プロコフィエフ
歌劇 『戦争と平和』作品91


 今回はシベリウスのフィンランドからまたロシアに戻って、セルゲイ・セルゲイエヴィチ・プロコフィエフです。晩年の大作オペラ『戦争と平和』をとりあげますにゃ。
 原作は言わずと知れたトルストイの長編小説。ナポレオンのロシア侵攻、ロシアで言う祖国戦争のお話ですにゃ。作曲は「大」祖国戦争開始の1941年から始められ、最終第5版は1952年に完成します。
 扱ってるネタはチャイコフスキーの『大序曲1812年』と同じで、書かれた時代はショスタコーヴィチの『レニングラード』と同じ、作品番号はベートーヴェンの『ウェリントンの勝利』と同じ、てことになりますにゃ。

 1891年生まれのプロコフィエフは、ショスタコーヴィチより15歳上なので、歳から言えば一世代上、とまではいかない半世代上くらいになりますかにゃ。
 しかしこの二人の間には、深くて暗い川があります。ロシア史上の大事件、てゆーか世界史上でも大事件、ロシア革命ですにゃ。
 プロコがロシア帝国末期にサンクトペテルブルク音楽院で学んだのに対して、タコさんはソ連時代のペトログラード音楽院に学んでますにゃ。どっちも同じ学校なんですけど。

 プロコフィエフの略年表はこんな感じですにゃ。

●プロコフィエフの世界一周
 革命当時、プロコフィエフはロシア未来派を担う作曲家として外国でも名が売れてきたところでした。ソ連にとっても芸術面での期待の星だったわけですけど、政情不安とか先行きを悲観したプロコは国外脱出を決意、結果として世界を一周して祖国に戻ってくることになりますにゃ。
 まずはその辺のとこから行ってみましょうにゃー。

 プロコフィエフの出奔は、よく「亡命」と表現されますけど、実のとこ「ロシアはもうダメそうだから、アメリカでも行って一旗揚げてみっか」程度の考えだったみたいですにゃ。
 特に政治信条とか迫害を受けたとかそんなこともなくて、逆にソビエトの教育人民委員ルナチャルスキーに移住を思い止まるよう慰留されたりしてます。
 とにもかくにも、シベリア鉄道を使って日本経由でアルゼンチンを目指すべく、ペテルブルグを出発したのが1918年の5月2日。その頃のシベリア鉄道の特急は、政情不安のためモスクワ始発の便しかなくて、5月7日にモスクワ発、て感じで故郷に別れを告げることになりますにゃー。

 ちなみにアルゼンチンを目指してなぜシベリア鉄道に乗るかと言えば、ヨーロッパの方面ではまだ戦争やってるからですにゃ。
 少し前の1916年には、スペインの作曲家のグラナドスが乗った客船が、英仏海峡でUボートのボカチン喰らって沈んだりしてますから、そっちのルートはまだまだ剣呑なわけですにゃー。
 このグラナドス、一旦は救命ボートに乗ったものの、奥さんを捜しに海に飛び込んでそのまま帰らなかった、と伝わってますにゃー。

 それはそうと、プロコがシベリア鉄道に乗ってから日本を立つまでの間の日記が、こちらのサイトで翻訳、公開されてますにゃ。
 1918年のブログ、て形式になってるので、左の方のバックナンバーから1918年5月に飛んで、あとはカレンダーを追っかけてくと8月2日分まで読めますにゃ。
 同じ内容が書籍にもなってて、サブリナ・エレオノーラ/豊田菜穂子訳『プロコフィエフ短編集』として群像社ライブラリーから出てますにゃー。

 この日記を読むと、途中でカザーク軍の跳梁を避けるために、アメリカ軍が敷いた迂回線を使ったりして、5月23日ウラジオストック着。ここで日本のビザ取得のために滞在中、日本海軍が居留民保護のために派遣した艦隊(海防艦「朝日」と「石見」で、石見は日露戦争で鹵獲された元ロシア海軍のオリョール)を見たり、と生々しい記述がありますにゃ。
 29日にウラジオから船に乗って敦賀に着いて~、水行3日陸行1日、東京到着が6月1日なので、ここまでほぼ一ヶ月がかりの旅ですにゃー。

