三井のロンドン絵日記(10)

日英「報道摩擦」 − または、「プロパガンダとしてのマスコミ」



 ニッポンじゃ、不況脱出と「金融改革」などについて、いまもまた懲りずに「サッチャー待望論」が蔓延しているらしいですな(Financial Times にもそう出ていた。菅直人氏が、「日本のブレア」と言われようとしていて、「でも、サッチャーさんからも勉強しているんです」と、「サッチャー回顧録」を手にとって見せたとか。これはもちろん、小馬鹿にしきった記事です。)

 英国で、いま「サッチャー」の名が出るのは、もちろん本人まだ生きていますから、なにかのイベントに顔を出すとか、「このまんまじゃ保守党は向こう10年間労働党に勝てない」と、現在のウィリアム・ヘイグ指導部に苦言を呈したとか、もっぱら「面白がらせる」存在としてです。ほかには、もちろんサッチャーリズムに恨みを抱く人は星の数ほどいますよ。
 先日、家内の知人からの手紙で、ことのついでに「サッチャーさんのきれいな英語のCDか何かあったら買ってきてほしい」という依頼がありました。もちろん、おこたえするにやぶさかじゃあありませんが、探してみてもとんと見あたりません。

 「ビデオでもいい」などとも書き添えてありましたが、これは初めからどだい間違いです。英国のビデオは日本では映りません。TVの方式がまったく違うのです。英国などはPAL方式というのを使っており(欧州諸国の多くは、これの親戚のSECAM方式というのを用いている)、日本はアメリカから押しつけられたNTSC(米国放送委員会)方式で、全然互換性がありません。ですから英国で買ったビデオソフトないしは録画したものを日本で見たければ、このPAL方式対応のビデオデッキとTV受像機が必要なのです(あるいは、このフォーマットコンバータ機能を持ったビデオデッキなら、日本のTV受像機でも写せるけれど)。

 このことご存じない方が多くて、だいぶ前ですが、某社の有名な「地球の転び方」(じゃなかったか)とかいうシリーズものに、わざわざ、「ロンドンはハイストリートの有名な店でビデオを買って帰ったら映らなかった。有名な店でもこんなものを売っているのでご用心」などと御注進に及んだ記事を書いた、おめでたい人がいました。さすがに、その後の版では「訂正」を載せていましたが。


 こんなことはどーでもいいけれど、よく考えてみたら、「サッチャーさんの声」をご所望の人は、実は東京都庁にお勤めなんです。そのサッチャー氏は、自分が首相のときに、「東京都」にあたる「Greater London Council」(大ロンドン都)を廃止してしまったのです。言って見りゃあ、小渕氏が突然変異したか、何かの間違いで菅氏が首相になっちゃって、その勢いでの「構造改革」で、「東京都なんて、ムダの権化」と、「東京都廃止法」を通しちゃったということです。

 「大ロンドン都」がなくなって、ややこしいことになりました。先にも書いたように、「区」にあたる各Borough だけになっちゃったのです。他の多くの地域では、日本で言えば「県」にあたる(通常は「州」と訳されるけれど)Countyと、各市町村Communityがそのまま残ったので、妙なアンバランスです。

 サッチャー氏がこんなことを強行したのは、表向きは、「大きくなりすぎ」の「大ロンドン都」など税金のムダである、ということですが、実際には「労働党左派」の牙城となっていたGLCは何としてもつぶしかったからだというのは、おおかたの認めるところです。

 それから10数年、今度は労働党ブレア政権は、「ロンドン市長」と「ロンドン議会」を復活させると決めました。そして奇妙なことに、この法案は野党保守党の賛成も得て成立したのです。それだけ、「ロンドン都なし」の弊害が大きいと、誰しも認めざるを得なくなったからです。特にいま問題とされていますのは、この巨大都市の交通体系の混乱を改善する責任の所在のなさで、新しく選ばれる公選「ロンドン市長」がその先頭に立つのが急務と言われています。

