藤原朝光 ふじわらのあさみつ(-あさてる) 天暦五〜長徳元(951-995) 号:閑院大将

堀河関白太政大臣兼通の次男(大鏡。公卿補任によれば四男)。母は醍醐天皇皇子有明親王女、従二位能子女王(尊卑分脈)。左大臣顕光の弟。円融院后堀河中宮の兄。子には権中納言朝経、花山院の女御となった女子、円融院の女御となった女子などがいる。
応和三年(963)、叙爵。蔵人頭などを経て、天延二年(974)四月、参議従四位下。同三年、権中納言従三位。貞元元年(976)七月、春宮大夫。同二年、権大納言従二位。同年十二月、左大将を兼ね、以後引退するまで同職を兼任した。永観二年(984)正月、正二位。永延元年(987)、大納言。また按察使を兼ねる。同年六月、重病により左大将・春宮大夫を辞するが優詔あって許されず。長徳元年(995)三月二十日、枇杷第に薨ず。四十五歳。
家集『朝光集』がある。『大鏡』に歌才を賞讃されている。小大君馬内侍などの才女と歌を贈答し、実方高光公任ら歌人との交流も窺える。拾遺集初出。勅撰入集二十八首。

女のもとに、物をだに言はむとてまかりけるに、むなしくかへりて朝(あした)

きえかへりあるかなきかの我が身かなうらみてかへる道芝の露(新古1188)

【通釈】今にも消え入ってしまいそうで、生きているのか死んでいるのか自分でもわかりません。少し話がしたかっただけなのに、それさえ叶わずにあなたを恨みながら帰ってゆく……あたかも、その帰り道の道端に生えている雑草の露のように。

【語釈】◇女 恋人。小大君集にもこの歌が見え、小大君をさすと思える。◇きえかへり 露などが現れては儚く消えて行くことを言い、心細い思いをすることに喩える。◇あるかなきかの我が身 「あるかなきか」には、存在感が薄いといった意味もある。女にすげない扱いをされた自分を卑小なものとして言い、恋人への恨みをこめているのである。

堀河院におはしましけるころ、閑院左大将の家の桜を折らせにつかはすとて   円融院御歌

垣越しにみるあだ人の家ざくら花ちるばかり行きて折らばや

【通釈】垣根越しに、お宅の桜が見えるよ。浮気な人の家の花は、散るのもさぞかし早いだろう。もう散る頃だろうから、行って折りたいものだ。

御返し

折りにこと思ひやすらん花桜ありしみゆきの春を恋ひつつ(新古1452)

【通釈】とんでもございません。折りに来て下さいなどと、桜の花が思ったりするでしょうか。以前、花の盛りに我が家においで下さいましたね。あの春を繰返し懐かしく思い出しながら、おいでをお待ちしているのですよ。浮気者なんておっしゃらないで下さい。

【補記】詞書の「堀河院」は二条南堀河東の藤原兼通邸。内裏焼亡のため、円融天皇がしばらく仮御所とした。その頃、朝光の家の桜を所望した天皇とのやり取り。

円融院法皇うせさせ給ひて、紫野に御葬送侍りけるに、一とせこの所にて子の日せさせ給ひしことなど思ひ出でて、よみ侍りける

紫の雲のかけても思ひきや春の霞になして見むとは(後拾遺541)

【通釈】法皇の催された子の日の御遊の時、ここ紫野にはめでたい紫の雲がたなびいていたっけなあ。あの雲にかけても、こんなことになろうとは思いもしなかったよ。今、法皇を御葬送申し上げて、紫野にたちのぼる煙を春の霞のようにはなかいものとして見送ろうとは。

【語釈】◇円融院法皇うせさせ… 円融院崩御は正暦二年(991)二月十二日。◇紫野 京都市北区。◇子(ね)の日 普通正月最初の子の日におこなわれた行事。郊外の野で小松を引いたり若菜を摘んだりの遊びをした。円融院主催の子日御遊としては寛和元年(985)二月十三日のものが名高い。◇紫の雲のかけて めでたい紫雲にあやかって。紫雲は瑞雲。地名紫野と掛詞になる。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成15年03月21日