●日本で
 ところがやっと日本に到着してみると、南米行きの船は三日前に出たばかり、船は出て行く煙ももはや残ってない、次の便も当分ないのが癪の種、てはめになりますにゃー。
 それでもこの後、プロコがまだ日本にいるうちに、シベリア出兵のきっかけとなる「チェコ軍とポルシェビキ軍が衝突」との報を聞いてます。この騒動でシベリア鉄道は使えなくなっちゃいますから、まさに間一髪のタイミングで出国できたわけですにゃー。

 当時、ロシア人のアメリカ合衆国への入国はわりと困難だったみたいで、それでプロコフィエフも最初のうちはアメリカを諦めてアルゼンチンを目指してたみたいなんですにゃ。
 そこへアメリカのビザ取得に尽力してくれる人がうまいこと日本で見つかったので、主にそのビザ待ちのために、プロコとしては不本意ながら2ヶ月ばかり日本に滞在します。
 ところが、なにしろ本国が転覆してエライことになってるもんだから、ルーブルの価値がどんどん暴落して、プロコが持ってきた旅費もみるみるうちに目減りしてきますにゃ。そこでやむなくピアノリサイタルを開いて旅費の足しにしたりしてますにゃー。

 実は、西洋で名の通った現役の作曲家が日本を訪れたのは、このプロコフィエフが最初なんですにゃ。そんなわけで、日本の楽壇にはそれなりの刺激になったようです。それ以前にお雇い外国人として来てた音楽家の人達は、どっちかて言うと教師でしたからにゃ。
 日本でのプロコは主に東京から横浜あたりで過ごしてましたけど、京都や大阪、奈良、あと軽井沢とか箱根にも行ってます。その間、多くの在日ロシア人や音楽評論家の大田黒元雄、徳川公爵(家達)なんかと会ってますにゃ。
 その頃の日本で西洋音楽の大御所というと、次回に出てくる山田耕筰ですけど、ちょうどこの時は渡米してて留守。翌年ニューヨークで会ったみたいですにゃ。どんな話をしたんでしょうかにゃー。

 ちなみに革命を避けた亡命ロシア人は、この頃には世界中に散っています。そのうちでプロコみたいにシベリア鉄道経由で逃げた音楽家が、満州はハルビンの東支鉄道交響楽団に吹き溜まってて、このオーケストラは当時のアジアで随一のレベルを誇ってたとか。

 プロコが日本を発ったのは8月2日。日本がシベリア出兵を始めるのが8月11日。
 風雲急を告げるアジアを後に、新天地アメリカを目指しますにゃー。

●アメリカ、そしてパリへ
 勇躍アメリカ上陸を果たしたプロコフィエフ、この新天地で身を立て名を上げやよ励もうと、オペラ『三つのオレンジへの恋』をヒットさせます。
 でもこの時期の作品であたりを取ったのはそれくらいで、プロコはもっぱらピアニストとして知られるようになりますにゃ。「鋼鉄の指を持つピアニスト」の異名を取ったくらい。

 彼が居たアメリカは、その後ブロードウェイでぶいぶいゆわすことになるガーシュインが『スワニー』でデビューした直後で、音楽シーンはラグ・タイム全盛からジャズへと移ろうとしてるところですにゃ。
 ロシアではモダニズムで鳴らしたプロコフィエフですけど、ここアメリカではモダンの方向がだいぶ違ってたんですにゃー。
 五年ほどアメリカで暮らす間に、後に妻となるスペイン出身のダンサー、リーナ・コディナ(本名はカロリーナ)と知り合ったりとかはありましたけど、結局プロコのアメリカン・ドリームはならず、今度は芸術の都パリを目指します。

 戦間期のパリは、クラシック音楽の本場であるドイツに代わって、ヨーロッパ音楽の中心地となっていますにゃ。
 ロマン派のサン・サーンスとか印象派のドビュッシーが亡くなって間もない時期で、プーランクやオネゲルとかのフランス六人組の活躍が始まっています。音楽的には今一度モーツァルトとかハイドンとかの古典的な形式感に立ち返ってみる、いわゆる新古典主義が流行してますにゃー。
 プロコもロシア時代に、ハイドンが現代に生きていたらこんなの書いただろう、みたいなコンセプトで交響曲第1番『古典』を書いてますにゃ。