 その公選「ロンドン市長」への保守党陣営からの有力立候補者と目されているのが、かつてはサッチャー氏の右腕と見られていたジェフリー・アーチャー氏であるのは皮肉なことです。当のサッチャー氏自身が、この「ロンドン復活劇」に怒っているのかどうかは聞き漏らしました。

 ただ、新しい「ロンドン市長」や「ロンドン議会」が選ばれても、いったい庁舎はどこに置くのか、いまだ決まっていません。旧「大ロンドン都庁」は、廃止とともに政府が売り飛ばしてしまいました(なんせウェストミンスターの対岸にどっかと構えているので、サッチャー氏には何よりも目障りだったのでしょう)。それを買ったのは、日本の、あまりだれも聞いたことのない不動産会社です。この企業は「都庁」を改築して、ホテルやら高級アパートやらレストランやらにし、いまは営業中です。ちなみに、この日本企業の社長は先頃、秘書から「セクハラ」で訴えられましたが、何とか切り抜けたもようです。この旧「都庁」をもう一度買い戻すという話もないわけじゃありませんが、あんまりにも高すぎて、無理なようです。

 いずれにしても、日本の都庁にお勤めの方が、サッチャー氏の「功績」に心酔しているというのは、やっぱりあの新宿にそびえる巨大な建物はムダなんだと、自ら実感しているからなのだとは、ちとうがち過ぎでしょうか。あの都庁舎を香港あたりの企業が買って、カジノかなんかに改装してしまう、想像するにおもしろいですね。もっとも、そのサッチャー氏のおかげで、旧ロンドン都の職員のかなりの部分はクビになってしまったので、日本の都庁にお勤めの方が、自分の首を絞めたいと願っているとはどうも思えない、やっぱりよくご存じないのじゃないかとしか考えられません。





 このくらい、日英間での報道はズレとります。

 英国でブレア氏も、「旧保守党政権のやったことを否定はしない、必要な部分は受け継ぐ」としているものの、「私はサッチャー氏の忠実な後継者」なんて絶対に言いません。そんなピンぼけなことを口にしたら、誰だって笑いものです。もちろん、「サッチャー氏のやったことは必要だった」と言う人が少なくはないのですが、あくまでまったく過去の存在です。これとは逆に、日本でも評判となった映画「ブラス(Brassed Off)」は、サッチャー・メジャー保守党政権下につぶされていった炭鉱労働者たちのブラスバンドを描いたものですが、そのラストシーンは、「人間としての存在を否定された」彼らの怒りを、そのままぶつけています。この映画が多くの観客を集め、各国にも売れて、英国映画産業の稼ぎとなった(もっと稼いで、時代のファッションとなったのは、失業労働者たちが男性ストリッパーとなる「フル・モンティ」ですが)のは、誠に皮肉な「サッチャーリズムの遺産」です。

 しかしニッポンではいまもって、「サッチャーさんの功績」がマスコミ共通の話題となり、「日本も見習うべき」などと「ジャーナリスト」、「マスコミ御用評論家」はもとより、「野党政治家」まで口にしている、このズレぶりはもうジョークの域です。「女性宰相だから」なんておめでたいことを言っているのも、日本ぐらいなもので、英国では以前から、「サッチャーこそ女性の敵」というのが、勇ましいフェミニストたちの憎しみに満ちた表現でした。





 でも、こんなズレぶりはなにも「日本のマスコミの専売特許」じゃありません。向こうさんも相当なもので、先日思わず笑ってしまったのは、英国某国営放送局のニュースが「東アジア経済の危機」特集を放送したときでした。韓国経済が一転どんなに深刻な状況か、ということを取り上げ、「毎日自殺者が何人」「飛び降り自殺の名所となったソウル漢江の橋のたもとには、自殺防止のために警官が待機」「会社がつぶれ、それを家族に語れないサラリーマンたちが弁当を抱えて、公園にたむろ」「家計破綻した家族に捨てられた幼児たちを保護する託児所が急増」などとやっているのです。

