藤原忠良 ふじわらのただよし 長寛二〜嘉禄元(1164-1225) 号:鳴滝大納言

法性寺殿忠通の孫。六条摂政基実の次男。母は左京大夫藤原顕輔の娘。摂政内大臣基通の弟。兼実慈円らの甥で、良経の従兄。また清輔の甥にあたる。子の衣笠内大臣家良大納言基良も勅撰歌人。
永万二年(1166)、三歳の時、父を亡くす。治承四年(1180)、元服して正五位下に叙せらる。養和元年(1181)、従四位下に昇り、侍従より左中将に転ず。寿永二年(1183)、従三位。同年右兵衛督に任ぜられ、年末に右権中将に遷る。文治三年(1187)十二月、権中納言。同五年七月、中納言に転ず。建久二年(1191)三月、権大納言に進む。建仁二年(1202)、大納言に至るが、同四年三月、辞職した。承久三年(1221)、出家。嘉禄元年(1225)五月十六日、六十二歳で薨ず。最終官位は正二位。藤原定家の日記『明月記』に評して「雖非器之性、柔和心操歟」とある。
後鳥羽院主催の「正治二年初度百首」「老若五十首歌合」「新宮撰歌合」「千五百番歌合」などに出詠。「千五百番」では判者も務めた。また建仁元年(1201)三月の「通親亭影供歌合」にも参加し、正治二年(1200)の「三百六十番歌合」に選ばれている。千載集初出。勅撰入集六十九首。

  4首  4首  2首  2首  5首  8首 計25首

〔欠題〕

み吉野の霞のうちに雪散りて行末とほき花の奥かな(正治初度百首)

【通釈】吉野山に立ち込める霞のうちに雪が散って、あたかも花が舞い散るかのようだが、花の咲く季節はまだ先が遠い――ことに吉野の奧山では。

【補記】正治二年(1200)秋、後鳥羽院に詠進した百首歌より。春浅い吉野山。霞のうちに、雪が花びらのごとく舞い散る。本当の花の季節は遠い先だ。「花の奥かな」の「奥」は時間的な奥というだけでなく、空間的に山の奥深さをも匂わせる。今も吉野では、下千本、中千本、上千本、奥千本といった呼び方をし、山の深さによって桜の開花時期が少しずつずれる。最奥の桜が咲くまでは、どれほど「行末とほき」ことか、との感慨である。散る雪に最後の桜を幻視しつつ、その日がまだ遠いことに安堵するかのような優しい心根が窺える。この作者の個性であろう。

〔欠題〕

浅茅原春雨すがる若葉よりみどりをうつす玉ぞこぼるる(老若五十首歌合)

【通釈】浅茅原では、春雨が縋りつく若葉から、緑の色を映す水玉が零れ落ちるのだ。

【語釈】◇浅茅原(あさぢはら) 丈の低いチガヤの生えた原。◇春雨すがる 春雨がすがりつく。「すがる」の原義「結び目をつくる」「節(ふし)をなす」を活かした言い方。

【補記】建仁元年(1201)二月、後鳥羽院主催の歌合。

百首歌たてまつりし時

折にあへばこれもさすがにあはれなり小田のかはづの夕暮の声(新古1477)

【通釈】良い折に合えば、これもやはり情趣深いものである。夕暮の田で鳴く蛙の声よ。

【語釈】◇折にあへば 良い時にあえば。◇かはづ 蛙一般を意味する歌語。

【補記】「古今序に鶯に対して蛙をかけり。されども世間にはそれほどもてはやす物にあらず。さればさすがにあはれなりと読り」(聞書)。詞書は誤り。建仁元年(1201)二月の老若五十首歌合の時の作。

〔欠題〕

花になれし名残を雲にながむれば弥生の暮の春雨の空(千五百番歌合)

【通釈】花に馴染んだ名残惜しさに雲を眺めると、弥生の夕暮の空には春雨が降っている。

【語釈】◇花になれし名残 桜の花を眺めることが習慣になっていた、そのなごり。

更衣の心を

桜色の花のたもとをたちかへてふたたび春のなごりをぞ思ふ(玉葉295)