 でも、パリ時代にはやぱしモダニストとしての矜恃からか、六人組に対抗して「鉄と鋼で出来た交響曲」と評された現代的な交響曲第2番を書いてます。もうギンギンにとんがってる作品ですにゃー。
 同時期にはバレエ『鋼鉄の歩み』なんて作品もあります。
 ところが、これがあんましウケないんですにゃ。ロシアの未来派的な方向では、ロシア脱出の先輩格であるストラヴィンスキーが、大戦前の1913年にバレエ『春の祭典』の初演でシャンゼリゼ劇場を大混乱に陥れたのがまだ記憶に新しいもんだから、そのインパクトとなにかにつけて比較されちゃうんですにゃ。
 当のストラヴィンスキーは、これがまたころころと作風を変える人で、1920年代頃にははやりの新古典主義に染まってるんですけどにゃー。
 ストラヴィンスキーは大戦勃発の1914年にはスイスに移住してます。その翌年だかにロシアの興行師ディアギレフの家でプロコフィエフとストラヴィンスキーは会ってるらしいですにゃ。

 そんな環境で頑張っていたプロコも、しまいには「作風が型にはまってきてないか」みたいな指摘を受けたりするようになります。前衛芸術家がマンネリとか言われた日にゃ、もう立つ瀬がないわけで、ここに至って彼もモダニズムの限界を悟り始めますにゃ。
 やがて自身の中にあるロシア的なものへの回帰からか、プロコフィエフは1920年代後半ころから度々ロシアに帰国するようになって、パリとモスクワの両方に居を構えて、行ったり来たりする生活になります。
 最終的には1932年にソ連の市民権を取得して、妻のリーナと一緒にモスクワで暮らすようになり、さらにソ連から海外への渡航が制限されてくると、もう国外へは出るに出られなくなって、プロコフィエフの世界一周の旅は終わりを告げることになりますにゃー。

●ソ連時代と次の戦争
 10年あまりに渡って青い鳥を追いかけたプロコフィエフ、故国に腰を落ち着けて、ここから彼の名作の森が始まります。
 プロコの作品ではおそらく最も有名な『ピーターと狼』や、シェイクスピアを原作としたバレエ『ロメオとジュリエット』もこの時期に書かれてますにゃ。それから映画監督のエイゼンシュタインと組んで、映画音楽の分野にも進出してますにゃー。

 時代はスペイン内戦から冬戦争、ポーランド分割と進み、1941年にドイツがソビエト侵攻を開始すると、プロコフィエフも疎開を余儀なくされます。
 最終的にグルジアのトビリシに逃げ延びたプロコ、ここで交響組曲『1941年』と題した15分ほどの作品を書いてますにゃ。
 この作品は『闘争』『夜』『人類愛のために』の三曲からなり、当時の彼の心理をよく表しています。勇壮ながら悲愴感漂う行進曲、美しさの中にも不安をはらんだ夜想曲、平和への希望を歌いつつも手放しには信じ切れずにいる終曲。わかり易いスタイルで書かれているだけに、その屈折した内容はあまし評判がよくなくて、出版にも至らなかったそうですにゃ。

 この対独戦は「大祖国戦争」と呼ばれることになったくらいで、対ナポレオンの「祖国戦争」との類似は誰もが考えるところですにゃ。そしてロシアでナポレオン戦争と言えば、トルストイの「戦争と平和」を忘れるわけにはいきません。
 プロコとしても「戦争と平和」を原作としたオペラを構想し始めたのですにゃー。

 オペラ『戦争と平和』は1941年に着手されますけど、当初より共産党の芸術委員会から、貴族生活を肯定的に描くな、ロシア人民の英雄的行動を強調せよ、みたいな注文が付きました。
 そんなこんなで最初のヴァージョン(後に言う第1版)は1943年に完成を見ますにゃー。
 でも人民の讃え方が足りないみたいなケチが付けられたり、場面構成に悩んだりして、その後も最晩年まで延々と改訂が続けられることになりますにゃ。最初11場だったのを増やしたり減らしたり、二晩かけて上演するようにしたり、また一晩に戻したり、なにせ原作が超大作大河小説の部類ですから、オペラとしてまとめるのには苦労したみたいですにゃ。
 最終版は第5版になってますけど、もしプロコがもっと生きてたら、まだまだ改訂が続いたかもしれませんにゃ。