 もちろん、現在の韓国は、外貨が底をつき、金融市場は混乱、物価は急上昇、企業は相次いで経営危機と、確かに大変ではありましょう。一時の勢いはもうないことは事実でしょう。でも、そうしたところでも、人々はそれなりに暮らしているのです。「韓国難民」が大挙脱出という話もありません。これをうえのように描き出し、まさに社会はパニック状態などとやるのは、どう見たって「報道」なんて言えるものじゃありません。

 そう、これは考えてみると、かつて旧ソ連などが米国社会などを描くのに、「繁栄」は見せかけで、その陰では多くの失業者、ホームレス、凶悪犯罪、などと取り上げ、米国こそ破綻寸前と力説してきた報道ぶりにそっくりです。結果は、やがて国民は十年一日のごとき「報道」に飽き、「アメリカこそすばらしい生活をしているんじゃないか」と、「まだ見ぬ世界」にあこがれるようになり、ついにはソ連の崩壊に至ってしまったという次第です。

 それとそっくり同じ描き方に、いまどき英国の国営放送でお目にかかれるとは思いませんでした。おそらく、この「報道番組」に驚喜し、早速これを転送しただろうと思われる(カネを出して番組を購入したかどうかまでは不明)のは、韓国と敵対してきた北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)のTV局でしょう。なんせ、英国国営放送の折り紙つきです。「それみろ、言ってきたとおり、南朝鮮はこんな惨状だ、それに引き替え我が国は、偉大な首領様のご指導のおかげで、いまや地上の楽園だ」と。いくら餓死者が出ようとも、「楽園」なんです。

 「西側マスコミ」の紋切り言葉で言えば、これぞまさしく「プロパガンダ」です。それを、旧ソ連でも北朝鮮でもなく、当の英国国営放送局がやっているのですから、まさに笑止千万です。

 何も「韓国報道」だけじゃありません。私はまだ直接目にする機会はありませんが、「日本の現状」についても、似たような描き方のTV「報道」があちこちで流されているようです。ですから、英国人などは本気で、「日本は大変だろう」と心配をしてくれます。いまにも「崩壊」しちゃうんじゃないかというくらいの気遣いです。これは、TV映像ほどの「インパクト」はなくても、日々の新聞や雑誌の記事を読んでいれば痛感するところです。ともかく日本の経済はパニック状態、企業はばたばた倒産、政治は混迷、誰も解決策を出せず、事態は悪くなるばかり、街には失業者が溢れている、こう言わんばかりのものに塗りつぶされています。

 もちろん、日本の現状は確かに厳しいことは事実ですが、だからみんな真っ青になり、路頭に迷っているわけじゃあありません。私も今のところクビにはなっていません。たまたまこのたび、一時帰国をせねばならなかった事情がありましたので、こうした悲惨きわまりない報道の「渦中」の日本を今一度じかに見ることもできたわけですが、別に何も変わっていないのが現実です。当たり前のことです。そんなに「急変」したらそれこそえらいことです。

 むしろ、その日本を再確認してきた目で、再び英国を見れば、その「繁栄」の陰の惨状はいくらでもあげられます。相変わらず、あふれているホームレス、汚れた町並み、放置された建物、どうにもならないボロの電車等々、12年前とほとんど変わっていないというより、明らかに悪くなっています。政府の最大の課題は、「青少年犯罪の防止」や「鉄道の改善向上」です(「サッチャーリズム」の最後の遺産である国鉄「分割民営化」がどんな惨状を呈しているか、先に書きました。そんな「報道」は日本では皆無だったので、おそらく読まれた方はほとんど半信半疑だったでしょう。でも、ブレア首相が労働党大会の場で、「英国の鉄道の現状は国民的恥」と言明、という事態が、ようやく日本の新聞にも出たようです)。学校と教育の荒廃なんて、とても日本の比じゃあありません。これもある意味では、「サッチャーリズムの遺産」ですが。





 要するに、「報道」なんていうのは、この程度のものです。それ以上を期待する方が間違っているのです。むしろ、「すべての報道は、ためにするプロパガンダである」と割り切り、ただしその「プロパガンダ性」がどの程度のものであるのか、「事実」との差異はどこにあるのか、と冷静に見ていくことが大事でしょう。だから、「マスコミ批判方法論」こそがこれから、一番大事な「学問」じゃないかと、私は個人的には思っています。ただ、そのマスコミがもつ「影響力」ははかりしれず大きい、これが恐いのです。