【通釈】桜色に染めた衣の袂を夏物に替えて、今あらためて春の名残を偲ぶのである。

【語釈】◇桜色の花のたもと 桜の花の色に染めた衣の袂。春に着ていた着物のこと。◇たちかへて 夏の衣に替えて。接頭語「たち」に衣の縁語「裁ち」を掛ける。◇ふたたび春の… 桜が散る時にも春の名残を惜しんだが、衣替えによって再び惜春の思いに耽る。

【本歌】和泉式部「後拾遺集」
さくら色に染めし衣をぬぎかへて山ほととぎす今日よりぞ待つ

百首歌たてまつりし時

あふち咲く外面(そとも)の木かげ露おちて五月雨はるる風わたるなり(新古234)

【通釈】楝の花が咲く、家の外の木陰――そこから露が落ちて、五月雨の晴れる風がわたってゆくようだ。

楝(栴檀)の花
楝の花

【語釈】◇あふち 楝。栴檀。初夏に芳香のある薄紫色の花をつける。◇そとも 外面。家の外。◇五月雨(さみだれ) 陰暦五月頃に降る雨。梅雨。◇風わたるなり 「なり」は視覚以外の感覚(露の落ちる音、あるいは肌に感じる涼しさ)によって判断していることを示す助動詞。

【補記】五月雨は降り止んだかと戸外を眺めれば、楝の花咲く木蔭に露がしたたる。折しも、雨雲を追いやった風が樹々の上を渡ってゆくらしい。薄紫の花に落ちた露という微小な景から、晴れゆく空をわたる風の想像へ、大きな転換が鮮やか。
出典は老若五十首歌合。詞書の「百首」は誤り。

【他出】定家十体(見様)、新時代不同歌合、六華集

【主な派生歌】
あふち咲く山田の木蔭風すぎて見るも涼しくとる早苗かな(飛鳥井雅有)
あふち咲く梢に雨はややはれて軒のあやめにのこる玉水(*平経親[風雅])
露はらふ風ぞ涼しきあふち咲く外面のかげの夏の夕暮(二条為親)
あふち咲くそともの木陰くらき夜も聞かでや明けむ山ほととぎす(下冷泉持為)

百首歌たてまつりし時、夏歌

橘の花ちる軒のしのぶぐさ昔をかけて露ぞこぼるる(新古241)

【通釈】橘の花が散りかかる軒のしのぶ草――遠い昔にまで思いをかけるかのように、露がこぼれている。

ノキシノブ
軒のしのぶ(ノキシノブ)

【語釈】◇軒のしのぶぐさ 軒に生えたシノブ草。シノブはシノブ科の羊歯植物。古家の軒端によく生える。「(昔を)偲ぶ」を掛ける。◇昔をかけて 昔にまで及んで。昔に思いを馳せて、といった意を掛ける。「かけて」は露の縁語。◇露ぞこぼるる シノブ草から露がこぼれる。露には懐旧の涙を暗喩。

【補記】橘は古今集の歌「五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」により、その香によって昔を懐かしく思い出させる花とされた。正治二年(1200)の後鳥羽院初度百首。

〔欠題〕

夏深き杜の下陰風すぎて梢をわたる日ぐらしの声(正治初度百首)

【通釈】夏も深まった、深く繁る森の下陰――そこを風が吹き過ぎて、梢を渡ってゆく蜩の声よ。

【補記】「夏深き」は夏が深まったことと、森の木の葉が深く茂っていることを掛けて言う。話者が森の下陰に立っていると、風が吹きすぎて行く。その風に乗るようにして蜩の声が聞こえてくるが、その音は梢をわたってゆくのである。

千五百番歌合に

夕づく日さすや庵の柴の戸にさびしくもあるか日ぐらしの声(新古269)

【通釈】夕日が射し、ちょうど鎖(さ)そうとした庵の柴の戸に、まあ寂しいことよ、蜩の声がする。

【語釈】◇夕づく日 夕方にさす陽。紅く染まった夕陽。◇さすや 「さす」は「日が射す」「戸を鎖す」両義の掛詞。◇柴の戸 雑木で編んだ粗末な門戸。

【他出】千五百番歌合、新時代不同歌合、中古三十六人歌合

【参考歌】藤原顕季「金葉集」
ひぐらしの声ばかりする柴の戸は入日のさすにまかせてぞ見る

【主な派生歌】
秋近き片山林人は来でさびしくもあるか日ぐらしの声(千種有功)

