ショスタコーヴィチ
交響曲第七番『レニングラード』作品60


 ドミートリイ・ドミートリエヴィチ・ショスタコーヴィチは「血の日曜日」事件の翌年、1906年の9月25日にペテルブルクで生まれました。死去したのは冷戦まっさかりの1975年、肺癌のためにモスクワで。典型的なソビエト連邦の作曲家と言えますにゃ。
 このペテルブルク、ピョートル大帝が自分の名前にちなんでつけたドイツ風の名前「サンクト・ペテルブルク」ですけど、第一次大戦勃発の1914年に同じ意味でロシア語の「ペトログラード」に改称、ソビエト時代の1924年には、レーニンの死去によりその名を記念して「レニングラード」となり、その後ソビエト連邦が崩壊すると、また「サンクト・ペテルブルク」に戻って今に至りますにゃ。
 今回取り上げるショスタコーヴィチの『レニングラード』、俗称「タコ七」は、いわばご当地交響曲なわけですにゃー。

 いきなり余談ですけど、作曲家ショスタコーヴィチのお父さんは、血の日曜日事件でデモ隊に参加してたので、もしここで運が悪かったら、タコさん生まれてこなかったわけですにゃ。
 後年、ショスタコーヴィチは交響曲第十一番『1905年』でこの血の日曜日を扱ってます。事件を描写した前半二楽章の鬼気迫る異様な緊迫感には、こうした個人的な背景も影を落としてるのかもしれませんにゃ。

●大祖国戦争とレニングラード包囲戦
 さて、話を戻して1941年6月22日、ナチス・ドイツが独ソ不可侵条約を破棄して突如ソ連へと侵攻を開始します。「大祖国戦争」の始まりですにゃ。
 事前にドイツ側が国境沿いに兵力を集中しつつあることとか、いろいろと予兆はあったわけですけど、ソビエト赤軍は時の大親分スターリンによる「ドイツを刺激するような行動は慎め」て命令によって、開戦直前まで戦闘準備ができなかったので、たちまちのうちにモスクワの目前まで攻め込まれてしまいますにゃ。
 9月8日にはレニングラードもドイツ軍に包囲されてしまいます。ソ連軍はレニングラード軍管区司令官ジューコフ上級大将の指揮で、強固な防御陣地を構築、市民の義勇軍を組織するなどして、ドイツ軍の市内への侵攻はなんとか食い止めます。
 しかし食い止めはしたものの、地理的にソ連の隅っこのどん詰まりな上に、ネヴァ川対岸のカレリア地峡にはドイツと結託したフィンランド軍が居座って、ほとんど周囲から孤立した状態になってしまいますにゃ。これ以降、1944年1月18日にドイツが撤退を始めるまで、ざっと900日に渡る包囲戦が続くことになりますにゃー。

 当時レニングラード音楽院で教鞭を執っていたショスタコーヴィチは、ドイツの侵攻が始まると人民義勇軍に二度志願して断られ、音楽院の消防隊として都市防衛の一翼を担う事になります。音楽院の屋根でヘルメットかぶって訓練に当たってるタコさんの写真が残ってますにゃ。
 そして文化芸術関係者が次々と疎開していく中、タコさんは家族と共にレニングラードにとどまって音楽活動を続けます。
 軍歌のアレンジや義勇軍の慰問のための作曲なんか手がける一方で、ショスタコーヴィチは新しい交響曲を書き始めるのですにゃ。
 タコさん以外もそうですけど、この時期になると国内外へのプロパガンダ的な効果を期待して、それまでの芸術全般に対する弾圧とか統制みたいなの(後述)がゆるんだので、皮肉にも戦争を機にそれまで沈滞していたソビエト楽壇は活況を呈する事になるんですにゃー。

 作曲開始が7月19日、全四楽章のうち第一楽章の完成が9月3日、第二楽章が9月17日、第三楽章は9月29日に書き上げられています。二ヶ月少々でやたら長大な第一楽章を含む三つの楽章を書いた事になるわけですにゃ。
 なんにしてもこの作曲のスピードは驚異的ですにゃ。推敲とかはきっとまた改めてやったんでしょうけどにゃー。

