藤原基良 ふじわらのもとよし 文治三〜建治二(1187-1276)

大納言忠良の長男。母は藤原実国の娘。衣笠内大臣家良の兄。子には大納言良教、右中将教嗣ほかがいる。
建久八年(1197)に元服して従五位上に叙せられ、左少将・左中将などを経て、建暦元年(1211)十月二十九日、従三位に叙せられる。文暦元年(1234)十二月二十一日、権中納言。嘉禎三年(1237)十二月二十五日、中納言に転ず。暦仁元年(1238)七月二十日、権大納言。延応元年(1239)十月二十八日、権大納言を辞す。建長三年(1251)九月一日、病により出家。最終官位は正二位。
承久元年(1219)の「内裏百番歌合」、建保二年(1214)の「月卿雲客妬歌合」、宝治二年(1248)の「宝治百首」などに出詠。新勅撰集初出。勅撰入集三十三首。

梅薫風

明けばまた行きてとふべき梅が香を夜のまもおくる窓の春風(宝治百首)

【通釈】夜が明けたら、また求めに出かけようと思っていた梅の香――窓から吹き込む春風が、夜の間もその薫りを送ってくれていた。

暮春雨といふ事を

濡れて折る藤の下かげ露ちりて春やいくかの夕暮の雨(玉葉277)

【通釈】藤棚の下、雫に濡れつつ花を折り取ろうとすれば、花の下蔭でも露がこぼれ落ちて、春も残すところ何日かと名残惜しむ、夕暮の雨の中……。

【補記】承久元年(1219)、順徳天皇の内裏百番歌合に出された歌。「春やいくか」は在原業平の歌「ぬれつつぞしひて折りつる年の内に春はいくかもあらじと思へば」(古今集)を本歌取りして、惜春の情を補強している。結句「夕暮の雨」は定家や家隆に先蹤があるが、ことに玉葉風雅で好まれた。回りくどい修辞は好悪が別れるかもしれない。

【参考】「白氏文集・三月三十日題慈恩寺」
紫藤花下漸黄昏(紫藤花の下漸く黄昏)

題しらず

さても又いかなる夜はの月影にうき面影をさそひそめけむ(新後撰1065)

【通釈】いつ、どんな晩だったか。月に恋人のつれない面影が想い出されて、それ以来、忘れられないのだ、性懲りもなく。

【語釈】◇さそひそめけむ 月影に恋人の面影を誘発され、忘れられなくなった、それはいつの夜からだったろう、ほどの気持。「けむ」は過去推量の助動詞。

【補記】宝治百首。題は「寄月恋」。

【参考歌】西行「山家集」
秋の月もの思ふ人のためとてや憂き面影にそへていづらむ


公開日:平成14年07月25日
最終更新日:平成22年07月31日