それもこの年の6月21日にスペイン戦線でナポレオンがイギリスのウェリントン公に負けたヴィットリアの会戦をネタにして、勝った側のイギリスで売り出せば儲かりまっせ、てことですにゃ。
 メルツェルさんも音楽好きなだけに曲の構成とかにいろいろ注文を出してて、最初に両軍のマーチ(彼が自分で書いたらしい)で始めるとか、イギリス国歌をフーガにするとか、その辺は彼のアイディアによるものらしいですにゃ。

 ちなみにメルツェルのパンハルモニコンがどんなのかはよくわかりませんけど、バレルオルガンの一種、みたいな解説が多いですにゃ。オーケストリオンてのはこんな感じで、観光地になぜかよくあるオルゴール博物館とかに行くと置いてあります。要はいろんな楽器を組み合わせて、オルゴール式に自動演奏する機械ですにゃ。

 さて、メルツェルに乗せられてその気になったベートーヴェン、『ウェリントンの勝利』を書き上げたはいいものの、パンハルモニコンの仕様に合わせるのに手間取った上にあんまり人気も出なかったので、改めて普通のオーケストラ曲として仕上げます。普通と言っても楽曲紹介のところで説明したような、仕掛けとケレン味たっぷりのアレですけどにゃ。

 ともあれ作品はできたので、これもまたメルツェルさんの手配で初演を行うことになります。で、この舞台がなんとプロイセン戦線でナポレオンが負けたハーナウの戦いで負傷した傷痍軍人のための慈善演奏会なんですにゃー。12月8日、場所はウィーン大学の講堂、指揮はベートーヴェン本人、事のついでに一年以上前に作曲したきり演奏の機会がなかった交響曲第七番も一緒にやります。
 順番としては先に演奏された交響曲第七番も好評で、「不滅のアレグレット」の異名を取る第二楽章をアンコール演奏したりしてますけど、メインは当然ウェリントン。これがもう聴きに来た傷痍軍人の皆さんにバカ受けですにゃ。ハーナウの仇をヴィットリアで討ったみたいにゃ。
 一説によると最初の両軍のマーチとファンファーレはパンハルモニコンを使ったとかいう話なので、つまりはこの管弦楽版のコンサート自体、売れ行きのぱっとしないパンハルモニコンの宣伝て意味もあったんでしょうにゃー。
 あと、大砲役の打楽器群はモーツァルトとの因縁で名高いサリエリが指揮を執ったとか、そんな逸話も残ってます。

 初演後もナポレオンのさらなる没落とともにこの曲の人気は衰えを知らず、成功に気を良くしたベーさんはピアノ版やら弦楽合奏版やらいろんな編曲版も出したりして大儲けします。
 この時代はまだ著作権の概念自体が今ほど確立されてませんから、ベートヴェンにしても出版社に楽譜(を出版する権利)を売ったらそれっきりなんで、印税なんかは入らなかったはずですにゃ。それでアレンジ版出したり、あちこちの国の出版社にそれぞれ売ったりとかして継続的な収入に結びつけてますにゃー。あとは演奏会の入場料収入ですか。
 彼が甥のカールに残した遺産も、ほとんどはこの作品で得た収入によるものだとか。

 そうなると面白くないのはメルツェルさん。もともと自分が書いた曲だ、くらいに思ってますから、ベートーヴェンばかりが儲けるのはけしからんと、自分でも楽譜を起こして演奏会を開いちゃったりします。それに怒り狂ったベーさん、この曲の所有権をめぐって1814年にメルツェルを訴えますにゃ。
 著作権の概念があやふやなら法整備も不十分なわけで、おまけに作曲とか編曲とかの経緯も複雑ですから、この裁判はなかなか進みません。結局1817年になって、メルツェルさんの方が完成したメトロノームを手みやげに持ってきて「もうお互い様ってことでこの辺にしときましょうや旦那」と言ったかどうか、裁判所や弁護士そっちのけで当事者同士で和解してしまいます。
 ベートーヴェンはこのメトロノームが大層気に入ったらしく、新作の交響曲第八番から旧作の一部にもさかのぼってメトロノームによる速度表記を付け、メトロノームの普及にも一役買うことになります。「M.M. 100」とか書いてみなとみらい、じゃなくて、メルツェルのメトロノームで100に合わせろ、みたいに。
 もっともベートーヴェンによる表記には、その通りやると早すぎるとか異論もあったりするみたいですけどにゃ。右に振れて一拍、左に振れて一拍のところを、往復して一拍と勘違いしてたんじゃないかとかなんとか。
 メルツェルの方も(いつ頃か時系列がよくわかんないんですけど)ベートーヴェンに補聴器を作ってやったりしてます。電気のない時代なのでラッパ状の集音器ですけどにゃ。

