藤原高光 ふじわらのたかみつ 天慶三頃〜正暦五(940?-994) 通称:多武峯少将入道 法名:如覚

九条右大臣師輔の八男。母は醍醐天皇の皇女雅子内親王。伊尹・兼家・村上天皇中宮安子らの異母弟。
天暦二年(948)、十歳で昇殿し、才名高く、侍従・左衛門佐・右少将を歴任。天徳四年(960)、父が死去。応和元年(961)、従五位上に叙せられたが、同年十二月、妻子を捨てて出家、比叡山横川で受戒入道した(『多武峯略記』)。翌年、多武峯に移り、草庵極楽房に住む。法名は如覚。将来を約束された貴公子の突然の出家は当時の人々を感動させ、伝説化されて、『多武峯少将物語』(作者不詳)を生んだ。『栄花物語』『大鏡』などにも記事がある。
歌人としては、若くして天徳四年(960)内裏歌合に方人として参加するなど活躍した。三十六歌仙の一人。家集『高光集』がある。拾遺集初出。勅撰入集二十四首。

ひえの山にすみ侍りけるころ、人のたき物をこひて侍りければ、侍りけるままにすこしを、梅の花のわづかにちりのこりて侍る枝につけてつかはしける

春すぎて散りはてにける梅の花ただかばかりぞ枝にのこれる(拾遺1063)

【通釈】春が過ぎて散り果ててしまった梅の花――ただ香だけが枝に残っています。少しだけ残った梅花香をお贈りいたしましょう。

【語釈】◇ただかばかりぞ たったこれほどばかり。「か」に香を掛け、実際に贈ったのは梅の花でなく梅花香であったことを暗示する。

【補記】拾遺集の作者名は如覚法師。出家して比叡山に住んでいた頃、ある人が薫物を請うたので、僅かに残っていた梅花香を贈った、ということらしい。

【主な派生歌】
春の夜の月にまがへる梅の花ただ香ばかりぞしるべなりける(源顕仲[堀河百首])

題しらず

見ても又またも見まくのほしかりし花の盛りは過ぎやしぬらむ(新古1460)

【通釈】幾ら見てもなお見たくなった、あの桜の花――盛りの季節はもう過ぎてしまっただろうか。

【補記】家集では詞書「花の盛にふるさとの花を思ひやりていひやりし」。

【本歌】よみ人しらず「古今集」
見ても又またも見まくのほしければなるるを人はいとふべらなり

天暦の御時、神な月といふ事を上におきて、歌つかうまつりけるに

神な月風に紅葉のちる時はそこはかとなく物ぞかなしき(新古552)

【通釈】神無月、風に紅葉が散る時は、どこがどうと言うのではないが、何か悲しくてならない。

【語釈】◇天暦の御時 村上天皇代。ただし家集では詞書に「十月九日冷泉院のつりどのにて」云々とある。

【他出】後葉集、定家十体(幽玄様)、定家八代抄、新時代不同歌合

【主な派生歌】
夕まぐれ霧立ちわたる鳥辺山そこはかとなく物ぞ悲しき(藤原俊成)
秋の夜は雲路をわくる雁がねのあとかたもなく物ぞかなしき(藤原定家)

人のふみつかはして侍りける返事にそへて、女につかはしける

年をへて思ふ心のしるしにぞ空もたよりの風は吹きける(新古998)

【通釈】何年にもわたって思い続けてきた甲斐があって、とりとめのない空にも幸便の風は吹いたのです。

【語釈】◇思ふ心のしるしにぞ 慕い続けてきた思いが実現して。◇たよりの風ぞふき 女に消息を渡すついでがあったことを言う。

【補記】他人が返事を出したついでに乗じて女に贈った歌。

女につかはしける

かた時も忘れやはするつらかりし心の更にたぐひなければ(新勅撰930)

