光孝天皇 こうこうてんのう 天長七〜仁和三(830-887) 諱:時康

淳和天皇代、皇太子正良親王の子として生れる(第三皇子)。母は贈太政大臣藤原総継女、藤原沢子。系図
幼少より聡明で読書や音楽を好み、太皇太后橘嘉智子の寵愛を受けた。天長十年(833)、四歳のとき父が即位(仁明天皇)。承和十三年(846)、四品。同十五年、常陸太守。嘉祥三年(850)、中務卿。仁寿三年(853)、三品。貞観六年(864)、上野太守。同八年、大宰帥。同十二年、二品。同十八年、式部卿。元慶一年(877)、辞職を請うたが許されず、同六年、一品に至る。同八年(884)二月、陽成天皇の譲位を受けて践祚。この時五十五歳。太政大臣藤原基経を実質的な関白に任じ、「万政を頒行」するよう命じた。即位三年後の仁和三年八月、重病に臥し、基経に命じて第七子源定省(宇多天皇)を親王に復し、立太子させた。その翌日の八月二十六日、崩御。在位期間こそ短かったが、文事を好み古風を復活し、宇多・醍醐朝の和歌復興の基をなしたとも言われている。遍昭と親交があった。「仁和の帝」「小松の帝」とも呼ばれた。
古今集の二首以下、勅撰入集は計十四首。御製を集成した『仁和御集』は十五首を載せるばかりだが、ほとんどが勅撰集に採られた珠玉の歌集である。

  2首  7首  1首 計10首

仁和のみかど、みこにおましましける時に、人に若菜たまひける御うた

君がため春の野にいでて若菜つむわが衣手に雪はふりつつ(古今21)

【通釈】あなたに捧げようと、春の野に出て若菜を摘む私の袖に、雪はしきりと降っている。

【語釈】◇仁和のみかど 光孝天皇の通称。◇みこ 親王。「みこにおましましける時」とは、即位なさる以前、ということ。◇若菜 「菜」は食用となる草。◇衣手(ころもで) 袖または袂を意味する歌語。

【補記】細川幽斎は臣下に賀(祝い物)を賜う時の歌と解したが、契沖は反論して曰く「若菜たまふとは賀を給ふといふ義あれど、然らば賀部に『春日野に若菜つみつつ』といふ歌もあれば、彼のつづきに入るべし。春部にあれば、只若菜をたまへるにて、其中にいはふ心はおのづから有るべし」(『改観抄』)。萌え出る若菜は生命力のシンボルであり、これを食することは一年の健勝を祈るまじないであった。また、新春の雪も吉兆とされた(「新しき年の始めの初春のけふ降る雪のいやしけよごと」家持)。のびやかな調べにのせた古雅な趣きを味わう中に、「おのづから」息災長寿を祈る心がこもるところが一層めでたい。

【他出】仁和御集、新撰和歌、古今和歌六帖、新撰朗詠集、定家十体(麗様)、定家八代抄、詠歌大概、秀歌大躰、百人一首、新時代不同歌合、東野州聞書

【参考歌】「万葉集」巻七 柿本朝臣人麻呂之歌集出
君がため浮沼(うきぬ)の池に菱つむと我が染めし袖ぬれにけるかも
  「万葉集」巻十
君がため山田の沢にゑぐつむと雪げの水に裳の裾ぬれぬ

【主な派生歌】
君がため衣のすそをぬらしつつ春の野にいでてつめる若菜ぞ([大和物語])
誰が為とまだ朝霜の消ぬがうへに袖ふりはへて若菜つむらん(藤原定家[続後拾遺])
しろたへの袖にぞまがふ都人若菜つむ野の春の淡雪(後鳥羽院[続拾遺])
里人のすそのの雪をふみ分けてただわがためと若菜摘むらん(〃[遠島百首])
君がため出づる野原のかたみにやしひても春の若菜つむらん(順徳院)
霞しく荻の焼原ふみわけて誰がため春の若菜摘むらん(九条道家[続後撰])
若菜つむ我が衣手も白妙に飛火の野べは淡雪ぞふる(藤原為家[続古今])
いざけふは衣手ぬれて降雪のあはづの小野に若菜つみてむ(〃[新千載])
今よりは若菜つむべきふる里のみかきが原に雪は降りつつ(西園寺実兼[新後撰])
すみれ草つみつつかへる春の野にたがためとなく袖ぬらしけり(貞常親王)