 第二楽章を完成した晩、タコさんはラジオに出演して演説し、この曲の作曲状況について触れています。
「一時間前、私は、新しい大規模な交響的作品の第二楽章のスコアを書き終えました。(中略)
 レニングラードは私の祖国です。私の生まれた街であり、私の家なのです。私と同じ何千という人々も、同じ感情を抱いていることでしょう。生まれた街、愛する大通り、比類のない美しい広場や建物への無限の愛情を。
 ……私の作品は完成に近づいています。そのときには、私の新作をもってもう一度出演します。そして、私の創作についての厳しく親身な評価を、興奮しながら待つことでしょう」
 多分に政治的な演説で、特に最後の「厳しく親身な評価」のくだりなんかは、これ以前に政府当局から受けたもろもろの仕打ちを思わせますにゃー。それについては後述するとして、故郷に対する思いは正直なところでしょうにゃ。

 これまでレニングラードに留まってたショスタコーヴィチですけど、9月末には共産党からの要請を受けて疎開することになりますにゃ。10月1日に最小限の荷物を持ってまずはモスクワへ、最終的に10月末、クィビシェフに落ち着きます。なのでレニングラード戦で最も悲惨な、いわゆる「最初の冬」は経験せずに済んだわけですにゃ。

 疎開後は環境が変わったせいか、それとも安全地帯で気が抜けたのか、作曲の筆が進まなくなりますにゃ。フィナーレが書き始められたのは、モスクワ前面でのソ連軍の大反攻が開始された12月初旬から。全曲の完成は12月27日でしたにゃー。
 完成したこの第七交響曲は、ショスタコーヴィチの交響曲の中でオーケストラの編成も曲の長さも最大規模です。木管、金管と打楽器で40人以上、さらにハープ2台とピアノが加わり、それに相応した人数の弦楽5部が付くので、ざっと百人超えますかにゃ。
 演奏時間にするとトータル80分くらい。そのうち30分ほどを第一楽章が占めてます。CD一枚には収まらないので、大体二枚組になってますにゃー。

●包囲下の演奏会
 年が明けて1942年、クィビシェフに疎開していたボリショイ劇場のオーケストラによって初演の準備が始まります。まだ演奏もされないうちからプラウダとかに「ファシズムに対する戦いと勝利」みたいな作品解説が載ったりしてますにゃ。
 3月5日にボリショイ劇場音楽監督のサモスードによる指揮で、クィビシェフの文化宮殿講堂を会場に行われた初演は、ラジオで全ソ連に放送されました。

 もちろん初演の後もあちこちで演奏されまくることになりますにゃ。そして8月9日には当のレニングラードでの演奏が行われます。演奏を担当したレニングラード放送管弦楽団は、この時にはメンバーが15人しか生き残ってなくて、とにかく楽器のできる人をかき集め、出征して前線に出てる人まで呼び戻してますにゃー。
 当時のメンバーによると「バイオリンの半分と第二オーボエが亡くなり、ファゴットは一人だけ」のありさまで、開戦以来使われていなかった楽器は「傷んで音も出なかったが持って行った」とか。
 楽譜は戦闘の合間を縫って軍用機で空輸、さらに当日は演奏開始の直前までレニングラードを囲むドイツ軍に猛爆撃を加えて、演奏中に邪魔されないように制圧しておく、てな感じで赤軍も全面協力ですにゃ。そこまでしても「演奏中も外は砲弾の雨だった」みたいな証言もありますけどにゃ。とにかくもう「そこで演奏すること」自体が目的みたいな。

 演奏会場は現在も当時のまま残るフィルハーモニー・ホールで、指揮はエリアスベルグ。
 この歴史的な演奏を聴こうと詰めかけた市民たちで、ホールは大入り満員だったそうですにゃ。ただ、空襲と物資の欠乏で、服装とかみんなぼろぼろの状態だったみたいですにゃ。
 ともあれ、悲惨な状況化にあったレニングラード市民にとって、この演奏会が非常に大きな励ましとなったのは事実でしたにゃー。

 まあ、この種のハッタリが得意なスターリン好みのシンボリックな出来事ではありますにゃ。前年の11月にもドイツ軍の迫るモスクワで、恒例の10月革命記念パレードを強行してスターリン自身も演説を行い、赤の広場を行進した戦車がそのまま前線に出て行った、みたいなことやってますしにゃー。

