チャイコフスキー
『大序曲1812年』 作品49


●チャイコフスキーとナポレオン
 今回はナポレオン戦争の東部戦線、1812年のロシア遠征ですにゃー。ロシア側の呼称では「祖国戦争」にゃ。
 タイトルは「大序曲1812年」だったり、「祝典序曲1812年」だったり、ただの「序曲1812年」だったり、すごいのでは「荘厳序曲1812年」だったりしますにゃ。

 フランスの敵側から見たナポレオン戦争、て構図は前回のベートヴェンの『ウェリントンの勝利』と同じ。楽器として大砲まで引っ張り出すところも同じ。
 でもウェリントンがほとんどリアルタイムで、戦闘があってから半年も経たないうちに初演されてるのに対して、こちらの初演は1882年、ナポさんのロシア遠征から70年後てことになりますにゃ。70年の間にヨーロッパ楽壇も古典派からロマン派の後期へと移り変わり、楽器の作りや演奏技術も進歩して、よりド派手に仕上がってます。

 この曲は、1882年に開催される全ロシア産業芸術博覧会、まあ万博みたいなもんですにゃ、そこで演奏するための式典音楽として、ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーに作曲が依頼されてますにゃ。
 依頼主は博覧会の音楽監督でモスクワ音楽院初代総裁かつチャイ様の恩師であるニコライ・ルビンシテイン。お題としては「皇帝アレクサンドル2世の戴冠25周年」「全ロシア産業芸術博覧会の開催」「モスクワの救世主キリスト大聖堂の奉献」の3つがあって、そのいずれかをテーマにして書いてね、てことですにゃ。
 結局チャイ様は「大聖堂」を選んだんですけど、この聖堂がもともと祖国戦争の戦勝記念と戦没者慰霊を目的に建てられたものなので、自然と音楽のテーマも戦勝記念てことになって、こんな作品に仕上がったわけですにゃー。
 余談ながらこの大聖堂、その後は温水プールになったりと数奇な運命を辿ることになります。現在の姿は再建されたものなんですにゃ。
 けど、それはまたずっと後、チャイ様の次に出てくるタコさんの時代のお話にゃ。

 作曲を依頼されたのは1880年の6月ですけど、この手の機会音楽が嫌いなチャイ様、10月になってイヤイヤ手を付けるまでしばらく放っておいて、パトロン兼ペンフレンドのメック夫人に「気が乗らない」とか手紙で愚痴ってますにゃ。
 それで心のバランスを取るために、平行して自分の書きたいものを書いた作品が『弦楽セレナーデ ハ長調』作品48。極彩色の『1812年』と燻し銀みたいな『弦楽セレナーデ』、実に対照的ですにゃー。

●楽曲解説
 さて、音楽の内容ですけど、念のため先に祖国戦争の流れを一段落で。その他諸々を含めた年表はこちらで。ベートーヴェンの後ろの方がまじってますけどにゃ。

 ナポレオンがフランスを支配すると、周りの諸国はヨーロッパの覇権をめぐる対抗上、何度となく同盟を組みます。そうした対仏大同盟の中心になるのは概ねイギリスとオーストリアですにゃ。それに業を煮やしたナポレオン、1906年の大陸封鎖令で大陸諸国とイギリスとの貿易を禁じて、イギリスを干してやれ、と考えます。イギリス側も逆封鎖にかかって、ヨーロッパと貿易できなくなったアメリカと対立、米英戦争(ホワイトハウスが焼けたやつ)が始まったりしますにゃ。でもどっちかというとフランスより大英帝国の方が上手で、かえって大陸の側がイギリスと貿易できないせいで困り果て、フランスから離反する国が続出しますにゃ。やがて1910年にロシアが勝手にイギリスと貿易を再開、ついにトサカにきたナポさんは、1812年、トサカみたいな帽子をかぶってロシア遠征に乗り出しましたにゃー。

 大序曲1812年は、まず素朴な信仰に生きるロシア国民を描くところから始まります。弦楽器を主体にしたロシア正教の聖歌「神よ、汝の民を守り給え」で、実際にこの部分で合唱を入れることもありますにゃー。
 聖歌が徐々に盛り上がると、突然曲調が変わります。「ナポレオン来たる」の知らせに恐れおののき、逃げまどう人々。混乱が頂点に達したところでロシア軍の到着ですにゃ。マーチに乗って整然と進む兵隊のなんと頼もしいことか。

 軍隊が陣地について、ひととき静まり返ったかと思うと戦闘開始ですにゃ。聖歌の断片とフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」の断片が交錯します。
 戦闘中に二度ばかり割り込むように寂しげな舞曲が奏でられますけど、これがノヴゴロドだかボロディノだかの民謡だってことで、この戦いがいわゆる「ボロディノの戦い」(フランス側呼称「モスクワ川の戦い」)であることを暗示してるそうです。
 やがて鳴り響く大砲の音と共に、二倍の長さに引き延ばされた「ラ・マルセイエーズ」が断末魔のフランス軍を、どこまで続くか不安になるくらい長々と繰り返される下降音型がナポレオンの敗走を表現しますにゃ。

