藤原基家 ふじわらのもといえ 建仁三〜弘安三(1203-1280) 号:鶴殿(たづどの)・後九条内大臣

後京極摂政良経の三男(公卿補任)。母は松殿関白基房女。藤原道家・東一条院立子(順徳天皇中宮)の異母弟。子に経家・良基がいる。
建保三年(1215)正月、叙爵。右中将・権中納言・権大納言などを歴任し、承久三年(1221)、正二位に至る(最終官位)。寛喜三年(1231)四月、西園寺実氏が権大納言から内大臣に昇進すると、家格の低い実氏に官位を超えられたことに不満を抱いて籠居。その後再出仕し、嘉禎三年(1237)十二月、内大臣に就任。翌四年六月、辞職引退。弘安三年(1280)七月十一日、薨。七十八歳。
歌人としては、貞永元年(1232)の石清水若宮歌合・光明峯寺摂政家歌合・洞院摂政家百首に参加するなど九条家歌壇を中心に活動するが、文暦二年(1235)に完成した藤原定家『新勅撰集』には一首も採られなかった。嘉禎二年(1236)、後鳥羽院主催の遠島御歌合に献歌。建長三年(1251)奏覧の為家『続後撰集』でようやく勅撰集初入撰を果たす(8首)。定家亡きあと御子左家を引き継いだ為家には反発し、知家真観ら反御子左派を庇護して、建長八年(1256)九月十三日百首歌合を主催、真観らと共に自ら判者を務めた。弘長元年(1261)に鎌倉で催された宗尊親王百五十番歌合でも判者を務める(京に在って加判)。弘長二年(1262)、『続古今集』の撰者の一人に加えられる。後嵯峨院歌壇でも活躍し、宝治二年(1248)の宝治百首、弘長元年(1261)以後の弘長百首に出詠している。ほかに建長三年(1251)九月影供歌合、文永二年(1265)八月十五夜歌合、弘安元年(1278)頃の弘安百首などに参加。
建長五年(1253)または翌年頃、私撰集『雲葉集』を編集。また『新撰歌仙』『新時代不同歌合』などの編者とみる説がある。続後撰集初出。勅撰集入集は計七十九首。新三十六歌仙。『新時代不同歌合』にも歌仙として撰入。

  2首  1首  3首  4首 計10首

春月 百首御歌中

ふかき夜のあはれ知りけむいにしへの春のあふぎの月はかはらじ(夫木和歌抄)

【通釈】いにしえ人は、このように春の扇の月を仰いで、深夜の情趣を知ったのだろう――その月の哀れ深さはいつまでも変わりはすまい。

【語釈】◇あふぎの月 扇形の月、すなわち十二日前後か二十日前後の月。「仰ぎ」の意を掛ける。

【補記】『夫木和歌抄』以外には見えない歌で、いずれの「百首」歌か不明。同集に収録の同題詠「更け行けばかすめる空も身にしみていかにひさしき月となるらん」も捨て難い。

宝治百首歌たてまつりける時、春月

ながめきて年にそへたるあはれとも身に知られぬる春の夜の月(続拾遺523)

【通釈】毎年眺めて続けて、しだいにあわれの心は深くなった――そう我が身にしみじみと知られる春の夜の月よ。

【補記】年齢を重ねるにつれ、いっそう月への思いが深くなる、といった感慨は、たとえば待賢門院堀河の「残りなく我が世ふけぬと思ふにもかたぶく月にすむ心かな」(千載集)など、少なからず歌に詠まれて来た。掲出歌は、先輩歌人たちの感じてきたその種の「あはれ」を己の身にも知った、という感慨が重なっているように思われる。しかも、「人生の秋」のメタファーとなる秋の月ではなく、耽美的な心情で詠まれることの多い春の月(朧月)に感懐を託したところに新味がある。

洞院摂政家の百首歌に、郭公を

なきぬべき夕べの空をほととぎす待たれむとてやつれなかるらむ(続後撰175)

【通釈】啼いて当然の夕方の空なのに、時鳥はもっと人から待たれようと思って、つれなくするのだろうか。

【補記】夏の代表的な風物である時鳥は、中世になっても相変わらず人気の歌題だが、ワンパターン化も甚だしく、めぼしい作はごくごく稀である。この歌では「時鳥がつれないのは、人に待たれようとの心からなのか」と、恋の風趣を匂わせ、待ち侘びる人の思いを鳥の心情に反映させて、新味を打ち出そうとしている。「なきぬべき夕べの空を」の初二句がことに良く、時鳥が鳴いて然るべき情趣のある、そして人が思わず泣き出してしまいそうな夕暮の空、といった含みのある秀句である。貞永元年(1232)の洞院摂政家百首。

【他出】洞院摂政家百首、万代集、新三十六人撰、和漢兼作集、井蛙抄、題林愚抄

【主な派生歌】
なきぬべき雲のけしきに待ちなしていまやとたのむ時鳥かな(道潤[玉葉])
なきぬべき夜半はたのまじ郭公待つらむとこそ猶しのぶらめ(兼好)

(題欠)

思ひ寝の夢てふものにさそはれてたのまぬ中にゆく月日かな(元暦三十六人歌合)