五十首歌たてまつりしに

たのめおきし浅茅が露に秋かけて木の葉ふりしく宿の通ひ路(新古1128)

【通釈】秋になったら、浅茅の生えるこのあばら屋に私を訪うてくれる――そうあの人は約束してくれたが、実は浅い心だった。秋も終わろうとする今に至るまで、あの人は来ず、我が家への通い道には木の葉が降り敷くばかり。

【語釈】◇たのめおきし あの人が私に(訪問を)期待させた。「おき」は次句の「露」と縁のある語。◇あさぢが露 浅茅は丈の低いチガヤ。荒れた庭などに生えるので、茅屋を表わす語となる。相手の「浅」い心を暗示し、露ははかない待つ身、そしてその涙を暗示。◇秋かけて 秋のあいだずっと。「たのめおきし」と関連づけられて「秋に託して」の意にもなり、また「飽きかけて」と男の心をあらわす。「かけ」は「露」の縁語。

【補記】詞書は誤り。千五百番歌合に詠出された歌。

【本歌】「伊勢物語」第九十六段
秋かけていひしながらもあらなくに木の葉ふりしくえにこそありけれ

〔欠題〕

さらにまた時雨をそむる紅葉かな散りしく上の露のいろいろ(正治初度百首)

【通釈】散った後でも更にまた時雨を染める紅葉であるよ。散り敷いた葉の上の水滴がさまざまな色に映えている。

【参考歌】慈円「拾玉集」(文治五年九月の作)
くれなゐに木のはの色のなりぬれば時雨をそむるもみぢなりけり

【補記】落葉の上の雨露が様々な色に映えているのを、紅葉(黄葉)が時雨を染めたと見なした。「時雨が木の葉を染める」という当時の常識を反転したのである。上記参考歌にヒントを得たものと思われるが、理屈の歌に終わった慈円の作に対し、忠良は下句で鮮やかなイメージを差し出した。

〔欠題〕

露霜にまがきの萩は枯れはてて木の葉の底にのこる虫の()(正治初度百首)

【通釈】露と霜に垣根の萩は枯れ果てて、秋のなごりと言えば散り積もった木の葉の底に虫の声が残るばかりである。

【補記】初冬の庭の景。殷富門院大輔の「虫のねのよわりはてぬる庭のおもに荻の枯葉の音ぞのこれる」の反響が聞こえるが、掲出歌の方は、風に鳴る枯葉の音より辛うじて虫の声がまさっている頃合である。

契ること侍りけるを、忘れたる女につかはしける

なにとかやしのぶにはあらで古郷の軒端にしげる草の名ぞ憂き(千載834)

【通釈】何と言ったか、「しのぶ」ではなくて、荒れた里家の軒端に繁る草の名がつれないことよ。

【補記】約束を忘れた女に言い遣った歌。「草の名」は忘れ草である。謎かけめいた婉曲な歌いぶりには、怨恨の暗さはなく、むしろユーモアが漂う。「なにとかや」は「何と言いましたっけ」ほどの意、おとぼけである。「しのぶにはあらで」の「しのぶ」は、「忍ぶ草」(古家の軒に生えるとされた)と「偲ぶ」の掛詞。私を偲ぶどころか忘れるなんて、と女を責めているのである。千載集の忠良の恋歌は秀作揃い、定家も『八代抄』にこの歌を始め四首採っている。

【参考歌】藤原家隆「壬二集」(掲出歌との先後関係は不明)
なにとかや契りし人はかくれぬの下よりおふる草の名ぞ憂き

明闇(あけぐれ)の空をともに詠めける女、また逢ふまでの形見に見むと申しける後、つかはしける

忘れぬや偲ぶやいかに逢はぬまの形見とききし明暗(あけぐ)れの空(千載884)