●海外へ
 あと本題とはあんまし関係にゃーですけど、この曲を扱うときのお約束だから、アメリカでの評判も書いておきますにゃ。

 ソ連を代表する作曲家のショスタコーヴィチが、ナチスの包囲下のレニングラードで戦争とファシズムに対する勝利をテーマとした交響曲を作曲した、というドラマチックなニュースは、初演前から世界中(の主に連合国側)に知れ渡ってました。完成した楽譜はマイクロフィルム化されて、空路テヘランからカイロ、ロンドンと運ばれて、イギリスを始め諸外国でも演奏されることになりますにゃー。
 特にアメリカでは派手好きな国民性に合ったのか、アメリカ初演の権利をめぐって当時の世界的に有名な指揮者であるトスカニーニ、ストコフスキー、クーセヴィツキー、ロジンスキー、オーマンディと言った、錚々たる面々の間で争奪戦になりましたにゃー。結局トスカニーニとNBC交響楽団が権利を獲得、1942年7月19日に演奏されました。そしてその後1年ばかしのうちに全米各地で60回以上も演奏される大ヒットになったんですにゃ。

 ただ、さすがに言論の自由の確立した国だけに、耳の肥えた評論家筋での評価は今ひとつでしたにゃ。特にラヴェルの「ボレロ」まがいの第一楽章中間部と、そのチチンヴイヴイ主題(じゃにゃーだろ)の俗っぽさ、大げさでわざとらしい構成、これはソ連のプロパンガンダだ、てあたりが批判の的にされます。
 中でもハンガリーからアメリカに移住してきたばかりの作曲家バルトークは、この曲をけちょんけちょんにけなして、後に自作の『管弦楽のための協奏曲』(俗称「オケコン」)の第四楽章「中断された間奏曲」で、例のチチンヴイヴイの一部を茶化すみたいな調子で引用してますにゃ。
 バルトーク自身、ナチスの干渉で彼が精力を傾けていたハンガリーの民族音楽の採集ができなくなったりしてて、それがアメリカに来た理由の一つだったこともあるわけだから、反ナチス感情という点ではタコさんのこの曲と通ずるものがありそうですけどにゃー。やぱしプロパガンダ臭が気になったんですかにゃー。
 バルトークが政治宣伝と取ったのは当時としては無理もないんですけど、現地で戦った者の一人であるショスタコーヴィチとしてみれば、んなこた承知の上でそれでも書かずにいられなかったわけですにゃ。そんなわけで、以後タコさんはバルトークの評価を根に持つことになりますにゃー。

●参考CD, DVD
 今回はDVDもありますにゃ。でもCDでうちにあるのはこの一枚だけ(二枚組だけど)ですにゃー。これはベルナルド・ハイティンク指揮のロンドンフィルのやつ。(DECCAの輸入盤で4173922-2)
七番は全曲約80分と長いので、短い十二番(こちらはコンセルトヘボウ管弦楽団の演奏)とのカップリングで二枚組にしてますにゃー。七番の切れ目が第1楽章の後にしかないので、一枚目に十二番全曲と七番の第一楽章、二枚目に七番の第二楽章から第四楽章、て配分になってます。

 私はこの曲、実演では2回聴いてます。最近では2006年の東響定期でキタエンコが指揮したとき。その前の時は2002年にゲルギエフがキーロフ国立歌劇場管弦楽団を率いて、N響と合同で通常の2倍の編成でやったとき。後者はゲルギエフによる解説付きでしたにゃ。
 ゲルギエフは世界各地でキーロフと現地のオケの合同でこの曲やってるみたいです。でもこのN響との時は会場が東京国際フォーラムのホールAで、ホールがとにかくでかすぎたもんだから音が散って、せっかくの2倍オケも迫力に欠けるところがあったのが残念でしたにゃー。

 こちらのDVDは、そのゲルギエフがショスタコーヴィチの交響曲第4番から第9番を一連の「戦争交響曲」と捉えて、いかにショスタコーヴィチが体制の圧力に抵抗して創作を続けたかを綴ったドキュメンタリーですにゃ。ユニバーサルミュージックから出てます。(UCBP1041)
 ゲルギエフ自身の指揮による演奏や解説を織り交ぜつつ、ショスタコーヴィチを知る人々の証言や、当時の映像によって、ソ連の社会状況や戦争の様子を描き出していきます。ピアノで主題を弾きながらコメントするタコさんの姿とか、おそらく政府の公式ステートメントであろう演説原稿を棒読みするタコさんの映像もありますにゃ。
 第七番に関しては、実際にレニングラード初演をやった人や、それを聴いた人の証言があります。
 最初の冬を迎えて食料も無くなったレニングラードで「人肉を食べた人もいるらしい。遺体を回収している時、遺体の一部が欠けていることがあった。腕だったり脚だったり肉の付いている部分が」みたいな生々しい話も出てきますにゃ。「私は見たことがないが」とわざわざことわってから話すあたりがなんとも。
 戦後の赤の広場の祝勝パレードみたいな映像もあって、なかなか見物ですにゃー。