●参考DVD
 このDVDは、今をときめくカリスマ指揮者ゲルギエフが、手兵のキーロフ・オペラを率いて本拠地マリインスキー劇場で1991年に行った公演ですにゃ。第5版によるもので、全曲ノーカットの完全版です。(ニホンモニター発売 DLVC-8046)
 この作品は長いので、あちこち端折った慣用版てのもあるそうですけど、ゲルギエフはプロコフィエフの専門家でもあるので、やぱし全曲演奏には思い入れがあるんでしょうにゃー。
 主なキャストはこんな感じ。

ヴァレリー・ゲルギエフ指揮、キーロフ歌劇場管弦楽団、同合唱団
アンドレイ:アレクサンドル・ゲルガロフ
ナターシャ:エレーナ・プローキナ
ピエール:ゲガム・グリゴリアン
クトゥーゾフ:ニコライ・オホートニコフ
ナポレオン:ヴァシーリイ・ゲレロ

 全体は大きく2部13場に分かれてて、第1部が「平和」、第2部が「戦争」になってます。DVDでは各1枚の2枚構成にゃ。
 総収録時間は253min.になってますけど、開演前の会場の様子やカーテンコールも入ってるので、本編はざっと四時間、てとこですかにゃ。

●作品解説
 ここでは全場面を細かく解説してるとキリがないので、要点にとどめますにゃ。

 まず第1部第1場、暗い舞台に一人、アンドレイ公爵が現れます。なんだか今にも死にそうな感じで悲嘆にくれてますにゃ。
 そこへロストフ伯爵家の令嬢であるナターシャの天真爛漫な声が聞こえてきて、アンドレイはなんとか生きる気力を取り戻します。
 オペラでは全く説明がないので、なんでアンドレイが絶望してるのか不明ですけど、原作で奥さんが亡くなった直後あたりから始まってるわけですにゃ。

 第2場は舞踏会で、ピエールの仲立ちでナターシャとアンドレイが出会うシーンにゃ。ピエールはこの時点で既に結婚してて、奥さんのエレンを伴ってますにゃ。
 この場面は全曲中で最も華やかな音楽が展開するとこで、これを聴いたショスタコーヴィチが絶賛したとかにゃー。
 でも例の貴族の描写に関する党の指示のせいか、あるいはこの後ナターシャにちょっかい出すアナトーリがナターシャを見初めるシーンでもあるせいか、どこかいびつな感じのワルツには微かに不安な陰がつきまとってますにゃー。

 その後、アンドレイとナターシャが婚約したり、アンドレイが親の反対で国外に遠ざけられたり、その隙に言い寄ったアナトーリの誘惑にナターシャが負けたり、ピエールがナターシャを励ます一方で、アナトーリをそそのかしたのが妻のエレンだったことで自己嫌悪に浸ったり、アナトーリをピエールが追っ払ったりしたところで、ナポレオンのロシア侵攻の知らせが届いて、第1部の幕となりますにゃ。

 第2部の戦争編、まずは舞台を埋め尽くすロシア民衆の合唱による状況説明から始まります。フランス軍の暴虐とロシア民衆の抵抗を歌い上げ、偉大なるロシアの大地を讃えて締めくくりますにゃー。
 このオペラの成立過程からしていかにも政治的なところですけど、音楽は堂々とした大合唱で、聞き応えありますにゃー。

 続いてボロジノで合戦準備にいそしむ兵を、従軍して連隊を率いる立場になったアンドレイが見回る場面にゃ。作戦会議とかしてるとこへ、スモレンスクから焼け出された難民が到着、ここでもフランス軍を批難する二重唱が入ります。
 再びアンドレイが登場して、伝え聞いたナターシャの裏切りを嘆いていると、そこへ平服のピエールがやってきます。二人は近況など話した後、もうこれきり会えないかもしれないと、日本なら水杯でも交わすところにゃ。
 ピエールは貴族社会に嫌気がさして家出してきたんですけど、ここで兵士達の姿を見て、自分も一兵卒として出征しようと考えるのですにゃ。

 そしてロシア軍を統べる司令官クトゥーゾフ将軍が登場して、民衆と兵士を讃え、鼓舞するアリアを歌います。普通なら訓辞でもたれるとこですけど、オペラだからアリアなんですにゃ。そして各隊の兵士が続々と姿を見せ、騎兵隊なんか馬に乗って舞台に現れ、いよいよ開戦、てとこで場面転換になりますにゃー。