【通釈】忘れていませんか、偲んでくれていますか。どうですか。逢えない間の形見とあなたの口から聞きました、この明けぐれの空を。

【補記】「明暗れ」は夜が明けたばかりでぼんやり暗い頃、その空を共に眺めたとは、言うまでもなく一夜を共に過ごしたということ。「また逢える時まで、この空を思い出のよすがとしましょう」などと艶なせりふを口にした女へ、別れのあと贈った歌である。女の別れ際の言葉に素直に応じているが、上句のかきくどくような口調がいじらしい。千載集に採られているから、作者はこのとき十代後半か、せいぜい二十代初めである。相手はおそらく年上の女だったろう。

題しらず

これはみな思ひしことぞなれしよりあはれ名残をいかにせむとは(千載902)

【通釈】こんなのは全部覚悟していたことだ。あの人と馴れ親しんだ時から、ああ別れのあとの名残惜しさをどうすればよいのかと。

【補記】別れた恋人への未練を詠む。成就し難いことを知りつつ始まった恋。離絶の後の辛さは初めから予想していたではないか、と自らに言い聞かせても、断念しきれぬ苦しみからは、やはり逃れようもない。

題しらず

おもひいでよ夕べの雲もたなびかばこれや歎きにたへぬけぶりと(千載922)

【通釈】夕暮、棚引いている雲を見たら、歎きに耐えず死んだ私の煙と眺めて、思い出してくれ。

【補記】「けぶり」は火葬の煙であり、恋い死にした魂のくすぶりである。式子内親王の「恋ひ恋ひてそなたに靡く煙あらばいひし契りの果てとながめよ」など、類想の歌は多いが、端正な完成度では忠良の歌が抜きん出ている。

千五百番歌合に

思ひ寝に我が心からみる夢も逢ふ夜は人のなさけなりけり(新続古今1318)

【通釈】思い寝に自分の心から見る夢も、逢える夜は相手の情けあってのことだったのだ。

【補記】恋しい人を思いながら寝入って見る夢は、自分の心ゆえなのだが、夢で当人に出逢える夜は稀である。それは相手の情けあってのことなのだ、という。「夢で恋人に逢えるのは、相手が自分を想ってくれる証拠だ」との俗信は、万葉集の頃は確信に近かったが、中世の人にはもはや容易に信じることが出来なかったようだ。

【本歌】凡河内躬恒「古今集」
君をのみ思ひ寝にねし夢なればわが心から見つるなりけり

正治二年百首歌奉ける時、旅

嵐吹く高嶺の雲をかたしきて夢路も遠しうつの山越え(新千載818)

【通釈】嵐が吹きつける高嶺の雲を片敷きの敷物として、故郷は夢路に辿るにも遠い、宇津の山越えの一夜よ。

【補記】「うつ(宇津)の山」は、いま静岡市宇津ノ谷(うつのや)などに地名を残すが、東海道の難所として名高く、伊勢物語第九段によって歌枕となった。「うつつ」と掛詞になり「夢」と対比されるため、夢と現実の狭間に特別な関心を寄せた新古今歌人たちによって盛んに詠まれたのである。この歌は、その峠を越えきれぬうちに日が暮れてしまい、山の高所で過すことになった一夜を詠む。「雲をかたしき」とは、雲を寝床の敷物に見立て、その上で独り寝している、ということで、山上の旅寝の並外れた不安感・非日常感を言いあらわしている。「夢路も遠し」は、せめて夢で家郷を見たいが、それさえも叶い難いという心。なぜなら峠は激しい嵐に吹き晒されているからである。旅の苦しさを詠みつつ、ロマンティシズムが漂う。

【本歌】「伊勢物語」第九段
駿河なる宇津の山べのうつつにも夢にも人にあはぬなりけり

正治百首歌に

朝ぼらけ野ざはの霧のたえまよりたつ白鷺の声のさむけさ(新続古今1748)

【通釈】早朝、野沢に立ち込める霧の絶え間から、白鷺が飛び立つ――その声の寒々としていることよ。

【補記】「霧の絶え間」に見た景を叙した歌では、大納言経信母の「明けぬるか川瀬の霧のたえまより遠方人の袖のみゆるは」(後拾遺集)が名高い。以後、たびたび取り上げられたが、「たつ白鷺」の動き・色に着目した上に、「声のさむけさ」と聴覚・皮膚感覚の複合へつなげた忠良の歌は、空前の趣向である。当然、百人一首にも採られた名歌「秋風にたなびく雲のたえまよりもれいづる月のかげのさやけさ」なども咀嚼したうえでの作であろう。