【通釈】思いながら寝て見る夢というはかないものに誘われて、あてにはできない仲のまま、過ぎてゆく月日であるよ。

【補記】出典は、新古今時代の歌人三十六人の秀歌を合せた所謂「歌仙歌合」の一種。宜秋門院丹後の「ふきはらふ嵐の後のたかねより木の葉くもらで月やいづらん」と合されて風情を増している。言うまでもなく下記小町詠の本歌取り。第四句「たのまぬ中に」が恋の様相を簡潔に言い尽くしている。この句は同じ作者の『新千載集』所収歌「いさやまためぐりあふべき別れともたのまぬ中にのこる面影」にも使われているところを見ると、作者お気に入りの秀句であったか。

【本歌】小野小町「古今集」
うたたねに恋しき人を見てしより夢てふものは思ひそめてき

不遇恋心を

知りがたき命のほどもかへりみずいつまでと待つ夕べなるらむ(続後撰781)

【通釈】いつまで持つとも知り難い命――その限度も省みず、いつまでと待ち続ける夕暮なのだろうか。

【補記】題は「遇はざる恋」、恋人と逢うこと叶わない心情を詠む。我が命もかえりみずに待ち焦がれる、こんな夕暮がいつまで続くことか、と自問している。遠からず恋しさに命は燃え尽きてしまうだろうとの絶望が余情となっている。

暁恋を

しのぶべきこれやかぎりの月ならむさだめなき世の袖の別れは(続古今1170)

【通釈】これが、忍ぶ恋に耐えてきた、最後の月であろうか。無常のこの世にあって、袖の別れに見る月は。

【補記】暁は恋人たちにとって別れの時。差し交わしていた袖を引き離し、別れてゆく二人の頭上には、有明の月が冷やかに照っている。遅かれ早かれ消えてしまう、幽かな月明かりだ。さだめなき人の命もまた果敢なく脆い。今朝見るこの月が、忍ぶ恋に堪えてきた最後の月になるかもしれない。……いい加減使い古された舞台設定なのだが、倒置を重ねた語法の艶な響きが印象的だ。

【参考歌】馬内侍「新古今集」
逢ふことはこれやかぎりの旅ならむ草の枕も霜枯れにけり

百首歌たてまつりし時、海路を

松かげの入海かけて白菅の湊吹きこす秋の潮風(続古今1564)

【通釈】松林が影を映す入海めがけて、白菅の生える湊を吹き越してゆく、秋の潮風。

【補記】弘長元年(1261)以後の弘長百首。「白菅(しらすげ)の湊(みなと)」は、白菅の生える水門(みなと)を地名のように言いなしたものか。あるいは、高市黒人の万葉歌「いざ子ども大和へ早く白菅の真野の榛原手折りて行かむ」の「白菅の真野」(神戸市長田区真野町)が念頭にあったのかも知れない。涼しげな潮風が白菅をなびかし、白波を立たせつつ、水門から内海へ向けて吹きつける。船上にある話手のまなざしも風と共に移動し、松林が緑の影を落とす入江へと向かう。秋の爽やかな海景に、刻一刻と浜辺に近づく喜びが余情として籠り、単なる絵のような風景には終わっていない。

百首歌中に

河上に里荒れ残る水無瀬山みし物とては月ぞすむらん(新後拾遺745)

【通釈】川のほとりに里が荒れて残っている水無瀬の山よ。昔見たものとては、月が澄んでいるだけなのだろう。

【補記】夫木和歌抄によれば、建長八年(1256)、自邸での百首歌合に出詠した作。「水無瀬山」は摂津国島上郡水無瀬の山。かつて後鳥羽院の離宮があった所で、院に対する思慕を暗示していることは疑いがない。因みに基家は嘉禎二年(1236)に後鳥羽院主催の遠島歌合に歌を奉っている。

弘長元年百首歌たてまつりける時、荻を

荻の葉に昔はかかる風もなし老はいかなる夕べなるらむ(続拾遺567)

【通釈】昔は荻の葉にこんな風音を聞くことはなかった。老いて迎える夕べとは、どのような夕べなのだろうか。

【補記】荻は薄によく似るが、葉はより大きく、風にそよぐ音によって秋の訪れを知るという趣向が好んで詠まれた。ある夕べ、盛りの齢を過ぎた耳に、その葉擦れの音がかつてないほど身に沁みて響く。やがて訪れる老境の日々を思い、幽かな戦慄をおぼえているのだ。荻を主題とした歌だが、述懐色が濃く、続拾遺集の雑秋の部に採られた。

懐旧

大かたの昔はことのいはれにて我が見し世こそまづ恋しけれ(弘長百首)

【通釈】おおよそ遠い昔のことは故事来歴としての知識なのであって、自分が経験したこの世こそ何よりも恋しいのだ。

【補記】遠い過去の歴史を人々は懐かしがるけれども、それは物事の来歴を尋ねて得た知識にすぎない。自分が実際に経験した現世こそが何よりも恋しく懐かしい、との心。「大かたの昔」と「我が見し世」を対比するという発想自体、当時としてはきわめて珍しい。

【主な派生歌】
おほかたの昔は知らず見し人のありし頃こそまづ恋しけれ(宗尊親王)


更新日:平成14年08月14日
最終更新日:平成21年01月12日