●楽曲解説
 まず第一楽章。雄渾な第一主題と叙情的な第二主題が提示されて平和なロシアが描かれますにゃ。中間部に入ると執拗に繰り返すスネアドラムに乗って「侵攻のエピソード」と呼ばれるチチンヴイヴイ主題が手を代え品を代えて反復されます。始めはおどけて口笛吹いてるみたいな感じだったのが、徐々に凶暴さを増していき、最後はグロテスクな姿になって襲いかかり、崩壊してしまいます。
 そして再現部、ショスタコーヴィチが「戦争の犠牲者へのレクイエム」と呼んだ痛ましい部分を経て、疲れ切った人々が気を取り直すように始めの主題が回顧されます。しかし楽章の最後、遠くから太鼓と侵攻のエピソードの断片が漂ってきて、まだ戦争は終わっていないことを思い出させますにゃ。
 第二楽章は静かなスケルツォ、第三楽章は緩徐楽章ですけど、どちらも突如として激しい叫び声のような中間部が挟まれるのが特徴になってますにゃ。
 第四楽章ではさまざまな主題が入れ替わりつつ、倒れても倒れても前に進み続け、最後に第一楽章の第一主題が輝かしく現れて、まだ見ぬ勝利を描き出して全曲を閉じますにゃー。

 ちなみに各楽章の長さは上のCDの場合、29分02秒、11分40秒、20分25秒、18分31秒となってますにゃー。この第一楽章のうちの半分くらいが侵攻のエピソードによる中間部(一応交響曲の第一楽章なのでソナタ形式の展開部にあたる)ですにゃ。

 この「侵攻のエピソード」、ヒトラーが好きだったレハールのオペラ『メリー・ウィドウ』の引用が含まれていることから、攻め寄せてくるナチスドイツを表現してると言われます。でも、タコさん本人はこれがナチスの侵攻を表現してるとは一度も言ってないそうですにゃ。

 音楽の友社から出ている「作曲家◎人と作品シリーズ」の千葉潤著『ショスタコーヴィチ』によると、侵攻のエピソードの始めの部分はムソルグスキーの『ボリス・ゴドゥノフ』の冒頭で「官吏が民衆を脅してボリスが王位につくように懇願させる場面」で歌われる「いわば”偽りの嘆き”とも言うべき旋律」だそうにゃ。
 さらに侵攻のエピソード前半の後半(ややこしいにゃ)に出てくる『メリー・ウィドウ』の方も「酩酊状態のダニーロが、祖国への忠誠心を皮肉るアリア『我が祖国よ』のリフレイン」から取っていて、いわゆる侵攻のエピソードには「こうした偽りや皮肉のイメージが付随しているのである」そうですにゃー。バルトークがオケコンでおちょくったのもこの部分。

 前掲書に譜例が載ってるので、MIDIで音にしてみましょ。

侵攻のエピソード(前半) 
ボリス・ゴドゥノフ 
メリー・ウィドウ 

 ショスタコーヴィチはクィビシェフに居たときの隣人に、この曲とファシズムの関係について「国家社会主義というのは、ファシズムの一形態にすぎない。この音楽が語っているのは、テロル、隷属、精神的束縛のすべての形態についてなんだ」と語っています。
 さらにヴォルコフの『ショスタコーヴィチの証言』(これって偽書とも言われるけど)では、「交響曲第七番がレニングラード交響曲と呼ばれるのに反対はしないが、それは包囲下のレニングラードではなく、スターリンが破壊し、ヒトラーがとどめの一撃を加えたレニングラードを主題にしていたのだ」と述べたとされていますにゃ。
 なんにしても、この曲は単純に「ドイツが攻めてきたー。大変だー。みんな頑張って戦えー」てだけの作品じゃなさそうですにゃ。それが対独戦のプロパガンダとして使われて行くのを、作曲者としてはどう思って見てたんですかにゃー。