 ロシアの大地からフランス軍が去って行くと、あちこちの鐘が乱打されるなか、冒頭の聖歌が再び高らかに歌い上げられます。そして祝砲に迎えられて凱旋するロシア軍。ロシア帝国の国歌が「神よ、皇帝を守り給え」と奏でられ、華やかなうちに大団円を迎えるのでありましたにゃー。
 さすがチャイコフスキー。嫌々ながらの仕事でも、豪華絢爛ドラマチックな仕上がりですにゃー。

●参考CDと実演
 うちにあるCDてことで、左の一枚目はわりと新しい1993年の録音で、フィリップスのPHCP-10561。ワレリー・ゲルギエフ指揮のサンクトペテルブルク・キーロフ管弦楽団のCDです。
 このCD収録曲の中で『1812年』だけ「オランダ王立海軍軍楽隊員」とか書いてありますにゃ。収録場所がオランダのハーレムのコンセルトヘボウなので、きっと御当地の軍楽隊が加勢したんでしょうにゃ。
 どっちかて言うとゲルギエフでグリンカの『ルスランとリュドミラ』序曲とかボロディンの『だったん人の踊り』を聴きたくて買ったのは内緒。

 二枚目は私がCDなるものを初めて買った一枚ですにゃ。東芝EMIのCC33-3260。リッカルド・ムーティ指揮フィラデルフィア管弦楽団ですにゃ。
 やぱしLPからCDに変わるってことで、ダイナミックレンジの広い曲目のやつを選んでみました。とは言うものの、このCDの『1812年』はそれほどレンジは広くないですにゃ。大砲も使ってないんじゃないかにゃ。ただ、他の二枚みたいに大砲ドカンの音にレベル合わせるような作りではないので、聴きやすいです。

 右の三枚目はこないだも出たマゼール盤。これは最初の聖歌がウィーン国立歌劇場合唱団による合唱になってますにゃ。最後の祝勝のところでも合唱入ります。このCDはこないだも書いたようにホールの残響が多すぎですにゃ。ロシア軍到着の小太鼓なんか良く聞こえにゃーです。
 この他にも良く探せばまだうちにあるかもしれにゃーです。オムニバスものとかに紛れてたりで。

 この曲、普通のコンサートでやるときは大砲じゃなくて大太鼓使うんですけど、意外とそんなに頻繁には舞台にかからないように思いますにゃ。
 アメリカ人なんかはこの曲(ハデなので)結構好きで、ハリウッド・ボウルとかシンシナティ・ポップス・オーケストラが良くやるみたいです。もちろん野外音楽堂で大砲付き。こういう時の「大砲」は、なんか花火の筒みたいなやつで、スイッチ一つの電着でばんばんやってますにゃ。
 独立記念日なんかのイベントでも良くやるようで、2005年の独立記念日にワシントンD.C.をうろついていたら、国会議事堂のそばに設置されたステージの裏の方に陸軍さんの礼砲が四門すたんばってましたにゃ。なんか凄まじい混雑だったので聴きませんでしたけどにゃー。

 日本でも自衛隊が礼砲を使ってやったことがあります。平成12年度の富士総合火力演習で、陸上自衛隊50周年を記念して演奏したのとか、2004年に朝霞の駐屯地で演奏したのとかですにゃ。ブラスバンド向けにアレンジしたものを、あちこちの部隊の音楽隊をかき集めて、合同演奏会みたいにやってました。
 後者はこちらのサイトに写真入りでレポートされてます。大砲は四門の口径105mmの礼砲M2A1ですにゃ。
 朝霞には私も聴きに行ったんですけど、この時はなにせ大雨だし、寒いし、御近所にお住まいの松本零士先生が「大砲が楽器としてだけ使われる世の中になるといいですね」て内容のスピーチを五回くらい繰り返して下さるし、もうロシヤの大地を彷徨うナポレオンの気分を満喫できましたにゃー。

●国歌の品格
 この『大序曲1812年』には、最後のお祝いのシーンにロシア帝国の国歌が出てきますけど、チャイコフスキーはもう一曲、『スラブ行進曲』でもこの国歌を使ってますにゃー。
 『スラブ行進曲』の方は1876年の作品なので、1812年より4年前ですにゃ。うにゃ、『1812年』が作曲された1880年より4年前てことにゃ。ややこしい。
 この1876年には、ブルガリアの民族運動に端を発してセルビアとトルコとの間に戦争が起きてます。やがて翌年には、ロシアも同じスラブ民族の支援と、ロシア伝統の南下政策から、トルコに宣戦布告して、第五次露土戦争に発展しますけど、宣戦布告の前にもロシアから義勇軍が参加してましたにゃ。
 その義勇軍の負傷兵の慰問や戦没者追悼のための慈善演奏会がモスクワで開かれます。そこで演奏する作品てことで、この時もルビンシテインからチャイコフスキーに依頼が来たんですにゃ。愛国心の篤いチャイ様のこと、1812年の時とは違ってこのスラブ行進曲の時はノリノリで、わずか5日間で作曲したとか。リアルタイムの戦争だと思い入れが違うんですかにゃー。