みこにおはしましける時の御うた

山桜たちのみかくす春霞いつしかはれて見るよしもがな(新勅撰73)

【通釈】立ちこめて山桜を隠してばかりいる春の霞よ、いつか晴れて花を眺めたいものだ。

【語釈】◇たちのみかくす 立ち現れて、隠してばかりいる。

【補記】なんらかの障害があって逢えない人への恋情を、春景色に重ねて詠んでいるように思われる。新勅撰集春下の巻頭を飾る。

題しらず

涙のみうき出づる海人(あま)の釣竿のながき夜すがら恋ひつつぞぬる(新古1356)

【通釈】涙ばかりが浮かび出る、漁師の釣竿のように長い夜もすがら、あの人を恋しがりながら寝ているのだ。

【語釈】◇うき 浮子の意が掛かり、海人の縁語となる。◇釣竿の 「ながき」を枕詞風に修飾する。

【補記】御集には「下の曹司」に宛てた歌として「なみたかみ榜出でぬあまのつりざをのながき夜な夜な恋ひつつぞぬる」とあり、この方がすっきりと気持は伝わる。またこの形なら、「あしひきの山鳥の尾の…」を意識した作であることもはっきりする。

題しらず

逢はずしてふる頃ほひのあまたあれば遥けき空にながめをぞする(新古1413)

【通釈】逢わずに過ごす、雨の降る日が長く続くので、遥かな空を眺めて物思いに耽っているのだ。

【語釈】◇ふる 「経る」「降る」の掛詞。◇ながめ 眺め(詠め)・長雨の掛詞。

【補記】御集は第四句「はかなき空に」。「遥けき空に」は新古今集撰者による添削と思われるが、恋人への距離の遠さ、思いの果てしなさが出て、味わいは深くなっている。

【他出】仁和御集、定家八代抄、新時代不同歌合

題しらず

月のうちの桂の枝を思ふとや涙のしぐれふる心地する(新勅撰952)

【通釈】月の中に生える桂の枝――そのように手の届かない人を思うので、涙が時雨のように降る、悲しい心持がするのだろうか。

【語釈】◇月のうちの桂(かつら) 月に桂が生えているというのは大陸渡来の伝説。かの国では桂花(キンモクセイ)の類を言うらしいが、わが国では落葉高木の桂を想定していると思われる例が少なくない。桂は秋、黄色からオレンジ色へと美しく染まる。 ◇涙のしぐれ 涙を時雨に喩える。時雨は木の葉を紅葉させると考えられた。

【補記】「月のうちの桂」は万葉集に早くも見え、「目には見て手には取られぬ月の内の桂の如き妹をいかにせむ」(湯原王)、「黄葉(もみち)する時になるらし月人の桂の枝の色づく見れば」(作者不明)などの作がある。おそらくこの両首を取り込んで、優美な恋歌に仕上げている。

久しくまゐらざりける人に

久しくもなりにけるかな秋萩のふるえの花も散りすぐるまで(玉葉1652)

【通釈】あなたに逢わずに長い時が経ったものだ。秋萩の古枝に残っていた花もすっかり散ってしまうまで。

【補記】長いこと内裏に参上しなかった人にあてた歌。「一緒に萩の花を賞美したかったのに」の心が裏にある。万代集では秋の部に載せるが、京極為兼は詞書の「人」を恋人として解釈したようで、玉葉集恋の部に入れている。萩は万葉集以来鹿と取り合わせて妻の比喩とされたから、恋の情趣が漂うのである。御集は下句を「ふるえの花はちりすぎにけり」とし、その方が古風な格調では勝る。