 タコさんの作品はこんな感じに屈折したのが多いのが特色ですにゃ。それはなぜかと言うのがここからのお話にゃ。

●社会主義リアリズム
 ソ連の芸術、て言うと「社会主義リアリズム」ですけど、それが言われるようになったのは1920年代後半になって第一次五カ年計画が始まったころからなんですにゃ。
 革命後の混乱期は政府としても芸術なんかまで手が回らなかったのが、五カ年計画とかで国家建設が軌道に乗って経済も落ち着いてきたところで、芸術方面も統制したくなってきた、てとこですかにゃー。それまでは意外と前衛的な活動が美術・音楽・文学・建築など各方面で展開されてましたにゃ。
 ショスタコーヴィチの音楽創作が本格的に始まったのは、このロシア・アバンギャルド全盛の頃で、交響曲第一番とか、アメリカのヒット・ソング『二人でお茶を』をアレンジした『タヒチ・トロット』みたいに、のびのびと作曲してた様子がうかがえます。

 タコさんにとって明らかに事情が変わったのは、1936年の「プラウダ批判」ですにゃ。
 彼のオペラとしてはわりと成功した作品の『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を観賞するため、スターリンが側近を引き連れてボリショイ劇場にやってきたのが事の始まり。ところがこれがスターリンのお気には召さなかったらしくて、途中で帰っちゃいます。
 その二日後の1936年1月28日、ソ連共産党の機関誌プラウダに『音楽の代わりの支離滅裂』と題する論文が掲載されます。これはショスタコーヴィチの「マクベス夫人」を名指しで非難するもので、リアリズムの否定である、とか、国外のブルジョアに受けているのは非政治的だからだ、みたいな難癖がつけられています。
 こんなものがわざわざプラウダに載せられたのは、それがスターリンの見解であることを暗にほのめかし、他の芸術家への見せしめというか警告の意味もあったと言うことですにゃー。
 さらに2月6日には駄目押しのように新作のバレエ『明るい小川』を標的にした否定的な批評が載って、タコさんは進退谷まります。

「社会主義リアリズム」てのがどういうものかと言うと、形式としては民族的、内容は社会主義的で、マルクス主義的歴史観に基づいて労働者を教育するもの、て感じのなんだかよくわからん漠然としたものでしたにゃ。なので、いくらでも恣意的な解釈が可能で、結局は時の権力者や芸術政策の担当者の趣味に左右されるところがあったのは否定できませんにゃ。

 さて、「プラウダ批判」を受けたショスタコーヴィチは、出来たばっかしの「芸術問題委員会」の偉い人ケルジェンツェフに「プラウダで指摘されたことを受け入れたと、今後の創作活動で示したい」とごめんなさいしに行って、いろいろ指導されてます。
 さらに元ヴァイオリニスト志望でショスタコーヴィチと親交のあったトハチェフスキーに頼んで、スターリン宛に「赦してやってよ」みたいな嘆願書を書いて貰ったりしてます。
 そう。よりによってあのトハチェフスキー元帥に。

●大粛清の嵐
 元帥の経歴をここでくだくだ解説するのもなんなので、詳しくはWikipediaでも見て貰うと良いですかにゃー。あとショスタコーヴィチ関連年表はこれで。(PDF)
 ごく簡単に言うと、トハチェフスキーは帝国時代からの軍人で、革命と同時に赤軍に加わってからも各方面で戦功をあげ、「全縦深同時攻撃」て戦術理論を打ち立てた英雄ですにゃ。
 ところが革命後のポーランド戦では、トハチェフスキー率いるソ連軍がワルシャワ攻略に失敗しちゃうんですけど、これが当時の親分レーニンによって「スターリンがもたもたしてるからトハちゃんが失敗したんだ」みたいな言われ方をしたんですにゃ。スターリンはそれを根に持って逆恨みしてました。さりとて国家の英雄に手出しをすることも出来ません。
 そんなとこへナチス・ドイツが(まだ開戦前に)いずれ強敵となるであろうトハチェフスキー元帥を陥れるため、「トハチェフスキーがドイツに内通して反乱を企んでる」て捏造文書を流したんですにゃ。スターリンはそれを根拠に、ここぞとばかり反逆罪のかどで元帥を処刑してしまいます。これが世に言う赤軍大粛清の始まりですにゃ。