 内容的にはいくつかのセルビア民謡からの引用とロシア帝国国歌を組み合わせたもので、やや陰鬱な印象の漂う『輝かしい太陽よなぜ姿をかえるのだ』という民謡に始まって、いろいろあって最後は輝かしく終わる、て作品ですにゃ。

 さて、スラブ行進曲はまあいいんですけど、ロシア帝国国歌が制定されたのは、実は1815年なんですにゃ。つまり祖国戦争の段階では国歌なんて無かったわけで、それが『1812年』に出てくるのは考証的にちょとまずいわけです。
 しかも、1815年に制定された国歌はイギリスの国歌からメロディを借りてて、チャイコフスキーが使ったのとは全然違う代物でした。1812年やスラブ行進曲に出てくるやつは、その後の1833年に公募で決まったものですにゃ。
 こちらのサイトで1815年版、1833年版、両方とも聴けます。

 イギリス国歌が制定されたのは……と思たら、これが法的には制定されてないみたいですにゃ。一応1745年にロンドンのドルリーレインとコヴェントガーデンの劇場で初演されたって話ですけど、メロディ自体はもっと昔からあったものだそうです。世界最古の国歌と言われてますにゃ。
 そんなわけで「国歌とはこういうモノ」て思いこみでもあったのか、ロシアの他にスイスなんかも自分とこの国歌に同じメロディを借用してますにゃ。英連邦諸国なんかは言うに及ばず。
 今でもリヒテンシュタインの国歌はイギリスのと同じだそうなので、オリンピックでリヒテンシュタインが一位になるとイギリス国歌(と同じやつ)が鳴り響くはずですにゃー。

 『1812年』のもう一方の国歌、フランスの『ラ・マルセイエーズ』は1795年に制定されてますにゃ。御存じの通り、元が革命歌なので、歌詞の内容はかなり血生臭いですにゃ。その辺の経緯とかはこちらが詳しいです。
 で、1795年制定だから1812年に出てきてもおかしくないと思ったら、実はこれも怪しくて、ナポレオンが皇帝になってたいわゆる第一帝政の期間、ラ・マルセイエーズは歌うの禁止されてたとかって話ですにゃ。
 てことは、こないだのベートーヴェンの『ウェリントンの勝利』の方も、なんか具合が悪いことになっちゃいますにゃー。

 時代が下ってソビエト連邦時代になると、チャイコフスキーの『1812年』と『スラブ行進曲』、これらはロシア「帝国」国歌が入ってるばっかりに扱いが困ったことになっちゃいますにゃ。「神よ、皇帝を守り給え」なんて歌、反革命、反動的でけしからんってことですにゃ。ごもっとも。
 それでどうしたかと言うと、グリンカ作曲の歌劇『イワン・スサーニン』の中に出てくるメロディが帝国国歌の代わりに使われたんですにゃ。こちらのサイトではMIDIで聴くことができますにゃー。スラブ行進曲の場合は単にまずいとこカットして体裁整えただけみたいですけど。
『イワン・スサーニン』がどんな話かってのはこことかに出てます。これはこれで思いっきり皇帝万歳みたいなところがあったりしますけど、ソビエト的には構わなかったんですかにゃ。

 それはそうと、この『イワン・スサーニン』て曲もまたタイトルが二転三転してますにゃ。もともとは物語のタイトルとして通りがいい『イワン・スサーニン』として準備してたのが、時の皇帝ニコライ一世の希望だか命令だか、あるいはグリンカの請願だかによって初演の時は『皇帝に捧げし命』てタイトル(誓願て、もしかして御機嫌取り?)になり、ソビエト時代にはやっぱしこりゃいかんてことで『イワン・スサーニン』にされて、ソビエト崩壊後は一時『皇帝に捧げし命』に戻そうて動きがあったとかなかったとか。なので、今でもこのオペラは両方のタイトル併記で『イワン・スサーニン(皇帝に捧げし命)』みたいな書き方されてますにゃー。

 そんなこんなで、ソビエト崩壊後のロシアでは『1812年』と『スラブ行進曲』も元に戻されて、普通にロシア帝国国歌ヴァージョンで演奏されてますにゃー。おかげで昔のイワン・スサーニン代用版のレコードとかが貴重品になってしまって、かく言う私も持ってないんですにゃ。
 珍盤探偵名折れの巻でしたにゃ。

 ではでは、祖国戦争の次は大祖国戦争。ショスタコーヴィチの大作、交響曲第七番『レニングラード』行きますにゃー。

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