【通釈】あなたのことを片時も忘れたりするだろうか。薄情であったあなたの心と来たら、全く比較しようもない程だったのだから。

【補記】「つらさ」故忘れ難いのだと、痛烈な皮肉を籠めて女を恨んだ。

雅子内親王のおもひに侍りける比、雨のふる日はらからのもとへつかはしける

ひねもすにふる春雨やいにしへを恋ふる袂のしづくなるらむ(玉葉2302)

【通釈】終日降り止まない春雨は、昔を恋うて涙に濡れた袂から落ちる雫なのでしょうか。

【補記】母雅子内親王の喪に服していた頃、雨の降る日に同胞に贈った歌。

法師にならむとおもひたち侍りける比、月を見侍りて

かくばかりへがたく見ゆる世の中にうらやましくもすめる月かな(拾遺435)

【通釈】これほどにまで過ごし難く思える世の中にあって、羨ましいことに、清らかに澄みながら悠然と住んでいる月であるなあ。

【語釈】◇うらやましくも 「山」を隠し、出家しての山住いを暗示している。◇すめる 「澄める」「住める」の掛詞。

【補記】家集では詞書「村上の御門かくれさせ給ひての比月を見て」。村上天皇崩御は康保四年(967)年。また『栄花物語』では、異母姉で村上天皇の中宮安子の崩御(康保元年)などを「あはれ」に思った高光が出家する際に詠んだ歌としている。

【他出】拾遺抄、金玉集、和漢朗詠集、三十六人撰、深窓秘抄、高光集、栄花物語、俊成三十六人歌合、定家八代抄、新時代不同歌合

【参考歌】在原業平「古今集」
いとどしくすぎゆく方の恋しきにうらやましくも帰る浪かな

【主な派生歌】
もろともに同じ浮世にすむ月の羨しくも西へゆくかな(中原長国妻[後拾遺])
なにごとも変はりのみゆく世の中におなじかげにてすめる月かな(*西行[続拾遺])
いつまでかへがたくみゆる世にすみて羨しとも月をかこたん(宗尊親王)

少将高光、横川にのぼりて、かしらおろし侍りにけるを、聞かせ給ひて遣はしける   天暦御歌

都より雲の八重たつおく山の横川(よかは)の水はすみよかるらん

【通釈】雲が幾重にも立ち隔てている奥山の横川――そこを流れる水は清らかに澄み、都よりも住み良いであろう。

【語釈】◇天暦御歌 村上天皇の御歌。

御返し

百敷の内のみつねに恋しくて雲の八重たつ山はすみうし(新古1719)

【通釈】宮中ばかりがいつも恋しく思われて、雲が幾重にも立ちふさがる山は住みづらいのです。

【語釈】◇百敷 内裏をいう。『大鏡』などは初句を「ここのへの」とするが、意味は変わらない。◇雲の八重たつ 宮中を九重というのに掛けて言う。

【補記】これは高光出家後の作。新古今には「如覚」の名で載る。次の歌も同様。

少将高光、横川にまかりて、かしらおろし侍りけるに、法服つかはすとて   権大納言師氏

おく山の苔の衣にくらべみよいづれか露のおきまさるとも

【通釈】奥山の露に濡れるあなたの法衣と、私が贈るこの衣と、比べてみなさい。どちらが涙の露がたくさん置いているかと。

【補記】藤原師氏は忠平の息子。高光は甥で女婿にあたる。

返し

白露のあした(ゆふべ)におく山のこけの衣は風もさはらず(新古1627)

【通釈】白露が朝夕置く、奥山の露に濡れる私の法衣は、もはやぼろぼろで風を防ぐこともできません。

【語釈】◇おく山 「(白露の)置く山」「奥山」を掛ける。◇こけの衣 法衣のこと。◇風もさはらず (涙で朽ちてしまって)風もふせげない。新しい法衣を贈ってもらったことへの謝意をこめる。


更新日:平成16年07月11日
最終更新日:平成22年04月09日