 トハチェフスキーが処刑されたは1937年6月11日、プラウダ批判を受けたショスタコーヴィチをかばった翌年ですにゃ。こうなるとタコさんが元帥に嘆願書を頼んだのも良かったのか悪かったのか。
 これ以後、赤軍の粛清はとどまるところを知らず、高級将校の八割が処刑されるほどの事態に発展します。それが人材不足をもたらして、ドイツにたちまちモスクワ直前まで攻め込まれる原因の一つとなったと言われるくらい。
 この粛清は軍人のみならず文化人にも及び、タコさんの周辺でも次々に人が消え、収容所に送られたり処刑されたりして行きます。

 当のショスタコーヴィチも「大きな家」と呼ばれたある役所(GRU?)に呼び出しを喰らい、尋問を受けていますにゃ。
「あなたはトハチェフスキーを知っていますか」
 これは隠してもしょうがないのでタコさん「はい」と答えます。すると取り調べ官のザコフスキーはタコさんの知人の名を上げて
「彼は反体制活動に関わっている疑いが持たれているが、何か知りませんか」
 これも正直に「知りません」と答えると
「では次に来るときまでに思い出しておきなさい」

 思い出しておくように、と言い渡されたてことはつまり「知らない」という答えは許されないてことですにゃ。もし次の時にも知らないと言えば、反体制の一味と見なされて、良くてシベリア送り。トハチェフスキーの例もあるし、先行きは絶望的ですにゃ。
 ショスタコーヴィチが助かるには、とにかくその知人の罪状をでっち上げて当局に売るしかないわけにゃ。さらに穿った見方をすれば、この尋問全体が罠で、どう答えてもダメかもしれにゃーし。

 そして次に来るときと指定された日になって、ショスタコーヴィチが暗澹とした気持ちで役所に出頭し、受け付けにザコフスキーと約束があると言うと
「ああ、彼に会うことはできない」
「どうしてですか」
「彼は昨日逮捕されたんだ」

 そんなソビエト・ジョークを地で行くような展開によって、ショスタコーヴィチは辛くも粛清を免れたのでありましたにゃー。

 この事件の少し前、ショスタコーヴィチはプラウダ批判に答えるために交響曲第四番を書いてます。本来はこれがナチス・ドイツの脅威を描いた戦争交響曲になるはずでしたにゃ。時期的にはドイツが再軍備宣言して、スペインの内戦に介入してフランコ派を援助、人民戦線側についたソ連と代理戦争みたいな形で喧嘩始めた頃にあたります。
 第四番はそんな世相を反映してか、いま聴いてもかなり暗く難解な内容で、初演のリハーサルの時に楽団員が演奏をいやがって反抗したとか。およそ社会主義リアリズムとはほど遠い作品なもんだから、事前に楽譜を見た人達からも「これはヤバイ」て意見が寄せられて、タコさんついに初演を撤回してしまいましたにゃ。
 この曲の初演は実に25年後の1961年、スターリンが死んだ後のフルシチョフによる「スターリン批判」を待たねばなりませんでしたにゃ。

 第四番を諦めたタコさん、大慌てで交響曲第五番を書きます。後に『革命』のタイトルで呼ばれるやつですにゃ。んでこれが大ヒット。内容的には古典的な四楽章形式で、ベートーヴェン式の苦悩を通じて歓喜(勝利)へ、と言ったパターンのとてもわかりやすい構成ですにゃー。
 この作品によってタコさんは一応は改心したものと見なされるようになるわけですにゃ。

 その後も第二次大戦の勝利を描いたとされる交響曲第九番で、冒頭フルートに出てくる主題が、浮かれて口笛吹いてるみたいで不真面目だと批判されたり、あるいは戦後に行われたジダーノフ批判(この時はもう少し先に出てくるプロコフィエフなんかもやられる)とか、当局の干渉との戦いはずっと続くことになります。タコさんにとっての「敵」はむしろ国内に居たんですにゃー。

 でも、上から押し付けられた「社会主義リアリズム」と言う枠組みが、ショスタコーヴィチ作品のわかりやすさを(作曲家の真意はともかく少なくとも表面的には)生んだ側面はありますにゃ。
 西側諸国のゲンダイオンガクが、無調とか12音主義とかをきっかけにどんどん奇を衒う方向に進んでしまって、美しくも楽しくもない作品ばかりになっていくことを考えると、皮肉なもんですにゃー。

 ショスタコーヴィチ編、長くなったけどこの辺で終わりにゃ。
 次はレニングラードからちょと北西に行って、シベリウスの劇音楽『カレリア』ですにゃー。

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