 ロシアを攻めあぐねてイライラするナポレオン側の作戦会議をはさんで、今度はモスクワ放棄を決断するロシア側の作戦会議。ここで苦渋の決断を下したクトゥーゾフ将軍が、その心中を吐露するアリアが入ります。

 作戦会議ばっかしで戦闘らしい戦闘シーンが全然ないまま(死屍累々みたいな演出はあるけど)、次は空っぽのモスクワにフランス軍が進駐する第12場にゃ。
 フランス軍の略奪や暴行に立ち上がるモスクワ市民、ついに市街に火を放ちます。ジャケット写真はこの場面で、炎上するモスクワを呆然と眺めるナポレオンにゃ。

 そんな中、モスクワに戻ったピエールは、ナターシャの一家や、負傷していたアンドレイのモスクワ脱出を知ります。
 ピエールは我が手でナポレオンを殺さんと決意するんですけど、逆に放火犯と間違われて捕まっちゃって、危うく銃殺刑に処せられそうになりますにゃー。
 この第12場こそが全編中のクライマックスで、市民達の合唱や燃え上がるモスクワ市街など、見所満載ですにゃー。

 場面は変わって、アンドレイがナターシャに看取られて亡くなるシーン。
 お互いに愛情を確かめ合う二人の二重唱はせつないですにゃー。二人が出会った舞踏会のワルツもしんみりと回想されます。
 しかしワルツはうなされるアンドレイの幻覚に取って代わられ、はかなく消えていくのでした。

 最後の第13場、スモレンスク街道を退却するフランス軍。ピエールは捕虜として連行されてますにゃ。そこへ追撃するロシア民兵が襲いかかり、フランス軍は散り散りに壊走して、ピエールも解放されますにゃー。
 勝ち戦で浮かれる人々。軽口に笑いも起きる中で、ピエールは妻エレンの死、アナトーリが両足を失ったこと、そしてアンドレイの死と、ナターシャもまた体調を崩していることを聞かされますにゃ。あまりの多くのことが一度に押し寄せて、ピエールは混乱するのにゃー。
 そんなピエールを尻目に、行進するおばさん部隊と正規軍、クトゥーゾフ将軍が登場して高らかに勝利を歌います。最後は軍民入り乱れての大合唱となって、全編の幕を閉じるのでしたにゃー。

 総じて第1部の平和編がメロドラマの出来損ないみたいで今ひとつなのに対して、第2部戦争編は民衆の数を頼んだスペクタクルで、見栄えも聴き応えもありますにゃー。後半とにかく「民衆の合唱」が多くて、何かってと合唱が入るのは、党の指導のたまものなんでしょうにゃー。

●ジダーノフ批判
 さて、彼が『戦争と平和』をいじくってる間に、ショスタコーヴィチのとこでもちょっと出てきた1948年の「ジダーノフ批判」が発表されます。中央委員会書記ジダーノフが音頭を取って、文学や音楽における前衛芸術が社会主義リアリズムの理念に反している、と攻撃を始めたんですにゃ。簡単に言うと「なんだかよくわからん作品を書くな」てことですにゃー。
 音楽方面での発端は、ヴァノ・ムラデリの『偉大なる友情』てカフカスを舞台としたオペラで、これのどこかが同志スターリンの気に食わなかった、と言うことらしいですにゃ。だけど批判の真の標的は、なにかと反抗的というかイヤミな作品ばかし書いてるショスタコーヴィチだったと言われてますにゃー。

 プロコフィエフもこのジダーノフ批判の対象にされます。たとえば初演では誉められた交響曲第6番なんかが、一転して「形式主義的」のレッテルを貼られ、その後は演奏されなくなったりしてますにゃ。
 プロコが曲を付けたエイゼンシュテインの映画『イワン雷帝』が、第2部以降でスターリンへの批判色を強めてきたことで上映禁止になった、てのも影響してるかもしれませんにゃ。エイゼンシュテイン自身はシダーノフ批判の直前に亡くなってます。
 まあ、プロコにしてみれば、ショスタコーヴィチを斬って返す刀で斬り付けられたみたいなもんですけど、ノンポリな彼はタコさんと違ってこうゆうのに免疫がないので、かなりうろたえたそうですにゃ。

