藤原兼通 ふじわらのかねみち 延長三〜貞元二(925-977) 諡号:忠義公 通称:堀河殿

右大臣師輔の二男。母は藤原経邦女、盛子。伊尹の弟。兼家・村上天皇中宮安子の兄。娘は円融院皇后となる。
天慶六年(943)、従五位下に叙せられる。安和二年(969)、参議に就任。天禄三年(972)、権中納言に昇る。この年弟兼家との権力闘争に勝利し、内大臣に就く(この時関白になったとみる説がある)。天延二年(974)、氏長者となり、従二位太政大臣、さらに正二位関白となる。同三年、従一位。貞元二年十一月八日、薨。五十三歳。追贈正一位。
自邸で歌合を開催する。『本院侍従集』は若き日の兼通と本院侍従との贈答歌からなる集である。後拾遺集初出。勅撰入集は八首。

堀河関白、ふみなどつかはして、里はいづくぞととひ侍りければ   本院侍従

わが宿はそこともなにか教ふべき言はでこそみめ尋ねけりやと

【通釈】私の家がどこか、どうしてお教え致しましょう。申し上げずとも訪ねて来られるかどうか、窺っておりましょう。

返し

わが思ひ空の煙となりぬれば雲ゐながらもなほ尋ねてむ(新古1007)

【通釈】私の「思ひ」の「火」は、煙となって空に立ち昇りましたので、雲の上までもなお訪ねてゆきましょう。

【語釈】◇わが思ひ 「ひ」に「火」の意が掛かり、煙の縁語となる。◇雲ゐ 遥かな所という意味と共に、内裏を暗示する。本院侍従は兼通の妹である中宮安子に仕えていた。

【補記】兼通が本院侍従のもとに手紙を贈り、実家の所在を尋ねたのに対し、本院侍従は熱意があるならご自分でお調べなさいと拒んでみせた。そこで兼通は自分の思いを火に譬え、どこまでも尋ねようとの強い思いを伝えたのである。『本院侍従集』によれば兼通は当時十八歳、天慶五年(九四二)のことだったという。

【他出】本院侍従集、定家八代抄


更新日:平成15年10月12日
最終更新日:平成21年02月20日