崇光院 すこういん 建武元〜応永五(1334-1398) 諱:興仁 通称:伏見殿

光厳院の皇子。母は陽禄門院秀子(内大臣正親町公秀女)。初名は益仁。栄仁親王・興信親王・弘助親王ほかの父。
建武元年(1334)四月二十二日、生誕。暦応三年(1340)八月、親王宣下され、立太子。貞和四年(1348)十月二十七日、十五歳で践祚。在位四年目の観応二年(1351)正月、擾乱に乗じた南朝軍に京を攻められ、内裏より仙洞持明院殿に移る。同年十一月七日、天皇を廃され、十二月、太上天皇の尊号を受ける。翌年、光厳・光明院と共に賀名生に移される。延文二年(1357)、京都に帰り伏見殿に住む。明徳三年(1392)、出家。応永五年(1398)正月十三日、崩御。御陵は京都市伏見区桃山の大光明寺陵。
応安二年(1369)、内裏歌会を催す。同三〜四年(1370-1371)頃、判者に冷泉為秀を招き、残存する京極派歌人達を結集して仙洞歌合を開催。二条派に転じた後光厳天皇に対抗し、京極派の歌風を最後まで守り立てようとした。新千載集初出。勅撰入集は計十八首。

六十番歌合に、初春をよませ給ける

紫の袖をつらねし面影のかすみもいくへ今日の初春(菊葉集)

【通釈】紫の袖を列ねて参内した公卿達の面影の数々が幾重にも偲ばれる――こうしてめでたい春霞が幾重にも立ち、今日の初春を迎えたことよ。

【補記】「紫の袖」紫は公卿の式服の色。「かすみ」に「霞」「数見」を掛ける。出典の『菊葉集』は室町初期の私撰集。「持明院統・伏見宮に仕えた今出川(菊亭)家の人と伏見宮貞成(後崇光院)らによって、応永七年(一四〇〇)前後に成立したと思われる」(新編国歌大観解題)。玉葉・風雅の歌風を継承する意図を以て編纂された歌集と思われるが、崇光院の入集歌はどれも京極風とは言い難いものである。

【本歌】赤染衛門「後拾遺集」
紫の袖をつらねてきたるかな春立つことは是ぞうれしき


最終更新日:平成15年06月15日