【主な派生歌】
池水の氷のひまに打ちはぶきよるなくをしの声の寒けさ(頓阿)
しほ風のわかの松原吹きしをりなきたつ鶴の声のさむけさ(三条西実隆)

述懐の歌とてよみ侍りける

そむかばやまことの道は知らずともうき世をいとふしるしばかりに(千載1111)

【通釈】世を捨ててしまいたい。まことの仏の道は知らなくても、この憂き世を厭う証拠を示すためだけに。

【補記】厭世観が滲み出ていて、当時の貴族の出家を願う心の本音はこんなところにあったのかもしれない、と思わせる歌である。

述懐の心を

世の憂さを今はなげかじと思ふこそ身を知りはつる限りなりけれ(続後撰1158)

【通釈】世間の無情さをもう歎くまいと思う――その時こそが、我が身を底まで知り切った時なのだ。

【補記】「身を知る」、おのれを知るとはどういうことか。世間の辛さをぼやくのは、まだ自分に恃むところがあるからであろう。そんな嘆息を重ねた挙句、ふと、これ以上歎いても虚しいと悟る。その時こそが、我が身を限界まで知りきった時である、というのである。

東山にこもりゐて後、花を見て

思ひすてて我が身ともなき心にもなほ昔なる山桜かな(新勅撰1039)

【通釈】執着を捨てて、もはや我が身とも言えないような心にも、昔と変わらぬ感慨をもたらす山桜であるよ。

【補記】「東山」は京都賀茂川の東に連なる峰々。延暦寺・六勝寺・清水寺・法性寺・長楽寺など多くの寺があった。それら寺々に籠もり、ひたすら仏に奉仕して、もはや心はすべて仏に預けた筈であったが、昔ながらの山桜を見れば、おのずと過ぎ去った時が追想される。それだけの「心」は我が身に留まっていた、という感懐である。新勅撰の忘れがたい述懐歌秀逸。

【参考歌】平忠度「千載集」
さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな

女のおもひにて詠み侍りける

さめやらであはれ夢かとたどるまにはかなく年の暮れにけるかな(続拾遺1313)

【通釈】目が覚めきらずに、ああこれは夢なのかと手探りする――そんな思いのうちにはかなく一年が過ぎてしまったのだなあ。

【補記】「おもひ」は喪。恋人の喪に服していた時詠んだ哀傷歌である。女の死を現実として受け入れることができず、自分は夢を見ているのではないかと手探りするように過すうち、年の暮を迎えてしまった。歳暮とは、「魂まつる年の終りになりにけり今日にやまたもあはむとすらむ」(曾禰好忠『詞花集』)のように、死者の魂を迎える時節であった。

寄無常暁更落月といふ事を清水寺地主権現に奉るべきよし、人の夢にみてすすめ侍りけるに

はかなくて我が世すぎぬとながむれば月もいまはの西の山の端(玉葉2006)

【通釈】私の人生ははかなくも過ぎてしまったと眺めていると、月もまた今にも西の山の端に沈もうとしている。

【補記】詞書は、ある人が夢で「無常に寄する暁更の落月」という題で清水寺の地主神に歌を奉れとのお告げを得た。それで現実に勧進することとなって詠んだ歌、ということであろう。「月」は歳月そのもののシンボルである。それが西の山の端に沈もうとしている情景に、人の生の無常を寄せている。

誓ひて智恵の水を以て、永く煩悩の塵を洗はむ

ながき夜にまよふ夢路もさむばかり心をあらふ滝の音かな(玉葉2710)

【通釈】無明長夜に迷う夢も醒めるばかりに、心を洗うかのごとく流れ落ちる滝の音よ。

【補記】詞書は『白氏長慶集』巻十の詩からの引用。「智恵の水」は仏前に供える清浄な水をいうが、仏道によって煩悩を去ることを、水によって塵を洗い流すことに喩えている。忠良の歌は、煩悩を「まよふ夢路」、仏智を「滝の音」へと、和歌的翻訳を施した。


更新日:平成14年04月07日
最終更新日:平成20年12月19日