 ちなみにこのヨハン・ネポムク・メルツェルて人はかなり山っ気のある人で、メトロノームにしても、元はアムステルダムでヴィンケルさんが発明したものにメルツェルさんが目盛りを付けただけとか、彼の貢献はそんなものなんですにゃ。で、それを先に特許を取ったもんだからメルツェルの発明、てことになったわけ。この件でも後にヴィンケルともめてますにゃ。
 しかしそれくらいで懲りるメルツェルさんではありません。現代のメトロノームは一小節の二拍とか四拍とかに一回「かち、かち、かち、ちーん」と鐘を鳴らす機能がついてますけど、これをフルニエという時計職人の人が考案すると、メルツェルさん、早速自分の製品にも取り入れちゃうんですにゃ。
 あと「ターク」て言うチェスを指す自動人形を譲り受けて、「メルツェルのチェス・プレイヤー」として見せ物の巡業して回ったりしてます。この機械、チェスの名人と勝負して勝ったりしてるそうですにゃ。もちろん、この時代にそんな機械を作れるわけはないので、実は中の人が操作してるわけですけどにゃー。
 それでもこのインチキ装置、作家のエドガー・アラン・ポーや、初期の機械式計算機、階差機関で有名なバベッジに影響を与えた、てゆーか驚かしたそうですにゃ。
 他にも自動綱渡り師なんてのも作ってるみたい。

●大衆の音楽と国民の戦争
 ベートーヴェン、「自由主義者で大衆のために音楽を書いた初めての作曲家」みたいな書かれ方をすることがよくありますにゃ。それは確かにそうなんですけど、実際に大衆受けを狙って作曲を始めるのはこのウェリントンあたりからなんですにゃ。
 そもそもベーさんとしては「音楽は芸術だ」と大見得切って言い始めた手前、芸術に関する素養のある知識階級を相手にしたいわけで、あの当時に芸術の素養とか言ったらまず王侯貴族くらいしかいないんですにゃ。前出のカッセルの宮廷楽長の件も乗り気になってますし、特権階級のためではなく大衆のために音楽を書こう、みたいな意識はほとんどなかったんじゃないですかにゃー。
 逆に音楽の大衆化という意味では、辻音楽師や吟遊詩人みたいのは別にしても、モーツァルトのオペラあたりで既に始まってるわけです。でも、ベーさんが目指すような芸術音楽への理解が一般大衆に広まって行くには、少し時間がかかるんですにゃ。
 それが時代背景として貴族階級がだんだん没落していくなかで、今回の『ウェリントンの勝利』あたりをきっかけにして、(ある意味やむなく)大衆相手に作曲や演奏活動をしていくことになったわけですにゃー。

 そしてまた戦争というものも、フランス革命からナポレオン戦争への流れの中で、それまでの王制下の常備軍や傭兵による戦争から、徴兵制によって動員した国民軍による国家総力戦へと移り変わっていくことになりますにゃ。
 文化や国家の主体が、貴族や王族から市井の民に取って代わられていく、それがベートーヴェンの生きた時代なんですにゃー。

 はい、これでベートヴェンの項はおしまいにゃ。次はナポレオンつながりでチャイコフスキーの『大序曲1812年』ですにゃー。

チャイコフスキー
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