 いまふたたび、「残虐なセルビアをやっつけろ」「爆弾を落とせ」と絶叫している英国の「マスコミ人」たちを見るにつけ、まあ「サッチャー礼賛」で埋まってきた日本のマスコミの方がまだ他愛もないという気もします。少なくとも「戦後」は、「戦争」をあおり立てるのが「報道の使命」という観念は今のところないのですがら。それに比べ、英国にはこの二〇〇年間「戦後」はなかったのだ、ということがよくわかります。いつだって、どこかに「憎むべき敵」を見つけ、「やっちまえ」と絶叫するのが、「報道の社会的責務」なのです(まあ、「サリン」を密かに製造していたイスラエルに、スーダン同様「クルーズミサイルをぶち込め」というのは、なぜか出てこないんですが)。「天皇来英」のおりのすさまじい「反日キャンペーン」にもちょっと驚きました。「敵」はどこにでもいる、というのがやっぱり見上げた根性ですねえ。



サッちゃん後日談

 政界から半ば引退したはずの「レディ・サッチャー」(元首相ということで当然、貴族の称号をもらって上院議員ですが)、が、ここのところまたマスコミをにぎわしました。

 一つは、著増する「非婚家族」に関して、「シングルペアレンツ」(非婚の親、つまり、片方の親と子のみの家庭)は、「家族の価値」を学ばさせるために、「宗教施設に入れろ」と、彼女はのたまわったのです。これには「保守マスコミ」も唖然、おいおい、18世紀じゃないぞ、ともの笑いの種になりました(つまり、かつての「救貧院」ですな)。

 ひとに「道徳」を説くよりは、どうしようもない「どら息子」としてあっちこっちで迷惑をかけてきている自分の息子(いまは外国で生活中)を何とかしろ、というところです。


 今ひとつは、ブレア労働党政権が行った、ロンドンで入院中のチリの元独裁者、ピノチェトの拘禁に対し、「けしからん、すぐ解放しなさい」と。その理由が、「彼はフォークランド戦争時に、英国を全面支持し、英軍に協力してくれた。おかげで戦争に勝てたというのに、何ごとか」というのです。

 コメントするのもばかばかしい、気の毒だけれど、もう個人的義理人情論でしかものが見えなくなっている老人の戯言に、いちいちつきあいきれませんなあ。



 ただ、今度の「ピノチェト逮捕」は、いかにもの「三文芝居」めいています。国際法も主権も無視しきった、軍事力に物言わせての「セルビア攻撃」が、そのままではいかにも「落としどころがない」ので、「いや、西欧社民主義の目標は、『人権』を何ものにもまして尊重するということなんです。古典的国境や主権にこだわるのじゃなくて、人権人道に反する行為は、どこの誰であろうが、国境を越えてでも追及処罰するんです」という、そうしたポーズを広く示そうとしたのでしょう。わかりやすく言えば、「セルビア・ミロシェヴィッチ大統領」(いまや、西欧世界の最大の憎悪の対象)と釣り合いをとるため、「チリ・ピノチェト元大統領」をやり玉にあげた、ということです。

 でも、これはいくらなんでも無理があり、チリのみならず、中南米諸国から、「主権無視ではないか」という疑念があがってきます。だいたい、ピノチェトが血まみれの軍事クーデターで、アジエンデ政権を倒し、独裁体制を敷いてから、どれだけの「西欧諸国」がこれに断固対処したのでしょうか、国交断絶でもしたのでしょうか(この間、労働党政権もあったはずですが)。今頃、というのは全くのご都合主義そのものです。

 ですから、遠からず「腰砕け」になり、「外交的解決」で、ピノチェト氏が悠々自由の身となるのは目に見えています。それで構わないわけで、英国労働党政権は、人権と人道をなによりも優先しております、これを掲げれば、もはや地球上に国境はないのであって、どこへでも米英=NATO軍を派遣攻撃できるのです、という筋道が通ればいいわけです。



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