 そこへ追い打ちというか、奥さんのリーナがスパイ容疑で逮捕されちゃいました。シベリア送り、てのが例え話じゃ済まなくて、ほんとにシベリアの収容所に送られて強制労働させられたんですにゃ。
 リーナはスペイン生まれだし、アメリカでダンサーやってたくらいなので、ソビエト生活にはなじめなかったみたいにゃ。で、おそらく周囲にもいろいろ不満を漏らしたりしてたんでしょうにゃー。
 プロコの旦那ともしばらく前から不仲になってたってことで、このリーナ逮捕の直前に旦那の方は戦争と平和の台本を手がけた2番目の妻、ミーラと結婚してますにゃ。どうもソ連での手続き上は、リーナとの結婚は始めからなかったことになってたとか?

 しかしいくら不仲と言ってもリーナは元妻ですから、プロコとしてもなんとかしてやりたいとは思ったみたいにゃ。
 ところが周囲の人達に「まて、これはスターリンの罠だ」と止められました。批判を喰らったこの時期に下手に助命嘆願でもしようもんなら、今度はあんたの身に危険が危ない、てことなわけにゃー。
 こうした度重なるダメージのせいか、この頃からプロコは持病となる心臓病が悪化してきますにゃ。医師から作曲時間の制限を受けたりしながらも『戦争と平和』の改訂作業は続け、最終版となった第5版は死の前年の1952年に完成します。

 そしてついに1953年の3月5日、かつて「鉄の指を持つピアニスト」「鉄と鋼の音楽」と評されたプロコフィエフは、よりによって「鋼鉄の人」スターリンと同じ日に、同じ脳出血で亡くなりました。
 街中が大騒ぎになっているモスクワで、プロコの葬儀は作曲家仲間たちによって行われましたにゃ。

 その3年後、シベリアのリーナは釈放され、さらに2年後、ジダーノフ批判が撤回されて、批判の対象となった人々の名誉回復がはかられることになるのでしたにゃー。

 そんなわけで日本に縁ができたので、次は山田耕筰編となりますにゃー。


●突発珍盤紹介~
 このCD、なんか賞を取ったらしいのであまし珍度は高くないかもです。プロコフィエフの代表作『ピーターと狼』と、ジャン=パスカル・バンテュスの『狼のたどる道』ですにゃ。
 指揮はケント・ナガノ、ロシア国立管弦楽団の演奏で、SACDと普通CDのハイブリッド盤になってます。

 これのどこが珍かというと、まず一点はナレーション。『ピーターと狼』はソフィア・ローレン、『狼のたどる道』は元アメリカ大統領ビル・クリントンがつとめます。
 で、それぞれの曲の前説と締めのお言葉は元ソ連大統領のミハイル・ゴルバチョフ。ゴルビーはロシア語で話してるので、英語の通訳が付きますにゃー。
 もう一点は、わりと新曲の『狼のたどる道』が入ってるとこですにゃー。

 『ピーターと狼』の方は有名なので内容は説明しませんけど、特にどうてことない型通りの演奏ですにゃ。
 『狼のたどる道』の方は、『ピーターと狼』と似たような物語を、狼の立場を尊重して現代的に描くとどうなるか、て作品です。
 こっちのあらすじは、お爺さんの本にあるドラゴンとかが出てくる冒険物語にあこがれたピーターが、森に出かけていって狼を捕獲するけど、「狼だって一生懸命生きているんだ」と気付いて放してやる、みたいなお話にゃ。
 音楽をバックに物語の朗読が入る形式はプロコのと同じですけど、楽器ごとの配役とかはないのと、プロコの場合は音楽と語りが交代になることが多いのに対して、バンテュスのではBGM的に情景描写に徹してるのが違いですかにゃ。
 2002年の初演てだけに、音楽はハリウッド映画かディズニーか、て感じの仕上がり。現代の映画やテレビのノウハウを凝縮したらこうなりました、てなとこでしょうにゃ。

 ちなみにナレーターの方々へのロイヤリティは慈善団体に寄付されるそうですにゃ。
 ゴルビー分の寄付先はGreen Cross International、ソフィア・ローレンがMagic of Music、クリントンがInternational AIDS Trustになってますにゃー。

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