ひさしうまゐらぬ人に

君がせぬ我が手枕は草なれや涙のつゆの夜な夜なぞおく(新古1349)

【通釈】あなたが手枕にしてくれない私の袖は、草だろうか。まさかそんなはずはないのに、涙の露が夜ごとに置くのだ。

【補記】御集の詞書は「更衣ひさしくまゐらぬに、御文たまはせけるに」。長いこと里に下ったまま参上しない更衣(夜のお供をする女官)に贈った歌である。まず上句の言い回しが冴えを見せる。下句は一見平凡だが、涙を露に喩えているだけではない。露の重みでしなう草のイメージが、鬱屈する恋情をよく象徴している。有家・定家・家隆の三人の推薦を受けて新古今に入集した。

【他出】定家八代抄、新時代不同歌合

人にたまはせける

秋なれば萩の野もせにおく露のひるまにさへも恋しきやなぞ(風雅1283)

【通釈】秋なので、萩の咲く野原いちめんに置く露――その露が乾く間のような僅かな間でさえも――そして夜ばかりか昼間でさえも――あなたが恋しいのは何故だろう。

【語釈】◇野もせに 野も狭に。野に満ち満ちて。◇露 涙を暗示。◇ひるまにさへも 「ひるま」は「昼間」「干る間」の掛詞。「夜だけでなく昼間でさえも」の意に、「露の干る間のようなわずかな間でさえも」の意を掛けている。

【補記】御集によれば、暁別れた女に贈った歌。いわゆる後朝(きぬぎぬ)の歌である。上句は「ひるま」を導く序となっているが、萩の咲き乱れる野原いちめんに置く露に、涙の多さを暗示している。なお、御集では結句「こひしかりけり」。

人にたまはせける

涙川ながるるみをのうきことは人の淵瀬をしらぬなりけり(続後撰896)

【通釈】涙川の流れる水脈ではないが、涙ばかり流している我が身が辛いのは、淵のように深くなったり瀬のように浅くなったりする、誰かさんの心が解らないからなのだ。

【語釈】◇涙川 あふれてやまない涙を川に喩える。◇みを 水脈。河海の船の通りみち。「身」を掛ける。◇うきことは 辛いことは。辛いのはなぜかと言えば…と下句へつながる。◇人の淵瀬 人の心の深浅。心の機微。「人」は婉曲に恋人を指す。「淵瀬」は水の深いところと浅いところ。

【補記】「人の淵瀬」なる語は後撰集や拾遺集の読人不知歌に見え、光孝天皇歌との先後関係は定かでない。思う相手の心が、深くなったり浅くなったりする。それを自分では知り得ないことが辛い、というのである。恋する心の機微をとらえた、述懐風の恋歌。

仁和の御時、僧正遍昭に七十の賀たまひける時の御歌

かくしつつとにもかくにも永らへて君が八千代にあふよしもがな(古今347)

【通釈】このようにしながら、ともかくも生き永らえて、あなたの永遠の長寿に逢うことがあってほしいものだ。

【語釈】◇七十の賀 七十歳の祝賀(算賀)。当時は四十歳以後、十年毎に齢を祝った。◇かくしつつ このように算賀を重ねながら。◇八千代(やちよ) とこしえの長寿。「やち」は限りなく多い数。

【補記】仁和元年(885)十二月、光孝天皇が自ら遍昭の算賀を祝って詠んだ歌。遍昭はかつて仁明天皇の寵臣であり、帝が崩御すると直ちに剃髪出家した人物である。子の光孝天皇とも早くから親交があったのであろう。天皇自身、この歌を詠んだとき既に五十代半ば。長く人生の伴侶としてきた相手への厚い友誼の情が感じられる。「とにもかくにも永らへて」など、形式的になりがちな賀歌には珍しいほど実感のこもった句である。因みに後世、後鳥羽院が釈阿(藤原俊成)の九十賀を祝ったのは、光孝天皇と遍昭の故事に倣ったものと言われる。


更新日:平成16年05月22日
最終更新日:平成22年10月20日